三ツ谷01:誓う

021.誓う


「あれ、?」

 母親から言いつけられたおつかいの帰り道。買い忘れはないかと持たされたメモに目を落としながら歩いていると、公園の前を通りかかったところで、ふと名前を呼ばれた気がした。聞き覚えのあるような、ないような。男の子の声だけど、よく耳にする幼馴染の良平ともパーくんのものとも違う。――じゃあ、誰が? 
 同じクラスの男子とか学校の先輩とかかなぁ、と、訝しみとも緊張ともつかない心地を抱えて声のした方へと視線を伸ばす。息を詰めるようにきゅっと唇を真一文字に結ぶ私の目に入ったのは、同じクラスの三ツ谷くんだった。ベンチに腰かけた三ツ谷くんは目が合うとほんの少し、口元を綻ばせたようだった。
 よく知る顔に安堵の息を吐き出す。胸をなで下ろす私へと視線を差し向けたままの三ツ谷くんは膝の上に置いていた手のひらを掲げてちょいちょいと動かした。
 手招きしているのだと気付きつつも「もしかして私では無いのでは」と懸念が頭をよぎる。だが、首を左右に振って周囲を確認したものの、特に誰かが近くを歩いている様子はない。
 やっぱり今のは私を呼んだのだろうか。確かめるべくもう一度三ツ谷くんに視線を戻せば、三ツ谷くんは手の甲で口元を抑えて笑っているようだった。

っ!」

 口の横で手のひらを立てた三ツ谷くんが私の名前を呼んだ。さすがに今のはちゃんと自分に対し呼びかけられたのだとわかった。そのまま手を振ってバイバイしても良かったんだけど、学校外で友だちに会う物珍しさにソワソワしてしまう。
 ダメ押しに三ツ谷くんがまた手招きする仕草を見せるものだから一気に心が傾く。誘われるままふらりと公園の中へと足を踏み入れると、三ツ谷くんは真ん中に陣取っていたベンチから左へとズレる。

「どうした? こんなとこふらふら歩いて」
「どうって……家の、おつかい?」
「おつかい? ってなんだよ。なんで質問系?」

 人に聞かれるほどの目的があったわけではないため、ほんの少しだけ返答に詰まってしまう。軽く戸惑った私の言葉を捕まえた三ツ谷くんはなんだか楽しそうに笑っている。

「じゃあ、おつかい」

 自分の右に座るようにとベンチを叩く三ツ谷くんに促されるまま、スカートの裾に気をはらいながら腰かける。笑われたことにちょっとだけ唇を尖らせながら、片手に提げていたビニール袋を掲げると三ツ谷くんは「おつかいね、了解」と頭を揺らした。

「オレもそのスーパーよく行くよ。タイムセールヤバイよな」
「うん。ヤバすぎてたまにお客さんの気迫に飲み込まれちゃいそうになる」
「ははっ。確かに勢いで流される時あるな」

 川みてぇだもんな。そう言って、肩を揺らして笑う三ツ谷くんに思わず口元が綻んだ。同じ感想を抱く人がいてよかった。そんな安堵に紛れて妙な親近感を抱いてしまう。
 ゆるむ口元を引き締めながら、夕方のスーパーの風景に思いを馳せる。タイムセール狙いでやってきたお客さんの勢いは、まさに濁流と呼べた。もみくちゃにされるままに陳列棚の前まで流されて偶然お目当ての品をゲット出来る時もあれば、外に弾き出されてしまうこともある。埋もれてしまってにっちもさっちも行かなくなった際は、たまたま居合わせた良平が首根っこを捕まえて助けてくれたこともあったっけ。呆然としていると多めに掴んでいた近所のおばちゃんに分けて貰えるが、まっすぐ自分の意思で突き進めたことは無い。
 三ツ谷くんはどうなんだろう。そう思い、尋ねてみると似たような答えが返ってきた。どうやら東卍の弐番隊隊長でもおばちゃん相手では分が悪いらしい。

「ってことはそのうちスーパーで会うかもしれねぇな」
「そうだね」

 三ツ谷くんに限らず、今まで同じ学校の子を見かけたことはない。お菓子をどれにしようかとしゃがみこんでるところに会うときまずいなぁと言えば、一緒に悩んでやるよなんて返ってきた。

