三井 寿08:心はひとつ(卒業)

心はひとつ


「なんでそんな不貞腐れてんだよ」
「怒ってないよ」
「怒ってんだろ」
 オレには解んだよ。一々隠すな。言葉には紡がないものの、軽くの頭に触れる。撫でるその手つきは優しいものとは言えないもので、その力に抗わずにの纏まっていた髪が乱雑に散らばった。
 それを厭うたが、オレの手から逃れるように身を翻して離れていく。オレを見上げること無く唇を尖らせたの不機嫌の在処がわからず、オレもまた眉根を寄せてを見下ろした。
 バスケ部の連中と集まるまでまだ少し時間が残されている。その集まりに徳男たちも呼ばれているのだと知らせに来たと入れ替わるように向かったヤツらはどこか嬉しそうだった。オレたちを迎えに来たと、当然呼ばれたオレを残していったのはアイツらなりに気を使ったのだというのは充分に解っていた。
 だからこそと僅かに残された高校生活というのを噛みしめたいと思っているというのに、オレのそんな殊勝な気持ちとは反対に、はその表情に渋いものを刻ませる。
「怒ってねぇなら笑うくらいのことをしろよ」
「ひーくんは、私がひーくんが卒業して離れていくことを笑って喜ぶような女だと思ってるの?」
「――それが怒ってる理由か?」
「違う」
 益々ぶすくれた様子を見せるの中に、ある感情が垣間見える。多分、さっきが放った言葉は真実だ。オレが卒業していくことで少なからずは喪失感を抱いているのだ。そしてその寂しさを紛らわせるように怒ったような素振りを見せているというのも含まれているのだろう。
 だけど、その引き金になったきっかけがわからない。わからないからこそ、オレはその対処方法を得るためにに何故怒っているのかと繰り返し尋ね、そしての怒ってないという否定の言葉を聞く度に口を閉ざすことしか出来なかった。小さくはない音を伴って息を吐きだす。その音を聞いたもまた不機嫌そうに柳眉を逆立てた。
「だんまり決め込むってんなら、もう体育館行くか? 宮城たちいんだろ?」
「そうだけど、まだダメ」
「準備でも残ってんのかよ」
「そうじゃなくて!」
 はねつけるように言ったの手がこちらへと伸びる。学ランの胸の辺りを掴まれると、ボタンの止ならない学ランが簡単に開ける。それを目にしたの表情が簡単に歪み、掴んだばかりのそれをかなぐり捨てるように手を振った。
 その手がの元へ引き戻るよりも先に右手で掴む。吃驚したように眦を釣り上げたに、睨むような視線を落とすと、の大きな瞳が揺らいだ。低く唸ったは、舌を打ち鳴らしそうな面持ちを残したままオレから視線を逸らす。
「……ボタン」
「は?」
「ボタン、全部無いじゃん……」
「ハァ?」
 なんの冗談のつもりだと怒鳴ってやろうかとも思ったが、痛いほどに寄せられた眉根にが本心で語っていることを知る。今更第二ボタンが欲しいとか、そういうことを言いたいのか。
 が教室に辿り着く10分ほど前のことだ。クラスの割と話す女子に、戯れにボタンをくれと言われた。別に仲の悪いやつではなかったし、どうせ卒業して着ることもないものだから、執着もなく簡単な気持ちで彼女に第一ボタンを投げ渡した。それを教室のあちこちで見ていた女子たちがこちらへと集団で詰め寄ってきて身ぐるみを剥ぐ勢いでオレの制服からボタンをもぎ取っていったのだ。
 の言うとおりボタンはどこにも着いておらず、袖口の飾りボタンでさえも消え失せている。別にそこに甘酸っぱいものや、心ときめくものがあったわけではない。
 たったそれだけのことが彼女の気に障るというのがいかにも大げさ過ぎないだろうか。
「……たかがボタンくらいで」
 溜息混じりに見下げるような言葉が口をついて出た。その言葉を捉えたはオレを振り仰いで叫ぶ。
「たかがじゃないよっ」
「たかがだろうがっ。別にオレが好き好んで渡したわけでもねぇのになんでお前が怒る必要があるんだよ」
「怒ってるのは、そこじゃない!」
 はまた叫んだ。普段ひょうひょうとオレの言葉をムカつくぐらいに受け流すくせに、今日に限ってはそれが成されない。真正面からぶち当たってくるに、普段と同じ余裕が無いのでは、と思い当たる。そう言えばここ最近、ずっとおかしな様子を見せていた。
