何もかもが足りません
5時間目の体育の授業を終え、と連れだって女子更衣室へと向かう。選んだ種目はバレー。いつもなら体育館で行われるはずの競技だが、今日は三年生の進路説明会の兼ね合いで運動場での授業となった。
二学期にもなれば進路に絡んだイレギュラーな事態は増える。赤木先輩や木暮先輩はともかく、三井先輩も参加しているんだろうか。そんな話題を口にすればは「体操服でセンパイを誘惑しに行く」と走り出す真似をした。
の首根っこを引っ掴んで女子更衣室のある体育館まで戻る道すがら。砂が入ったみたいとぼやきながら目元を擦るに「あまり擦ると余計酷くなるわよ」と注意をしていると、同じく運動場でサッカーの授業を受けていた男子たちとすれ違った。
私たちよりもはるかにほこりっぽい風体をした彼らは、自分たちの試合の戦況を語り合いながら歩いている。その集団の一角にリョータとヤッちゃんが混じっているのに気がついた。ヤっちゃんも同じタイミングで気がついたらしく、隣を歩くリョータの肘を突いてこちらを見るように促している。
ふたりに呼びかける前に手を翳した。目が合ったリョータは、当然、笑顔を浮かべると思っていた。だけど予想に反してリョータは衝撃に塗れた表情を更に歪めて私を見つめた。
「アヤちゃん?! どうしたの、その腕!!」
ガツンと脳に響くほどの大声を上げたリョータに思わず私もヤっちゃんも、そして恐らくも顔を顰めた。バレーの試合中、レシーブをうまくさばききれなくて左腕が腫れてしまったのだが、その痣をリョータは目敏く見つけてしまったらしい。さも自分の腕が痛むかのような顔をしたリョータは悲痛な声で泣き叫びながらこちらへ歩み寄ってくる。
「あぁ……おぉ……」
呻き声を上げ、震える足取りで近付いてくるリョータから目を逸らし、そっと頭を抱えた。額を手のひらで覆えば、自然と手首の付け根が目に入る。
リョータが見つけてしまった痣は、たしかに遠目から見てもわかる程度にくっきりと変色している。だが見た目に反してそこまで痛みは無いし、血が出たわけでも無い。この程度の痣なら他の子たちだって似たような被害に遭っている。隣にいるなんて地面に転がる勢いでレシーブを拾っていたから肘に擦り傷を作っていたはずだ。
着替えて時間があるようなら保健室にでも行こうか。そのくらいの認識で放っておいたけれどリョータにここまで反応されるとなるとさっさと治療しておいたほうが良かったかもしれない。
リョータひとりに騒がれるのなら別に構わないけれど、そうはいかないから面倒くさいなんて思ってしまう。リョータの大袈裟な態度を目にした同級生たちから差し向けられる好奇の眼差しを感じながらも、ぐっと我慢してリョータに向き直る。
「このくらい、たいしたことないわよ」
心配されるのはありがたい。だけどそんなことで周囲にからかわれるのはまっぴらよ。反抗的な気持ちと共につけんどんな口調ではねのけたが、リョータは「嘘だよ。痛いよ」と更に悲しみに暮れるような表情を浮かべた。
どうして、こうもリョータは配慮が足りないんだろう。
さっきまでサッカーの話で持ちきりだったはずの男子たちがこちらをチラチラ見ながらニヤついている。どうせまた「宮城のヤツ、懲りねぇな」なんていけ好かない噂話を交わしているはずだ。
微かに聞こえてくる声にその疑念が間違いでは無いことを知り思わず顔を顰めてしまう。私の態度に首を捻るリョータを見るとますます苛立ちが膨れ上がりそうになったが、リョータに付き添ってやってきたヤッちゃんのオロオロした顔が目に入ると少しだけ毒気が抜かれた。
「もなんだか痛そうだね」
「目に砂が入っちゃったみたいで……」
「えぇ!? 大丈夫なの?」
目の下を引っ張ったはヤッちゃんに砂があるかどうか見せているのだろう。ふたりの様子を眺めていると、突然リョータが「あ、そうだ。待ってて」とだけ残して踵を返し、すぐさま電光石火の勢いで戻ってくる。
「アヤちゃん。よかったらコレ、使って」
「え……」
リョータから差し出されたのはハンカチだった。それもたった今、水で濡らして来たらしいそれは固く絞られているので水が滴り落ちることはなかったが、今日一日、ハンカチとしての役目を果たせそうにもなかった。
「ありがとう……。でも、リョータが困るんじゃない?」