「……そういや、ん家ってこの近く?」
「ん? まぁ……割と」

 投げかけられた質問に対する心構えがなく、反射的に曖昧な答えを返してしまった。スーパーにほど近いこの公園から私の家までの道のりを頭に思い浮かべる。歩くには少し遠いけど、自転車を出すのは少し億劫な距離。特に目印になるものもない帰り道をどう説明したものか。〝この近く〟と称するにはもう少し距離があるけれど、地図があるわけではないので説明しづらい。

「あ。良平んちわかる?」
「ぺーの? まぁ、漠然と」
「同じ建物の、隣の部屋がうち」
「あー……なるほど」

 良平の存在は共通の話題になるはずだと思って名前を出したみた。だけど、あまりピンと来なかったんだろうか。三ツ谷くんは軽くではあるものの顔を顰めてしまう。もう少し何か説明を増やした方がいいだろうか。軽く首を捻ってみたが、三ツ谷くんはなんでもないと言う代わりに、軽く頭を横に振った。
 眉尻を下げた三ツ谷くんはそのまま口を閉ざしてしまう。後ろ頭を掻いた三ツ谷くんの会話に窮するような姿を目にすると、途端に困惑に似た心地が湧き上がってくる。
 何か他に会話の取っ掛りはなかっただろうか。新たな話題を探るべく、三ツ谷くんの横顔から全身へと視界を広げた。無遠慮にならないように気をはらいながら眺めていると、三ツ谷くんの手のひらが膝の上に置いたプリントを抑えているのが目に入る。手の隙間から目に入った文字の並びには覚えがあった。それは先日渡された、手芸部のコンクールに向けての案内が書かれたものだ。

「それ、部活の?」
「ん? あぁ。そう」

 指先をそっと伸ばしてプリントを指し示すと、三ツ谷くんはひとつ頭を揺らしてプリントをこちらへと差し出してきた。軽く目を落とすと、布地の候補がいくつか走り書きされている。

「どういうデザインにするか大まかに決まったからあとは細部を決めようと思ってさ」
「そうなんだ」

 騒がしい公園で考えるよりも、お家でした方が捗りそうなのに。でも三ツ谷くんは外の方がいいのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えていると三ツ谷くんはほんの少しだけ真剣な表情を浮かべた。

は? もう決めた?」
「ううん。実はまだ何を作るかも迷ってて……」
「そっか。締切はまだ当分先だけど逆算して考えないと後で困るのは自分なんだから気をつけろよ」

 手芸部の部長としての言葉だったのだろう。だけど、三ツ谷くんがまるでお母さんみたいなことを口にするものだから思わず口元を緩めてしまう。

「……なんだよ、その顔。なにか含みがありそうだな」
「そんな悪いものじゃないよ。それより、そういうのいつも公園で考えるの?」
「んー? いや、家でやることもあるけど……今日は子守りも兼ねてるしな」
「子守り?」

 またもやお母さんめいたことを言い出した三ツ谷くんに思わず首を捻る。機嫌良さそうに笑う三ツ谷くんの周りに子どもの姿はない。ひとりで遊ばせているんだろうか。もしかしてここで私と話をしているせいで子どもの姿を見失い何か事故が起こってしまったら。そんな考えが浮かんだ途端、ハラハラとした気持ちが胸の内をじんわりと侵食する。

「そんな焦んなって。ちゃんと面倒見てもらってるから」

 焦りが表情に出たのだろう。私の表情を目にした三ツ谷くんは、落ち着けという代わりに肩をぽんとひとつ叩いた。こちらに差し向けていた視線を正面へと向けた三ツ谷くんにならい、私もまた前へと視線を伸ばす。
 木陰になっているベンチとは違い、公園の中はほとんど陽の光に照らされている。夏休み目前のこの時期。梅雨の間に外に出られなかった分を取り戻すような勢いで小さな子どもたちが所狭しと駆け巡っている。賑々しい景色を眺めていると、一際目を引く人物の姿が目に飛び込んできた。
 遠目から見てもかなり背が高いと伺い知れる男の子はふたりの女の子を相手に追いかけっこをしているようだ。随分と手加減をして走る姿の微笑ましさに兄妹かなと見当をつける。