 無駄に喋ってみたかと思えば急に黙りこんだというのはまだまだ正常な範囲の違和感で、おにぎりの包み紙を開けきれずにシールのところを破ってみせたり、ラーメンに爪楊枝をぶちまけたり、と寝ぼけてんのかコイツと何度思ったことか。
「だからさぁ……」
 ポツリと言葉を零したは先程までの勢いを微塵も感じさせない。また馬鹿な発言でもする気なのだろうか。小さく息を吐き「なんだよ」と言葉を促す。
「そのボタンもらった子たちはひーくんのことを少なからず好きだと思ってるってことなんだよ」
 オレの同意を得る前に追い剥ぎじみたことをされたというのに、そんな風に好意的に感じられるはずがなかった。もしさっきオレがされたことを安田辺りがされたのなら集団で集られると女は怖いと、トラウマを覚えてもおかしくないくらいの出来事のように思える。
「んなの知らねぇよ」
「知らないなら、それでもいいんだけどさ。でも、また大学入るまで離れなきゃなんないってのに、そういうの目の当たりにしたら、さすがに……」
 キツイ、と掠れた声で繋げたに返す言葉を見つけられなくて左手で後頭部を掻いた。そこまで言わせてしまった自分が情けないような、そこまで想ってくれているの本心が見れて嬉しいような、複雑な気持ちが胸の中に沸き起こった。の言葉から溶け出たその想いは、この先の不安に塗れた嫉妬だった。
 だが、それはつまり、がオレを手放すことは毛頭ないのだと宣言したようなもので、そうと気付けば先程までのキレたの態度もひとえにオレと離れたくないと暴れた結果だと考えられる。1つ年下の彼女の、子供らしい振る舞いに、思わず笑ってしまいそうになる。
 今このタイミングで笑うと、またが怒り狂うことだろう。それが解っていたからこそ、オレはを見下ろしたまま口元を引き締める。
「ボタンなんていらねぇだろ」
 目を細めてを見下ろし、掴んだまま持ち上げていた手を引き下げる。そのまま右手を引いてやると、手の届く距離にいたが益々オレに近づき、はだけた学ランのその下のシャツに頬を寄せる。
「全部やるよ、オレを」
 首にやっていた左手をの腰に回し、引いたままだった力の抜けたの手を残して、右手での頭を抱えた。緩やかにオレの腰の辺りに触れたの手に力が生まれていくのを肌で感じながら、触れさせていただけの両の手を強く引き寄せる。
「お前に、全部」
 の耳に直接吹きこむように言葉を紡ぐ。くすぐったいのか首根を引っ込めたは、しがみつくようにしてオレの学ランを掴んだ。卒業するからといって不安に思わなくて済んだのはひとえにが一途にオレを追いかけると宣言してくれていたからだ。
 同じように返してきたつもりだったけれど、足りていないからか、それとも同じ言葉が返ってくると信頼からか、はオレに対して不安をぶつけてくる。
「それだけじゃ不満なのかよ」
「……ひーくん」
 学ランを掴むだけだった腕が緩やかに回されて、オレ自身を抱くものに変わる。さっきまでプリプリ怒っていたくせに、単純というか素直というか。少なくないある種の感情が胸に沸き起こってきて、自然と口元が笑んだ。
 オレに対していつもどういうものでも、全力でまっすぐに向かってくるをかわいいと思う気持ちは簡単には収まりそうにない。抱えるだけだった頭を撫で付けていると、身動ぎしたが寄せたままだった頬を離し、オレを見上げる。
 その動きに誘われるように顔を寄せたが、触れるよりも先にの唇が言葉を紡ぐ。
「おでこに名前書いてもいいなら安心してあげてもいい」
 可愛げのないその言葉に、思わず固まってしまう。
「……顔はヤメロ」
 そう返すのが精一杯で、下げかけた顔をの肩口に落とす。じゃあお腹にでも書くかな、と呑気に抜かすに、益々意気消沈するようだった。
 奪われる前に咄嗟に確保していた第二ボタンをに渡すのは、もう少し後にしてやろう。素直に情愛をさらけ出しすぎるのも照れくさくて、そんな意地悪なことを少しだけ考えた。



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