三井 寿01:サヨナラは言わせない

サヨナラは言わせない


「ひーくん」
 懐かしい声が耳に届く。昔からの習性とは恐ろしいもので、その声が耳に入った瞬間、止まる気などさらさら無かったと言うのに反射的に足が止まってしまった。背後から聞えてきたその声に、振り向かずとも誰がその言葉を発したのか解っていた。
 伸ばした髪を掻き上げながら振り返ると、そこにはやはり想像した通り懐かしい顔があり、オレはチッと小さく舌を打ち鳴らす。
 懐かしい、と言っても何年も会ってないというわけではなかった。会わなくなって精々3ヶ月といったところだったが、それ以前はほとんど傍に居たことを思えば、高々3ヶ月でさえも相当長い期間だったと感じる。
 彼女の名前は。近所に住んでいる一個下の少女は、オレにとって所謂幼馴染と言うやつだった。
 成長期を過ぎてしまい、少し丈の短くなったスカートを揺らしながら駆け寄ってくるに、そう言えば今の時間帯が中坊の下校時刻であることを思い出す。まだ茹だるような夏の暑さが残るこの季節、夏物のセーラー服は周囲の光を反射して白い輝きを放っているようで、目の奥が鈍く痛む。その眩しさに少しだけ目を細めながら眺めていると、はすぐさまオレの正面に立ち、嬉しそうに「ひーくんだぁ」とまた呼んだ。
 の頬に火照りが見えるのはきっと熱さのせいだけではないのだろう。ひーくん、などという馬鹿げた幼名をいまだに呼ばれることに嫌悪感が浮かび上がるが、呼ぶなと言ったところで、言うことを聞くような女ではないことを長年の付き合いから十分に承知していた。俺が世間的に言う「不良」というものになってでさえも「ひーくん」などと呼ぶことからして、彼女の豪胆さが垣間見える。
 強情と言うか、傲慢と言うか。幼い頃からオレの傍に居たせいだろうか。はオレの我の強いところがどうしようもないくらいに似てしまっていた。

