三井 寿05:ストレートに熱くなる

ストレートに熱くなる


 バスケ部へ復帰して3日。
 たった一日、部活に参加しただけで、2年ものブランクは並のものではないことを痛感した。少し動いただけで上がる呼吸や、自分の思ったとおりに動かない身体など、現実を目の当たりにした。歯痒さが沸き起こり、翌日からすぐに朝は家の周りのマラソンを、昼休みは体育館での実践練習を始めた。
 あのような事件を起こしたこともあり、他の部員たちと打ち解けることなど出来ていないが、バスケの腕で見下げられるのだけは意地でも嫌だった。何よりも、あんなバカみたいな真似をしたオレを責めることなく、赤木や木暮が黙って受け入れてくれていることに胡坐をかき続けるわけには行かない。
 別にオレへの態度が軟化しなくとも良い。少しは役に立つと思ってもらえれば、オレの力でバスケ部の勝利に少しでも貢献出来るなら、それがオレがここにいてもいい理由になってくれるはずだ。
 シュート練習をする前に、ボールを何度か突いて、手に皮の感触を馴染ませる。昔からの癖みたいなものだったが、今もなお自然と出てくる。
 昼休みの喧騒がここまで届くことはほとんど稀で、体育館にボールと床が接触する音が響いた。ずっしりと重量のあるその音を聞くと、懐かしさに涙が滲みそうになる。
 一度は手放してしまったバスケットを出来ることの喜びに、ふと気を抜くと泣きそうになってしまう。落涙を防ぐべく下唇を噛み締めると、空想の敵を思い浮かべながら、ボールを高く掲げてボールを放つ。
 何の問題も無くシュートは決まった。だが理想とはほど遠い出来に小さく舌打ちを鳴らした。
 ――ダメだ、まだ敵のプレッシャーを感じきれていない。
 実際のゲームではこんなフリーで打たせてくれることなど無いのだから、こんな不十分さでは、実践では訳に立つ気がしない。放ったばかりのボールを取りに行き、拾い上げたところで大きな声が体育館に響き渡った。
「っしゃー!」
 オレのものではないその声と共に、体育館を踏みしめる独特な甲高い音が聞こえ、その2秒後にボールが床に接触して跳ねる音が耳に入る。
 その音の合間に、ボードとボールが接触する音は生まれなかった。
「っりゃ!!」
 背後から聞えてくる短い掛け声に、首だけを捻って振り返り、目にした光景に思わず溜息を吐く。先程感じた寂寥を掻き消してしまうような存在を目の当たりにした時の反応もまた、懐かしいものではあったけれど、それで感傷に浸ることはなかった。
 赤いTシャツの袖を捲くり、真剣な眼差しをリングに向けているのは、幼馴染でもあり、バスケ部のマネージャーでもあるだ。
 お節介な性質のが、朝練も昼練も付き添うのだと言ってくれたのはありがたいと受け入れた。だがそれは本当に付き添いだけで、彼女はオレを手伝ったりせず、自分の好きなように振舞っている。
 大体は体育館の掃除やボールの手入れを行っているようだったけれど、酷い時は自分のバスケの練習を始める始末だった。
 今はその酷いパターンだった。反対側のゴール前にいるはオレが得意とする3Pシュートの練習に余念が無いようで、シュートを放ってはボールを拾い、また妙な掛け声と共にボールを放つことを繰り返すのみであった。
「たーっ!」
 色気の無い叫び声を上げ、3Pラインからシュートを放つが、ボールはリングにかすりもせずに落ちていく。
 ボール拾いか球出しくらいしてくれたらありがたいのだけど、例え頼んだところでの興味が自らの放つ3Pが決まるまではこちらへと移らないことなど、長年の付き合いから解りきっていた。
 小さく溜息を吐いて、彼女の姿を眺める。全身に余分な力の入ったフォームは、女子の両手で飛ばすようなフォームではなく、男子がするワンハンド方式のもので、オレが中学の頃ににせがまれて教え込んだものだった。
 当時、教えたのは3Pラインからではなくミドルレンジからのものだったが、あの時もまともに入らなかったくせに、何故それよりも遠い場所から打とうと思ったのか。
