流川 楓02:星月夜(七夕)

星月夜


 部活後の自主練を終え、体育館を出た時に、ふとした違和感を覚えた。夜の割に、明るい。気になって周囲を見渡し、それから空へと視線を向ける。まだ日が落ちていないと言うわけでもなく、とっぷりと夜空が広がっていた。だが、宵闇の中で星が煌々ときらめくさまが目に入る。そのせいで普段よりも明るく感じるのだと知った。
 ぼうっとした視線を空に向けていると、カサリと何か乾いたものが擦れるような音が聞こえた。耳に届いた音に振り返ると、自分の背丈以上の長さの枝のようなものを肩に乗せた少女の姿が目に入る。
「ルカワっ!」
 弾んだ声の持ち主の姿が、体育館から漏れる灯りしかない朧気な世界の中でも鮮やかに浮かび上がる。

 反射的に彼女の名前を紡ぐ。声が聞こえたのか、は歯をニッと見せて笑いこちらへと駆け寄ってくる。シャンシャンと乾いた音が、夜の静けさの中に響いた。の周囲には普段良く一緒にいる水戸たちの姿が見えない。一人でこんな夜遅くに出歩いていることに自然と眉根が顰められた。
「……なにやってんだ、おめー」
 目の前に辿り着いたに、一人でこんな遅い時間にふらついていることに対して注意を促したつもりだった。だが言葉足らずだったのか、は緩んだ笑みをますます深いものにしただけで、俺の言葉の真意を見抜く様子はない。
「じゃっじゃーん!見て!七夕の笹!」
 機嫌よく言ったは肩に担いでいた枝───笹を、まるで竹刀のようにぶんっと一つ振るう。風が少しだけ凪いだことに、反射的に方目を瞑る。嗅ぎ慣れない匂いを鼻の奥に感じ、スンと鼻を鳴らす。片手を持ち上げ、笹に触れると、想像した通り乾いた感触が手の中に残った。
 七夕だとは言ったが、まだ7月にも入っていない。気の早いことだと思いながらも近所の商店街にもいくつか彼女が持つものよりも幾分も立派な笹が設置されていたことを思い出した。それに群がっていた小学生たちの顔と、今のの表情が重なる。きらきらと、自分の願いが叶うことを期待するような笑みだ。
「……どーしたんだ、これ?」
「うちの近所のおじさんちに生えてんのもらったんだー。でも家には置けないから体育館の側に飾ろうかなって」
 言いながら視線を周囲に巡らせたは、身体を右に傾けて俺の背にある体育館へと続く扉の奥を覗きこむ。
「ねー、アヤコさんは?」
「先輩ならもう帰った…ハズ」
 先輩の所在なんて知ったこっちゃない。姿が見えないから普通に考えれば帰ったと想像は出来る。だがもしかしたら何かしらの用事があって校内に残っている可能性もなくはない。嘘を吐かないようにと可能性を少しだけ残すために曖昧な言葉を続けた。
「知らないんだ」
 小馬鹿にするような言い方をしただったが、表情は曇らせていた。眉を下げ、唇を軽く尖らせたを目を細めて見つめる。スカートのポケットに手を突っ込んだは、一枚の紙を取り出した。縦長で黄色い色紙だった。
「ちぇー。どうしよっかなぁ」
 先程以上に唇を付き出したは取り出したばかりの紙を親指に力を入れて持ち、うちわのような仕草で自分の口元を叩いた。チラチラと動く紙には文字が書いてあるようだった。なんとなく気になって彼女の手の中から引っ張った。意外にもすんなりと指の力を抜いたの手から奪い取り、くるりと反転させて目を落とす。そこには大きく歪な文字で「全国セイハ」と書かれていた。
 恐らく先輩を探していたのは、セイハの字が書けなかったから聞きたかったとかそういうところなのだろう。辞書を引けばいいのに、と思いながらももし俺が同じ立場でもそうしていたんだろうなとも思えた。
「おめー、頭ワリーのか」
 正直な感想を口にすると、さっきまで穏やかな顔をしていたが目を吊り上げてこちらに吠え掛かる。
「漢字難しーんだよっ」
