夏が続くから
中学に入って2回目の夏休みに入って何日か経ったころ。突然、パーちんがウチに泊まると言い出した。保育園のころからの付き合いだ。パーちんがこんなことを言い出すのは初めてじゃない。そしてその〝泊まる〟というのが一泊ではないことも言われずともわかっていた。
だが、実際問題、性懲りも無く「親父とは絶交した」と憤るパーちんはいつまでウチに住みつくつもりなのか。夏休み中は学校に行かなくていいからこそ先が読めない。このままだと盆に里帰りするときも何食わぬ顔をして「林家の長男だ」なんて言いながらついてくるんじゃないかとすら思えた。
――ま、パーちんだからいいけどよ。実際、兄弟みてぇなもんだしな。
昼飯後におかしを食って腹が膨れたというのもあるんだろう。人の部屋で遠慮無く大の字で眠るパーちんを横目にひとつ、息を吐く。規則正しいいびきは、当然、こんなことで乱れたりはしなかった。
「……ったくよー」
――本当に困ったパーちんだぜ。
もうひとつ溜息を重ねて立ち上がるとそっと自室を出て台所へと足を伸ばした。
なにか冷えた飲み物でもないかと冷蔵庫を物色する。残念ながらコーラは入ってなかったが、代わりに3個パックのプリンが入っていた。どうやらさっき買い物から帰ってきた母ちゃんがスーパーで買ってきたらしい。パーちんが買ってきたおやつはもう食べきってしまったし、これでも食うかと冷蔵庫から取り出した。
引き出しからスプーンを1本、2本と取り出し、そのまま3本目に手を伸ばす。プリンの数は3つ。オレとパーちんでひとつずつ食えば1個余る計算だがこれを食わせる当てがオレにはあった。
自室へと戻る前に居間へ足を運ぶ。テレビを見る母親にプリンを外で食べるつもりかと驚かれたがそんなはずねぇだろと言い返してベランダへと出た。スリッパに爪先をねじ込みながら隣の家との境壁に向かって声を張り上げる。
「おーい! ! いるかぁ?」
声をかけたがすぐには反応が返ってこない。がいないにしてもおばちゃんはいそうなもんなのに。もう一度声をかけるか? そう考えてるうちに、カラカラと窓を開ける音が聞こえてきた。
か、んちのおばちゃんか。
二択ではあるものの、どっちにしろ声をかけた以上、顔を合わせる必要がある。ぐいっと手すりから身を乗り出して覗き込んでみれば、ほんの少し唇を尖らせたと視線がかちあう。
「どうしたの、良平?」
「ヨォ、。お前、今、暇か? 暇ならプリンあっから来いよ」
これが証拠だ、とばかりに3個パックのプリンを掲げる。ちゃんとお前のスプーンも用意してやってんだぜ。そんな思惑と共に見せつけると、は困惑したように眉根を寄せた。
「えぇ……」
「えぇってなんだよ。いいじゃねぇか。好きだろ、プリン?」
「好きだけど……」
それだけ? とでも言いたげなは眉尻を下げたまま目の縁を指の甲で抑えている。眠そうな様子を見せるにオレは軽く首を傾げた。
「なんだよ。昼寝でもしてたのかよ」
「ううん。本読んでた」
パーちんじゃあるまいし昼間っから寝やしないだろう。そう思いつつも、パッと頭に浮かんだ質問を投げかければ、意外な答えが返ってきた。保育園のころから室内で絵本読むよりも外で喧嘩するオレらについてくるようなやつだったのに一体どうしちまったんだろう。
ガキのころの記憶が浮かび上がったが、今はそんな思い出にひたっている場合じゃない。そう思い直したオレはぐいっとさらに手すりから身を乗り出した。
「じゃあ、その本も持ってきたらいいじゃねぇか」
「いいの?」
「オゥ。いーよ。オレもマンガ読んでっし」
暇になったら邪魔するかもしれねぇけど。まぁ、そういうのはいつものことだしも特に気にしないだろう。
「わかった。今からそっち行くね」
「オゥ」
話はついたとばかりに頷いてみせれば、も同じように頭を揺らす。軽く手を翳したがベランダから部屋へと戻っていくのを見送り、オレもまたスリッパを脱ぎ捨てて室内へ戻った。
「良平。その誘い方はもういい加減にやめなさい。ちゃんもびっくりしちゃうでしょ?」
