番外編03

頬に咲く花


「よし、15分休憩だっ」
 キャプテンの声が体育館内に響き渡ると同時に肩に入っていた力を抜く。返事もそこそこに、100人近くいる部員たちは、各々の思うがままの方向に足を進めた。
 オレ自身もまた、体育館の隅に置いていたタオルを拾い上げ、封鎖されていたドアへ向かう。ボールが外へ転がっていってはいけないという理由でドアを閉めているのだが、格子がついた足元の窓や天井ほどの高さにつけられた窓だけでは涼を取るどころか換気すらも追いついておらず、今すぐにでも外に飛び出したいほどであった。
 両手でガッツリと扉を開くと雪崩れ込んできた新鮮な外の空気を吸い込み、肺を満たしたことで大きく息を吐いた。仄暗い体育館内と比べて、外の陽光は目に痛いほど眩しく、思わず目を細めてしまう。
 タオルに汗を吸い込ませながら、瞼の上に右手を翳し、正門から続く通路の奥へと目をやると、予定通り、野球部らしき連中がぞろぞろと列をなしてこちらへと走ってきているところだった。
 その一団の中に数秒と要せず、の姿を見つける。恐らく、既に何週も走っているのだろうの表情からは生気が失われており、疲労の色が濃く出ているようだった。縋るように首に掛けたタオルを握りしめていることからもそれは推測される。
 ストイックな表情はスポーツマンに相応しく引き締まっていて、一瞬、声を掛けるのが憚られるほどだったが、それでは今、表に出てきた意味がない。ちょうどがこちらへ気付いたように顔を上げたのを見つけ、思わずニヤリと口元を緩めた。
「あ、おーい、っ!」
 ひらひらと手を翳し呼びかけたものの、はひどく吃驚したような顔をして、そのまま顔を伏せてしまう。なんだ、アイツ。予め合図よこすぞって言ってたのに。
 唇を尖らせて不満を示したが、不意に一志をまだ呼んでないことを思い出し、体育館内を振り返ろうとしたが、いつの間やら一志は既にオレのすぐ後ろに立っていて、オレと同じようにタオルで汗を拭っていた。
 手間が省けたという思いと、出てきたなら声くらい掛けて来いよという思いが交差するが、普段から口数の少ない一志が黙っていることは別段珍しいことではない。ただ、いつもは外に出てこず、体育館に備え付けられている手洗い場の方へ行って顔を洗っていることが多いのに、今日に限ってはそれをしなかったことが気になった。
 昨夜雨が降ったこともあり、湿気と合わさって今日は特に体育館内にかなりの熱がこもっているから、少しでも外の空気が吸いたいということだろうか。
 横目で眺めていたがオレの視線に気付くわけでもなく、じっと走る集団を目で追い続ける一志に、疑問の言葉など向けられるはずもなかった。結論の出ない考慮を置き去り、気を取り直してをもう一度探した。
ーっ! おーい!」
 大きく手を振ってみたものの、はオレの呼びかけを徹底的に無視して走り続ける。を呼べば呼ぶほど他の奴らの視線もこちらに集まるが、もちろん名前を呼ばれ続けるにもソフト部の連中からの注目の的になっているようだ。
 隠れようとしたは、そいつらに冷やかされながら走る群集から弾かれる。輪の中から飛び出したは、それでも決してこちらを振り返ろうとしない。
 ――アイツ、約束破る気かよ。
 お前がその気ならこちらにだって考えはある。
、てめぇコッチ向けって!」
 約束を違えるつもりならば、容赦はしない。無理矢理にでも引きずり出してやってもいい。
 沸々と湧いてくる怒りを抑えながらのことを睨み据えていると、は弾かれたのをきっかけに一番最後尾につけてランニングを再開させた。それでもこちらを向かない辺り、徹底的にこちらを無視する魂胆らしい。
 ――あんにゃろ、まだ。
 もう一度、名前を呼んでやる。今度はとフルネームで、だ。そう考えて、喉を開いた瞬間、はこちらへと顔を向けた。
 よっしゃ、やっとこっち向きやがった、と思ったのも束の間で、彼女の視線はいつぞやと同じようにするりとオレを通り抜けた。オレから微かに視線をずらしたは、吃驚したように目を見開き、その感情を隠すためか口元をタオルで覆った。
 それでも感情があふれてくるのを隠すことは出来なかったようだ。疲労の蓄積した色の無い表情がみるみる色付いていく。
 夏の花火が弾けるように、の頬が、顔が、耳が赤く染まる。それは、恐らく、が一志への想いを自覚したからなのだろう。そっとの視線を辿れば、やはりそこには一志がいた。
 ――があんな顔を見せたのはお前が原因なんだぞ。
 口には出せない代わりに実直な視線を一志に向けたが、一志はこちらの視線に気付かない。だが、少し身じろぎしたかと思えば、に応えるかのように彼女へ手を翳した。
 一志がこういう反応を取るのがあまりにも意外で、目を丸くしてしまう。躊躇う素振りもなかったのは、よくに対して手を振ってるということなのだろうか。それとも女子が苦手でないとか?
 後者の可能性は、女バスのやつに話しかけられても「はい」か「いえ」かしか答えないコイツがそんなはずがないと一瞬で霧散する。と、なれば前者しかないのだが、は名前も知らないと言っていたのだから中学が一緒だったということはないはずだ。
 いつの間に仲良くなったんだとやはり気になってしまう。釈然としないままへと視線を向けると、くしゃみでもしたのか、大きく頭を揺らしたはそのまま一目散にスピードを上げて走り出した。
 そこまで派手な反応を取るのか、と思わず口を大きく開けて固まってしまう。砂煙を撒き散らしながらグラウンドへ走るを尻目に、チラリと一志の方へと視線を向けると一志はじっとの背中を見守っているようだった。
 のバカみたいな反応を見ても表情を崩さない一志は、少しでも彼女の想いに気付いたのだろうか。じっと一志の顔を眺めていたが、緩々と、の一志への感情をはっきりと実感していく。
 はじめはからかいの気持ちしかなかった。普段はソフト一筋で男子が相手でもあっけらかんとした態度で接するが、一志相手にだけ、恥じらう風だったのがあまりにも意外で、あまりにも面白かったからだ。