「あっちにデケェのいるだろ? そいつと一緒にいるふたり、オレの妹」

 まさに目にしていた人物を指さした三ツ谷くんに思わず目を丸くする。一度三ツ谷くんを振り返り、もう一度、背の高い男の子と一緒にいる女の子ふたりに視線を向けた。
 三ツ谷くんと女の子ふたり。兄妹だと説明を受けたうえで疑念が生まれたわけではないけれど、興味本位でじっくりと見つめてしまう。
 人の良さそうな目元と、それに反して意志の強さを感じさせる眉。目鼻立ちひとつひとつを見比べるように何度か視線を行き来させては共通点を見つけていく。たしかに今遊んでいる男の子よりも三ツ谷くんの妹たちだと言われた方がしっくりくる。
 じっくりと三ツ谷くんの妹たちを見つめた私を横目に見守っていた三ツ谷くんの「納得した?」という言葉に頭をひとつ揺らして応じる。

「紹介するよ。おーい! ルナ! マナー!」
「なぁに! お兄ちゃん!」
「わっ! だれ!? その美人!」

 三ツ谷くんの声に振り返ったふたりはパッと花開いたような笑顔を向ける。その視線が三ツ谷くんから私へとズレた途端、ふたりからますます輝かしい表情が放たれる。眩い笑顔のまま一目散に駆けてきたふたりに思わず怯んでしまう。

「わ、わ……」
「はは。なに慌ててんだよ」

 焦るあまり思わず足を上げてベンチの縁にかけてしまう。身体を小さくさせたところで逃げ場はない。むしろ背もたれとくっつくとますます動きがたい状況に陥った。

「別にとって食われるわけじゃねぇんだから、そんなに警戒することないって」
「そ、そうだよね」

 吃驚して逃げるような態度を見せてしまったが、ちいさな子ども相手に取っていい行動ではない。おずおずと足を下ろせば辿り着いたふたりの手が両膝に乗せられた。スカートの裾を掴む小さな手を目にした途端、視界にふたりの顔が飛び込んでくる。キラキラと目映い視線に圧され、思わず口元を引き締める。

「お姉ちゃんだれ?!」
「え、えっと……です」
「もしかしてお兄ちゃんのカノジョ?!」
「え、違っ」
「違ぇよ。同じ学校のオトモダチ」
「じゃあガールフレンドだ!」
「その違いはわかんねぇよ」

 矢継ぎ早に投げかけられる言葉に戸惑うことしかできない私に反し、三ツ谷くんはふたりの言葉を簡単にいなしていく。年の離れた女の子相手に難なく紡がれる会話と手慣れた扱いに、顔の造形以上に彼らが兄妹なのだと知らしめる。
 ふと、膝に乗せられた手のひらがはねたことに気がついた。三ツ谷くんに向けていた視線を落とせば小さい方の子がじっとこちらを見上げている。目が合うと同時にあどけない笑みが返ってきた。そのまま膝頭に頬をくっつけられるとどうしようもない気持ちが胸に差し迫ってくる。
 ときめく胸を手のひらで押さえながらそっと子どもの頭の上に反対の手を伸ばす。恐る恐る伸ばした指先に、ちょんと髪の毛が触れた。想像以上のやわらかな細さに〝汚してしまうのでは〟という懸念が頭をよぎると思わず手を引いてしまう。