 精一杯の抵抗として、彼女のことを名字で呼ぶ。一瞬、つまらなさそうな表情を浮かべたは、それでもオレに対する文句など口にすることは無かった。その代わり、の手がオレの腕に伸び、控えめに腰の辺りの服を掴んでくる。
 小さい頃から変わらない。は相変わらずオレがこうでもしないと、彼女を振り切ってどこかへといってしまうと思っているのだろう。確かに、が一緒に帰りたいとオレのクラスに迎えにきた際に、オレが3年生の時までは従順に付き合ってやっていたけれど、4年生になる頃にはクラスの奴らに彼女だの嫁だのとからかわれるのが嫌で、この手を振り払ったこともあった。
 ただ、それも中学に上がる頃には、自然と彼女の手を甘んじて受け入れるようになっていったこともまた事実であった。振り払っても縋り付いて来るに根負けしたというのもあるが、多くの理由はに対するある種の独占欲が生まれたせいであった。
 ある種、だなんて言葉で濁したところで高が知れている。ただ単に、日ごと愛らしく成長していくこの幼馴染は、他でもないオレのものだと周囲に知らしめたかっただけに過ぎなかった。
 昔からが盲目的にオレを好いていることは解りきっていたし、他の男と仲良くされるのを見るくらいならオレの傍で機嫌よく笑っていて欲しかっただなんて、なんと下らない独占欲だろう。実際、あの頃にお互いに恋心でもってつるんでいた訳ではない。
 オレに纏わりつくを笑って受け入れるオレ。
 オレたちにとって、2人でいる空気が特別であったことは無かった。隣り合っている際、手が触れる距離にあっても意識しない。それが普通であることが強みだった。
 に触れられることで、彼女の中にある想いが風化していないことを知り、安堵感が胸を占める。だが、同時にそんな考えが頭を過ぎることに対して身内に膨れ上がる負の感情は、瞬く間に全身に広がっていく。どうしようもない嫌悪感は自分へと向けれられるものだ。
 ――こんな風に縛り付けたところで、今となってはオレが彼女を大事に出来るわけがないのに。
 突き放せばいい。何度触るな、という言葉をぶつけようと思ったことだろう。それでも、その度にがいつもの笑顔でオレの名前を呼ぶものだからついぞ今までそれをなすことが出来なかった。
「なんか、会うの久しぶりだね」
 弾む声の通りに、は嬉しそうな顔をしてオレを見上げてくる。昔から微塵も変わらない様子の彼女の眩しさを受け止めきれずに、オレはから視線を外した。それと同時にの手が一層強くオレの服を引くのを感じる。
 それでも気丈に振舞うと決めているのか、はオレが返事をするよりも前に言葉を繋げて来る。
「ひーくんは、元気?」
「……あぁ」
「そうなの?よかった、私も元気だよ」
「……そうかよ」
 ぎこちない会話が続く。これが徳男とかならば、関係ないと一喝してその場を離れれば終わる程度の会話だ。当たり障りの無いことしか聞いてこないに酷くイラつくというのに、邪険に扱うことが出来ない。
 浮かび上がる理由なんて、何年前から押し潰して来たのか解らない。ましてや、バスケが出来なくなったどころか、今みたいに無為な時間を過ごすことしか出来ないオレに、この想いを開放できる理由など皆無であった。
「私ね、もうすぐ受験じゃん」
「……あぁ」
「湘北に行くから」
 断定的な言葉だった。湘北が志望校だから、とか、湘北行くかも、とか、濁すような言葉を用いずには言う。あまりにも自信家な彼女らしい言葉に触発されて、うっかり伏せたままだった顔を上げてしまった。
 彼女の方を向けば、ずっとそうだったのだろうか、真っ直ぐにオレを見上げてくると視線がかち合い、瞬間、の口元が緩やかにカーブを描く。相変わらず嬉しそうに笑う彼女の表情に、胸の奥から込み上げそうになる感情を隠すためにか、自然と口元を引き締めていた。
「だからまた後輩になるからさ、よろしくね」
 そんなことするな、と言う代わりに視線をに向けたまま鋭くさせる。並の奴らなら、怯んですぐさま視線を外すのだが、は余裕の笑みを浮かべてオレを見つめている。それどころか、暖簾に腕押しとでも言うのか、心なしか先程よりも嬉しそうに見えて、それが酷く癪に障った。
 睨み据えても動じない。オレだから、と安心でもしているのだろうか。その信頼を打ち崩してやりたいと思ったが、手を上げるような真似は勿論、わざとを悲しませるような言葉すら頭に浮かぶことは無かった。
 じりじりと照らす太陽の熱さは、夕刻に差し迫ったというのに、一向に和らいだ様子もなく、西日だからこその強さで持って一層の熱を伝える。
 立ち止まったままであると、それを浴び続けることしか出来なくて、じんわりと背中の辺りに汗が浮かび上がっているのを感じ取った。これは緊張のせいではない、きっと夏の暑さのせいだ。誰に言い訳をするでもなく、心の中でそんなことを思った。

