番外編01

ベルガモットのように淡く


「藤真、藤真」
 授業が終わり、板書したノートと教科書を合わせて机の中に放り込んでいると、不意に背後から声がかかった。
 次の時間の教科書を机に出している間、振り向かずにいると、急かすように「藤真ぁ」と、肩辺りの衣服を引かれる。その声の方向へと首を捻ると、少し頬を赤く染めたが立っているのが目に入る。
「なんだよ、
 切羽詰ったような声とは裏腹に、はにかんだような表情を浮かべたは普段は微塵も見せない緊張感さえも纏っているようだった。の照れたような表情、そのあまりのギャップに気持ち悪さと、むず痒さを感じ、自然と困惑の表情を浮かべてしまう。
「あ、あのさ。バスケ部の人が藤真のこと呼んでる」
 オレの戸惑いに気付いてないらしいは、胸の前で人差し指を廊下側へと差し向ける。おそらくその廊下で待っているらしい相手を指差しているつもりなのだろう。
「誰?」
「いや、名前解んないけど、その、バスケ部の人だから!」
 振り向かずに尋ねると、は首を横に激しく振り、知らないのだと全力で応える。それどころかすぐに行ってくれと言わんばかりにオレの腕を引いて立ち上がらせようとするは、やたらと焦っているように見える。
 変なやつだな、と思いながらも立ち上がると、更に背中を軽く押された。促されるままに廊下へと足を進めると、廊下のドアに背中を預けた一志の姿が目に入る。オレと目が合うと、一志は少し安心したように笑った。
「なんだ、一志か」
 が名前解らないだなんて言うから、よっぽど珍しい奴が来たのかと思った。確か一志とって面識があるはずなのだけど、名前は名乗りあったりしていなかったのだろうか。
 でもアイツ名前覚えるの苦手っぽそうだからな。入学してすぐの頃はオレも藤井だとか藤田だとか言われたし。
「よぉ。悪ぃ、英語の辞書貸してくれ」
「いいけど。何で教室入って来ねぇんだよ」
「いや、藤真が埋もれて見えなかったし、まだ他のクラスに勝手に入るのは抵抗があるな」
「なんだよ、それ。こないだは入ってきてただろ」
「そうだったか?」
 あまり表情を変化させない一志の態度に、とぼけているのか、本当に忘れてしまっているのかの区別がつけられそうにない。小さく肩で息を吐き、英語の辞書の行方を逡巡する。
 今日は既に英語の授業は終わっていて、帰る前に全部片付ければいいかと引き出しに放り込んだままのはずだ。
 自分の席に取りに戻ろうと教室内に視線を向けると、自分の席に座ったがこちらを見ているのが目に入る。だが、オレと視線が重なりかけた瞬間、は慌てた様子で机に突っ伏した。
 ――いや、その行動おかしいだろ。
 さも寝ています、というのを装いたいのだろうけれど、こちらを気にしていたことは隠しようがない。
 ――なんなんだ、アイツ?
 もしかしてオレが呼ばれたのを無視するとでも思っていたのだろうか。軽く唇を尖らせて不快感を示すと、困ったような表情を取った一志から声が掛かる。
「藤真?」
「あぁ、悪ぃ。英語だっけ?ちょっと待ってろ」
 予想通りというか、オレの後を追って教室に入る素振り一つ見せない一志を置いて教室に戻り、自分の席の引き出しを漁り、英和辞書を手に取ると、まだ頑なに寝た振りを続けるの姿が目に入った。
 ――お前がそのつもりなら、こっちだって考えはある。
 迂回することにはなるが、彼女の席へと足を向け、辞書の角で、軽くのつむじを小突いた。
「痛っ」
「覗いてんなよ、タコ」
 面を上げて後頭部を掌で覆ったが不満気な目でオレを睨み付けるのが横目に入ったが、その一言言い残し、一志の方へと足を向ける。
「覗いてないよっ」
 背中に投げ掛けられた声を、手の甲を振るうことで撥ね付ける。悔しそうなの声と、廊下で待つ一志の顔を見て、あの二人の姿を同時に見た日のことが、不意に思い出された。

