三井 寿06:気がつけば君を探してる

気が付けば君を探してる


 屋上の手すりに凭れかかって地上を眺めていると、薄紅色に色付く桜が、風に晒されてしまったことで、為すすべも無く散っているのが目に入る。買ったばかりのコーヒーの入った缶を傾けたまま、おぼろげな視線でそのさまを追いかけてしまう。
 風に乗って、屋上まで届けられた花びらに手を差し出してみたものの、そのまま流されるだけで、とどまることはない。徐に手の平を握り締めたところで、揺れる花びらを掴めるはずもなく、妙にイラついて舌を打ち鳴らした。
 煙草を吹かす徳男たちとは距離を置いているため、その音が聞えることは無いだろう。
 あいつらと共に居る際、風上に立つ癖がついたのは、いつからだろうか。煙草の臭いが嫌いというわけではない。ただ、その煙の奥にある害を思うと近づいたままではいられなかった。今更身体に気を使ったところで、オレの望む場所に、もう戻れるはずも無いのに、どうしても投げ出せないものがある。
 このような些細なことであっても気にするようでは、未練がましい男だと自嘲するには充分だろう。
 小さく溜息を吐いて、階下へと視線を延ばすと、一団となって歩く生徒たちが見え、体育館の入り口から列を成して入場しているようであった。
 昨日が入学式だったことを思えば、恐らくオリエンテーションでも行われるのだろう。入学して間もない集団は、慣れていないからか幾分か浮き足立っているように見える。
 あそこには、1年生がいるのだ。
 そう思うと同時に視線を凝らしてしまう。諦めきれない感情は、1つだけではない。その、あとひとつがあの場所にあるのかもしれないと思えば、視線を外すことが出来なくなった。
「三っちゃん。誰か探してるのか?」
 予鈴の鐘が鳴る。その音に触発されたのか、煙草を吸い終えた徳男がこちらへと歩み寄ってくる。
 独特な紫煙の臭いが鼻を突き、反射的に顔を背ける。臭いが風により追いかけてくるようではあったが、何もしないよりもマシな気がした。
 缶を持ってない方の肘を手摺に置き、手の平で口元を覆うことで漸く徳男の方へと視線を向けた。
「別に、ナマイキそーな1年が入ってきてねぇか眺めてるだけだよ」
「さすが三っちゃん」
 感心したように笑った徳男から視線を反らす。
 ――嘘だ。探していた相手なんて、1人しかいない。
 諦めるのだと、手放すのだと、何度決意したかなんて知らない。それでも、一縷の望みを捨て切れなくて、アイツを、を、探してしまう。
 近所に住むくせに、偶然出会うことも無かった。それでも忘れられなかった。染み付いているのだ。が。だからこそと居る未来を、望んでしまう。
 諦め方なんて知っている。ただ単純にこうやって期待を持って探さなければいい。が関わってきたところで、無いものとして振舞えば、いつかはも愛想を尽かして去っていくはずだ。
 それだけのことだ。なのに、それが出来ない。オレがを諦めきれないのを知っているからこそ、アイツは俺を追いかけるのだ。
 不意に湘北に入るのだと笑った幼馴染の顔が脳裏を過ぎる。
 あれからまた半年ほど会ってはいないけれど、あの鮮やかな笑みはいつも胸の中にある。約束ではなく、一方的な宣言をオレに押し付けたは、本当に湘北に入ったのだろうか。
 受験で受かる程度の頭はあったはずだけど、オレがいるから入るのだ、なんてあまりにもバカらしい理由で人生の岐路を選択するなんてことをにわかには信じ難い。
 それを軽くやってのけるようなの豪胆さは知っているが、あまりにも現実離れしすぎていて、ガキの戯言だと打ち捨てるにも充分であった。
 縋り付きたい思いを否定するのは、もしも期待を裏切られたときに傷つかなくて済むようにという防衛策であることも同時に理解している。居て欲しい、でも離れた方がいい。相反する感情を抱いて、もう1年近く経っているが、この感情が落ち着くことはいつまでもやって来ない気がした。
 体育館に入場する直前、集団の中の1人が、こちらを振り返った気がした。
 あの女がであればいいのに、と願わずにはいられなかった。

***

 昼休みの始まりを告げる鐘が鳴る。飯を食うかどうか考えたが、どうせ授業に出てもいないオレらは時間なんて守らずに活動しているのだから、昼休みに従わなくてもいいだろうと結論に落ち着いた。
 腹は減っていないわけではなかったが、食堂でもみくちゃになって飯を買う気にもなれないというのも大きな理由だ。
 この時間帯に、屋上に誰か来るということは少ないことは、経験で解っていた。正確には、オレたちがいる時には生半可な気持ちで人がやってくることは無い。

