越野 宏明01:もしかして君は

もしかして、君は


 朝、教室に着いて、普段と空気が違うなと感じ取ったのは勘違いなんかじゃなかった。
 換気のために空けられた窓から入ってくる冷たい冷気を受けてなお、熱っぽい空気があちこちから漂ってくるようで、オレはわけも分からず首を捻って自席に鞄を降ろした。朝練を終え部室から連れ立って来た植草が自分の席に向かったのと入れ替わるようにして、教卓の傍に立っていたがこちらへと駆け寄ってくる。
「おはよ、越野」
「おう、おはよー」
 ひらりと手を翳して応えると、は機嫌良さそうに歯を見せて笑った。どこか少年らしく見えるその表情に、オレの口元にも同様に笑みが浮かび上がる。
「ねぇ、あのさ」
 腰掛けようと椅子を引くと、その学ランの肘の辺りをちょいっとが引っ張る。反対の手の平を口元の傍に立てたのを見て、内緒話をするつもりなのかと軽くの方へと身体を傾ける。
「あのね、今日の放課後3分だけ時間もらえる?」
「え?」
 欹てた耳に届いたの願いに、反射的にへと顔を翻す。振り向けば当然、至近距離にの顔があり、驚いた眼が真ん丸に開かれるのが目に入った。ぱちぱちと目を瞬かせたは顔の横にやった手をそのままに、ポツリと言葉を添える。
「あ、いや、場合によっちゃ1分で終わるかもしれないんだけど」
「や、別にいいけどよ」
 今言えないことなのか、と言い添えようとしたけれど、安堵したように笑ったに口を噤んでしまう。
「よかったぁ。それじゃ、越野、またあとでね」
「お、おぅ」
 ぽん、と一つ労るように背中を叩かれ、身を翻したを見送る。あとで、と言われたけれど、恐らく放課後までにあと何回かは口を利くだろうことは予想がついていて、自然と釈然としない面持ちになった。
 引いたままだった椅子に腰掛け、鞄の中から今日使う予定の教科書類を引き出しに収めていく。
 ――態々呼び出しかけるなんて、なんか今日あったっけ。
 しかも3分程度で終わる用事っていうのがよくわからない。場合によっては1分で終わるとも言ってたし、その程度のものなら別に休み時間でもいいだろうに。放課後カップ麺食いたいから3分見張ってろとかそんなくだらない用事だったら張り倒してやるけれど、と小さく肩で息を吐いた。

* * *

 の意図が垣間見えたのは、2限目の英語の時間のことだった。
 かなり長い長文の和訳を当てようとした教師と、それを回避しようとした生徒たちの必死な視線反らしの打開策としていつものように日付と出席番号を関連付けて指名される。
「じゃあ、今日はー……2月14日バレンタインかぁ。じゃあ男子の出席番号14番な! 誰だー?」
「はぁーい……」
 教室の前方で14番のやつが手を挙げながら諦めたような声で唸りながら立ち上がるのを視界に収めながら当てられなかったことに安堵して小さく息を漏らす。教科書に目を落とし、訥々とした声を聞きながら、不意に教師が先程告げた言葉が反芻される。
「あぁっ!!」
 ガタっと椅子を鳴らして立ち上がった拍子に机の上のペン入れが落ちる。ビクリと肩を震わせたのはオレの周囲だけでなく、教室中の奴らの驚愕の視線がこちらへと向けられた。
「なんだ、越野……急に、どうした?」
 取り落とした教科書を拾い上げながら教師がオレに尋ねてくるが、オレ自身が落としたものの回収に躍起になっていて返事もそぞろになってしまう。
「あ、いえ、すんません……」
 曖昧に返すと「そうか」とだけ告げて、まだ途中だった和訳を続けるようにと促す。
 慌てて拾い上げたペンを入れていると耳に入ってくるクスクスと笑うクラスメイトの声に肩身が狭くなり身体を小さくさせる。熱い頬を手の甲で拭いながらチラリとへ視線を向けると、は頬杖をついてオレを振り返って笑っていた。
 のあまりにも平然とした態度に、お前のせいで酷い目にあったと責任転嫁のような思いが沸き起こる。
 今日の日付を想定していなかったから気付かなかった。だが、もしかして、放課後に待ってろってそういうことなんじゃねぇのか。黒板のスミに書かれた日付に目を走らせると2月13日になっていて教師の勘違いだったのではと勘ぐったが、そうであれば14番指名で当てられた奴が否定しそうな気もする。
 それに今朝学校来る前に見たニュースでは女子アナが「本日のバレンタインデー」にちなんだチョコの特集だとかを読み上げていたはずだ。ちらついた考えを否定したいのか肯定したいのか自分でもわからない。だけど先程の失態とは違う意味で頬に熱が生まれていく。


 ――もしかして。


 授業が進み、放課後が近付くにつれて「もしかして」の可能性がどんどんと頭の中を占めていく。
 とは普段からよく話す。部活のない日は一緒に帰ったりするし、仲が良いか悪いかで言ったら断然良好だと答えれる程度の付き合いはあると自負している。
 だけどそれは単に性差のない付き合いだったと思っていたから、今までまったく意識してこなかった。
 触れた肌が柔らかいことや掴んだ腕が細いことだってずっと知っていたくせに、全部目を塞ぎ知らないふりしてこれまで過ごしてきた。そんな状況で満足していたはずなのに、そこに一石を投じられたら、簡単にぐらついてしまう。ってオレのこと好きだったのか、とか期待しちゃう。
 授業の間の休み時間は、とその隣の席の植草が喋り始めるから、そこに混じって昨日見たくだらないテレビの話だとか、仙道が美味いって薦めてきたラーメン屋に誘ったりだとか気兼ねなく出来るのに、それさえも憚られる。
 まともに顔が見れないくせに授業中も、消しゴムをワザと落としてみたり、板書を書き写すのに必死なフリして横目でを盗み見してみたり、必死な自分がアホらしく思える。
 それよりもなんで朝イチであんなこと言いやがったんだ。一日こうやって彼女のことを考えるようにだなんて仕向けられたんじゃないかと訝しんでしまう。
 ――そんな損得勘定の出来るやつじゃないって充分知ってるのに。
 バレンタインだなんて別にそんなドキドキするもんじゃないと思ってた。いつもだったら適当に義理チョコ貰って、サンキューだなんて軽口叩いて、ハイ終わり、って、そんなもんだった。
 だけど、が態々時間を作れだとか言ってくるもんだから、でもだとかもしかしてだとか可能性が目まぐるしく頭の中を駆け巡る。
 頬杖をついて窓の外を眺める振りをしてへ視線を投げかけると、隣の席に座る植草に書いた手紙を寄越してる様が見て取れて、目を細める。


 ――もしもこれでチョコを植草に渡して、とか言われたら立ち直れねーぞ。


 深く鼻で息を吐いて、板書を取ろうとペンを持ち直す。
 答えが出るまで、あと授業一時間分。集中は、多分もうムリだ。




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