安田 靖春01:泣きたくなったら僕を呼んでね

泣きたくなったら僕を呼んでね


 教師も、不良も、桜木軍団も去った後、体育館には静寂が戻る。先程までの喧騒が嘘みたいだ。
 目の前にある惨状を見れば、もちろん夢ではないことなどすぐに解るし、何よりも殴られた右頬の痛みが如実に現実であることを主張していた。
 手の甲で頬を拭うと、乾燥した血が付着する。じくじくとした痛みに眉根を寄せながら〝1週間くらいは痛いんだろうな〟だなんて暢気なことを考えた。
 赤木さんが掃除の指示を出したが、すぐさま木暮さんに治療が先だと制されている。いつもの風景が戻ったことに安堵の溜息を吐いたのはオレだけではないだろう。
 ――もしも、桜木の友達が機転を利かせてくれなかったらどうなっていたか。
 最悪の状況が脳裏を過ぎり、想像の中だけだというのに恐怖に足が竦みそうになる。それを思えば、頬の痛みの一つや二つだなんて小さなことだと思う。
「ヤッちゃんも! ぼうっとしてないで、顔洗ったらすぐにこっち来るのよっ!」
 元気な彩子の声が耳に入る。振り返れば、心配そうな顔をしたリョータをあしらいながら、彩子が治療箱を掲げていた。
 自分も殴られたというのに、彼女の強さには呆れるやら尊敬するやら。
 肩の力を抜いて、ひとつ息を吐き出すと、ふと自分の口元に笑みが浮かんでいることに気付く。

 大丈夫だ、オレたちの日常は守られたのだ。

* * *

 彩子に殴られた頬を治療してもらった後、ふと体育館の中に違和感を感じた。視線を巡らせる事でその違和感は更に強調される。何が欠けているのだろう。一瞬の逡巡の後、その答えが脳裏に浮かぶ。

 ――が、いない?
 
