三井 寿09:接触が足りません

接触が足りません


 部活の帰り道。夕焼けを通り越し、夜に姿を変えた街並みを横目に帰路に着く。毎日、変わらない風景に安定を感じつつも、普段とはちょっと違った要素に静かに胸を高鳴らせていた。
 じっと、前を歩くひーくんの背中を眺める。中学生の頃と比べてかなり背が伸びたひーくんは、背中だけを見ても随分男らしくなったなと感じられた。「ひとつ年上の先輩」というのを抜きにしても昔からひーくんは私よりも先に成長してしまう。その背中を追い掛けることには慣れていた。
 だけど慣れたからといって、飽きたということは決してない。今もそうだ。前を歩くひーくんに、なにかしたくて堪らない。
 それは意地悪とか悪意があるものではなく、ただ単純にかまって欲しいがための行動だった。だけど私がちょっかいをかけると、大抵、ひーくんは烈火のごとく怒るのだ。
 口元を軽く尖らせて、ひーくんの背中をじっと見つめる。スタスタと先を歩くひーくんは、自分から一緒に帰ろうって誘ってきたにも関わらず、私に構うことなく帰路を急ぐ。
 ――足の長さが違うんだからそんなに速く歩けないってば。
 恨みがましい視線を向けつつ、ひーくんの背中のシャツを引く。思ったよりも強く掴んでしまったようだ。中に着ていた肌着までも、べろんとズボンからはみ出させてしまう。
 違和感が気持ち悪かったのだろう。ひーくんはものすごく嫌そうな顔をして私を振り返った。
「だあああっ! シャツひっぱんなっ!!」
 やっと、立ち止まってくれた。ほんの少し胸が高揚したのも束の間で、ひーくんが乱暴な手つきで私の指先を振り払ってしまう。確かに肌着まで引っ張ってしまった私が悪いのかもだけど、そんなに本気で怒ることないじゃんか。
「ごめんってば。でもひーくん歩くの速いからァ」
の短い足と違ってオレの足が長いんだから仕方ねぇだろっ」
 甘えたように言ってみてもなにひとつひーくんには通じない。憎まれ口を残したひーくんは、乱雑な手つきで肌着だけをズボンの中に仕舞い込み、また私を残して歩みを進めてしまう。
 数歩分、早歩きしてその背中に追いつく。そのまま普段のスピードで足を進めていると、その距離が離れないことに気がつき、ひーくんがいつもより歩みを遅くしてくれたことを知る
 気をよくした私は、えいっと一歩分飛び込んだ。これで晴れてひーくんの隣に並んだことになる。そのまま距離が離れないことに、口元をにんまりと緩めた。だけど機嫌が良くなったのもほんの一瞬だった。気持ちが上向くままにひーくんに話しかけようと試みたが、ひーくんが相変わらず怖い顔をしたまま、まっすぐに前を向き、一心に歩みを進めていたからだ。これではさすがの私でも、会話をスタートさせるきっかけが見い出せない。
 浮かんだ気持ちがまた沈んでいく。悔しくてひーくんの左肩に掛かったスポーツバッグの外側についた持ち手に手を伸ばし、意味もなく、ぶらんぶらんと2回揺すってみた。私の何気ない行動ひとつに対しても、ひーくんは過剰なまでの反応を示した。
「やめろって言ってんだろっ! っ!!」
「だって……」
「鬱陶しいやつだな……」
 チッと舌を打ち鳴らしたひーくんにまたしても手を振り払われる。挙句の果てには、もう鞄にちょっかいをかけられないように、と反対側の肩に掛けられてしまう。チラリと上目遣いでひーくんの表情を確認したが、ひどく顰めているということを印象づけるだけだった。ぼうっとその表情を見上げていると、ひーくんは咎めるように唇を尖らせ、私の額を小突いた。
「あー、もう。しゃきしゃき歩けっつの」
「わかったよ……もう、すぐ乱暴するんだから……」
「人聞きの悪いこと言うなっ!」
 二回目の衝撃が落ちる。痛む額を右手で抑えながらひーくんを睨めつけたが、ひーくんの鋭い視線が返ってくるだけだった。不貞腐れて唇を尖らせたのは、ひーくんだけじゃないし。ぶすっと腑に落ちない、というのを隠しもせずにひーくんの隣を歩く。