「あ、別に遠慮しなくていいからな。てか撫でてやったらすげぇ喜ぶから触ってやって」
 
 勝手に触れようとしたところをどうやら三ツ谷くんにも見られていたらしい。横から投げかけられた提案に顔を上げれば、三ツ谷くんはやわらかく笑って頭を揺らした。「いいよ」と促されたことでもう一度、少女へと視線を向ける。
 遠慮しなくていい、という言葉に後押しされ、頭の形に沿うように手のひらで包み込む。やわらかな髪の奥にある後頭部の熱にまた胸の奥がキュッと鳴る。そのまま数度、手のひらを行き来させる。繰り返すうちに、手のひらの下がもぞもぞと動いたことに気がついた。
 撫でていた手を離すと、少女は期待に満ちた目でこちらを見上げる。「もっと」と言いたげな瞳に、次、何ができるかを考える。
 子どもに抱きつかれた時、どう対処すればいいのか。頭をひねってみたもなのの、いい考えは浮かばない。子どもと接する機会が少ない私ではどうしても経験不足は否めない。
 ほかの人はどう接しているんだろう。そんな疑念と共にキョロキョロと視線をさまよわせる。参考にさせてもらおうと思ったのだが、あまりおとなの姿は目に入らず、いても端っこでおしゃべりしている姿ばかりが目に入る。
 圧倒的に子ども同士で遊んでいる様子ばかりの中、砂場から広場へと視線を伸ばせば、さっきまで三ツ谷くんの妹さんたちと遊んでいた男の子が座り込んでいる姿が見てとれた。立てた膝の上に載せた肘を曲げて顔を隠してしまっているので、どんな表情をしているかはわからない。でもしゃがみこむほど疲れているのかもしれないし、変に呼びつけるより放っておいた方がいいかな?
 きっと来たくなったらこっちに来るよね。そう結論づけ、改めて私の膝にくっついたままの少女に向かい合う。
 ――とりあえず、さっきの男の子みたいにしゃがんでみたらいいかな。
 思いついた行動を実行するべく、正面に立つ妹さんにぶつからないように気をつけながらベンチの前に両膝を下ろす。
 その途端、三ツ谷くんと話をしてた女の子の細い腕が首元に回された。抱きつかれたと気付いた途端くるりと身を翻したその子はお姫様抱っこの要領で膝に腰を下ろす。
 そっちに意識を取られると同時に、小さい方の子もまた膝乗りでよじ登ろうとしてくる。うっかり落ちてしまわないようにと腕を回すと、細い腰が手に触れた。あまりの頼りなさに、変に力を入れるとパキッと折れてしまうのではないかと焦りが生まれる。

「おいおい。それ、にはキツいだろ」
「なんとか……大丈夫。でも壊しそうで怖い……」
「壊れはしねぇと思うけど……あんまり無理すんなよ?」

 体勢的に三ツ谷くんを振り返ることが出来ないが心配そうな声音により一層の注意を払うべく身が引き締まる。背中から落としてしまうくらいならちゃんと抱きしめた方が被害は少ないはずだ。そう思い、回した腕にぎゅっと力を入れると、ふたりの腕がもっとこちらにしがみついてくる。
 あどけない接触に緊張していた心地が簡単にほぐれていくのがわかった。子ども特有の高い体温に身を寄せながら、ふと、頭を過ぎった疑問を口にする。

「抱っこ。お兄ちゃんにいつもしてもらってるの?」
「うん!」
「そっか。いいね。お兄ちゃんやさしくて」
「うん! おこったらコワいけどやさしー!」

 投げかけた質問にまっすぐな答えが返ってくる。親愛に満ちた笑みに、その言葉が真実なのだと知らしめた。

「ふふ。学校でもそんな感じだよ」
「オレ、の前で怒ったことあったっけ? 記憶にねぇな……」
「あ、たしかに。三ツ谷くんはちゃんとやっちゃダメなとこダメって言えるってだけだもんね」

 背後から落ちてきた訝しむ声に、自分の中の印象を正しく口にする。相手のためを思ってたしなめることができる人を怒る人だなんて同意したらダメだ。妹さんたちはまだそんなに言葉を知らないから〝怒る〟なんて言ったんだろう。だけどその本質にあるものは、私と同じ印象を抱いているはずだ。

「やさしいもんね、三ツ谷くん」

 ふふ、と笑いながら続けると妹さんたちも元気よく「うん!」と頭を揺らす。
 ――本当に慕われてるんだな。
 家での三ツ谷くんの様子なんて知りようがない。けれど、これだけ素直に妹さんたちが懐いているのを目の当たりにするときっといいお兄ちゃんでもあるんだろうな、と確信できる。
 仲睦まじい兄妹の姿に口元を緩めていると、三ツ谷くんから「なぁ、」と声がかかる。

