牧 紳一01:思い出なんていらないよ(卒業)

思い出なんていらないよ


 高校生活最後のホームルームも終わったが、今も別れを名残惜しむようにクラスの殆どの人が教室に推し留まっていた。
 例にも漏れず私もクラスの友達や部活の友達などと一緒に写真を撮ったりお互いの卒業アルバムにメッセージを書き記したりと高校最後の時を楽しんだ。中学を卒業した時よりも別れを一層辛いと思うのは、県外に出る人も多く、下手をすれば数年、それ以上に会えなくなる可能性をはらんでいるからなのだろう。
 書き終えたばかりの卒業アルバムから手を離し、ペンにキャップを重ねる。
「書き終わったよー」
「ありがとー。私も書いたから後で見ておいてね」
「うん、ありがとっ」
 友達とのすれ違いざまにチラリと教室内部を見渡す。数人のグループに分かれて話し合っているところがほとんどだったけれど、10名近い人数が教室の後ろの黒板の周りに集まっているのが視界の端に入った。
 その中心は牧くんで、彼を取り巻くように人だかりが集っていた。当然、バスケ部の人もいたけれど、数名の女子たちがやってきては牧くんと話したり写真を撮ったりして、それが終わるとまた別のグループの女子と入れ替わりを続けている。
 一部始終を見たわけではないけれど、学年の3割位は来たんじゃないだろうかと訝しんでしまうほどの盛況っぷりだった。
 牧くんは人気者だなぁ、と人ごとながらに考える。
 わざとらしく肩を竦めて牧くんから視線を外した。学校でも1、2を争うほど有名で、人気で、でもそれをちっとも鼻にかけることもなく気さくに誰の話にも応じる牧くんは、姿が見えなくなってもなお、きらきらと輝いているさまを肌で感じとる。
 3年間憧れや尊敬以上の想いで見つめてきた相手だ。アンテナみたいに反応してしまうのも無理の無い話というものだ。
 卒業すればそれもナシになってしまうのだと思うと、寂しいという言葉では足りないほどの喪失感が胸に溢れてくるようだった。
ブレザーのポケットの中に手を差し入れる。すぐに指先に触れたそれを引っ張りだし、手のひらの上に転がす。緑色のカバーで覆われた使い捨てカメラ。そのフィルムを回すと書かれた数字が4から3へと変わる。それはこのカメラで撮れる写真の枚数が3枚であることを知らせる数字だった。
 目を細めてそれを見つめ、どうしてものかと逡巡する。
 あの女子グループたちに便乗すれば、牧くんと写真が取れるだろう。別に取り立てて勇気を出すというほどのことでもないのかもしれない。ただ、それをしてしまって、牧くんから離れてしまったらそれで何もかもおしまいになるのだと思うと容易く動けない。
 首の後に手をやって、痒くもないのに指先で引っ掻く。冷たい指先と反して熱く脈打つ血流に、緊張の在処をいやというほど感じ取れてしまった。
 ガタリ、と椅子を引く音が耳に入った。反射的に振り返って見れば、牧くんが立ち上がっている姿が目に入り、傍らに置いたままだった鞄を持ち上げていることに気付く。
――帰っちゃう。
「牧くんっ」
 不意に言葉が飛び出していた。自分がその言葉を発したのだと気付くよりも先に、牧くんがこちらを振り返る。否、牧くんだけじゃない。武藤君や高砂君が目を丸くしてこちらを見て、宮益君に至ってはメガネを持ち上げてこちらにピントを合わせる仕草まで取った。
「どうした、
 普段と変わらない鷹揚な声を紡いだ牧くんだけが、驚いた様子を微塵も見せずにいた。先程他の人達に向けたものと変わらない朗らかな笑みを口元に携えて、私を見つめる。
 呼び止めた自分の方が驚いているのが気まずくて、首の裏を掴んで動揺を堪える。尋常でないほど脈打つそこを抑えながら、観念して牧くんへの最後のお願いを口にした。
