神 宗一郎01:諦める理由などない

諦める理由などない。


 学校の帰り、自宅の最寄り駅に預けている自転車を取りに駐輪場へと足を運ぶ。自主練を始めてからまだ一週間も経っていないせいか、まだ身体が慣れていないということもあり疲労が蓄積されていくばかりだ。
 シュート500本という課題を自らに課したが、慣れるのはいつ頃になるだろうか。…慣れなくても辞めるわけにはいかないのだけど。
 センターが無理だと監督に言われてしまった以上、他のポジションに転向するしかない。ボール捌きが苦手と言うことは無かったけれど、うちには牧さんがいる以上、ガードを狙うのはあまりにも壁が高すぎる。で、あれば決定打を打てるシューターになれれば、うちで一番のシューターの宮さんを超えることが出来れば、メンバーに選ばれる可能性が出てくるはずだ。
 努力家の宮さんを超えるためには、それ以上の努力をオレが重ねれば負けない。オレにそれが出来るかどうかなんて考えてる場合ではないし、身体が痛いだのと弱音を吐くことも逃げ道を作るだけで、何の発展性も見られない。我武者羅にやることがすべて実を結ぶとは限らないけれど、今はそれをすべき時期なんだとオレは思う。
 朝止めた時とは少し離れた場所に追いやられた自転車を引き、係員に定期券を見せながら駐輪場を後にする。自転車に跨ったまま、迂回しようとハンドルを握り締め、進路に誰もいないか確認するため周囲に視線を巡らせた。誰もいない。そう確認し、ペダルを足で踏みしめた瞬間、駅前のコンコースにある店の中から、紺色のブレザーを身に纏った少女が出てくるのが視界の端に写った。

 ――あれは湘北の制服だ。

 そう思いつくと同時に意識がそちらへと向いてしまうのは、今回に限ったことではなかった。いつもあの子じゃないのかな、なんて期待して目を向けて、そして違ったことを知り、深い溜息を漏らす。
 海南に入学してから、何度目だろう。少なくとも両手では足りない数であるはずだし、更に言うなれば中学の頃にも似たようなことが何度もあった。全然成長してないな、なんて自分を省みながらも、少女の方へと視線を向ける。
 瞬間、胸が締め付けられるような感覚が走り、そして、彼女なんじゃないかという考えが過ぎる。目を凝らさなくても十分に見えているというのに、より鮮明に見たいという気持ちが沸き起こり、自然と目を細めてしまう。
 彼女の姿かたちにどれだけ恋焦がれたことか。随分と会わない時期があった。だけど見間違えるはずは無い。
 本当は見なくても解ってた。視界よりも先に心が反応したのだから。彼女であることに確信したオレは、自転車を更に旋回させて、彼女の元へと向かうべくペダルを踏みしめた。
っ!」
 程なくして彼女のすぐ後ろに辿り着いたオレは、周囲の視線など気にせずに彼女の名前を叫んだ。予想外に大きな声が出たことに驚いたのはオレだけではなく、振り向いた彼女もまた目を丸くして驚愕を露わにしていた。
 それでも目が合って、オレが話しかけたことを知ったは、緩々と表情を綻ばせてくれる。
「宗っ」
 弾む声のままは手を一度振り、オレがの元へ辿り着くよりも前にこちらへと駆け寄ってきて、距離を狭めてくれる。ただそれだけで、酷く気分が高揚した。の声で呼ばれる「宗」という言葉。耳に入るオレの名前が懐かしい。
 くすぐったさだけでなく、オレの耳に熱さを感じさせてしまうのはきっと彼女だけが成せることだった。
 とは中学以来会えてなかった。と、いうよりも部活を引退して以来かな。オレの通ってた中学は、の通う武石中と練習試合を組むことが多かったのだが、それがきっかけでよく休憩時間に話すようになり、クラスの女子よりも仲良くなって、そして好きになった。
 バスケと言う共通の話題があったというのもあるけれど、それよりもの無邪気な笑顔や行動に心惹かれてしまったというのが大きな理由だろう。尤も、恋愛に理由付けするなんて、野暮なことは好きじゃないんだけどね。
 シンプルに、が好きだ。惚れた理由なんてこれだけでいい。
