仙道 彰01:人生が足りません

人生が足りません


 ――そういえば、今日の夕飯ってなんなんだろうな。そろそろ寒くなってきたし、お鍋とか食べたいなあ。

 放課後、誰もいない教室で仙道くんふたりきり。特別な理由なんてない。ただ単に、今日、私は日直の業務を勤め上げて、そのそのペアとなった相方が仙道くんだった、というだけのことだ。
 だが、理由があるとはいえ、慣れないシチュエーションにドキドキしないわけがない。取り留めもないことを頭に思い浮かべているのは、妙な考えを頭から追い出し、平静を保つためだった。
 正面に座る仙道くんが、きれいとは言えないけれど味のある文字で日誌をすらすらと書いていく。そのほとんどは授業中の合間に書いたものだったが、一日の総括の部分は仙道くんが放課後に一緒に書こう、だなんて朝一番に誘ってくれたのだ。言葉のとおり、放課後、クラスメイトが蜘蛛の子を散らすよう立ち去ったあとに、仙道くんは私の席に来てくれた。
 仙道くんがひとり座るだけで、いつもの黒板の距離感や風景が劇的に変わったように感じられる。華がある人、というのはこうも周囲に彩を与えるのかと、再認識させられるようだった。長いまつげが、日誌を見るために落とされた双眸を隠し、さらに色濃い影を目の下に縁取る。それを目にするだけで、私の心臓は簡単に跳ねた。
 ――ダメだ、また見つめているだけなのに、ドキドキしてしまった。またなにか、別のことを考えなければ。
 熱くなりそうな頬を手のひらで隠すため、机に肘をついた。体制を変えた私が気になったのか、ほんの一瞬だけ仙道くんの手が止まった。だがそれも次の瞬間にはまたさらりと流れるように文字を書き連ねていく。何も咎められなかったことに安堵し、小さく溜息を吐いた。
 極力、妙な意識しないようにしながら、じっと仙道くんが書く文字を追いかける。その横に添えらえれた左手から腕時計が覗き、この状況になり、既に10分が経過しようとしていることに気づいた。それは、彼の部活が始まって同じ時刻が経とうとしていることと同意義だった。
 だが、部活は大丈夫なのかという私からの問いかけは、普段のゆるっとした態度で「いーからいーから」という、これまたゆるっとした言葉によって既に却下されていた。練習をたまにサボってる、だなんて隣のクラスの越野くんが愚痴ってたっけ。そのすべてが公的な理由ではないのだろうけれど、意外と仙道くんのこういう真面目なとこがサボりにつながった場合もあるんじゃないだろうか。
 惚れた贔屓目で、フォローするようなことを頭に思い描いていると、私の視線にとうとう気づいてしまったらしい仙道くんがチラリと視線を持ち上げた。目があった一瞬、やわらかくなった目元に、心が掴まれそうな感覚を味わった。きゅっと真一文字に口元を引き締め、感情の揺れを耐えていると、仙道くんは小さく笑って、また日誌に視線を戻した。
「どうした、? 切羽詰まった顔して」
 目と同様にやわらかな声が問いかけてくる。その心地よさに、またしても胸の奥が鈍く痛んだ。目や声もそうだが、余裕のある態度だとか、彼の纏うやわらかな空気だとか、仙道彰をかたちどるすべてのものが、私の感情を揺さぶってくる。心奪われる、というのはこういうことなのだと、まざまざと思い知らされるかのようだ。
 ――敵わないなぁ。
 恋愛は惚れたら負け、とはよく言うが、惚れていなくても仙道くんに勝てる要素が見つからない。もしこれから先、この交流が続いたとしても、この人に勝てることなんてないんだろうな。そんな諦めにも似た感情が、不意に胸の内に浮かび上がってきた。
「うん。仙道くんってかっこいいなあって……見てた」
 ポツリと言葉をこぼす。聞き取れないほどの小ささではなかったはずだが、宣言というには物足りないほどの声だった。私の言葉に、仙道くんの指先が止まる。ゆったりとした動作で顔を上げた仙道くんは、驚いたように目を丸くしていたが、慣れているんだろう、それほど動揺しているようには見えなかった。自分から仕掛けたからこそ、逃げも隠れもできない。ならば、と開き直って私もまた仙道くんの瞳を見つめ返した。
 いつからこんなに、仙道くんのことを好きになってしまったのか。そもそも最初は、ただ単にバスケが上手くて女子のファンが多い人、という認識しかなかったというのに。友達に連れられていった練習試合、あれがすべてのターニングポイントだった。あの日から、鮮烈に、仙道くんのことだけを意識し続けている。
 バスケができる男の子ってかっこいい、だなんて小学生並みの恋の発端だ。だけど、それも1年も続けば、意外と馬鹿にできるものではない。今では、仙道くんの瞳を見つめるだけで自然と頬に熱が走る程になってしまっていた。だが、顔を赤く染め上げてもなお、仙道くんから視線を外すことはできなかった。
 唇を引き締めたまま、じっと仙道くんのことを見つめていると、突然、彼の指先がペンを落としたのが視界の端に入った。それに気取られたのも束の間で、翻った仙道くんの大きな手が、私の視界を遮るかのように目元を覆い隠した。
 べったりと手をくっつけられたわけではない。触れるか触れないか、ぎりぎりの距離だ。それでも、仙道くんの手のひらから伝わる体温が、熱い。
「ちょっと、ジロジロ見んの勘弁してくれ」
「ご、ごめんね? 仙道くん、私――」
 不躾な態度を咎められたのだと、自分を恥じた。だが反省の言葉を言い切るよりも先に仙道くんの言葉が覆いかぶさってくる。
「あ、いや、怒ったとかそういうのじゃないから」
 かざしていた手を引っ込め、自分の口元を覆うようにした仙道くんの視線は、私には向けられていない。斜め上の方へと向かっている。それに気付いた瞬間、あまりにも見つめすぎたことを後悔してしまう。妙なことを言う前は、かち合っていた視線が、すでに懐かしいもののように思える。
 バカなことを言わなければ良かった。仙道くんを困らせるだけなのに、なんてことを言ってしまったんだろう。
 熱により浮かされていたはずの頬が、赤みを失い、青白く変貌するのを肌で感知していた。目に見えて落ち込んだ様子を見せる私に、仙道くんが気付いたのか、慌てて言葉を取り繕う。
「ごめん。今のは言い方を間違った。のことを突き放すようなつもりはなくて、その、なんていうか」
 普段の仙道くんらしからぬ歯切れの悪さに、内心で首を捻る。うろたえるような人ではない、と客観的に見て感じていたから違和感しかなかった。見ないで、と言われたばかりなのに、様子のおかしい仙道くんに、どうしても視線を向けてしまう。眉根を寄せ、困惑にまみれた表情の仙道くんの視線が私へと戻され、また日誌へと落とされる。
 シャーペンを拾い上げながらも、文字を書く事はせず、それを握り込めたまま額に拳を押し付けた仙道くんは、目を伏せて思案するように低く唸った。
「……ごめんね?」
「違うんだ」
 仙道くんの様子を伺いながらも再度、謝罪の言葉を投げかけると、今度ははっきりとした声で否定された。その声音には先程まではあったやわらかさが失われていた。ドキ、とまたひとつ、心臓が高鳴る。
「あんまりに見つめられると……どんな顔したらいいかわかんなくなる」
 低い声で言い放った仙道くんが、ゆったりとした動作で顔を上げる。夕日のせいではなく、耳まで赤く染めあげた仙道くんに、今度は私がどんな顔をしたらいいかわからなくなってしまった。



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