「――もしかして、の中でオレの株って結構高い?」
「えぇ? うん。もちろん。高いよ?」
「……ふぅん。そっか」

 妹さんたちから目を離すわけにはいかないので三ツ谷くんの問いかけに振り返ることは出来なかった。せめてもの反応として頭を揺らして肯定すると、三ツ谷くんから納得したような相槌が返ってくる。
 変な質問。当たり前のことなのにどうしてそんなことを聞いてくるんだろう。
 遠慮しなくていいという後押しの元、妹さんたちの頭に手を添え優しく撫でつけながら、学校での三ツ谷くんのことを考える。
 手芸部員の中に、三ツ谷くんのこと悪く言うひとはいない。一緒に過ごしていればすぐに実感した。やさしくて面倒見がよく、誰よりも頼りになる。そんな三ツ谷くんにはみんないつも助けられてるし、その度に尊敬の念は増した。
 三ツ谷くんをよく知らないひとが、彼に対し不良だなんだとレッテルを貼ることはあるかもしれない。けれど、三ツ谷くんの為人をちゃんと知ってる人はきっと三ツ谷くんのことみんな大好きだと思う。
 例に漏れず、私だって三ツ谷くんのことは好きだ。そういうのはちゃんと伝わってると思っていたけれど、今の三ツ谷くんの態度を思えば案外そうでもないらしい。今後はもっと尊敬してると口にしないとな、と考えを改める。黙ってると怖いだなんて誤解されがちな私に出来るのはきっと言葉を重ねることだけだ。

「そういや、紹介するっつってまだだったな。そのお姫様抱っこしてんのがルナで、そっちのちっこいのがマナ」
「ルナだよ」
「マナー!」

 コホン、とひとつ咳を払った三ツ谷くんの紹介にあわせてふたり――ルナちゃんとマナちゃんは自分の名前を口にした。
 それぞれに視線を合わせる間にも私の腕の中で領土をどんどん広げていくふたりはもう完璧に膝の上に乗っかってしまっている。動いて落とさないようにと固まる私を、ふたりは揃って見上げた。

「そうだ! お姉ちゃんも今からいっしょにあそべる?」
「えっと……」
、買い物の帰りだろ? ふたりとも無理強いはすんなよ」

 さすがに今からは難しい。そう断るよりも先に察してくれたらしい三ツ谷くんが制してくれる。

「えぇー」
「ルナたちもあそびたーい」

 心底残念がってくれている声音にグッと喉の奥が詰まるような心地を味わう。おつかいの途中でなければこの誘惑に簡単に乗っていただろう。魅力的な誘いを振り切らねばならない状況がひどく惜しい。
 だけどこの場に留まる選択をしてしまうと買ったばかりの鶏肉が傷んでしまう。その懸念がある以上、私には〝長居せず帰る〟という選択肢しか取りようがない。

「今日はごめんね。今度また一緒に遊んでくれるかな」
「いいよ! 明日は?」
「明日? えっと」

 今日は土曜日で、明日は日曜日。特に用事もないので私の返事はOKだ。だけど、誘われたと言っても相手は幼い子どもだ。遊びに連れ出すとなると、ふたりを勝手に預かるのは気が引ける。でもせっかくの誘いを2回連続で断るのも心苦しい。
 答えを出しかねる私を見上げる視線にきゅっと唇を結ぶ。今ではしっかりと膝に乗ってしまったふたりを交互に見比べながらどうしたものかと考えてみたものの一向にいい案は出てこない。ちょっとだけ、を免罪符にしてふたりから目を離し、縋るような想いで三ツ谷くんを振り返る。じっとこちらを眺めていたらしい三ツ谷くんとすんなりと視線が交差した。困惑にまみれた私の表情が面白かったのだろう。三ツ谷くんは携えていた緩い笑みをますます深くさせる。

「オレはいいよ」

 問いかけるよりも先に三ツ谷くんがうん、とひとつ頭を揺らした。三ツ谷くんが付き合ってくれるのなら、断る理由なんてない。

「じゃあ、また明日遊ぼう」
「やったー!」
「約束だよ!」

 バンザイする勢いのまま膝の上から飛び降りたふたりはその場でぴょんぴょん飛び跳ねたあと、約束だと立てた小指をこちらに差し向ける。左右の小指をそれぞれの小さな指と絡ませ、約束だと上下に振った。