「なんか珍しいね。こうやってたまたま会うの初めてじゃない?」
「うん、中学の頃は一度も無かったね」
「ホントだよね。ちょっと嬉しいかも」
 言葉どおりに満面の笑みを浮かべたはオレの自転車のかごの部分に手を置いて、オレを見上げ、小さく首を捻った。うん?と言葉を促すようにオレもまた小首を傾げると、はちょっとだけ不思議そうな顔をして瞬きをする。
「――背、伸びた?」
 あぁ、なるほど。確かに中学の頃と比べたら10センチ近く背も伸びているし、言われてみれば以前とは視線の交わり方が違っているかもしれない。
 オレ自身はどうも視界が変わっていくことに慣れてしまっていたから気付けなかったけれど、久しぶりに会うはそうもいかなかったようだ。齟齬を感じたの戸惑うような表情に、自然と口元が綻ぶ。
「うん、引退してから少しね。まだ止まってないからもうちょっと伸びるかも」
「そっかぁ。1年ぶりくらいになるもんね、そりゃ伸びるかぁ」
 感慨深そうに言ったに苦笑しながら、「とりあえず歩こっか」と道を指し示して帰路を促す。家は然程近所ではなかったが、大まかな方向は一緒だったし、少しくらいの回り道もが一緒であるのなら厭わない。
 少しでも長く、と一緒にいたい。それはを好きなオレにとっては至極当然のことだった。本当に久しぶりだったし、いつも会いたいと思いながらもどうしても上手いきっかけが掴めなくて、意思表示すらも出来てなかった。ましてや、現状部活に活路を見出せてない今では、バスケを最優先することがオレにとって義務付けられていたのだから仕方が無い。
 湘北が海南と練習試合が組めれたらよかったのだろうけれど、神奈川の王者と呼ばれ続ける学校にはやはりそれに見合うだけのレベルの対戦校が求められていた。そこまで考えて頭を振る。
 会えなかった言い訳を考えるなんてみっともない。今はが傍にいる。これだけでいいじゃないか。
 一つ、小さく咳払いをしての方を振り返ると、は行儀良く両手で持った革鞄を膝で軽く蹴りながら歩いていた。リズムを取るのが好きなのだろうか。それとも単なる癖なのだろうか。幼い子供のようなその行動に、オレは小さく笑ってしまう。
「ねぇ、
「ん?」
「最近さ、どんな感じ?」
「えー……うーんとね、2年の先輩に頑丈なセンターがいるよ。あんなに頼もしい人見たこと無いや」
 漠然とした質問に、はバスケ部のことを聞かれたのだと思ったらしい。オレはどちらかと言うとの話が聞きたかったんだけどな。どんなクラスの人たちがいて、どんな人と仲良くなってて、そしてその先、つまり彼氏が出来たか出来ないか、なんてそんなことを。
 少しだけ唇を尖らせて思案するは、その2年の先輩のことを考えているのだろうか。あまりいい表情ではないことを見て取り、もしかしたら苦手なのかな、だなんて勘ぐってしまう。まぁ、だからと言ってその人に何か出来るわけも無いし、の愚痴を聞くらいのことしか出来ないのだけど。
「へぇ……は? また2番?」
「あ、私、今度は男バスのマネージャーになったんだ」
「え? マネージャー?」
「うん」
「えー……」
 自転車のハンドルから手を離し、痒くも無いうなじの辺りを指先で引っかく。マネージャーになってしまったということは、もうのプレイを見ることが出来なくなってしまう。
 コート上で誰よりも速いとか、上手いとか、そういうことは無かったのだけど、抜け目無い性格だからだろうか、相手の目を掻い潜ってフリーになる瞬間がには多くて、その一瞬の隙を逃さない鷹のような目が好きだったのに。動きの鋭さには反するが、シュートフォームの柔らかさや、伸び行く腕のしなやかさ。
 シュート成功率はそこそこだったけれど、一番得点に絡んでいたのはだった。きっと彼女がバスケを続けていれば、いいプレイヤーになれたはずなのに、もったいないことをするものだ。
「海南に入ればよかったのに」
「えぇー、それはダメよ」
「どうして?」
「まぁ、色々と?私にも事情があるからさ」
「ふぅん」
「まぁ……約束、かな」