 コイツの考えてることは相変わらずわっけわかんねーな、と妙なところで懐かしさをかんじてしまう。まじまじと眺めていると、3つほど放ったボールを掻き集めて、また同じ場所からシュートを放つ。
 ワンハンドで決めるまではと躍起になったのだろうけれど、リングの淵にすら届かないようでは、シュートが決まることは当分無いだろう。自らの練習を中断し、2度、ボールを突いてみたが、は自分の練習に専心しているため、振り返ることはなかった。
 手に触れるボールの皮の感触を確かめながら彼女の背中を見守ったが、煮え切らない感を掻き消すことが出来ずに思わず口を開いた。
「お前ホントヘタクソ」
 夢中でシュートを放つ背中に向かって乱暴な言葉を投げつけてやると、文句だけは聞える便利な耳を持っているのか、はムスッとした表情でオレを振り返った。
「だって気合入れても届かないよ?」
「気合で入りゃ苦労しねぇよ」
 掛け声だけは一人前の彼女は、技術よりも気合などの精神的なものがシュートの確率を上げるのだと信じきるタイプの選手であったことを思い出す。
 精神論は嫌いじゃない。寧ろ、オレだって安西先生の言葉を借りれば「諦めたら試合終了」であって、つまり諦めない限り可能性は続く、ということを強く信じていた。
 だけど、の気合でシュートは入るというものは、自らを鼓舞する力はあっても根拠を伴うものではなかった。
 呆れ口調で言葉を放つと、は不満であることを隠しもせずにオレを睨みつけるのだが、そんな彼女を見ても、どうしても憎めないオレは溜息を吐くしかなかった。
、こっちこい」
 ひらりと手招いてやると、先程までむくれていたくせに、ふわりと笑ってオレの元へと駆け寄ってくるに、思わず耳が熱くなる。
 オレの隣に並んだに、視線を合わせることが出来なくて、自分から呼び寄せたというのに、逃げるようにゴールの方へと向き直った。心を落ち着かせるために数度ボールを突いてみたものの、一向に心が落ち着くことが無いのは、無遠慮にオレの顔を見上げてくるのせいなのだが、突っぱねることなど出来ない。
 今まで避けていた手前、突き放すことは出来なかったが、かと言って素直に迎え入れることも出来ずに曖昧な態度を取ってしまう。
 そんなことをオレが考えているだなんて知りもしないは、目を瞬かせながらオレを見上げ、捲り上げていた袖で口元に滴る汗を拭う。
 気付けよ、と乱暴な気持ちが働いて、の額を小突いてやると、痛そうに睨まれたのだが、漸く自分の気持ちの波が落ち着くのが解った。
「スリーってのはな、身体のバランスが大事なんだ。構えてみろよ」
 へ視線を転じ、持っていたボールを彼女の胸元へと差し出す。
 言われた通りに構えたのフォームは、シュートを打つ姿勢や肘の角度、指先のボールのかかり具合などには問題は無かったけれど、どこか頼りなさを感じたのは否めない。男と比べること自体間違っているのだけど、どうしてもあまり筋肉の付いてない貧弱な身体では、ゴールに届くイメージが湧かなかった。
「お前だって2番やってたんだからイケそうなのになぁ」
 の額の上に固定されていたボールを取り上げて、自分の身体を使ってフォームの見直しを図る。やはり、今しがたが構えたものとほぼ同じような姿勢になったのだが、このままシュートをすれば入るだろう予感はありありとあった。
 ボールを小脇に抱えてを振り返ると肘の曲げ伸ばしをしながら手首の返しをチェックしている。
 柔軟な腕の使い方も、手首の返しも申し分はないのだが、それでも届かないというのならば、それはもうどうしようもないことなのだろうか。
 他に改善点を見出すとすればあとは何があるのだろう。口元に手をやって逡巡するものの、うまい方法を思いつくことは無かった。
「うん、身体の使い方は解るんだけど……どうしても届かないんだよね」
「まぁ、でもリストが弱いのが一番の理由だろうな」
 架空のボールを構えたままのの、細っこい手首を掴んで引き下ろす。
 男と女では決定的に身体のつくりが違う。特に、3Pシュートを決めるためには、最後の手首の返しが重要になるのだが、のこの手首では満足にボールに勢いを付けられそうに無かった。