 怒った様子を全面に押し出したの手がこちらへと伸びる。目標がこの願い事の書かれた紙であることは明白だった。頭上高くに腕を持ち上げると、当然からは届かなくなる。持っていた笹から手を放し、肩を捕まれ、腕を引かれたが、彼女の力に抵抗できるだけの腕力くらいなら充分にあった。
 いたずらな気持ちが働いたのは、悔しそうに口元を歪めるが見たかったからだ。普段は自分が見たいものを見て、興味のあるものにしか触れないでも、挑発をすれば簡単に乗ってくる。
 俺の腕にぶら下がる勢いで手を引いたの目が俺の手の先に伸びているのをじっと見下ろしながら、この状況の落とし所を考える。まぁ、どうせこいつのことだ。きっとすぐに飽きて、諦めてくれることだろう。
 今度は高くジャンプしようと考えたのか、その場に屈んで真上に手を伸ばしながら跳んだ。俺の手にも掠らないのに、数度繰り返すに、先程、直接彼女に向けた質問が当たりなのだと確信した。
「……いいや、今度大楠に聞こうっと」
 肩で大きく息を吐いたは、夏の熱さの中で飛び跳ねたことが堪えたのか、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。傍らに落とした笹で俺の手を叩き落とすことを選択しなかったあたり、常識があるのか、それとも道具を使えないのかと考える。が諦めたことを目にし、腕を下ろす。もう一度短冊に目を落としたがやはり「セイハ」の違和感にばかり目が行ってしまう。
「ねー、ルカワ。知ってる?大楠、難しい漢字だけは昔っから得意なんだよー」
 聞いてもいないことを一方的に伝えてくるに相槌も打たずに放っておいたが、気にした素振りを見せずに、拾い上げた笹を体育館の脇へと運んでいく。斜めに立てかけた笹に、ポケットから出した折り紙で飾り立てていく。
 キャプテンの承諾を取らないと怒られるんじゃないかと思ったが、別にコイツが置いたことを知ってるのが俺だけなら黙っていればいいだけの話だ。
 耳障りに聞こえない軽やかなの声が、歌うように紡がれる。話の内容はどあほうたちのことがほとんどで、そいつらの名前を出されても誰がどれなのか見当がつかず適当な相槌を挟むことしか出来なかった。
「でねー、こないだ洋平がさー」
「おい」
「ん?」
「おめー、これ。どーすんだ」
 放っておいたらいつまでもどあほうたちの話をしそうな様子だったに先程取り上げた短冊を掲げる。ひらひらと挑発するように翳してみたが、興が削がれているせいか、は首を傾げることしかしない。
「えー。だってそれ失敗したやつだもん。もういいよー」
「ふぅん」
 失敗作だと言われた短冊の文字をもう一度見つめる。お世辞にも上手だとは言えない文字の羅列は、先輩が書道で書いたものとは比べ物にならない。
 全国制覇を願ったのは、誰のためなのか。その願いを託す相手は誰なのか。全国制覇を成し遂げた時、は誰のために笑うのか。
 頭の中にチラついた考えに目を細める。いつものバカみたいに脳天気な笑い声が耳の奥で蘇りそうだった。
「もういいでしょ。捨てるから返して」
「……いらないなら、ちょーだい」
 今度は大人しく俺に手のひらを差し出したに、今度は俺が一方的な言葉をぶつける。案の定、目を丸くしたは、数度、何かを見張る時のネコのような瞳を瞬かせる。
「え、なんで?」
「別にいーだろ。悪いようには使わねー」
「? ルカワが欲しいならあげるけど…でもなんで?」
「……教えねー」
 なんでなんでと好奇心旺盛な子供のように繰り返すを適当に往なす。本当は真意を知っているんじゃないだろうかと訝しんでしまうが、コイツが人の心情を推し量れるような聡いやつではないことは解っていた。
 じっと俺を見上げるの目を見返す。夜の闇の中の割に明るいせいか、いつもよりもがきらきらとして見える。何も解ってないくせに、目が合うと笑うを、悪く無いと思った。  



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