「ん? 何?」
「あぁ、なんでもないなんでもない。そういう宗は?」
 パタパタと手を振って否定するは、誤魔化すようにオレに質問を投げかけたのだが、それに対して「あ、とうとう来た」だなんて少しだけ身構える。なんと答えたものか。
 今の現状を話すことに抵抗が無いわけではない。監督から既にダメ出しを食らわされただなんて、泣きつくようなことを言ってしまっては困らないだろうか。
 ハンドルを持つ手に自然と力が入る。少し逡巡してみたものの、答えが変わるわけではない。軽い言葉で言えばさらりと流してくれるかもしれない、そう思い直し、笑顔を取り繕いながら返答をする。
「うーん、センターは無理だって言われた」
「え?!」
 吃驚した顔でオレを見上げたは、眉根を寄せたまま、言葉を発するのを躊躇うように唇を震わせる。困ったな、そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。このような質問をしたことを後悔しているのだろうか。
 別にに聞かれなかったら言うつもりは無かったけれど、言葉を濁さずに伝えることを選んだのはオレなのだから気にしなくていいのにな。
「まぁでも退部させられたわけじゃないからどうにかなるさ」
 取り繕うような言葉になったかもしれない。に心配をかけたくないこと、そしてオレ自身が深刻にならないようにと、その言葉を発したのだ。
 真っ直ぐにオレの瞳を見返すに、指先に痺れが走る。痺れではない。これはきっとオレが今に触れたくて溜まらなくなったからだ。無防備にオレを覗き込むの頭を撫でて、心配ないよ、だなんて言葉を掛ける。
 ただそれだけがしたいと思っているのに身体が動かないのは、の態度に隙がないからだ。きゅっと唇を引き締めてから視線を剥がす。触れられないのなら気持ちを落ち着かせなければならず、ハンドルの上で指を何度か弾きながら口を噤んだ。
「そうだね。うん、宗ならきっと乗り越えられるよ」
 安堵したようなの声が耳に届く。反射的に振り返ると、はまだオレの方を見上げていた。少しだけ笑みを携えているのは、彼女の中である答えが出たからなのだろう。
 それが聞きたくなって、小首を傾げて示すと、は笑みをより一層鮮やかなものにさせた。
「だって、宗って負けず嫌いでしょ?」
「うん、かなり」
「だったら、大丈夫。宗は負けない」
 断定的な言葉を放つは口角を上げて微笑むと、オレから視線を外して前方を向いた。の目に光る輝きは温かなものとは決して言えない。
 鈍く光る瞳は、オレが中学時代に好きだと思ったもので、「負けない」だなんて根拠の無い言葉を信じきっている目だった。頬に熱が走るのを抑え切れなくて、右手の甲で口元を覆う。
 の横顔がきれいだなんて見惚れたのは初めてのことではないけれど、その表情を取らせたのが自分なのだと思うだけで嬉しかった。は多分オレが照れているのには気付いていないのだろう。
 それでいい。まだバレないでいて欲しい。に気持ちを届けるタイミングはオレが決めたい。
 目の前の信号が赤に変わり、同時にオレとは歩みを止めた。会話は止まったままだけど、は特に気にした素振りを見せず、手首に巻きつけた時計を翳して時刻を確認しているようだった。
 まだ頬に朱が走ったままなことを自覚しているオレは、手の甲を口元から頬に移し表情を誤魔化すように擦り付けた。腕時計からオレへと視線を移したは、困ったような表情を浮かべたオレに目を細めて笑いかけてくる。いたずらっ子のようなその様子に、「からかわないでよ」という代わりに、きゅっと唇を引き締めて見せると、もまた少しだけ頬に赤みを走らせて「かっこつけちゃった」と言葉を零した。
 先程まであった強さが失せ、表情が解けたに、彼女もまた照れていたのだということを知る。
 そうこうしてるうちに、信号は青へと変わり、その場から逃げ出すようにが3歩分オレから先行した。逃がしたくない。そう思った瞬間、オレは自転車を引きながら、左手を伸ばしての腕を取った。