 ――あぁ、そう言えば。

 この前、一志が教室に入ってきたのって、の手伝いしたときじゃん。振り返ってへと視線をやると、改めて机に突っ伏したの姿が目に入る。その姿はこちらを気にしていないというよりも、意識して見ないようにしているようにも思えた。
 あの時の一志は、今日みたいに態々教室の外に呼び出さなかった。珍しいなと思ったから、よく覚えている。たしか、あれは一週間くらい前のことだった。


* * *


 教壇に立ったは、黒板の上の方を眺めている。軽く首を傾げているのは、無意識に困っているのだということを身体で示しているのだろう。その視線の先には2、3行分の文字列が残されており、おそらくの背では届かなかったであろうことが予測された。
 途方に暮れ、肩を落とすくらいならさっさと誰かに頼めばいいのに。あのままだと教壇で飛び跳ねかねないを難儀に思い、大仰に溜息を吐き出した。
 オレが手伝ってやってもいいんだけど、その前に誰がもう一人の日直か確認しておくか。そう思い、視線を黒板の右端に向けると、と高野の名前が書いてあるのが目に入る。
 すぐ横に座る高野が日直ならば、オレが態々手伝いに行くのもおかしな話だ。大声で笑う高野は、朝方「今日日直だよー」と煩わしげに騒いでいたのだから、忘れているだけなのだろう。
 別に意識してサボってるわけではないのだから、だってさっさと高野に言えばいいのに。面倒くさがりと言うか、責任感があると言うか。その偏った生真面目さが、らしかった。
 一人で悶々と黒板の前に佇むは、他の奴に頼む様子を見せず、ギリギリまで背伸びして黒板を拭き始める。仕方が無い。ちょっと援護してやるか。
「おい、高野」
「なんだよ、藤真」
 談笑を続ける高野のこめかみを軽く小突き、呼びかけると、表情を崩したまま高野は振り返る。顎で黒板をしゃくって見せ、お前の相方が苦労しているぞ、と指し示してやる。
「お前、今日日直じゃね?」
「え、うわ、ヤベ。オレ、さっきもやってねーよ」
 慌てて席を立ち上がり、教室の前方へと視線を向けた高野だったが、そのまま席を離れることなく、何事も無かったかのように腰を下ろす。手伝いに行くのだろうと思ったのに、どうしたんだろうか。
 チラリと高野へと視線を向けると、高野は安心しきった表情でいたので、益々いぶかしんでしまう。
「あ、でも一志がやってくれてるし、よくね?」
「はぁ? 一志が?」
 いるわけねーだろ、アイツ他のクラスに入るのはよくないだとか固いこといつも言ってんだぞ。
 いるわけが無い、と思いながらも教室前方へと視線を向けると、本当に一志がいて、更には黒板を拭いている姿が目に入る。他所のクラスに入ることには抵抗を見せる男が、何故日直の仕事を手伝うような真似をしているのか。
 目を丸くしているのはその姿を見たオレだけじゃない。一志の側に立つもまた、オレと同じように驚いている。
 じっと黙って一志の姿を見上げるの困惑と驚愕が入り混じった表情は当然のものだ。だが、普段結構大雑把な様子を見せるが、一志に話しかけるのを躊躇っている様子に、小さな違和感を感じる。
 ただ単に、あまり馴染みがない相手だから、というわけではなさそうに見える。何よりも、せつなげに眉根を寄せるの横顔が如実にそれを物語っていた。
 はしゃぐ高野の話を聞き流す中で、一志との様子を眺めていると、一言二言の会話を残して、一志がこちらへとやってきた。
「オッス、一志」
 出迎えるように軽く片手を挙げると、一志もまた同じようにオレらへと手を翳した。
「珍しいな、お前がうちのクラスに入ってくるの」
 机に片肘をつきながら、一志の顔を見上げると、一志は少し困ったように眉を下げる。
「あぁ。藤真、1限目に貸した英語の辞書返してもらっていいか?」
「なんだよ、5時間目だっつってなかった」
「……1ページ和訳飛ばしてるのがあったんだよ。当たると、マズイ」
 今はまだ2時間目が終わったばかりなのだが、こんなに慌てて取りに来なくても昼休みでも間に合うんじゃないだろうか。まぁ、でも昼は外でサッカーなりバスケなりするだろうし、早めに手元にあった方が落ち着くか。
「ふーん? まぁ、ありがとな」
 若干煮え切らないものを感じつつも、借りた立場のオレが抗うのもおかしな話だ。素直に机の中から辞書を出し、一志へと差し向けると、一志は「サンキュ」と頭を揺らした。
「一志、黒板ありがとなー。消してくれて」
 ハイタッチをするかのように手を差し出してきた高野に、一志は心底不思議そうに首を捻った。
「え?」
「えっ、て…オレのためだろ?」
 口元を緩めたまま眉を下げた一志の表情は困惑しか映しておらず、どうやら高野が日直であることを知らないようであった。ならば、何故一志が態々他所のクラスの黒板を消すような真似をするのか。
――のためか?
 ひとつ、脳裏に生まれた軽い冷やかしの言葉を投げかけようと思い、止めた。一志はこういう類の冷やかしを嫌いそうだと気遣ったのももちろんある。
 ただ、普段のすっとぼけた表情とはまったく種類の違う表情で教壇の前に立ち尽くしていたの姿が妙に気になった。あちらを突付いた方がいい反応が返ってきそうだ、と瞬時に計算する。
「お前、じゃあ何も知らないのに手伝ってたのか?お人よしだなー」
 笑う高野の言葉が耳に入る。なるほど。確かにその程度のものだと流そうと思えば流せるほどの違和感だ。
 だけど、オレの直感がそれだけではないのでは、と訴えかけてくる。単なる好奇心でしかないけれど、面白そうなことがそばにある。そう、思ったんだ。