 改めて体育館の中を見渡すと、やはり、の姿が目に入ることはなく、先程の考えが正解であったことを知った。
 ――もしかしたら病院に行く流川に付き添ったのだろうか。
 流川のあの怪我ならそれが妥当に思える誰かついていないと途中で倒れてしまったら、そのままどこかで気を失って気付かれないなんて事が起こたっておかしくない。
 小さく溜息を吐き、そのままなんとなく口の端を拭うと、まだ血が出ていることに気付く。どうやら口内が切れているようだ。
 それに気付くと同時に口内に血の味が広がっている不快感に顔を顰めたが、まさか体育館の床に吐き捨てることなんてとてもじゃないが出来ない。
 ――もう一度うがいして来よう。
 そう思い、一言赤木さんに断ってから体育館脇の水道のところへと足を伸ばした。軽く蛇口を捻っただけだというのに、勢いよく飛沫を飛ばしながら水が出てくる。
 顔を近付けたが、大きく口を開くと、貼ってもらったばかりのガーゼを止めるテープにその動きを阻まれた。普段顔に治療してもらうことなんて無いから気付かなかったけれど、結構違和感があるものなんだな。
 そう思いながら、蛇口を少しだけ戻し水の勢いを小さいものにさせると、手で水を掬い、口を濯いだ。ぺっと吐き出すと、血が混じっているのか、少し濁った色の水が排水溝の中に吸い込まれていくのが見える。
 それを何度か繰り返し、吐く水の色が薄くなった頃合を見はからって、蛇口を捻り、また体育館の方へと足を進めた。
 体育館の入り口に差し掛かった際、ふと、人の気配を感じ、入り口を通り過ぎて、奥の階段の方へと向かった。そこには背を向けて、小さく体育座りをした膝に顔を埋めるの姿があった。
「……?」
「ヤス、くん?」
 オレの呼びかけに振り返らずに言葉を零すに内心で首を捻る。普段から、は誰かと話す際に視線を逸らすような子ではないことから、彼女が何か面を上げることが出来ない理由があるのではないかと勘繰ってしまう。
「どうかしたの?」
「ん、なんでもないよ。だいじょぶ」
 少し引っかかるような声で答えながら、鼻を啜る音がする。それと同時に手の甲で何度も顔を拭う姿に、の変化に気付いてしまう。
 ――あぁ、は泣いていたのか。
 にわかに焦ったけれど、だからと言ってこの場から離れることなんて出来なかった。逃げ出すのがカッコ悪いとかではなく、ただ純粋にが心配だったからだ。
 もちろん、が1人でいたいと言うのならばそれに従うけれど、もしも誰かがそばにいて欲しいと願うのであれば、その役目はオレが背負いたい。
 程なくして振り返ったは、立ち上がることが出来ないのか、膝を崩してオレの方へと向き直るだけであったので、オレは彼女と視線を合わせるために彼女の傍らに膝をついて、の目を覗き込んだ。案の定、涙こそ流れてはいないものの、擦ったような赤みが目にはあり、瞼は既に腫れぼったい様相をしていた。
 オレの目を見たは、すぐに視線をオレの右頬へと移し、それを目にした瞬間下唇に噛み付く。の苦しそうな顔に驚いて思わず、反射的にの腕に手を添えてしまう。
 それでの心が軽くなるかなんて解らなかったけれど、それをしないではいられなかった。
「ほっぺた」
「ん?」
「痛いよね……」
 弱々しい言葉は、掠れているためかやけに不鮮明で、聞き逃しそうになる。よっぽど怖かったのだろうか。自分が殴られた瞬間や、リョータたちが傷つけられていく様を思い出し、恐怖に背筋が凍った。
 どうして、こう、恐怖というのは後から思い返したほうがより鮮明に感じるのだろうか。あの時は、ただひたすらに赤木さんや木暮さんのためにもバスケ部を守らなきゃって思ったのだけど、足が竦むほどの恐怖であったことは忘れられないだろう。
 男のオレだってこうなのだ。女の子で、しかも間近で見ていたはどれだけ怖かったことだろう。
「大丈夫だよ、もう痛くないから」
 の腕に添えたままだった手を離し、ガーゼの上から傷跡に触れる。本当はまだ鈍い痛みはあったけれど、こんなもの治らない傷じゃない。
 傷、というキーワードを元に、チラリと脳裏に過ぎったのは、安西先生の前で「バスケがしたい」と泣き崩れた三井さんの姿だった。
 自分がもし、バスケが出来なくなったとしたら、どうなってしまうだろう。しょうがないな、って受け入れて、すぐに切り替えることなど出来るのだろうか。
 安穏と生きていれば忘れられるほどの想いではないはずだ、オレにとっても、そして三井さんにとっても。
 三井さんは諦め切れなかったから、もがいて、苦しんで、出来ないのならば、と最悪の結末を結ぼうとしたのだろうか。いっそのこと、何もかも潰してしまおうなんて考えに至るまでの、彼の苦しみなんて他の人には解るはずも無いだろう。
 だけど、そこに至ってしまうかもしれない危険性なんて、誰が陥ってもおかしくないとも思う。
「それに……オレ、三井さんがあんなに荒れる理由もわからなくもないし」
 三井さん、と言葉にした途端、の肩が大きく震えた。それと同時に、の頬に一筋の涙が落ち、濡れた頬が乾く間もなく、新しい涙で濡れそぼっていく。
 睫の先に付着した水分が酷く彼女を儚く見せた。普段のの強気の態度や溌剌さが微塵も感じさられない。
「なんで、そ、んなに優しいこと言えんの……」
 嗚咽と共に言葉を零し、それと同時に更に涙を流すに、何をしてあげられるのか解らなくなる。恐怖心で泣いているのかと思ったがどうやら違ったらしい。
 狼狽するオレの頭では他の理由なんてすぐさま思い浮かぶはずがなかった。それよりもどうにかしての気持ちを落ち着かせなければ、と焦ってしまうばかりだった。
「え、だって……その、そりゃ、バスケ出来なくなったら八つ当たりとかしちゃう気もわかるかなって」
「――え、」
「それに、オレ普段から赤木さんに殴られてるし、最近では桜木にもシメられるし……殴られるのなんて慣れちゃってるのかも」
 言っててなんだか空しい気持ちが沸き起こり、苦笑いしながら答えると、はオレに釣られたのか少しだけ笑った。
 柔らかな笑みに、少しだけいつものの姿が垣間見えた。それと同時に、心に余裕が生まれたオレは、先程の彼女の小さな変化を思い出し、はたと気付いた。

