三ツ谷03:ゆるやか

ゆるやかに溺れてく


 中学に入学してもうすぐ一年が経とうとしていた。クリスマスや年末年始といった数々のイベントを含んだ冬休みを駆け抜け、最後の難関とも言える学年末テストを終えればあとはもう卒業や進級を残すだけだ。
 この中学生活を終えるにあたってなにか悔いを残してはいないか。クラスが変わる前に伝えるべき言葉があるんじゃないか。様々な思惑が交差し学校全体が浮き足立ち始めたころ、そんな緊張感を後押しするようなタイミングでバレンタインデーはやってくる。とは言え、今年は2月14日が土曜日のため、13日にも関わらず今日が実質バレンタインデーみたいな扱いを受けていた。
 他の月ならば「13日の金曜日だなんて不吉だ」なんて言葉が飛び交っていただろう。だが、今日に限ってはそれよりもっと大事なことがあると言わんばかりにふわふわとした空気が流れていた。

「三ツ谷くん、ちょっといい?」

 そんな言葉と共に呼び出されるのは何回目だろう。すでに片手では足りなくなった数を頭の中でたどったものの、途中でめんどくさくなって数えるのを止めた。
 朝礼が始まる前、昼休み、移動教室の途中。場所も別棟へ続く渡り廊下だったり、階段の踊り場だったり様々だが、要件はすべて同じだった。同級生、先輩問わずで話しかけられてはチョコと思しき包みを渡される。

「大したお返しは出来ないし、最悪何も返せないかもしれないっスよ」

 そう伝えてもなお差し出される好意に応えられない少しの罪悪感を抱えながらチョコを受けとった。小学生のときもそれなりにもらっていたけれど、中学はいわゆる思春期に当たるせいかどうも勢いが凄まじい。〝モテてる〟だなんて有頂天になるほどではないが、正直、悪い気もしない。
 ――当分、マナとルナのおやつには困らねぇな。
 両手で抱えきれないほどの量をどうにか鞄と紙袋に詰め込んで迎えた放課後。いつものように家庭科室に顔を出せば、先に来ていた女子一同から義理チョコよりもお歳暮やお中元の意味に近いと思しき包みを差し出された。

「部長、いろんな方に貰ってたみたいなので気が引けるんですが……」
「別にそんなの気にしなくていいのに。むしろこっちだっていつも世話になってるんだからさ。ってゆーかこれどうしたの? 作った?」

 安田さんの弁をはぐらかしつつ話を促せば、昨日の放課後、部員の家に集まってみんなで作ったのだと説明される。軽い相槌と共に渡された包みに目を落とす。透明のパッケージに描かれた柄越しに見えるクッキーはココア味で作られているらしい。クマやらウサギやらネコやらかわいい型で焼かれたクッキーはひとつひとつにこれまたかわいい顔が描かれていた。
 手芸部という特性上、ものづくりに意欲的な女子が多いというのも理由のひとつなのだろう。精一杯、飾り付けてくれた心意気が伺い知れて思わず口元が綻んだ。

「良かったら妹さんたちと食べてください」
「はは。これは喜ぶと思うわ。ありがとな」

 軽い笑みと共に礼を口にすると、安田さんたちは安堵したように肩の力を抜いた。いつからか手芸部女子の輪に溶け込んでいたさんもまたほっと息を吐いたようだった。視線を合わせると軽く目を開いたさんはほんのりと口元を緩めた後、そっと安田さんへと身を寄せる。
 はにかみを含んだどや顔を目にし、小さく苦笑する。仲良くしているようでなによりという気持ちと、もう少しさんの世界が狭いままなら良かったのになと惜しむ気持ち。半々と言うより後者寄りの考えが表に出ないように、と気を払ったものの自然と眉尻は下がった。