「ホラ、約束したんなら八戒のとこ戻んな。ひとりで寂しがってるぞ」
「えー。しょうがないなぁ」
「バイバイ! お姉ちゃん、またあしたね!」

 晴れやかな表情と共に大きな男の子の元へと駆けていくふたりを見送りながらそっと手を振る。おおきく手を振ったふたりに口元を緩めていると背後から「おつかれ」と声が降ってきた。

「熱烈だった……」

 三ツ谷くんの労いに対し、正直な感想を漏らしてしまう。子ども特有の体温の高さとあけすけに差し向けられる好意に胸は高鳴りっぱなしだ。ドキドキした心地を抱えきれなくて、胸に手のひらを押し付けることで息を整える。

「はは。アイツら容赦なくフルパワーでぶつかってくるからな。――疲れたろ。こっち座りなよ」
「うん。ちょっとだけそうさせてもらおっかな」

 三ツ谷くんに誘われるがままにベンチに腰掛ける。曲げた膝に掛かった負担を緩和しようと足を伸ばしていると、三ツ谷くんは「悪ぃな」と口にした。どうして、と口にする代わりに首を傾げてみせれば、三ツ谷くんはバツの悪い表情で後ろ頭を掻いた。

「明日、出てきてもらうようになっちまった」
「ううん。特に予定もなかったし気にしないで」
「明日はこんなもんじゃすまねぇと思うけど……平気?」
「そうなの? じゃあ、動きやすい格好して来ようかな」

 ひとり残されたままだったおおきな男の子の手を引いたルナちゃんとマナちゃんはまたかけっこを始めたようだ。明日もあんな風に遊ぶならスカートよりもパンツスタイルの方がいいだろう。目算を立てる私を横目に、三ツ谷くんはほんの少し眉尻を下げて笑った。

「動きやすさもだけど、汚しても平気な服の方がいいぞ。砂遊びすると結構泥ついちまうからさ」
「なるほど……」

 三ツ谷くんからのアドバイスに神妙な顔で頷いて返す。動きやすくて汚してもいい服となるとかなり候補は絞られる。学校のジャージなんて最適かもしれない。だけど部活でも着るし、さすがに公園で自分の苗字を背負って遊ぶのはよくない気がする。
 悶々と考えていると身体が自然と前傾する。Tシャツとハーフパンツでもいいかなぁ。頭の中に候補を思い浮かべながら、両膝の上にそれぞれ肘を置き頬を包み込むと、三ツ谷くんが「あ」と言葉を零した。

。うしろの髪、ちょっとだけぐしゃっとなってるぞ」
「え、ホント?」
「ホント。多分、マナがやっちまったんだな。ごめんな?」
「それは別に気にしてないけど……」
「直してもいい?」
「え、うん。じゃあ、お願いします」

 自分で直そうかと手を伸ばすよりも先に提案されたことで思わず頷いてしまう。身体を起こし、どっちを向けばいいかと頭を左右に振ると、三ツ谷くんの指先が「あっち」と私が見るべき方向を指し示した。誘導されるままに視線を向けると、自然と三ツ谷くんに背を向けるような格好になる。
 ――あ、ちょっと緊張するかも。
 いくら三ツ谷くんが友だちとは言え、男の子に対してこうも簡単に触れてもいいと伝えるのはよくなかったかもしれない。信頼してるとは言え、それは今まで不必要な接触がなかったからだ。
 仲良くない男子みたいにベタベタ触られたらどうしよう。そんな一抹の不安とともに、きゅっと手のひらを握り込めると同時に三ツ谷くんの手が触れた。
 反射的に竦めた首に、一度三ツ谷くんの手が止まった。だが、一呼吸おいてそのまま後頭部付近の髪の毛を掬われる。髪の毛に指を通すやわらかな手つきは髪の乱れだけを整えているようだ。良平のものとは全く違うけれど、ほかの男子のように嫌な感じはちっともしない。
 警戒しなくても大丈夫なのだと安堵を覚えた私が肩の力を抜いたのが伝わったのだろう。三ツ谷くんの手のひらがポンと後ろ頭で跳ねた。