* * *


 あの日とは逆に、今日はオレが一志に英語の辞書を貸すことになった。うっかり忘れていたけれど、また近いうちにでもをからかってやるのもいいかもしれない。
 さっきアイツは一志の名前知らない、だなんて言ってたから、単なるオレの思い過ごしであるかもしれないけれど、のことだ、きっといい反応を返してくれることだろう。
「持ってきたぞ」
「あぁ。ありがとう」
「エッチな単語に色つけんなよ」
「……つけるかよ」
 ずしりと手に馴染みきった英和辞書を一志に渡す際に軽口を叩いてやると、一志は何も悪いことをしていないのにバツの悪い表情を取る。初心というか、純情というか。大人しすぎるきらいのある一志に、少しだけ呆れてしまう。
「今日英語無いから返すのいつでもいいぞ」
「あぁ、助かる」
 頭を揺らした一志は、一度教室の中へと視線を伸ばし、小さな溜息を一つ零す。細めた視線に憐憫を感じ取り、誰を探したのだろうかと、一志の視線を追ってみたものの、流石に何を見たのか解らなかった。
「ありがとな、藤真」
 オレへと視線を戻し、また軽く頭を揺らした一志は、どこからか戻ってきた高野へと手を振って応え、それから自分のクラスへと戻っていった。
 高野と並んで教室へと戻ると、がいないことに気付く。なんだよ、早速からかってやろうと思ったのに。
 ――アイツ、どこ行ったんだ?
 微かに視線を巡らせると、いつの間にか廊下に出ていたらしいと窓縁に並んで談笑しているのを見つける。談笑している様子だったが、話が途切れた瞬間、から不意に視線を外す。
 そのの視線は、教室でもなく、窓の外でもなく、廊下の奥に向けられていた。
       



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