「帰んぞ」って誘ってきたのはひーくんだ。私はそれに同意しただけなのに、ひーくんはまるで私が居ない者かのように振舞う。無視して、先に歩いて、話しかけても反応してくれなくて、ちょっかいかけたらやっとこっちを向いてくれるけれどそれも長くは続かない。こんなの、一緒に帰ってる意味なんてないじゃない。
 昔みたいに手をつないで帰りたいなんてわがままを言うつもりはないけれど、ちょっとくらい構ってくたっていいじゃないか。
 右手の人差し指をそろりと伸ばす。ひーくんのズボンの後ろポケットに突っ込んで引っ張ってみたけれど、力が弱かったのか、特にひーくんは反応を示さない。そんな状態でじっと見上げたところでひーくんがこちらを振り返ることはない。
 小さく溜息が漏れる。眉を顰めて俯いていると、途端に目の前が陰った。顰め面のまま目線だけを上げると、ひーくんが怪訝そうな顔をして私の顔を覗き込んでくる。
「……なんつー顔してんだよ」
 私が膨れっ面をしていることに気付いたひーくんは呆れたように長く息を吐き出した。私がこんな状態になっているのは、間違いなくひーくんのせいだ。それなのに、あたかも自分が迷惑を被っているのだと言いたげなひーくんの態度が気に入らない。結果、私はますます唇を尖らせて、不愉快であるということを表に出さざるを得ない。ふいっと視線のみならず、顔全体をひーくんから反らすと、ひーくんが小さく笑う声が聞こえた。
 その音に釣られて横目でひーくんの表情を確認してしまう。ひーくんは眉を下げて笑っていた。泣く子と地頭には勝てない、とでも言いたげなその表情に、ますます気持ちの奥底が意固地になっていく。ひーくんが私のことを適当に扱うから怒ってるのに、どうしてひーくんは笑ってんのよ。
「お前なぁ、何でそんなに機嫌悪ぃんだよ」
「だって……ひーくんが無視する……」
「あー……もう、悪かったって」
 笑いながらひーくんは、先程小突いたばかりの私の額を労わるように撫でた。跳ねた手のひらはそのまま下ろされると、私の右手を掴んだ。暖かな熱がじんわりと肌に馴染んでいく。幼い頃から触れていた体温は、成長することで差が付いた大きさの違和感をいとも簡単に打ち砕く。
 右手を強く引かれた。突然の衝撃に、思わずバランスを崩しそうになり、たたらを踏んでしまう。足元のおぼつかなくなった私を振り返ったひーくんは、小さく笑い、一方的に掴んだだけの手を離し、今度はお互いの指を絡めるようにして握ってきた。
「おら、。さっさ帰んぞ」
 あぁ、もうこの人のこういうところが堪らない。私が考えてることなんて絶対に解ってないくせに、自分のしたいようにしてるだけのくせに、私がしてほしいことをさらっとしてくれる。
 普段は、単なる腐れ縁だとか幼馴染で俺が保護者なだけだ、だなんて口にするくせに、この手の繋ぎ方は誤解しちゃうじゃん。羞恥と悔しさでいっぱいになった私の頬は、夏の暑さになんて負ける気がしないほど燃えていることだろう。
「……どこで覚えてきたのよ、こんな握り方」
「別にどこだっていいだろ。嫌なら離すけど」
「嫌じゃないけどぉ」
「けどなんだよ」
「……知らないっ!」
 悔し紛れに憎まれ口を叩いてみた。怒ったふりをして、絆されたりしないと振る舞いたかった。だけど私がいくら眉を八の字にしていても、ひーくんの態度は変わらない。そういうのも全部、見抜かれているからこそ、ひーくんはこの手を離さないんだ。
「つーかの方こそ、この前こういう握り方してきただろうが……どいつに教え込まれたんだよ」
「私は彩子から教えてもらったんだもん。ひーくんみたいにやらしくないもん」
「……はっ。だと思った」
「なによぅ」
 さっきまでちょっと怖い顔してたくせに、またしても機嫌良く笑うひーくんがよくわからない。ニヤニヤとした口元を隠さないひーくんは、怪訝そうに見上げる私を見下ろし、口元をさらに歪めた。
「オレはこういうのはお前としかしたことねぇからな」
「えっ……ひーくんモテないの?」
 思うがままにポツリとこぼすと、繋いだばかりの手をいとも簡単に振り払われた。



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