 ――が、一志のことを好きでいる。

 疑念が確信に代わった瞬間、自分の中に生まれたのは喜びだった。触れなくても頬が紅潮したのがわかる。一志はいいやつだ。付き合いが短いながらも解る。ただ、その良さは本当にコイツを見てないとわからないほど希薄なものだった。
 練習前に誰もいない時間に掃除やボール出しを終わらせていたり、床に落ちていたタオルをさり気なく畳んで椅子に掛けたりと、男の割に細やかな配慮ができるのに、誰も見ていないから誰がしたのかも気付かれてない。部活のことでもこうなのだから、恐らく日常的に一志のいいところは見落とされてるはずだ。
 だけど、入学してまだ1、2ヶ月しか経ってないというのに、真面目で勤勉で、黙々と練習に打ち込んでる割に決して目立つところのない――誰よりも努力しているくせに、大人し過ぎて自己主張が少なすぎる嫌いがある、認められることの少ない、この男を――が、恋心でもって、一志を認めたんだ。
 もしが選んだのが高野ならアイツ変な趣味だな、なんてサラリと流していただろうし、ミーハーなみたいなタイプがちょうどいいからって一志に目をつけていたとしたら別の男をあてがってでも阻止していたかもしれない。
 だけど、今のの反応を見る限り、アイツはかなり本気で一志のことを好きでいるはずだ。でなければ、あんなに目元を潤ませ、顔を真っ赤にさせて、それでも一志を見つめるなんて出来るはずがない。
 アイツは一志の名前を知らないなんて言っていたけれど、そんなことはたいしたことじゃない。好きな奴は?と聞かれた時に、一志の顔が過ぎったのなら、それが答えになる。
 女子が恋に自覚した瞬間ってものをまざまざと見せつけられたことに、少しだけこちらが恥ずかしくなるほどに、の気持ちはまっすぐだった。瞬く間に体育館の前を駆け抜けていったの姿が完全に見えなくなったのを確認し、小さく笑った。
「藤真?」
 笑い出したオレを不思議そうに見る一志がなんにも気付いてない雰囲気なのが更に面白さを誘った。
「おい、一志っ。今逃げてった女いたろ」
「え?」
「アレ、オレのクラスの女」
「あぁ……」
 あまり表情の変わらない一志はチラリと視線を斜め上に持ち上げた後、首を捻った。脈の一つでもあるのかないのか探ってやろうかとも思ったが如何せん一志の態度は解りづらい。ここまで清々しい態度を取られるところを見ると、何も気にしていないのだろうが、あれだけ意識していたとのギャップの大きさに、がかわいそうになってくる。
 名前すら知らないという間柄でいきなり両思いだっつぅのもまずありえないのだが、今しがたが誰を見てあんな顔をしたのか、ちょっとくらい察してやってくれてもいいんじゃないかと思ってしまう。
 もっとも、一志が「今の子はオレに気があるのか?」だなんて聞いてくる性格なら、バスケでも苦労はしないんだろうけれど。
「覚えてねーかなぁ。前アイツと一緒に野球やったことあったろ」
「ソフトだろ」
 短い言葉だったが、すかさず否定された言葉に、面食らって目を丸くする。以前に、廊下で一志に向かって球を投げさせたことがあったのだが、紙で作ったボールを投げただけのアレをソフトだと言いのける一志に、心底驚いてしまう。
 あの時確かには下手で投げてたが、1球しか投げてなかったはずだ。一志の視線はが走り去った方へ動く、もうその背中さえ見えないのに、どうしたのだろうか。
 もしかしてを気にしているのか?
 からかいにならない口調というのは難しい。額の汗を拭うためか、タオルを持ち上げた一志の顔は半分ほど隠されてしまい、そのままでは表情を読むのが益々困難に感じられた。
 じっと一志の横顔を見上げたままでいると、オレの視線に気付かない一志は薄く唇を開いた。
「……あの子、バスケ部に入るかと思ってた」
 ポツリと零された一志の言葉に、思わず耳を疑ってしまう。クラスで見る限りでははバスケに興味がありそうな感じではなかったし、何よりソフトにしか興味ありませんといった様子しか見せていなかったからだ。