「まぁ、こんなもんだろ。悪ぃな、妹にするみたいに触っちまった」
「ううん。直してくれてありがとう……三ツ谷くんはいいお兄ちゃんなんだね」

 背を向けていた身体を元の位置に戻せば三ツ谷くんは唇を軽く突き出していた。短い髪の先をつまむ仕草に、落ち着かない心境に陥ったのは自分だけではなかったのだと知る。安堵するままに口元は緩んでいく。そんな私の顔つきを目に入れた三ツ谷くんもまた、ほんの少しだけ表情を綻ばせた。

「まぁ、悪い兄ではないと思うよ」
「ルナちゃんとマナちゃん見てたら羨ましくなっちゃった。家族に優しくできるの、すごくいいと思う」

 ひとりっ子なので兄弟姉妹のいる環境が本当のところどういうものなのかはわからない。だけど、三ツ谷くんたちの様子を見ていると、とてもいい関係のように思える。素直に羨ましいと思ったことを伝えると三ツ谷くんは「そうか?」と首を捻ったが、その表情は満更でもなさそうに見えた。

「うん。あ……そういえば三ツ谷くんって理想のお兄ちゃんに近いかも」
「え?」

 さらに正直な感想を口にすると三ツ谷くんは照れくさそうな表情を一変させる。褒め言葉のつもりだったのに上手く伝わらなかったのだろうか。誉めそやしたばかりの三ツ谷くんはすっかり渋面を刻みつけてしまっている。その表情の変わり様に目を丸くした私に、三ツ谷くんは後頭部の髪を乱雑に掻き乱しながら口を開いた。

が妹なのはヤだな」
「え……」

 〝理想の兄〟と見いだしたばかりの三ツ谷くんにすかさず「妹にはしたくない」と断言されたことに思わず絶句してしまう。生まれたばかりのショックを隠せない。口をぽかんと半開きにして呆けた私を一瞥した三ツ谷くんは軽く唇を尖らせた後、組んだ足の上に頬杖を突いてこちらを見つめた。

「……今のは別に悪い意味じゃないからな」
「そうなの?」

 じゃあどういう意味なんだろう。そんな疑問を含めた問いかけのつもりだったが、三ツ谷くんはニヤリと口元を緩めるだけだった。いたずらっぽい笑みを見るに、もしかしたらからかわれただけなのかもしれない。一向に言葉が返ってこないので「ふぅん」と気のない声で応じると三ツ谷くんは、「はは」と軽い笑い声を上げた。

「わかってねぇみたいだな」
「悪口じゃないのはわかったよ」
「……まぁ、今はそれで十分かな」

 またしても曖昧な言葉を口にする三ツ谷くんの意図はやはり掴めそうもない。だけど、十分と言いつつも眉尻を下げてしまった三ツ谷くんにもう少し言葉の裏を読むべきだったのかもしれないと思い至る。
 妹はイヤだけど悪い意味じゃない。三ツ谷くんから紡がれた言葉を反芻しながら限られたヒントの中で正解を導くべく頭を捻る。悪い意味じゃないってことは良い意味で、ってことだ。同じように妹の反対は、と考えたらいいのでは?
 ふと、頭をよぎった考えが正解か否か。その答えを確かめたくて、自分の顎の下に人差し指をくっつけて三ツ谷くんに期待の眼差しを差し向ける。

「もしかして、私がお姉ちゃん?」
「なんでだよ」

 妹はルナちゃんとマナちゃんさえいれば十分だと三ツ谷くんは思っているのかもしれない。ならば空いているポジションは姉だろう。そんな考えの元、思い切って尋ねてみた。正直、閃いた瞬間は「これだ!」という確信に満ちていた。だけど、三ツ谷くんから返ってきたのはこの上ないほどの顰めっ面だった。
 思惑が外れてしまったこと。またしても拒絶されてしまったこと。ひとつひとつは大したことなくても積み重なれば結構堪える。気落ちするままに肩を小さくさせると、隣からやけに長い溜息が聞こえてきた。