 ただ、今日だけは違った。その安穏とした空気に、不意の一撃が走る。

 バン、と戸を開く音が屋上に響き渡る。
 躊躇など感じられないその音に驚いて振り返ったのはオレだけではない。徳男も、他の2人も、一様に扉の方へと視線を向け、そしてそのまま硬直した。
 中途半端に開いたままの唇から、呼吸も忘れてしまったように、呻かれる声は言葉にはなっていない。
 驚くのも無理はない。見るからに新入生という風体の、しかも女が、オレたちを前にしてもビビらずに、扉を開け放ったままこちらを真っ直ぐと見つめているのだ。
 興味本位にここへやって来たというやつらなら、オレたちの姿を目に入れれば、すぐさま慌てて戸を閉めて逃げ去るのが常であった。
 だが、彼女はそれをしない。それどころか、こちらに向かって鮮やかに笑う。
 否、こちらだなんてアバウトなものではない。アイツの笑顔は、いつだって、他でもないオレだけに向けられる。
 ――が、目の前にいる。
 そう気付いた途端、身体の細胞のすべてが彼女に反応した。
 風で靡く髪を厭わずに手櫛で梳いたは、緩やかなカーブを口元に携え、そのまま真っ直ぐにこちらへと歩み寄ってくる。凛とした姿勢で歩くの、膝の上でスカートが揺れる。あまりにも真っ直ぐにこちらへと向かってくるに、徳男さえもたじろいで一歩退くほどだった。
「な、なんだよ、お前」
「舐めてんのか?!あぁっ?」
 低い声で脅しを掛けるような口調を吐く奴らに、眉根を寄せる。こいつらが女相手にいきなり殴りかかるような真似をするとは思わなかったが、警戒心が強く出てしまえば、脅しがヒートアップしないとも限らない。
 諌めようと片手を持ち上げかけた。それよりも早く、隣に立っていた徳男が、痺れを切らしたのかに詰め寄る。
「黙ってんなよ、この小娘っ!」
「おいっ! 徳男っ! よせっ!!」
 手摺に凭れたままだった身体を慌てて起こし、二人の元へと駆け寄り、徳男の腕に手をかけ、決して手出ししないようにと行動を制した。
「――三っちゃん」
 オレの行動に驚いたのか、徳男は目を丸くしてオレを見下ろし、固めていた拳を解いた。熱り立つ徳男らに向けてでさえも口角を持ち上げて笑うは、一見、オレたちを見下しているようにもとれなくも無いのだが、その鮮やかな笑みに気圧されたのか、徳男はごくりと音に出して唾を飲み込むだけであった。
……」
 漸く出て来たのは、彼女の名前だった。でも続けられる言葉が見つからなくて、それ以上の言葉を発することが出来ない。


 お前、本当に湘北に入ったのかよ。
 バカだろ。オレはこんな風になってしまったというのに。
 昔みたいに一緒にいてやれないって解ってるだろうが。
 オレが、来るなって言ったのに、なんで言うこと聞かねぇんだ。
 態々忠告してやっただろ。
 本当に、バカだ、お前。


 蔑むような言葉が次から次へと溢れて、それでもそのすべてを言葉にするには憚られて、唇から紡がれる前に霧散する。どのような言葉を吐いたところで、隠しきれない想いを滲ませるだけのように感じた。
 真っ直ぐにオレだけを見上げるは、以前と変わらぬ自信に満ち溢れた表情を浮かべていて、オレの中に潜んでいた情愛だとか愛惜だとかが胸に詰まりそうなくらい膨れ上がる。
「知り合い、なのか? 三っちゃん」
 オレの知り合いであることをいち早く感じ取った徳男の言葉に、他の奴らもまた微かに残していた殺気立った気配を解いた。だが、徳男の言葉にどう反応したらいいのか逡巡してしまう。
 の言葉を肯定することで受け入れることと、否定することで突き放すこと。そのどちらが正しいのかが判別出来ない。
 こんな風に徳男を止めに入った時点で、大半は知り合いであると肯定するようなものでは合ったが、それを認めたくない気持ちが胸を占めていた。
「久しぶり、センパイ」
 黙っていたオレに追い討ちをかけるように言うの、相変わらず自信満々なその表情には見覚えがあり、変わらない彼女らしさに思わず口を噤んでしまう。
「言ったじゃん。離してあげないって」
 驚いているオレが面白いのか、は微かに笑った。
 先程から相好を崩しっぱなしだと言うのに、の笑みは毎回違うように見える。その表情の豊かさが懐かしくて、心が解けそうになるのを抑えるため、身を翻して背を向ける。
 心を閉ざすことが出来ない代わりに取った行動だったが、それでも尚、――否、寧ろ姿が見えなくなった分、意識は背後へとひたすらに集中した。
「どう? 似合う?」
 歓喜に包まれた声で屈託無く笑うはオレの前へと姿を現し、その場でオレに見せ付けるようにくるりと回る。目を覗き込まれ、の視線を真っ直ぐに受け止めた後、ふいと視線を逸らした。
 中学の頃とは違い、少しだけ大人っぽい様相を醸し出したには、目を奪うだけの魅力があった。引き込まれてはいけない、と抗ったものの、普段よりも早い鼓動を抑える役目は微塵も果たせていない。
 何一つ、変わることなく話しかけてくるに、胸が苦しくなる。一歩、から距離を取ると足元で水音が撥ねる。手の中にあったはずの缶は、残っていた中身をすべてぶちまけて足元に転がっていた。
「……三っちゃん、オレたちちょっと飯食ってくるから」
 不意に徳男が口を開いた。
 で占められていた意識が外へと向くと同時に、慌てて徳男を振り返ったが、徳男は後ろに立つ二人に目配せして、なにやら互いに頷き合っているだけで、こちらを気にする素振りも見せやしない。
「あ、おい、徳男っ」
 オレの引き止める言葉を待たずに、徳男たちは屋上を後にする。普段の乱暴な音ではなく、キィと控えめに扉を閉める音だけがその場に残された。
「ふぅん、いい友達だね」
 徳男たちが居なくなった途端、唐突に手を引かれる。コイツが勝手に触れることは少なくなかったが、簡単に心臓は跳ね上がった。
「ねぇ、ひーくん。私が入学してきて少しは嬉しい?」
 先程よりも嬉しそうに笑ったは、オレの正面から手を繋いだ右側へと移動し、寄り添うように立つ。母親に褒めてもらうのを待つ子供のような振る舞いに、安らぎを感じるよりも強く、恐れてしまう。
 オレがコイツに振り向いたときに、踵を返してしまうこともあるのではないか。重ね続けた月日と共に、静かに折り重なった想いを、に踏み散らされることなどないなどと、どうして安心できるだろう。