「帰ったらありがたく食わせてもらうよ。それじゃ。時間も押してるし部活始めようか」
「はい!」

 パンパンになった鞄と紙袋を定位置となった作業台傍の棚に置き、その上に貰ったばかりの包みを添える。スタートの合図を口にすればいつものように子気味いい返事が室内に響いた。その声に頭を揺らして応じると、それぞれミシンや布地の準備に取り掛かった。

 ***

 黙々と作業に没頭する傍ら、部員たちの質問に答えたり、手本を見せたりしているとそれなりの時間が経過した。まだ最終下校時刻までは時間はあるものの日が落ちたことで室内の空気が冷え込んでくる。
 換気のために少しだけ開いていた窓を閉めようと立ち上がると、廊下から地面を擦り叩くような足音が聞こえてくる。一体誰の足音か。ほぼ正解の見えている予測を立てながら振り返ると無遠慮な音と共に引き戸が開け放たれた。

! まだ帰んねぇのかよ!」

 大声で乗り込んできたのは予想通りぺーやんだった。独特な濁声が家庭科室内に響き渡るや否や、呼ばれたさんの手前に座っていた安田さんが勢いよく立ち上がる。

「林くん! またさんの邪魔しに来たの?! 毎度毎度なに考えてんの!」
「ゲェ!」

 安田さんの剣幕に怯んだぺーやんは入って来たばかりだというのにすぐさま引っ込んでしまう。引き戸の縁を掴んで家庭科室を覗き込んだぺーやんはさんに助けを求めているようだったが、安田さんの影になってしまっているせいかさんが気づいた様子はなかった。
 さんはいつも集中しはじめると、周りの声が聞こえなくなるほど没頭する傾向にある。もしかしたら今もぺーやんの登場に気づいてないのかもしれない。
 迎えが来たよとさんに声をかけに行くか否か。遠目から見てもまだ一心に作業を続けているさんの様子に、わざわざ集中力を切らす必要も無いなと思い直した。

「お、お前に言ってんじゃねーし……」
「そういう問題じゃないわよ! あなたに大声で叫ばれるとみんなが迷惑するのよ! もう少し気を使えないの?!」
「うっ……」

 か細い声で反論したぺーやんの言葉を安田さんはすかさず打ち返す。唸り声を残して黙り込んでしまったぺーやんは冷や汗をかきながらもその場にかじりついていた。
 さんを迎えに来た以上、ひとりで引き返す気は無いらしい。面倒見がいいと言うか、諦めが悪いというか。パーちんとさんと一緒じゃないと帰れないってわけでもないだろうに、ぺーやんはいつも三人で帰りたがっていた。
 特にさんに関してはこうやって部活がある日でさえも迎えに来る始末だ。ぺーやんはどこの部にも所属していないからさっさと帰ってもいいはずだ。だけど普段から空き教室でパーちんとしゃべったり、近くのコンビニで立ち読みしたりと時間を潰してでもさんを待っている。
 痺れを切らして迎えに来ては安田さんに怒られるのも今ではある意味、手芸部の名物になりつつあった。その度に「お前が早くオレに気付いてくれりゃ怒鳴られることもなかったんだぞ!」だなんて八つ当たりにも似た言動でさんに文句を言うくせに、決して迎えに来るのをやめたりはしない。きっと「オレがさんを送るから」と言ったところで3人で帰ってるのが4人に増えるだけなんだろう。
 律儀とも言えるし過保護とも言える行動だが、ぺーやんなりのやり方でさんを大事にしているのは十分に伺い知れる。昔から一緒だからと素直に言ってのける豪胆さとさんとの繋がりの深さをまざまざと見せつけられる度に自然と唇は尖った。
 だが、ここで嫉妬心に駆られて助け船を出さないなんて選択をとってしまうと、ぺーやんがさんの元へ行くか、最悪そのまま連れて帰ってしまう可能性が高い。面白くない展開になるくらいなら、癪に障るがさっさと助けてやるか。

