言葉が足りません
「ふぁー」
何度目かわからない欠伸を吐き出し、大きく伸びをする。
仰臥した身体が擦れる感触に、屋上で寝ていたことを思い出した。
涙まじりで薄く開いた目から入った太陽の明るさに目を瞑り、それでも瞼の裏が赤く燃えるように映るのがいやで腕で目元を隠した。
身動ぎすると傍らに置いたままだったお弁当箱に肘が当たり、カシャンと軽い音が耳に入った。
寝返りを打ってそちらに視線を向けると、袋に入れていたはずのお弁当箱が散乱していてる様が目に入る。
バンドで止めるのが面倒でそのまま放り込んだのがまずかったようだ。
面倒くさいなぁと思いながらも、身体を起こしてそれらをのろのろと拾い上げ、今度はバンドでぱちりと止める。
腕を上に伸ばしてそれから肩の後ろに回してストレッチをする。
やっぱり屋上で寝るのは心地いいとは言い難い。
昼休みにお弁当を食べて、お腹いっぱいになったからそのまま寝たのだけど痛む身体と微かに日焼けした肌のヒリヒリ感に、選択肢を誤ったのではと後悔が押し寄せる。
給水塔の上なら日陰もあるしイケると思ったんだけどなぁ。
ブレザーに手を差し入れ、おへその上を掻きながらまた一つ大口を開けて欠伸を零す。
保健の先生さえいなければベッドで寝るんだけどなぁ、とままならない現状を憂い、そのままそこにまた横になる。
胎児のように身体を丸めながら、また一心に太陽の暖かさを味わうように深く瞑目した。
「――」
訥々とした声が頭上から降ってくる。
先程起きてからまだ一時間も経ってなさそうだな、と眠りと覚醒の狭間でうつらうつらとしているとまた「おい」と短い呼びかけが耳に入ってきた。
起きるのも億劫だなと思いながら薄く目を開いたけれど眼に入るのは遠くにある給水塔に上るための梯子と地面だけで、今の声は夢の中のものだったのだと自己完結する。
再度目を閉じて眠りに落ちようとしたが、ふと、目に入る陽の光が遮られたように暗くなる。
雲で日が陰ったのだろうか。
頭の片隅で考えたけれど、だからと言って私にどうすることも出来ないので、そのまま誘われるままに眠りの世界に戻ろうとすると、今度は人の気配を周囲に感じた。
誰か来たのだろうか。来るとしたら今は授業中だし、不良のひとかも。だとしたら眠り続けるためには喧嘩しないといけないのかな。
来たのが同じ不良でも徳ちゃんたちなら喧嘩しなくて済むんだけどなぁ。
そう考えても、誰か来たのならその正体を見ておかないと安心して寝られない。
眼前を腕で隠したまま細く目を開き、横目で周囲を伺ったが、誰かが私の顔を覗きこんでいる様子はなく、空以外の何も視界に収まることはなかった。
気のせいかぁ、と思い直して安堵の溜息を吐き、視線を正面に戻すと、今度は梯子などではないものが目に入り込んでくる。
拳2つ分と離れていないその至近距離に、男の顔があった。
伏せられた長い睫、整った鼻筋、端正な顔が目の前に広がり、この顔のかたちが誰であるのかとまだ働いてない頭で考える。
――ルカワだ。
そう認識した途端、意識は急激に覚醒へと引っ張られる。
横になったまま背筋の要領で背中を逸らすことで距離を取ると、地面に接する右頬を擦った。
顔に傷を作ったらお嫁に行けないだなんてしょうもない考えが頭を過ったけれど、それよりも眼前にあるルカワの衝撃の方が大きかった。
「ルカワなにやってんの」
「……うっせーな、どあほう」
目を閉じたまま心底煩そうに眉を顰めたルカワは、いつものように自分の腕を枕に眠っている。
バスケ部の石井クンが言うにはバスケしている以外では大抵寝てるという話だからルカワが寝ているのは珍しいことじゃないのだろう。
この際、授業中だということも目を瞑ろう。眠いのなら寝たいときに寝たらいい。私も寝る。
ただ、どう考えても場所がおかしい。
添い寝と言っても差支えのないこの距離の近さは、なんなんだ。
「寝るならもっと遠くで寝てよ」
腕を伸ばさなくても手の届く範囲に人が寝ているという事実に慣れてない。
恥ずかしいというのも少しはあったが、それ以上に動きにくいのと落ち着かないというのが大きな理由だった。