「うっせ! いいだろ、別に」
居間を通り抜けようとすると母ちゃんにいつもの小言を投げつけられたが耳を貸すつもりはなかった。隣にいるのはわかってるんだ。メールして気付かれねぇ時もあるんだし、声かけたほうが早いんだから止める理由がない。
母ちゃんはまだなにやらしゃべり続けているようだったがそれを振り切って玄関へと足を運ぶ。わざわざかけられたチェーンロックを外してドアを開けば、チャイムを押すつもりだったのか、人差し指を立てたが立っていた。
「ヨォ。上がれよ」
「うん。お邪魔します」
声をかけながらドアを更に押し開けば、するりとが入ってくる。鍵をかけて振り返ると、サンダルを脱いだの手には本の他にもビニール袋が提げられているのが目に入った。
「なんだよ、それ?」
「ん? ……あぁ、これはお母さんが持っていきなさいって」
一度ビニール袋へと視線を落としたはそのままオレの方へと袋を押しつけてくる。受け取って中を確認すると、3個パックのヨーグルトが入っていた。
「いや、プリン食うのにヨーグルトはねぇだろ」
「お礼に渡してって持たされただけだから……。まだ賞味期限先だし、今度食べてよ」
しゃがみ込んで脱いだばかりのサンダルを端に寄せたがこちらを見上げた。立てた両膝のうえに手のひらを乗せたはすっかり眉尻を下げてしまっている。バツの悪そうな顔を見ていると、もまた変だと思っているのだと窺い知れた。きっと、もおばちゃんに言いくるめられてきたのだろう。
お互い苦労するよなぁ。そんな同情の意味を込めての頭の上に右手を置く。
「まぁいいや。これ明日食おうぜ」
「明日?」
ぐりぐりと手首を軸に手のひらを動かしているとのくぐもった声が聞こえてくる。手の甲でオレの手首を押し返すが立ち上がったのを機に自室へと足を向けた。
「どうせ明日も暇してんだろ。来りゃいいじゃん。パーちんもいるしよ」
「パーくん?」
「オゥ! おい、パーちん! 来たしプリン食おうぜ!」
部屋に入りながら声をかけると、さっきまでいびきをかいて寝てたパーちんがのそりと起き上がる。
「……アァ? いねーじゃん、」
「ハァ? いや、いんだろ」
いくら脳みそがミジンコなパーちんでもの顔を忘れるのはさすがに引くわ。ミジンコ以下だとなんだ? ゾウリムシか?
内心で悪態をつきながら顔を顰めて背後を振り返る。は当然いるだろう。そう思っていたが、ついさっきまで後ろをついてきてたはずのの姿が忽然と消えていた。
「ハァ?! どこ行きやがった、アイツ!」
慌てふためきながら周りを見渡せば、あろうことかは母ちゃんとしゃべり始めていた。
「ちょっ……! っ! なにやってんだよ!」
「なにって……挨拶と……世間話?」
「んなもんしなくていーから! 早く来いっ!」
が母ちゃん相手に何を言い出しても何か聞かされてもろくでもない話になるに違いない。余計な会話が生まれる前に、と、の腕を引いて部屋に押し込んだ。
入ってくんなよと母ちゃんに睨みを利かして戸を閉める。溜息交じりに身体を反転させると、突っ立ったままだったの背中にぶつかった。
「パーくんも来てたんだ」
「オゥ。元気してたか、。しばらく見ねぇうちにちょっと日焼けしたんじゃねぇか」
「いや、夏休み入ってまだ一週間も経ってねぇし。ってゆーかなんで立ち話すんだよ。座ろーぜ」
ひとの気も知らずに気楽な世間話をはじめたの背中を軽く押して部屋の奥へ入るよう促す。部屋の中心に座るパーちんの近くに正座したが軽くベッドに寄りかかったのを確認すると、オレもまたその隣に胡座をかいた。
「パーちん、これ」
「お、サンキュ」
持ってきたプリンのパックを爪を割り入れて分けると、そのうちのひとつをスプーンと共に大きく口を開けてあくびをするパーちんに差し出す。同じようににも渡して床に置いたトレイの上にゴミを放り投げた。
「どうだ、。夏休み楽しんでるか?」
「まぁ……それなりに」
「それなりにって取り繕ってどーすんだよ。どうせ暇してんだろ」