「おい、ぺーやん!」
「み、三ツ谷ァ……」

 入口に向かって声をかけると、ぺーやんは普段から下がりがちな眉尻をさらに下げてこちらを振り返った。すげぇ情けない顔をしてるのを目にすると、助けるのを躊躇した罪悪感がうっすらと顔を出す。

「こっち座ってろよ。おとなしくしときゃ問題ねぇから」
「……オウ」

 チョイチョイと手招きしてこっちに来るよう促すと、ぺーやんは背を丸めながら大人しく近付いてくる。いつもならふんぞり返って周囲を威嚇するような歩き方をするぺーやんのしおらしさに自然と眉尻は下がる。安田さんにやり込められたのがかなり効いていると知るにはその仕草で十分だった。
 近くの丸椅子を掴んだぺーやんはオレの作業台のすぐ後ろに腰掛け、壁際の棚に背中を預けると大仰に溜息を吐いた。ぺーやんなりに気苦労を感じたらしいと気付くと、思わず軽い笑いと共に肩を揺らす。

「どーしたんだよ。溜息なんて吐いて」
「アァ? 別に……どうだっていいだろ」

 軽いいじりのつもりでかけた言葉もすげなくかわされる。いつになく歯切れの悪い調子のぺーやんを横目で確認すると、ぶすくれた表情で近くの作業台に手にしていた鞄を放り投げるさまが見て取れた。何も入る気がしないぺたんこな黒鞄の上に、さらに淡い緑色の紙袋を投げたぺーやんに思わず内心で「おや」と首を捻る。
 ぺーやんが持つにしては随分とかわいらしい包装は十中八九、女子からのプレゼントだろう。持ち手に白いリボンなんて巻いてあるあたり、今日が何の日なのかを考えればわざわざ中身を尋ねなくとも自ずと答えは出てくる。
 ――ぺーやんも隅に置けないな。
 ぺーやんにバレたら大袈裟な文句が飛んでくるようなことを考えながら口元を緩めると、中断していた作業を再開させた。

「そういや今日ひとり? パーちんは?」
「あぁ、マイキーんとこの中学行った」
「マイキーの?」
「オゥ」

 いつも一緒にいる相棒の不在を口にすれば、ぺーやんは面白く無さそうに唇を尖らせた。傾けた椅子を前後に揺らすぺーやんを横目に、なぜパーちんが他校へ乗り込んだのかと考えを巡らせる。
 今日は18時から集会の予定だがその前にわざわざ出向くなんて、何か大事な話でもあるんだろうか。稀に創設メンバーだけで集まることもあったが、そうなるとオレが呼ばれていないのはおかしい。どっかの族を潰したいとか、そういう相談だとしてもぺーやんを抜きにして進めるはずもない。

「……へぇ。ついていかなくてよかったのかよ」
「ハッ。そこまで野暮じゃねぇよ」

 どういう用があるのかわからないなりに言葉を紡げば、ぺーやんは辟易した態度を隠しもせずに鼻で笑った。野暮なんて言葉を知ってたのかと内心感心しつつ、パーちんの用事が一向に見えてこないことに首を捻る。
 またマイキーに挑んでるってなら本当に懲りないなと言うほかないのだが、どうもぺーやんの話しぶりからしてそういう事情では無さそうだ。いっそ理由を尋ねてしまいたいような気もするが、ぺーやんが言ってこないものをわざわざ詮索するのもそれこそ野暮ってものだろう。
 断ち切れた会話を紡ぐことなく作業を進めていると、沈黙に耐えかねたのだろう。ぺーやんが気だるそうに作業台にもたれ掛かりながら声をかけてきた。