「あ、あのっ! 良かったら、最後の思い出に、一緒に写真を撮ってもらうことってできるかな」
「あぁ、もちろん」
 何のてらいもなく即答した牧くんに、イエスと言われたことで心が浮き立つ。だがそれも一瞬のことだった。その答えはむしろ、その他大勢の女の子たちと同じようにあしらわれただけなのだと気付いてしまう。特別になんてなれないと、だいぶ前から知っていたはずなのに、気持ちが沈みそうになる。
 だけどせっかく牧くんが一緒に写真を撮ってくれると言っているのだから、思い出くらいはもらおう。それが3年間秘めて放つことなく潰えていく思いを消化するためのせめてもの報いになるはずだ。
、お願い」
「オッケー」
 側に立っていたに、カメラを渡し、いつの間にかこちらへと歩み寄ってきてくれていた牧くんの隣に並ぶ。
 普段なら横向きに使うことの多いカメラをは縦に向けて構える。背の高い牧くんが立つと、横向きのフレームに合わせることが難しいからだろう。
「ん、ちょっとうまく入んないや」
 カメラに目を当てていたが困ったような言葉を零し、体ごと下がってみたりカメラを傾けてみたりとし色々体勢を試す。この状況も結構恥ずかしいから早く撮って欲しいなぁ、なんて気持ちがジリジリと痛むようだった。
「もう少し近寄って」
 カメラを目から放したは、両手の平を翻して距離を詰めるようにとジェスチャーを取る。
 そんなサービスはいらない、と喉元まで出かかった声を押し留めたのは、の言葉に牧くんが従ったからだった。
 肩が牧くんの腕に触れると簡単に身体が硬直した。離れるのも失礼な気がして、自分のブレザーの袖を掴んでそれに耐える。
 が満足そうに笑って再びカメラを構えたのが目に入ると緊張が身体中を駆け抜ける。頬が引きつるような感覚に、舞い上がって変な顔をしているかもしれないなと頭の片隅で考えた。
 パシャリ、とフラッシュが光り、それと同時に、硬直が解けて牧くんから離れる。
「はい、撮れたよー」
「ありがとー
 からカメラを受け取り、頬を一度手の甲で擦ってから牧くんに向き直る。
「牧くんもありがとう!」
「あぁ、いや」
 軽く頭を揺らして答えた牧くんが、そのまま視線を外せば、それでこの高校生活における胸のつかえるような淡い想いも終止符を打つことになる。
 そう予感していた。
「あ、そうだ。
 予想していた行動が起こされないどころか、あろうことか牧くんの方から言葉をかけられたことに目を瞬かせてしまう。
「うん?」
「さっきの写真、ヤキマシしてくれるか」
 紡がれた言葉の意味を汲み取ることが出来なくて、頭を傾かせた。
 ヤキマシとは果たして何だったろうか。不意の言葉についていけなくて、ウンウンと唸る私の頭の中に焼増しという単語が掠めたのは、武藤君の「先に出てる」という声が引き金となったからだった。
 焼き増しをするということは、先程撮った写真を、牧くんが欲しいと願ってくれたということなのだろうか。私と写った写真でいいのなら何枚でも、持っていて欲しい。
 浮かれる熱を誤魔化すように、今度は右手の親指を左頬に添えて、口元を引っ張るような仕草を取る。
「うん、いいよ! ……あ、じゃあ今日全部撮ってしまうからどこか校内で待っててくれたら近くの写真屋さんで――」
「いや、今度でいい」
 言い差した言葉を留めた牧くんの提案に目を一つ瞬かせる。
「今度って……」
 今度と言っても、今日は卒業式で、今までみたいにそう簡単に会うことは出来ない。急激に萎む気持ちに、もしかしてさっきのは単なるリップサービスだったのだろうかと気落ちしてしまう。
 落胆の色を見せないように口元を引き締め曖昧に笑んでみせると、こちらの憂鬱さに気付いていない牧くんはまた小さく笑った。