親戚のオッサンじみた質問を口にするパーちんに応じたに茶々を入れてやるとがジト目で睨んでくる。
「なんだよ。怒ったのかよ」
「怒ってはないけど」
「けどなんだよ」
口に運んだプリンを飲み込んだ後、次を食べようとはせずスプーンを下唇に押し当てたは一瞥をオレに流すとつんと鼻先を逸らしてしまう。こちらに注意を戻そうとの肩に腕を回して問い詰めれば、溜息まじりのぼやきが紡がれた。
「……明日は図書館行く予定あるもん」
「ハァ? あんな究極の暇人が行くような場所に一体何しに行くつもりなんだよ」
「……クーラーあるから涼しい」
「そんだけかよ! やっぱ暇なんじゃねぇか」
言葉を詰まらせたは苦しい言い訳を吐き出した。軽く背中を叩きつつを解放すると、うぅ、と呻き声が漏れる。反論できない悔しさからか、ほんの少し唇を尖らせたを横目にプリンを口に運んだ。
「まぁ、そう拗ねんなって。扇風機つけてやっからウチ来りゃいーじゃん」
「そうだぞ。オレも一時ぺーやん家にいるからよ。が暇なときは遊んでやるよ」
「パーくんもいるの? じゃあそうしよっかな」
あっさりと予定を覆したはほんのりと口元を緩める。の気が変わらないうちに約束を果たしてやろう。残っていたプリンをスプーンで掬い、口の中に押し込んだオレは早速扇風機をつけてやる。
回転するとはいえ扇風機前のポジション取りは大事だ。オレとほぼ同じタイミングでプリンを食い終えたパーちんは、空になったカップをトレイの上に置くといの一番に扇風機の正面に寝転んだ。一番いいポジションを取られたことに気付いたはいそいそと膝立ちでパーちんの奥に移動する。
風が当たる度にふたりして涼しそうに目を細める。そんな姿を横目に、オレもまたゴミをトレイの上に放り投げるとの隣に腰掛けた。
「で、は今日も暇してたからぺーやんに呼ばれたのか?」
「ううん。さっきまで本読んでた」
ごろりと寝返りを打ち左腕を畳んで枕にしたパーちんに、は持ってきた本を差し出す。空いた手で受け取り、表紙と裏表紙を交互に眺めたパーちんはそのまま本を床に置きパラパラとめくり始めた。
「ウッ……文字ばっかじゃねぇか」
「まぁ、本だし」
「ふぅん……。まぁ、でも本を読むのは偉いな」
「別に偉くないよ。読書感想文書くためだし」
「ヒェー! 真面目ッ!」
の発言に思わず悲鳴を上げてしまう。読書感想文どころか宿題すらハナからやる気のないオレには縁のない発想だった。
ほんの少し唇を尖らせたがこちらをじっと見つめてくる。不満げな表情に「馬鹿にするな」とでも言いたいんだろうと察しがつく。だが、オレは別にのことを馬鹿にしたつもりはない。
勉強なんてロクにしないオレらとは違い、が割とまともに勉強するタイプなのは知っている。それをパーちんみたいに褒めるつもりもないため、わざわざ読書感想文だけのために本を読むなんて姿を見ると驚いてしまうのだ。
パーちんが閉じた本を拾い上げ、パラパラとめくったが挿絵のひとつも入ってない。マジで文字しかねえじゃねぇか。呻きを漏らしたオレはパタンと本を閉じるとの胸に押付けた。
「こんなもん読んでたら目ぇ悪くなるぞ」
「ならないように気を付けるよ」
「ってゆーか宿題なんてしなくてもよくね? 死ぬわけじゃねぇし」
「そういう問題じゃないよ。来年受験生だもん。ちゃんとしないと」
「まだ一年あんだろ」
「それでも油断はしたくないなぁ」
返ってきた本をパラパラとめくったはそっと膝の上に置く。身体を捻って傍らに置いていたプリンを再び手にしただったが、顔を上げるとそのまま固まってしまった。
――なに見てんだ?
見られたらまずいもんでも出してたか? 訝しみながら軽く部屋を見渡したが、特に問題はなさそうだ。なんだよ驚かせやがって。胸をなで下ろし安堵の息を吐き出すと、その息遣いに続けるように「くー、かー」と規則正しいリズムの寝息が耳に入ってきた。部屋を探る視線を手前へ戻せば、いつの間にかパーちんが眠ってしまっている。
――もしかしてが見たのってパーちんか?