「ナァ。のやつ、なんか作ってんだろ? あと何分くらい待ちゃいいんだよ」
「んー? そうだな……。あと30分くらいかな」
「ゲ。そんなにかよ」

 げんなりとした顔で呻いたぺーやんは、前傾したばかりの身体を起こすと頭の裏で手を組んで後ろの台に背を預けた。口を開けたまま天井を仰ぐぺーやんを横目に小さく苦笑する。
 ――そんなに嫌そうに振る舞うくらいならさんを置いて帰りゃいいのに。
 いまだなにやらぐずぐず言ってるぺーやんは帰るどころか立ち上がる気配さえ見せやしない。どうせ不平を口にしたところで結局待つくせに、本当に飽きないな。もっとも今日に限って言えばパーちんがいないから待ち時間がより長く感じているだろうと察しは付いているのだが。
 小さく息を吐きこぼし、ミシンを操作する手を止めるとそっとさんへと視線を伸ばす。頭を前に傾けたさんは、集中を切らすことなく作業に取りかかっている。この前も今やっている課題は絶対に春休み前に仕上げるのだと息巻いていたっけ。
「わからないことがあったらいつでも言って」と伝えた際に目にしたさんの表情に思いを馳せる。オレを見上げてきゅっと眉根を寄せたさんは一見、不愉快そうに見えた。だが、そんな顔つきも彼女と少なくない交流を重ねる中で気合いを入れているのだと窺い知れるようになっていた。
 今もまさに同じ顔で作業をしているさんの手元で布が翻るさまを見つめながら、彼女の作業の進み具合とこれからの進行予定を計算する。
 運動部とは違い、個人での制作が主立った活動なのでみんなが揃って帰る必要は無い。普段からキリのいいタイミングでそれぞれ帰るように伝えてあった。
 さんはぺーやんの迎え次第なところもあるけれど、自分なりの課題として「今日はここまでやる」と決めたところまではきっちり終わらせていくタイプだ。その辺りを計算に入れると、今日、さんがキリよく感じるのはやはり少なく見積もっても30分はかかりそうだと結論づける。
 算段をつけ終え、さんへと伸ばしていた視線をぺーやんへと戻す。まだぐずぐず言ってるのかと思いきや、口元を引き締めたままじっとさんを見つめる横顔が目に入ってきた。今にも話しかけて連れて出て行ってしまいそうなほど焦れた顔つきに、きゅっと唇を結ぶ。

「先に言っとくけど、ぺーやんが話しかけたらその分、さんの作業が遅れるんだからな。ちょっとは黙って見守ってあげろよ」
「ア? 言われなくても向こうにゃ行かネェよ」

 ぺーやんにとっての天敵である安田さんがさんの隣に座っているのも理由なのだろう。椅子に深く座りなおしたぺーやんは心底嫌そうに歯をむき出しにして反論した。

「チッ」

 舌打ちしたかと思えばおもむろに上体を捻ったぺーやんは、ぺたんこの鞄の上に載せていた紙袋を掴み取ると、苛立たしさを隠しもせず袋の中に手を突っ込んだ。
 中から取りだしたビニールに詰められていたのは、チョコチップが散りばめられたカップケーキだった。見るからに手作り然としたそれは、軽く目にしただけでも5、6個は袋に入っている。
 どうやらこの送り主は、質より量の作戦をとったらしい。成長期のオレたちにはそれが正解だ。顔の見えない相手の選択に賛辞の言葉を送る。あのくらいの量があれば甘党なぺーやんも大満足だろう。
 大口を開けたぺーやんがカップケーキを食べる傍ら、止めていた作業を再開させる。剥がされたばかりの包み紙はルナたちにおやつを作る時に使ったことあるな、なんて思い出しながらぺーやんに声をかけた。