「ねぇ、ってさ、彼氏とかいるの?」
 気付けばオレは唐突な質問をに投げかけていた。
「え、ううん、いないよ」
 まだ照れくささが残っているのか、戸惑ったかのようにオレを見上げてくるよりもオレの方がうろたえていることだろう。慌てての腕を開放したのと同時に、自転車のペダルにしたたかに脛をぶつけたが、短い悲鳴を上げる余裕すらなかった。
 ダメだ、取り繕えるだけの言葉が頭に思い浮かばない。そもそも、オレととの間にそのような会話は今までなかった。極力話題から外していたというよりも、もっと他の話で盛り上がれていたから、恋愛の話にシフトする隙がなかったと言った方がいいかもしれない。
「へぇ……じゃあ、片想いなんだ?」
「うん、まぁそうなるね」
 カマをかけるような言葉だったけれど、動揺は見えなくなったにも拘らずはそれにあっさりと乗る。女の子が恋バナ好きだって言うし、こういう話も慣れているのかもしれない。
 このの言う好きな人というのはオレではないんだろうな。勘付きながらも、一度振ってしまった話題はなかなか変えれるものではない。ならば、どのような人物なのかのヒントくらいは得たいものだ。
 情報を引き出すことでオレがそのポジションを奪えるようになれるのなら、今の胸の痛みだなんて安いものだ。
「その人とは仲いいの?」
「どーだろ?最近は全然会えてないもんなー」
「……へー」
 会えてない、という言葉と共には一瞬だけ辛そうな表情を取った。学校が違うのだろうか。それとも遠距離恋愛というヤツなのだろうか。
 の気持ちがその男にあることを知らされたことに、喉の奥が無性に痛んだ。唾が上手く飲み込めない。言葉を出せそうで出せない。こんな感覚は初めてだった。
 だけど、これもバスケと同じだ。オレが乗り越えるしかない。は言った。負けず嫌いなオレなら、大丈夫だと。それは勿論バスケのことを指し示していたのだけど、恋愛だって諦めなければいつか活路が見出せるはずだ。
「宗は?」
「どうだろ?」
 のカウンターパンチに、今この場で思いを告げることが好機に繋がるのかどうかを少しだけ計算する。
 一年ぶりにあった好きな子に、好きな男がいる。その状況で告白はあまりにも無謀過ぎて、玉砕どころか粉砕されそうだ。
「オレも片想いかな」
 逡巡の後、曖昧な言葉を返すと、の表情にあった憂いは消え去り、頬がにわかに気色ばんだ。やっぱり女の子はこういう話が好きらしい。が無邪気にこの話をオレに振るということは益々オレに気がないことを示していたのだけれど、それでもが笑っていてくれることは嬉しかった。
「長いの?」
「まぁ、中学の頃からだからね」
「へー! 一途!いいね、そういうの好き!」
 何気ない言葉だった。だけど、の好きだという言葉にこんなにも胸が締め付けられる。これがもしも告白という形でもって聞くことが出来たなら、オレはどうなってしまうのだろう。
 だけど、今はまだダメだ。の気持ちはオレに向いていない。ならばここからあがいて立ち向かうのみだ。
「まぁ、片思いでも関係ないけどね」
 バッサリと切り捨てるように言葉を吐く。照れ隠しに吐いたものだったが、もしかしたらを突き放すような言葉に聞えたかもしれない。
 そうだ、関係なんてないんだ。が誰を好きだとしても、オレがを好きなことを辞める理由になんてなり得ない。
 その男がどんな男であれ、オレがそいつを越えて行けばいいだけのこと。全然会えていないとが言った。ならばオレとそいつとでは条件はイーブンであるはずだ。を靡かせるだけの男にオレがなれるのが先か、が想いを届けるのが先か。勝負となるからには負ける気なんてさらさら無い。
 ごめんね。が思ってるよりもずっと、オレ負けず嫌いなんだよね。
 覚悟しとけよ、なんて傲慢な言葉を口には出さないけれど、の凛とした背中を、一度だけ叩いた。
 いつかは抱きすくめて見せるからね、そう心の中で呟きながら――。



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