そっとを振り返れば、正しくの視線はパーちんへと差し向けられていることに気がついた。自分なりの答え合わせに満足したオレは改めてパーちんへと顔を向ける。
たった今までしゃべっていたとは思えないほどの寝姿に呆れるやら尊敬するやら。どこでも寝れるのはパーちんの長所とは言え、まさか話してる途中で寝てしまうレベルとは思ってもみなかった。
「パーくん寝ちゃった」
「みてぇだな」
軽く息を吐き出すと溜息がふたつ重なった。突然の昼寝に呆れたのはどうやらオレだけではないらしい。ちらりとへ顔を向けるとパチリと視線が交差する。どうしようもないパーちんだ、とでも言いたげな表情にオレもまた苦笑して返すほかなかった。
またひとつ短く息を吐いたは、気を取り直したのか再びプリンを口に運び始めた。まだ半分近く残っているのを目にすると、途端にもう少し食べたくなってくる。
「。ひと口くれよ」
「足りなかった?」
「ん」
頭を揺らし、ぐいっとの方へ身を寄せると、スプーンに盛られたプリンが差し出される。横から噛み付いて喉奥に流し込んだが、ちっとも腹が膨れた気がしねぇ。プリンなんて液体みたいなもんだ。そもそもこんなもんじゃ足りるわけがないんだ。
――ソーメンもう一束分くらい食えばよかったかな。
昼飯を食い終わるタイミングで母ちゃんに追加で茹でるか聞かれたが、その時は腹いっぱいに感じたのでいらねぇと言ってしまった。今更食いてぇと言ったところで自分で茹でろと言われるのがオチだろう。
腹具合とこの飢えと。どう向かい合うか考えているとがもうひとくち分こちらに差し出してきたので遠慮なく口にした。
「食い始めるとなんで腹減るんだろなぁ。……あ、そうだ。なぁ、。あとでコンビニ行こうぜ」
「いいよ。あ、ヨーグルトならあるよ?」
「それは明日食うって決めたからいいわ」
「そっか。でもこれ冷蔵庫入れなくていいの?」
「あー……入れねぇとまずいよな」
どうする? と言いたげな顔をしたはヨーグルトの入ったビニール袋を掲げる。あぐらをかいた膝の上で頬杖をつき、ほんの少し眉根を寄せる。考えたところで答えはひとつしかない。
もうひとつ溜息を重ねながら、差し出されたままの袋を受け取り太腿の上に置いた。まだ幾分か冷っこいようだがそれもいつまでもつか。
プリンならまだしも、ヨーグルトは乳製品だ。こんな暑い日に放置してたら一発で腐っちまうだろう。だが台所に行くとなると、また母ちゃんにごちゃごちゃ言われかねない。
オレが行くにしてもに持って行かせるにしても波乱は目に見えている。頼みの綱のパーちんは寝ちまってるし、たったそれだけを理由に起こすのもな。
――やっぱりオレが行くしかねぇよなぁ。
オレだったら母ちゃんに何言われても振り切るが、はバカ正直になんでも答えるだろう。さっきだってオレがを部屋に引きずり込んでなきゃ今ごろなにを言われてたことか。その恐ろしさに思わず身震いする。改めてオレが行くのが一番被害が少ないと腹をくくったオレはその場に立ち上がった。
「……ちょっと行ってくるワ」
「うん。いってらっしゃい」
オレの決意なんてまったく気づきもしないのあっさりとした見送りの言葉を背に、極力音を出さないように戸を開ける。テレビの音に紛れて歩みを進める中、そっと居間の様子を窺ったが、ソファにいるはずの母ちゃんの姿はなかった。
どうやら気付かないうちにいつの間にか母ちゃんは家を出てたらしい。気を揉む必要がなかったことに安堵しつつも、いないなら早く言えよと悪態をついてしまう。ガラにもなく顰めていた足音をわざとらしく立てながら台所に向かった。
冷蔵庫にヨーグルトを押し込んでいると何やら外から話し声が聞こえてくる。ぺちゃくちゃ姦しい声は母ちゃんのものだ。そしてデカい声に時折混じる聞き慣れた声に、母ちゃんの話し相手がんちのおばちゃんだと察しがついた。ガキのころからよく廊下で話す場面に出くわしたが、どうやら今も継続されているらしい。
どうせ「ウチのバカ息子がゴメンねー」とかなんとか言ってんだろ。耳を澄まさなくたってわかる。回覧板持って行くついでかなにかは知らないが、あの様子だと30分は戻ってこねぇな。
「ったくよー」