 ――あぁ、そうか、解った。

 が涙を流した理由。それは恐怖からなんて甘い理由ではないのだ。
 三井さんのことを話した瞬間、は涙を流した。
 オレが殴られたことを気にするのも、勿論オレを心配してのこともあるのだろうけれど、それ以上に、申し訳なさが先にたったからあんなにも苦しそうな顔をしたのだろう。
は……ずっとあの人を待ってたんだね」
 オレの言葉に、瞬時に頬を赤く染め上げたは、あまりの衝撃に涙が引っ込んだようだった普段決して見られなかった表情に、彼女の想いの深さを知る。
 一年の頃、の口から聞いた事がある。〝バスケをしていた幼馴染が大好きだ〟と。
 きっとそれが三井さんのことだったのだろう。
「あ、大丈夫。誰にも言わないし……多分、リョータとか彩子とか……気付いてないと思うし」
 言外にオレだから解ったのだと含ませた言い方になってしまったが、それも仕方のないことだった。
 オレが普段から一方的にの一番の理解者でいたいと思っていたことを、もちろんは知らない。とは一年の頃からクラスも一緒だし、部活も一緒だし、今年は更に隣の席だし、仲が良くなって当然だった。
 はいつもオレに笑いかけてくれたし、オレもまたと話をするのが大好きだった。
 だけど、の見せる気丈さの中には、いつも壁のようなものをはらんでいて、まるで自分自身に大丈夫なのだと言い聞かせてる様子を見せていた。そんなが心配で、いつかそれを理解できるようになれたなら、だなんて思い始めたのは最近のことではない。
 だけどそれは、別に彩子を好きだというリョータに合わせたとかそういうのではない。共に全国を目指す仲間として、純粋にが好きだったから、オレはの力になりたかったんだ。
 今、この瞬間にそれが叶ったのではないだろうか。
 返事は返ってこなかったけれど、の頬に走る熱が答えであることは明白だった。
「よかったね、
 言いながら、の顔を覗き込み、ふわりと笑いかけると、の目にまた涙がせり上がるのが見てとれた。
「ヤス君……ありがとー」
 の手がオレの右肩に伸び、その手が触れるまでの距離を眺めていると、反対側の肩口に暖かさが触れる。視線を転じるとの額がオレの左に触れており、急な彼女の行動に心拍数が上がるのを感じた。
 ――だって、こんな近くに女の子を感じたことなんてない。
 驚愕に持ち上げてしまった手をどこに置いたらいいのだろう。男ならまだしも、女の子を抱きすくめるだなんて真似は絶対に出来ない。いや、部活で健闘を称え合うくらいならしたことないわけでもないだけで、男を抱きしめる趣味はないのだが。
 そんなことよりも、今はだ。にどうしたら良いのかわからない。
 散々悩んだ結果、オレは泣きじゃくる彼女の背中を優しく叩くことを選んだ。オレの左手のひらがに触れた途端、嗚咽が大きくなったことには焦ったけれど、泣くことでの辛さが流れ落ちているようにも思え、黙ったままの背中を、まるで子供にするようにぽんぽんと一定のリズムで叩き続けた。
 そうしながら、気丈なが素直に泣けるのはオレの前だからであれば、なんて図々しいことを考えてしまう。
「ヤス君……」
 言葉を零し始めたに、叩いたままだった手を止めると、少しだけ身体を離したは、顔を上げてオレに視線を向ける。
 その目はいつもの強さは無かったけれど、潤みと暖かな輝きに優しさを携えていた。
「……いつも、ね」
「ん?」
「ヤス君、が優しいの。一番、心配してくれて、すごく嬉しいの。でも私、甘えてばっか。で、ホントごめん」
 手の腹で涙を拭いながら訥々と零された言葉に、途端に息が苦しくなる。勝手に心配ばかりしていたことをが知っていてくれたこと、オレの想いが一方的なものではなく、がきちんと受け止めていてくれたこと。
 謝られたことは誤解でしかないけれど、の負担になっていなかったことがとても嬉しかった。
「いいんだよ。オレは、それが嬉しくてここにいるから」
 正直に言葉を告げると同時に、は更に声を上げて泣き始めた。なんで?と、焦ってしまったけれど、それでもがオレの前では強がらないでいてくれる結果がこの涙なのだと思うことは喜びであった。
 泣き止んだ時はいつもの元気なに戻っているといい。それまでは、の涙を受け止めているから、思う存分泣いて良いからね。
 の背中に触れていた手を少しだけ持ち上げ、後頭部を撫で付ける。柔らかな髪に指を通し、少しだけなら良いかな、そう思って頭を左へと傾けた。  



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