 力を入れたら折れてしまいそうなくらいな細さに、ちゃんと飯食ってんのかと、関係のないことを思いつく始末だった。
「ひーくん?」
 名前を呼ばれ、の手首を掴んだまま自失していたことに気付き、にわかに肩に力が入る。じっとオレを見上げるに、何と言い訳をしたらいいか解らなくて、言葉が詰まる。
 以前はに触れることに対しての不自然さなど皆無であったし、どのような距離感でもって傍にいたのかなんて見に染み付いている。
 だけど、今はあの頃とは違う。触れてしまったことに対して罪悪感を抱いたのは、あまりにも時間が経ち過ぎていたからだ。
 子供の頃からの感情のままにオレを好きだと言っていたが、今もオレを好きだとは限らないのに、さも自分のものかのように触れてしまった。
 指先に触れる冷えた体温はのもので、それが肌に馴染む感覚は懐かしく、同時にという存在をオレの中に刻み付ける。額から顎に掛けて汗が流れ落ちたが、首筋に流れ込んでも拭うことなど出来ない。
 緊張で一瞬で喉の奥に渇きを覚えて唾を飲み込んだものの、指先で感じ取ったの脈拍が、オレの心臓の音よりもスピードが遅いことに対して、オレだけが彼女を意識しているのだということに嫌でも気付かされる。必要以上に接触してしまったことを恥じて、慌てての手を離すと、彼女の肩を押し返して距離を取る。
「ちょっと、一回見せてみろよ」
 オレの慌てた様子に、呆気に取られた表情を取ったにボールを投げ渡す。
 釈然としない様子のを無視して「早くしろよ」と促すと、は小さく溜息を吐いてシュートを放った。申し分ないフォームであるにも関わらず、やはりボールはゴールにかすりもせずに、勢いを失速させながら床へと落とされたのだった。
 重い音が鳴ったのは一回目のみで、後はボールが撥ねる度に音が小さくなっていく。広い体育館に空しく響き渡ったその音に被さるように、は大仰に溜息を吐きだした。
 今の彼女の溜息は、オレの態度へのものなのか、届くことすら適わなかったボールへ向けられたのか。その判別はつかないが、後者であるのだと勝手に決めつけ、のフォームから見つけた改善できそうな要素を指摘する。
「お前は打点に入る前の膝の位置が高いんだよ。もう少し踏み込んでみろ」
 ほぼ身体の上半身しか使わないフォームなのは、女バスでの試合でも当たりの強いチームと試合をすることが多かったから、クイックで投げるのが身体に染み付いているせいだ。
 オレだって試合になれば、基本に乗っ取ったフォームでは投げられることは少ない。だが、シュートが決まらないうちから、乱雑なフォームでやっていたら基礎すらも築けない。
 今の彼女のようなクイックモーションでは、放つ前にきちんと膝で踏み込まないからボールに勢いが付かないのだろう。
 傍らに置いてあったボールを拾い上げ、今度はオレが額の上に構える。
「余計な力みはいらない。リングの奥を見て、肘と手首を柔らかく使って……身体が流れないように真上に飛ぶ」
 言葉で自分が普段意識していることを口に出しながら、自らのシュートフォームを見せる。そのまま踏み込んでシュートをを放つと、ボールはリングの真ん中へと吸い込まれていった。
 スパッと小気味のいい音と共に、ネットが真上に撥ねる。いい角度で入った時の現象に、思わず口元が綻んだ。
「ほらな」
 横に立ったままのに向かってニカッと笑いかける。もまたオレと同じように笑うと思っていた。だが実際のは俯いて唇を尖らせ、ありありとその表情に不満の色を滲ませていた。
 の反応の悪さに、折角上がったモチベーションが急激に萎んでいく。
「んだよ、せっかく教えてやってんのに」
 別に褒めて欲しいとか、尊敬して欲しいなどといった感情は無かったけれど、不機嫌な態度を見せ付けられる意味が解らなかった。
 彼女が人懐っこい性質ではないことや、キレどころの解らないことなど充分理解している。でもバスケに関わっている際に不機嫌になられた記憶が無い。