 名前で呼んだ。ただそれだけのことなのに、は嬉しそうに笑う。この笑顔に、鮮やかさに、かつては何度気持ちが高揚したか解らない。それも今となっては、喜びよりももっと強く後悔の念が噴き出してくる。
 何故、手放すことすら選べないような場所に来てしまったんだろうか。が自ら選んで、オレから離れてくれたなら、こんなに苦しまなくて済んだのに。
「お前、もうオレに関わんの辞めろ」
 端的に言葉を繋げる。それは前々から考えていた言葉だった。急に思い出したわけではない。今になって漸く言えただけのこと。
 彼女がもし湘北に来ることで、たまにしか会わなかったオレの現状をしっかりと把握してしまい、彼女の気持ちが冷めてしまうくらいなら、オレからを突き放した方がまだマシだ。
「……なんでやめなきゃなんないの?」
 の顔から笑顔が消える。トーンの下がった声に、彼女の機嫌が悪くなったことを知った。
 オレの言葉で機嫌が良くも悪くもなるに、相変わらずであることを知り、同時に、この声音を使われると何故だかオレが酷く悪いことをしているような気分に駆られるのもまた変わっていないのだと改めて痛感させられた。
「なんでって……」
 時間の無駄だとか、不毛だとか、挙げるべき理由ならたくさんあった。けれど、煩わしいだとか、迷惑だとか、を否定する言葉は出したくない。理由が曖昧になるのは、心の奥底ではオレがそれでもがオレの傍にいてくれることを望んでいることだから、だなんて考えなくても解ることだった。
 遠くで蝉の鳴き声が聞える。ただでさえ暑さによって考えが纏め難いというのに、考えるよりもそちらの音が気になってしまい、いい案が思いつかない。
 そうこうしていると、痺れを切らしたのか、怒ったような表情のまま、が再度口を開くのが目に入った。
「ひーくんさ、私がひーくんのこと、大好きなの知っててそれ言うの?」
 彼女の放つ強い言葉に二の句が告げれなくて、唇を噛み締める。悔し紛れに視線を外したが、うろたえたことを誤魔化せる空気が無かった。
 ひしひしと感じる視線に、今度はがオレを睨みつけているだろうことを感知する。オレが押し黙っていることを是と受け取ったのか、小さく溜息を零したは、オレの正面へと回りこみ、無理矢理に視界へと入ってきた。
 の瞳が、真っ直ぐにオレへと向けられる。上目遣いながらも、甘ったるさを感じないのは、あまりにもの視線が真摯なものだったからだ。張り詰めたような空気に気圧されて喉を鳴らして唾を飲み込む。
「だったらそんな意地悪言わないでよ。ひーくんのこと好きだもん、無視するなんて無理」
 ――まただ。こいつはまた、簡単にこんな台詞を吐きやがる。
 大事にされていることなんて、昔から知っていた。オレが中学MVPの栄光を掴もうが、挫折して自暴自棄になっていようが、の中にあるオレ自身の価値は微塵も変わっていない。
 ただひたすらにオレ自身という存在を見つめ続け、オレが想うよりももっと強く、もっと純粋にオレを大事に思うの気持ち。揺るがない愛がそこにあることも、そしてそれを受け止めることが出来たら、オレは心からの幸せを手に入れることが出来ることも、充分承知していた。
 だけど、だからこそを振り切るしか選択肢は残されていない。
 バスケはオレの生きがいだといっても過言ではない。そのバスケを失ってしまったオレにとって、自分以上に大事なものを得るということが怖くて溜まらなかった。が離れていくだなんて、今は信じられないものだけれど、それでも有り得無いなどとは言い切れない。
「……うるせぇ」
 声が震えた。言葉が喉に詰まったのは、在りし日を思い出して泣きそうになったからだろう。過去の栄光を思い出して感傷的になるだなんて馬鹿げている。気を緩めれば滲みそうになる涙を堪えるために一層を睨む視線を強くさせると、は睨み返すようにしていた視線を柔和にさせる。
 優しい目だと思った。そして、オレが変わってしまってもなお、が変わらないことを嬉しく思った。
「ひーくん」
 穏やかな声でがオレの名前を呼ぶ。それは言い諭すような柔らかさではなく、凛とした強さを感じるような声色だった。愛情なんて目に見えないもののはずなのに、この時だけは何故かそこにあるのを感じ取れた。
「逃げても無駄だよ。私、絶対にひーくんのこと離してあげないから」
 その言葉と同時に、右手に熱を感じる。腰あたりの裾を握っていたと思っていたの手は、いつの間にかオレの掌を握り締めていた。
 両手で握られた手は、夏の気温に晒されて随分生温いものであったが、振り切ることが出来そうも無かった。かと言って縋り付くことなんてもっと出来ない。
 のされるがままにされているこの手こそが、オレの心中にある答えが現れたものなのだろう。しなやか指先が、オレの手に添って形を変え、生ぬるいと感じた体温は次第に肌に馴染み、心地良いものへと移り変わっていく。
 こんな風にといる空気が、彼女の傍にいるだけで柔らかなものに変わっていくことが、オレにとってどれだけ心を揺らがすものとなるか、それを今更ながらに痛感させられる。
「だから、絶対にひーくんの傍に行くから。待っててね」
 ニヤリと自信あり気に笑うは、中学時代にMVPを取ったオレの表情と良く似ていた。挫折なんて知らない。怖いものなんか無い。好きなことに真正面から向き合っていた、あの頃のオレに。



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