 ――触るな。

 言おうとして、でもそこまで辛辣になれなくて、葛藤の末、唇を引き締めることしか出来なかった。
 どうしてコイツはオレに何も言わないのだろうか。
 バスケ部にも戻らずに、ヤンキーになった現状を目の当たりにし、その姿を目にしても、まだオレの傍に居ることを選ぶ理由。それからどれだけ目を背け続けたかなんて知らない。
 オレを見るの瞳が柔らかいのは、どうしようもない幼馴染に向ける感情だけではないのだと自惚れてしまいそうになるのが口惜しい。
「あ」
 の視線が足元に落ちる。その視線の先には、徳男たちが吸い捨てた煙草の吸殻があった。
 まずい。反射的に否定の言葉を口にしそうになったが、それを辛うじて飲み込む。いたずらな考えが脳裏を過ぎると、俺の行動を制した。
 もしも、これをオレが吸っていない、と否定せずにいれば、愛想を尽かしてくれるだろうか。
 自虐的な賭けを仕掛けたくなるのは、どこかで諦めて欲しいという気持ちから沸き起こるものではなく、それでもオレを選んで欲しいからだなんて言えるはずも無い。
「解ってるよ」
 ポツリと言葉を零すに、触発されての顔を見つめた。
「ひーくんから、煙草の臭いしないもん」
 少し眉を下げた顔でもなお、笑い顔を浮かべたに、浅ましいオレの考えが見抜かれた気がして、羞恥に頭に血が上る。
「っせぇな、てめぇぶっ飛ばすぞ?!」
 頭が熱い。決して生易しいものではない熱に触発され、の襟首を掴み、手摺に押し付ける。強かにぶつけた衝撃に眉根を寄せたが、それ以上顔を歪ませることは無かった。
「ぶたれないのも、解ってるよ」
 肝の据わった女だというわけではない。ただ、がオレが彼女にだけは決して本気では手を上げないことを知っている。小突いた手で、そのまま頭を撫でるような触れ方しかしたことの無かった弊害がここに出ているだけだ。
 の見上げる瞳に押し返されそうになる苛立ち。そして、その奥にある、感情は決して淀んだものではない。
 見抜かれていることが嬉しいだなんて、オレも相当趣味が悪い。オレのことを理解してくれるのだと、安堵に塗れたこの感情が恨めしいが、かなぐり捨てることなど、きっと出来ないのだろう。
「……ッバカヤロウ」
 喉に詰まったような言葉を吐き出したが、それは吐息交じりの弱々しいものとなった。
 罵られたことに少し顔を顰めただったが、何らかの反応を返される前に、掴んだままだった襟首を解放する。
 の肩に手を添え、一つ、視線を落とした。
 オレを見上げるは、中学の頃とも、もっとガキの頃とも、何一つ変わっていない。環境や年齢、立場やオレの人となり。変わったものの方が多いはずだ。それでも、変わらないものが、あるのかもしれない。
 小さな可能性を一つ、見つけた気がした。
 信じても裏切られないのかもしれないと淡い期待を抱きそうになる。肩に添えただけだった手をそのままの首に回し、強引に引き寄せると、それに合わせて自然と身体が前傾し、オレの頬に彼女のそれが触れる。
 粟立つ肌に紛れていたのは、どうしようもない歓喜であることなど、隠しようが無い。
「ひーくん……?」
 息を呑んだの言葉を遮るように、更に強くを抱き寄せた。密着した身体に、触れた場所からオレの想いがすべて伝わればいいのにと願う。
 淡く、でも確かに背中に回された腕に、諦めないだけの理由をは持っているのだと確信した。  



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