 オレがバスケを好きなのと同じくらい、もまたバスケが好きなはずなのだが、どういうことなんだろうか。内心で冷静に考えながらも、腹の中では沸々と苛立ちを覚えていたのだが、目の前に立つはオレに視線を合わせることなく唇を尖らせたまま俯いていた。
「ムカつく……」
 ボソリと不機嫌な声で言葉を零したは、いつの間にか拾い上げていたボールにおでこをくっつけてオレから視線を外す。
 わざわざシュートの仕方を教えてやったというのに、憎たらしい態度を取られたことに、自然と顔が顰められる。
 確かに、から聞かれたわけではなかったから、でしゃばった真似をするなと言われても仕方ないかもしれない。それでも、良かれと思って取った行動に対してムカつくなどと言われて、黙っていられるほどお人よしではないし、いくらに優しくしたいと思っていても、必要以上に甘やかすのは彼女のためにはならないだろう。
「あのなぁ……」
「だってひーくんカッコいい……」
 長年溜め込んでいた文句を、今日こそ言ってやるのだと意気込んだのも束の間、の言葉に驚いて目を丸くしてしまう。
 蚊の鳴くような声とはよく言ったもので、ともすれば聞き逃してしまいそうなか細い声で言葉を紡いだの顔は、血色が良いのが傍目で見ても解るほど赤く燃えていて、触れれば簡単に熱を伝えるだろうことが目に見えて解った。
 羞恥に燃える頬に、昔から簡単にオレを好きだと言い連ねていたくせに、どうしてこのくらいのことで照れたりするのだろうかと疑問に思う。
 だが、の言葉がオレの中に染み込んでいくのと同時に、その熱さえも移りこんできた。柄にも無く頬を朱に染め上げて言葉を零したは、悔し紛れなのかそっぽを向いて、その場にしゃがみ込む。
 きゅっと結んだ口元は、への字に曲げられてるのかと思いきや、緩やかなカーブを描いて上向いているようで、言葉とは裏腹にの気持ちが歓喜に占められていることに気付いた。
 頬を赤く染め、素直な言葉を吐かれて、平静を保っていられなくなる。だけど、この空気を打破して練習に戻ることも出来なければ、逃げ出してしまうような真似も出来ない。
 結果、何も出来なくてしゃがみ込んだの傍らに、オレもまた腰を下ろすだけであった。
 チラリと横目での様子を見たが、オレの視線から逃げるようにバスケットボールに額をくっつけて強く目を閉じているだけで、こちらを振り返ることなどしない。だが、彼女の横顔から覗くく小さな耳が、熱を持っていることを証明するように赤く染まりきっているのを見て、気持ちが溢れ出しそうになった。
 自然と指先がの指を捕まえていた。そのまま、膝の上に置かれたボールに添えられていた手を引くと、驚きで力が抜けてしまったのか、バスケットボールがの手から離れ、軽い音を立てて遠くへ転がっていく。
 身動ぎしたがオレの方を向いたのは解っていたけれど、今度はオレが視線を合わせることが出来なくなり、とは反対側に顔を向け、そのまま立てた膝に埋めた。
 黙るオレに合わせて、もまた口を開かない。耳に心臓の音が直接響くようで、にも聞えてしまうのではないかと危惧してしまうほどであったが、それ以上に熱い指先から伝わる熱の方が深刻なものだった。
 ――オレに触れられても、嫌じゃなければ握り返してくれ。
 先程どさくさで触れた時のような自己嫌悪に似た感情と、傲慢な想いが入り混じった訴えは、言葉として唇から紡がれることは無かった。だけど、数秒後、握り返された指先から、頬へ、耳へ、身体全体へと、熱が広がっていく。
 体育館の床に押し付けるようにの手を握り、そしてもまたオレの指先を絡めて握り返してくれる。
 中学のときも、こうやってとよく手を握っていたことを思い出し、また目に涙が滲みそうになった。
 粉っぽい体育館の空気も、冷たい体育館の床の感触も、バスケットボールの皮の匂いも、何もかもが懐かしい。ここには大切にしたいものが溢れている。
 バスケ部に戻ってきたこと。そして、の元へ戻って来れたことを、改めて幸せだと感じた。    



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