「……で。どーしたんだよ、それ。いいもん食ってんじゃん?」

 縫い位置を動かしながら尋ねると、ぺーやんから「アァ?」とガラの悪い相槌が返ってくる。

「明日バレンタインなんだろ。もらったんだよ」

 意外にもアッサリと答えたぺーやんに思わず手元から顔を上げてしまう。何の気なしに応じたぺーやんはオレの戸惑いには気付かず大きく口を開けてまた一口カップケーキに噛みついていた。
 ぺーやんのことだ。てっきり大慌てで隠すなり騒ぎ立てるなりするもんだと思っていた。なんなら椅子から転げ落ちるくらいの反応を見せるのではと疑ってさえもいた。それを踏まえてのからかいの言葉だったのに、あまりにもあっさり流されてしまい、思わず面食らってしまう。
 美味そうに頬を緩めるぺーやんはこちらに視線を流すとペロリと口の端を舐めながら口を開いた。

「ってゆーかお前の方が山のようにもらってんじゃねぇか。なにしらばっくれてんだよ」
「いや、オレの話はいいから……」

 窓際の棚に置いた荷物を顎で示すぺーやんに苦笑する。たしかに人並み以上にチョコをもらった自覚はあるが、あまり大声で騒ぎ立てられると困ってしまう。
 ――さんの耳に入ったらどうすんだよ。
 家庭科室に大荷物を持って来た時点で目にされてるとは言え、改めて話題にされると焦ってしまう。妬いてくれるほどの関係ではないのは十分わかっている。だけどもしかしたら、ちょっとくらい反応してくれているかもしれない。そんなありふれたひっかかりを覚えれば自然と視線はさんへと流れた。
 だが、予想通りというか、予防線を張った甲斐があったというか。さんは相変わらず熱心な顔で自分の作業に邁進しているだけだった。
 チョコの話題が上がってもなお何も反応してくれないのはオレに関心が無いからなのか。それとも集中していて聞き逃してしまっただけなのか。
 ――きっと後者だ。そうに違いない。
 現時点でさんの気がこちらにないことは百も承知だ。だが、今はそれ以前の問題で彼女が作業中だから聞こえなくて当然なのだと自らを慰める。
 肩で息を吐き、落ち込んで丸めそうになる背筋に力を込める。気持ちの立て直しを図ると、改めてぺーやんとの会話に意識を戻した。

「それで、その子からは告白でもされた?」
「ハァ? んなんじゃねーワ。ってゆーか気持ち悪ぃこと言うなや」

 少しは気持ちも落ち着いたつもりだったが微妙にささくれ立った部分が残っていたらしい。随分と雑ないじりをぺーやんに放ってしまう。険のある言葉に腹を立てたのか、心底嫌そうに顔を顰めたぺーやんはトゲを含んだ言葉を吐き捨てた。

「気持ち悪いって……。いや、さすがにもう少し言葉選べよ。せっかく作ってくれたっぽいのに」
「違ぇよ。お前が告白とか言うからだろ」

 あんまりな言い草をたしなめた。だが眦を吊り上げて反論するぺーやんは、どうやらカップケーキ自体を気持ち悪いとは思っていないらしい。女子との仲を噂されるのが恥ずかしいと言うよりも、ただただ嫌悪を示すぺーやんに違和感を覚える。嫌いな相手にもらったのかと疑ってしまうほどだ。
 だが、ぺーやんはひとからの好意を悪し様に言うようなやつではないし、そもそも嫌いな相手から手作りのものを受け取るぺーやんも想像できない。ましてや美味そうに食うなんてなおさらだ。

「またまた。隠さなくていいって。どう見ても本命じゃん」
「あーもう。しつけぇな、マジで。だからからだっつってんだろ」
「ハァ?」

 言動のちぐはぐさに首を捻りながらも真意を探ろうと会話を続けたが、思わぬ返り討ちに遭ってしまう。反射的に不機嫌さを前面に押し出したような声を出せば、おそらくぺーやんも反射なんだろう。鋭い視線をこちらへと差し向けくる。