モソモソと腕や足を動かしてみたものの、ルカワは一向にどこかに行こうとする素振りも見せない。
唇を尖らせて眼前にあるルカワを睨みつけると、視線に気付いたのか、ルカワが片目を薄く開いて、それから小さく溜息を吐いた。
「……オレの勝手だろ」
嫌そうに唸ったルカワは、黙ってろという代わりに枕にしていない方の手のひらでわざとらしく自分の耳を塞ぐ。
邪険に扱うようなその仕草に苛立ちが募る。元々私が寝てたところに割り込んできたくせに、よくもそんな態度が取れるな。邪魔されたくないなら離れたところで寝ればいいのに。
手を伸ばしてルカワの鼻先を掻くように振ってみると、あしらうように簡単にその手を振り払われる。
こんなに側で寝ているのに、こちらに構う気もどうやら微塵もないらしい。
釈然としない心境を持て余し唇を尖らせたが、ルカワはそんな私の表情をチラリと眺めるだけであまつさえ、くぁ、と小さな欠伸を漏らすだけの反応を見せる。
その仕草に、益々面白くなさに拍車をがかかる。
「もーいいや。教室もーどろっと」
横になったまま伸びをし、大きく息を吐きだした。
まだ寝足りない感覚はあったけれど、こんなふうに邪魔をされて平常心で寝ていられるほど神経は太くない。それに段々日も翳ってきたことだし、これ以上外で寝ている理由もないってもんだ。
既得権益を放り投げてやるのだから、ありがたく思うがいい。
「よいせーっと」
寝返りを打って、腹筋の要領で起き上がろうとすると、その動きは何かに引っかかったかのように途中で引き止められる。
思わず地面に肘をついて堪え、引っ掛かりを感じた場所へ視線を落とすと、ルカワの左手があり、私のブレザーの裾を引っ張っているさまが目に入った。
「なにしてんの」
「別に」
低い声で簡潔に答えたルカワは、興味無さそうに地面に視線を流したままで、こちらを振り仰ぐ様子を見せない。
ただこの左手の主張は、そう簡単に流せるものではない。
試しに、えいっと袖を振ってみたけれど、思ったよりも強い力で掴んでいるようで、裾を握ったままのルカワの手が釣れるだけだった。
「放してよ」
「いやだ」
「なんで」
「別に」
またもや会話を終わらせる言葉を放ったルカワに、掛ける言葉が見つからないままでいると、ルカワは私から逸らしていた視線を横目でチラリと投げ寄越す。
睨んでいるというわけではないのに、ある種の迫力のようなものを感じて、たじろいでしまう。
ルカワの目は苦手だ。ルカワがなにを考えているのかこちらはまったくわからないのに、ルカワには私が戸惑っている様子をハッキリと捉える。
自分の内にある怒りだとか反抗だとか言う熱が圧されて、意味もなく敗けたような気分に陥ってしまう。
蛇に睨まれたカエルの気持ちってこんな感じなんだろうか。
「ゲコゲコ」
「なに言ってんだ、お前」
カエルの気持ちになって鳴き声を零すと、ルカワはその端正な顔を顰めてみせる。
普段はほぼ無表情の割に、非難を示す時や呆れを見せる時だけはハッキリとその表情に映すのだから、本当にコイツは性質が悪い。
唇を尖らせてルカワを見下ろしていると、不意にルカワが薄く唇を開いた。
「」
「なに?」
尋ね返すと、ルカワの手が私のブレザーから離される。やっと開放してくれるのかと胸を撫で下ろすのも束の間で、翻ったその手のひらは地面に添えられ、ポンポンと2回跳ねる。
じっとこちらを見上げたルカワの口からは何も告げられないが、今の仕草から察するにまたここで寝なさいとでも言いたいのだろう。
ガシガシと後頭部を乱雑に撫ぜる。釈然としない心境が解消されることはなかったけれど、まだ眠りたいという気持ちが充分に残っているのは自覚していた。
「あー、もう」
溜息混じりで零した言葉を投げつけ、そのまま背中を床に投げ出した。
いつものように身体を横にして眠ると、ルカワの顔が先程とほぼ同じ距離で目に入る。
寝てしまえばもうそんなの気にする必要なんて無いもんね。
小さく肩で息を吐いて、そんな言い訳を頭に浮かべながら目を閉じる瞬間、目に入ったルカワの表情にはほんの少しだけ満足そうな色が混じっていた。