溜息を吐きこぼしながらつけっぱなしのテレビを消して自室へ戻ると、相変わらずパーちんは眠りこけていたが、は本を読み始めていた。チラリと一瞥をこちらに差し向けたは「おかえり」と一言残すとまた本へと視線を落としてしまう。その隣に腰を下ろしてもなお戻らない視線にほんの少し、唇の先が尖る。
――まぁ、そういう話で呼んだしな。
への誘い文句にウチで本を読めばいいと言ったのはほかでもないオレだ。その自覚がある以上、さすがにに本を読むなとは言えねぇよな。
――しゃあねぇからオレもマンガでも読むか……。
小さく息を吐き、が来る前まで読んでいたマンガを拾い上げる。パラパラめくって続きを読み始めたものの、隣に座るが本をめくる度にそちらに意識を取られる。しばらくは我慢して読み進めたが内容がちっとも頭に入って来ない。
ダメだ。集中出来ねぇ。そう見切りをつけるとベッドの上に漫画を放り投げた。
「なぁ、」
「ん」
「それ面白いのかよ」
「多分? まだ最初の方だからよくわかんない」
オレが話しかけてるにも関わらず涼しい顔で本を読み進めるにますます面白くないと感じてしまう。
立てた片膝に肘を乗せ、頬杖をついたままの横顔を眺める。じっと文字を追う視線が縦に動くのを見つめていてもちっとも楽しくない。
燻る感情は心の内だけに留まるはずもなく行動に現れる。指先を伸ばし、脇腹のあたりをつついたり、本にくっついてる糸のようなものを引っ張ったりとちょっかいをかけているとようやくの視線がこちらを向いた。
「……良平、暇なの?」
「別に暇ってほどじゃねぇけど」
面と向かって指摘されると否定したくなる。だけど暇か暇じゃないかの二択なら断然暇だと自分が一番よくわかっていた。
を呼んだ時はコイツが本を読み始めても、別にマンガでも読んでりゃいいと思ってた。だが、実際同じ部屋にいてもしゃべんねー居心地悪さは何よりも耐え難い。
パーちんは寝ちまうしお前まで本読みはじめちまったら手持ち無沙汰なんてもんじゃねぇよ。かまってくれだなんてカッコ悪いことは言えないが、せっかく一緒にいるんだからしゃべろうぜ。
そんな思いと共にじっとを見つめる。眉尻を下げたは小さく息を吐き、オレが引っ張っていた紐をページの間に挟んで本を閉じるとそっと床に置いた。
伏せられた顔が上げられると同時に難なく視線が交差する。困ったような表情を浮かべていたは口元をほんの少し緩めて笑った。
「ウソばっかり。良平、すごくつまんないって顔してる」
「……チッ」
の容赦ない指摘に思わず舌を打ち鳴らす。これがパーちんや三ツ谷あたりから受けるからかい混じりの言葉なら応戦できる。だが、の視線にはこちらを貶める意図は一切含まれていない。それがわかるからこそ、タチが悪い。
――なんだよ、その慈愛に満ちた目は。
〝困った子だ〟とでも言いたげな瞳に怒鳴り返すような真似ができるはずもなく、ただただ閉口してしまう。唇を尖らせたままを睨んだが怯むこともなければ表情が崩れることもなかった。
慣れていてもやりにくいもんはやりにくい。「寂しそうだから相手したげる」とでも言われた方がまだマシだ。
さっきまではどうしてもこちらに差し向けたかった視線が今では憎らしく思えてくる。「見んな」という代わりに手のひらでの目元を覆った。
「良平」
「んだよ」
「しゃべろ」
「……ウルセー。お前は本でも読んでろ」
「でももう私も飽きちゃったから」
「……」
――絶対ェウソだ。
の言葉がオレを宥めるための方便なのはお見通しだった。が肩を揺らして笑う度、手のひらにダイレクトに伝わってくる振動がその証拠だ。
にここまで気を使われてホイホイ乗っかるのも腹立たしい。だがここで意地を張ったところがまた読書に勤しみ始めたらきっとオレはまた性懲りも無くにちょっかいかけることだろう。
「……じゃあ、かまってやんよ」
「痛っ」
の目元を覆っていた手のひらを少し上げ、額の上で跳ねさせると短い悲鳴が上がる。ちょっとした罪悪感は残るが、微かに溜飲が下がるのを感じた。
不服そうに額を抑えるが横目でこちらを睨めつけているがあえて無視を決め込んでやった。
「なー、」
「うん」
立てた膝の上に伸ばした腕を置きながらぼんやりと視線を扇風機へと向ける。一定の稼動領域の範囲で首を左右に振る様を眺めながら視線同様にぼんやりと会話を紡いだ。