「ナニいきなりキレてんだよ」
「……別にキレてねぇけど」
「ハァ? だったらそのしつけぇのヤメロ」

 不機嫌極まりない声音で応戦してくるぺーやんを睨めつけたが、まさかここで言い合いをはじめるわけにはいかない。納得のいかない心地を吐き出せない代わりに「……わかったよ」と溜息を吐きこぼした。だが、了承の意を口に出したところで喉の奥の不快感を飲み下せるわけではない。
 ――いや、聞いてねぇよ。
 ぺーやんと交わした会話を頭の中で反芻したが、どう考えてもさんからのプレゼントだなんて一度も耳にしていない。そもそも、そんな情報をオレが聞き流すはずがないだろう。
 手元の作業を進めながらも納得のいかない心地は収まらず、思わず舌を打ち鳴らしていた。いくら知らなかったとは言え、さんの気持ちがぺーやんにあるかのような言い回しを選んでしまった失態に悔恨は募る。これでもし、ぺーやんがさんを女子として意識し始めようものなら目も当てられない。
 ――大体、さんは昨日、手芸部の子らと集まってたんじゃないのかよ。
 モヤモヤとした心境を抱えたまま、部活が始まる前にもらったクッキーの包みに視線を流す。みんなで作ったと言っていたのはきっと嘘ではないはずだ。そうでなければあの輪の中に入るわけがない。副部長の安田さんが手芸部を代表して渡してくれたとは言え、さんからもらったものとしてカウントしてもあながち間違いではないだろう。
 ――その集まりから帰って、ぺーやんのためだけに作ったとでも言うんだろうか。
 オレには他の子と一緒に作ったクッキーで、ぺーやんにはひとりで作ったカップケーキ。大事にされているのがどちらかなんて火を見るより明らかだ。可視化された格差に自然と下唇が突き上がる。
 モヤモヤとした気持ちが胸に襲いかかってくると、手元の作業も疎かになってしまう。雑になるあまりよれてしまった布をピンと引っ張り、次に縫う位置を確かめながら針を動かす。

「あっそ。じゃあ本命じゃなくて身内用の丁寧な義理チョコってわけね」
「そーだけど……なんか言い回しが腹立つな」

 存分にトゲを含んだ言葉を吐き捨てればぺーやんは眉をひそめてこちらを睨めつけた。

「……っつーか何むくれてんだ?」
「別に?」
「顔、怖ぇし」
「集中してるからだろ」

 考えれば考えるほど膨れ上がる嫉妬を、もはや抑えることすら出来なかった。それでも表情に出ててしまった分くらいは取り繕おうと頬に手のひらを添える。だがいくら揉みほぐしたところでちっとも緩む気がしない。
 怒りさえも混じったような居心地の悪さにほとほと嫌気がさす。細く長い溜息を吐きこぼしたところで心が休まる気はしなかった。
 ――こんなの八つ当たりだ。
 そうとわかっているのに、見苦しい嫉妬が止まらない。

「つか多くね?」

 八つ当たりついでにさらに言葉を投げつける。つい先程まで美点だと思えていた点が、嫉妬にねじ曲げられれば簡単に苛立ちへ変わった。
 作業台に上に放り投げられたカップケーキの袋に改めて視線を伸ばす。先程は流して見ただけだったが、じっくりと観察すれば残り5個も入った袋には底板が敷いてあることに気付く。さんのことだ。きっちり並べて入れたんだろう。その前提で考えれば底板のサイズ感を見るに、最初は9個も入ってたのではと推察できた。
 質より量にしても多すぎでは無いか。その数の分だけさんの愛情がぺーやんに向かっているのだと思うと腹が立ってしょうがない。いくらその愛が親愛だとわかっていても、もはや慰めにすらならなかった。
 作業を再開しようと手元へと視線を戻したところで胸にある鬱屈は消えそうもない。それでもなんとか居心地の悪さを吐き出そうと深い溜息をこぼせば、ぺーやんが「あぁ」と相槌を打った。