「は? なんで?」
 あまりにも突拍子もない物言いに、思わず声がでかくなる。そこでようやくオレを振り返った一志は少しだけ眉を下げ、口元をまっすぐに引き締めた。
「……2回、見学来てた」
 低い声で言った一志の「見学」というキーワードに入学当初の記憶が呼び起こされる。
 つまらなさそうに体育館の入口から、とりあえず中は見てますよ、といった気怠げな視線を向けていた少女がいたが、アレはだったのか。忘れていた記憶を思い起こされたことに、妙に納得していると、近くにいた高野が笑いながら話しかけてきた。
「あぁ、それオレも見た。も来てたけど結局2人ともバスケ部入らなかったんだよな」
 高野が会話に割って入ってくると同時に、一志は半歩オレから身体を退けた。高野のためにスペースを空けたのだろうけれど、先程の関連の追求はもう受付ないと線を引かれたようにも思えた。
 まだまだ聞きたいことはある。なんでそんなこと覚えてんだとか、とどういう話してんだとか、さっきお前手を振ってたけど結構仲いいんじゃねぇのとか。用意しようと思えばどんどん出てくる疑問をもう口にだすわけにはいかないのが口惜しかった。空気読めよという言葉を口にしない代わりに、高野の尻を思いっきり蹴りあげると「ぎゃっ」と短い悲鳴が上がった。
「よく覚えてるんだな」
 痛い痛いと騒ぐ割には今の立場がオイシイといった顔をした高野を尻目に、最後の質問だとばかりに言葉を放った。事も無げにそれを受け止めた一志はチラリとこちらを振り返り、またタオルに顔を埋める。
「たまたまだろ……」
 汗を拭きながら涼しい声で応えた一志に、「そうかよ」とだけ返しておいた。の話題に対して何か目立った反応があればと面白くなるのに、と思ったがなかなか手厳しい。
 まぁが一志を好きだということが判明しただけでもよしとしてやるか。まずはに一志の名前教えてやんねーとな。アイツつついた方が断然面白そうだしな。
 そう言えばは一志の名前を知らないと言っていたけれど、一志は知っているんだろうか。少しだけ心配になって、援護射撃を打つような気持ちで一志に呼びかける。
「おい、一志」
 顔を洗いに行こうとしているのか、身体を反転させていた一志は、タオルから手を離しながらオレを振り返る。その細い目を真っ直ぐに射抜くように見つめ、一志の中にある感情を見逃さないように気を張る。
「アイツ、って言うんだぜ」
「ん」
 顎を微かに動かすだけの一志の反応に、その奥にある感情を読みとることはできなかった。
 大人しいというか反応が薄いというか。先輩たちなんかに長谷川は情熱がないだのと誤解される理由はこういうところにあった。
 踵を返し、体育館内に戻った一志は、手洗い場のある控室の方へと入っていく。ルーティンは違えたもののやはり汗は流しておきたいらしい。
 なぜ今日に限って先に外に出てきたのか。そこを突っ込んでおかないのはオレなりの優しさだ。今のままだとにかなり都合のいい解釈をしてしまいそうだったから、その保全とも言えるのだけど。
 ボチボチ汗も引いてきたことだし、体育館に戻ってやろうかな。タオルの端を両手で握ったまま、腕を掲げて背中を伸ばす。
 背筋に響く心地いい痛みに、少しだけ口元が歪んだが、またグラウンドの方へと視線を伸ばすとそれは笑いに変わる。
 ――それにしてもさっきのの顔。
 目が合っただけでアレなら、会話したらどうなんだよ、お前。明日、に一志の名前を教えたらどんな顔をするんだろうか。
 またさっきみたいに赤い顔をして怒るのか、それとも平静を装ってぎこちなくなるのか。想像するだけでも面白い。
 絶対に朝一番でからかってやろ。ニヤニヤと口元に笑みを浮かべながら明日の算段を整えている間、耳まで赤く燃やしたの顔が、脳裏から離れなかった。



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