「お前、明日以外なんかすることあんのかよ」
「お盆にはおじいちゃんち行くと思うけど……それ以外は特に考えてないよ」
「そんなもんだよなぁ」
「良平は?」
「パーちん次第。……つっても夏休みだからって別にどっか行くわけでもねえしなぁ」
盆の里帰りってやつはあるだろうが、それだって一日か二日程度のものだ。長い休みの中で何か胸の弾むイベントのひとつやふたつあって欲しい。
8月の祭りには行くとして。それ以外になにかないだろうか。夏と言えば、な王道なやつ。ぼんやりと頭を動かす中で、昨年、パーちんが楽しそうな思い出を報告してきた記憶に行きあたる。
「……そういや昨年はパーちんたち海行ったつってたな」
「そうなの?」
「オゥ」
たしか東卍の創設メンバーで横浜に行ったとかなんとか言ってたはずだ。「オレも誘えよ」と怒った覚えもあれば「その日はと約束してっから無理だって断っただろ」とパーちんに言い返された記憶もある。
より鮮明に思い出すと同時に、海に行きそこねた悔しさまでもが甦る。加えて今年こそ海に行かなければ、なんてやる気までもが生まれた。
「お前も行くか?」
「海?」
「そーそー」
眠るパーちん越しに身体をのばし、食べ終えたプリンのカップを重ねてまとめていたがこちらを振り返る。頭を揺らして応じると、膝立ちから正座へと体勢を戻したはほんの少しだけ考え込むような表情を浮かべる。
「んだよ。乗り気しねぇ?」
「ううん。良平が行きたいなら行くけど……海行く前に、新しい水着買いに行きたいなって」
「なんで? 持ってんじゃん」
たしかは一昨年まで淡い緑の水着を着ていたはずだ。しかも相当気に入ってたじゃん。機嫌よく着てたの姿を思い浮かべながら提案したが、当のは眉尻を下げて難色を示す。
「背も伸びたし入んないよ、多分」
「あぁ、それもそうだな。じゃあ今度一緒買いに行くか」
「いいの?」
「なんで聞くんだよ。いいに決まってんだろ」
よく考えればオレも昨年は海もだがプールにも行かなかった。さすがに小学生の時に来てた水着はもう入らねぇはずだ。仮にウエストが入ったとしても丈が短くなって様にならないだろう。だったらが買いに行くついでにオレも自分の分を買ってしまった方がいいはずだ。
新しい水着を買って、海に行く。これで夏休みの予定が2つできた。先の楽しみがあると心は自然と浮き足立つ。それはも同じなのか、いつもより血色のいい顔つきになっていた。
「パーくん起きたら一緒行くか聞いてみよ」
「オゥ。そーだな」
まぁ100%行くつっーだろうけど。もそれがわかっているのか「パーくんも水着買うかな」なんて言っている。ウキウキしているを見るのは気分がいい。自然と上がる口角に逆らわず、オレもまた笑みを浮かべる。
「とりあえず3時になったらコンビニ行こーぜ」
「うん。いいよ」
機嫌よく頷いたは時間に区切りをつけたことでくつろぐモードに入ったのか。正座していた足を崩し、おもむろにパーちんの腹に寄りかかった。時折見かけるポーズとは言え、改めて目の当たりにすると呆れとも諦めともつかない感情が湧いてくる。
「パーちんの腹をクッション代わりにすんのお前かマイキーくらいだわ」
「ふかふかで気持ちいいよ? 人をダメにするクッションよりいいかも」
冗談とも本気ともつかない言葉を吐いたは「ふふ」と機嫌良さそうに笑う。
――ひとをクッション扱いしておいてなんて言い草だ。
パーちんが起きてても同じこと言えんのかよ。そう尋ねてみたい気もしたが、パーちんもにはゲロ甘だから今の状態で起きたところできっと怒りゃしねぇだろうな。
傍目から見ていると暑苦しいことこの上ないが、そのデメリットを補って余るほどの魅力がパーちんの腹にはあるらしい。パーちんの腹の上で両腕を組んだが口元をゆるめているのを見ると自ずと確信できた。
「まぁ、お前がいいならいいけどよ」
ひとつ溜息を吐き出したオレはにならいパーちんの腹に背を預けた。ひとの腹をソファ代わりに使うのは初めての体験だったが案外悪くない。扇風機の風に吹かれて気持ちよさそうに目を細めるを横目に眺めながら他愛もない会話を紡ぐ。
オレらの間では3時まで、なんて時間を区切っていたが、ふたり分の重さと熱に耐えかねたパーちんが飛び起きるまでそう時間は掛からなかった。