「エヘヘ、オレはいいんだ。アヤちゃんが笑ってくれたらそれで」
私の腕にギリギリで触れないように左手を添えたリョータが、ひんやりとしたハンカチを痣の出来た私の手首に微かに当てる。リョータの視線がちらりと向けられる。持って、とは口に出されないものの行動を促されたのだと察しがつき、ハンカチを手で押さえてみればリョータは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、リョータ。今度洗って返すね」
「えっ!? あ、いいよ。それ、貰って」
「そういうわけにはいかないでしょ! 明日、ちゃんと持ってくるから」
「……ウ、ウン」
恐縮したように胸の前で手のひらを振ったリョータに詰め寄ると、目を白黒させながら俯かれてしまう。困惑よりも照れくささの滲む態度を目の当たりにすると同時に軽く視線を外す。
「あー……。それじゃ、そろそろオレらも行くね。アヤちゃん、また教室で」
はにかむように笑ったリョータは私から視線を外すと「ちゃんは部活でね」と手を振った。「行こうぜ、ヤス」と言い残して、囃す男子たちと連れだって教室へと戻っていくリョータの背中を複雑な気持ちで見守る。
残されたハンカチに添えた手のひらに自然と力が入る。こんな風に甲斐甲斐しい優しさを与えられることに胡座を掻くような真似はしたくない。そう思っているのに、リョータは簡単に踏み込んできては簡単に去って行く。
いつも一緒にいるからこそ、傍目で一連のリョータの行動を目にする機会の多いは「リョータ君の求愛行動はまっすぐだねぇ」なんてからかってくるけれど、恋によるアプローチと呼ぶにはあまりにも度が過ぎている。
リョータは自分の中で勝手に私のことを神聖視し、愛を語るどころか私に触れることすら躊躇う。彼の中で完結してしまっている愛情に為す術も無い現状に思わず溜息がこぼれた。
「ホンット……愛されてるねぇ」
またしてもリョータの行動すべてを見るハメになったはニヤニヤと口元を緩めてこちらに視線を送ってくる。いつもなら流せる言葉なのにどうしてか今だけはやけにイヤミったらしく聞こえた。ささくれ立つ気持ちと共に半眼で睨み付けてやったがはますます笑顔を深くさせる。
「何が言いたいのよ」
「別にぃ。リョータ君、一途だなって思って」
語尾にハートマークをつけてそうなほどとろけた声で言うに思わずきゅっと眉根を顰める。
「どこがよ、他の女に告白する男なんて一途でもなんでもないわ」
思わず口を衝いて出た本音にきゅっと唇を結ぶ。いつも「リョータなんて関係ない」なんて突っぱねているくせに、誰よりも動向を気にかけているとに知られてしまったことに気がついたが、一度吐き出してしまった言葉を引っ込めることなど出来るはずも無かった。
だいたいの発言がおかしいのよ。他でもないだって1年の一学期頃、リョータに告白されていたはずだ。一途とはほど遠い姿を目の当たりにした張本人が誉めそやすなんて冗談にもならない。
私の隠していた本音を受け止めたは、これ以上無いほど鮮やかに笑い、私の耳に口元を寄せる。
「でもね、彩子。リョータ君が本当に彼女を作っちゃったらさ。ちゃんと奪いに行くくらいの愛情、示してあげてよね?」
私の耳元で囁いたは、顔を離しながらニヤリと笑う。私とはもちろん、リョータとも仲良くしているはずのに起こってもいない略奪愛の奨めを説かれ、私はまた溜息を吐きこぼした。
――きっと、リョータに対する態度が足りていないのは私の方なんでしょうね。
はそれを十分知っているからこそ、取られたら奪えなどと物騒な言葉を口にするのだろう。
季節は夏を過ぎ秋を迎えようとしている。今までなら湘北なんて無名校で、よその学校の女子になんて相手にされていなかったはずだ。だが、インターハイでいい結果を残した今、格段にバスケ部に対する注目度は上がっている。
増幅したファンの中にはリョータのファンもいるかもしれない。そして、もしもリョータがその子と付き合ってしまったら――?
その時、私はどうするんだろうか。に唆されるまま略奪を企てるのか。いつものように気のない振りをして祝福するのか。それともただ、諦めるのか。
先のことを少しだけ考えると、足下が竦むような気分になった。