「……がぺーやんたちと幼馴染なの妙に納得しちまった」

 今のはあまりいい意味では無さそうだ。確認するまでもないが、だからと言って釈然としない心地は沸き起こる。軽く眉根を寄せて三ツ谷くんを振り返ると、脱力したのだと隠しもしない三ツ谷くんと視線が交差した。
 目が合うと、たった今、気の抜けた印象を受けた目元に力が入ったのが見てとれた。重なった視線を外すことも、口を開くこともしない。ひたすらにじっとこちらを見つめる三ツ谷くんに、私もまた視線を外せないまま見つめ返す。
 腰掛けたベンチの縁を掴む手に自然と力が入った。訳が分からないままに心だけがじりじりと騒ぎ出す。焦燥に似た心地にきゅっと唇を結ぶ私を目にした三ツ谷くんは、瞬きをひとつ挟むと同時にほんの少しだけ口元を弛めた。

「ちゃんとそのうち伝えるから」

 言って、そのままルナちゃんとマナちゃんたちのいる広場へと顔を向けた三ツ谷くんは、身体をぐっと前に出して膝の上で頬杖をついた。手のひらで隠された横顔に、そっと安堵の息を吐く。
 ――なんでだろう。変に緊張しちゃった。
 もう三ツ谷くんの視線は外れたというのに意味もなく手の甲で口元を隠してしまう。身の置き場のない感覚に覚えがなくて、無性にこの場から走って逃げ出したいような心境に陥った。
 なにか立ち去る理由はないか。そう考えた途端、そういえば自分が今、おつかいの帰り道だったことに思い至る。
 母親に怒られるほど長居したつもりはないけれど、あまり遅くなると心配かけてしまうかもしれない。今の心境に関わらず、本当にそろそろ帰った方がいい。フー、と強く息を吐いた私は、横に置いていた買い物袋に手を伸ばし、ベンチから腰を上げる。

「それじゃ、そろそろ帰るね」
「あぁ。じゃあ、また明日な。後でメールする」
「うん。待ってる。――また、明日」

 バイバイ、と手を振って公園を後にする。広場の横を通り抜ける際に、ルナちゃんやマナちゃんもまたおおきく手を振って見送ってくれたけどなんとなく三ツ谷くんの姿だけは振り返ることが出来なかった。
 見知らぬ居心地の悪さは家路へと着く間も、ずっと居座ったままだ。
 ――また明日、かぁ。
 元々はルナちゃんとマナちゃんと遊ぶために交わした約束だ。だけど、明日も三ツ谷くんと会うんだと思うと、どうしてか居心地の悪さに拍車がかかるようだった。
 ――やっぱり、男の子って苦手なのかも。
 三ツ谷くんの為人を知っているからこそ、悪意なんてあるはずがないと信じられる。拒絶する理由はないのに、こうも動揺してしまうのであれば最早男の子自体が苦手なのではと結論づける他ないのではないだろうか。
 同じ男子でも良平やパーくん相手では緊張なんてしないけど、あのふたりとはずっと友だちだし、特別だと思えば参考にしてはならないだろう。
 ――三ツ谷くんのことは好きなはずなんだけどなぁ。
 良平たちほどの付き合いではないが、三ツ谷くんだって大事な友だちのひとりだ。だからこそ、性別で区別したくはないのに、心は上手くいかないものだ。
 帰ったら良平に相談しようか。そんな一案がふと浮かび上がったが、実行に移すべきではないとすぐさま考えを沈めた。
 もし〝三ツ谷くんのこと苦手かも〟なんて口にしてしまえば、極端な受け止め方をした良平が三ツ谷くんに喧嘩を売りに行きかねない。それに〝苦手〟には違いないけれど、ほかの男子相手に感じるものとも微妙に違うのだ。感覚でしか掴めないものを上手く説明できる気がしない。そう思えばやはり良平に相談するべきではないだろう。
 良平やパーくん。そしてほかの男子には感じたことの無い戸惑いと、今後、どう向き合えばいいのか。ひとりで悩むほか道はないのだと、考えるだけで溜息は零れ落ちた。





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