 牧くんの言葉に、一喜一憂してしまうのは仕方がないことだけど、それを直接本人に当たり散らすわけにはいかない。好きだったけれど、叶わなかった。それはそれとして受け入れよう。
「わかった。じゃあ、また今度会った時にでも」
 曖昧な提案に、私もまた不確定な約束を結ぶ。
 例え私が牧くんとの写真をずっと持っていたとして、そのタイミングで牧くんに会えるかどうかもわからない。季節が変わって衣替えをするように鞄を変えた際に入れ替え忘れてしまう可能性だってあるし、もしその2つの条件が重なったことがあったとして、その時にもう牧くんが「その写真はいらない」という気持ちになっていないとも限らない。
 要するに、これは叶わないこと前提の、やさしい約束なのだ。
 肩に入りかけていた力を抜く。眉を下げて笑い、牧くんを見上げる。3年間好きだった相手を、大学生になって忘れられるかは解らない。だけど、きっと、こうして何の理由もなく向かい合うことなんてもう二度と無いのだろう。
 冬を過ぎて、春を迎えてなお、浅黒い肌に白く映える双眸を見つめ返す。少し、泣きそうだなと他人ごとのように考えた。
 不意に牧くんの口元が緩み、そしてゆったりとした言葉を紡ぎだした。
「そうだな。の通う女子大は海南大と近いし、入学式が終わった後にでも会ってもいいかもしれないな」
 目を細めてそう告げた牧くんは、私と同じようにじっとこちらを見下ろした。叶わない約束だと思っていたのに、明確に日にちを指定され、当惑してしまう。
 それ以上に牧くんの言葉に違和感を覚えた。
 私が進学する大学の名前を、牧くんに伝えた覚えがない。
「あれ、牧くんに言ったっけ?大学どこ行くか」
「あぁ、職員室の前に進路先が貼ってあるだろ。あれで見つけた」
 しれっとした口調で答えた牧くんに、私は益々狼狽える。が教えていたとかならまだこうも動揺しなかったはずだ。
 だけど、そうではなかった。それどころか、自惚れだとしても、見つけただなんて言われると、流し読みをした際に偶々目に入った程度のものではないと言われたように勘違いしてしまう。
 何百人と並ぶその名前の中から「 」と目を留めてくれただけでも特別なことのようなのに、たったひとつ、私の名前を探すような真似を牧くんが――。
「最後の思い出になんて、したくない」
 コホン、と一つ咳払いをした牧くんは、提げたままだった鞄を肩に引っ掛けるようにし、こちらに対して半身になる。それでもその視線だけは私を捉えて離さない。
「言ってる意味、わかるか」
 ほんの少しだけ言葉を濁した牧くんの視線に気圧されて一歩退くと、すぐ背後に控えていた机にぶつかって、床を擦る音が教室内に響く。
 それに触発されて視線を後ろに向けると、教室の中にはいつの間にか誰も残っていないことに気付く。いつみんなが出て行ったのか解らないけれど、二人きりに残されたという事実に胸の奥で大きく音が鳴った。
「え、いや、わかんな」
 先程の牧くんの言葉に、どうしても自分にとって都合のいい考えを思い浮かべてしまう。疾る心音に紛れて小さく息を吐く。もたらされた僥倖を抱えきることが出来なくて、唇が震えるようだった。
 眉根を寄せていると目元が滲む。それが恥ずかしいのだと誤魔化すように自分に言い聞かせたがそれ以上の理由でもって頬に熱が注ぎ込まれていく。
 あたふたとする私に、牧くんの視線は澱みなく注がれていた。
「それで、あってるよ」
 何も答えてないのに、牧くんは笑った。
 堪え切れなくなって手の付け根のあたりで口元を抑え、牧くんから顔を背ける。隠してもなお滲み出る感情と、耳の側で鳴っているかのように錯覚する鳴動に紛れて、「が好きだ」と聞こえた。



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