「パーちんの分も入ってっからだろ」
「パーちんの?」
「オゥ。パーちんがもりユミ……他校の女子とイイカンジだからだからよォ。のやつ邪魔したくねぇとかなんとか言い出してよ。別にパーちんなら気にしねぇってのに」

 鼻白むような半笑いと共に告げられた詳細に思わず目を瞬かせた。パーちんが他校の女子と仲がいいなんて話は初めて聞いた。だがその新情報よりも先にさんのカップケーキの話だ。
 つい先程羨んだ数が、本当はぺーやんのためではなく半分がパーちんのためだった。その事実に、肩に入っていた力が抜けていく。ぺーやんもパーちんもさんの幼馴染みなんだ。今も仲良くしている以上、片手で足りるくらいの数であれば渡したとしてもなんら不思議ではない。滲む安堵に息を吐けば、停滞していた作業が滞りなく進み始める。

「まぁさんが気をつかったのはその森さんって子相手にだろ」
「森田だけどな」
「いや知らねぇし」

 嫉妬が薄れると自然と軽い会話が弾み出す。さっきは流してしまったパーちんのコイバナに焦点を当てれば尚更だった。聞けば今日マイキーの中学に行くのも彼女に会いに行くためらしい。「本当に隅に置けなかったのはパーちんの方じゃねぇか」と笑えばぺーやんも「隅どころかズカズカ乗り込んでいくけどな」と笑った。

「でもわざわざ出向くってことはパーちんが呼ばれたんだろ。その森田さんって子に」
「あー……。ちょっと違ぇな」

 歯切れ悪く言葉を切ったぺーやんは後頭部を掻きながらさんへ視線を流す。いまだ作業に没頭するさんがこちらに意識を傾けていないのを確認したのだろうか。「……まぁ、いいか」とぼやいたぺーやんはこちらへ向き直り、会話を続けた。

「ゆうべもりユミのやつに電話かけてきたんだよ。パーちんと会うのにうまいことやってくんねぇかって」
「へぇ。そういうのってふたりで遊ぶ約束しといて実はその子が来るってのがセオリーじゃネェの?」

 夕飯の時間にルナが見ているアニメや恋愛ドラマで見かけるような例を挙げれば、ぺーやんも「だろ?」とこちらを指さしてくる。

「もりユミもそのつもりだったんだろうけどよ。のやつ、速攻でパーちんに電話かけやがったんだよ。「明日の放課後、由美ちゃんの学校に行って」ってな」
「……マジ?」
「オゥ、マジだわ」

 どうしてそんな行動に移したのか。さんに悪意があってしたわけではないと信じたいが、それにしたって悪手が過ぎる。
 バレンタインに用事があるなんて言い出すからには、その森田さんって子はパーちんに対し「そういう想い」があるはずだ。さんに相談したのだって直接パーちんを誘う気恥ずかしさが強かったせいだろう。もしかしたらついてきてほしいなんて思惑もあったのかもしれない。
 そういう恥じらいも含めて考えてあげないと、いくら結果的に森田さんの望み通りになったとは言え、いろいろと台無し過ぎる。

「さすがにそりゃねぇだろっつったんだけどよ。「なんで?」って顔すんだよ。……ホンットにバカなんだよなぁ……
「まぁ、裏工作できないのもさんらしくていいんじゃね?」

 ここでぺーやんの悪口に乗ってしまうとあまりにもさんがかわいそうだ。だがフォローのつもりで差し出した言葉も、あまり庇い立て出来る力を持ってるようには思えなかった。
 ――でも、まぁこればっかりは経験だもんなぁ。
 小学生のころ、女子の友だちがほとんどいなかったとさんは言っていた。安田さんたちともはじめはギクシャクしていたのを思えば、その言葉が嘘ではないと信じられる。そういうやりとりも、きっとこれから学んでいくんだろう。
 もう少しやりようはあったのでは、と今更オレが頭を捻ったところで最早どうしようもない以上、森田さんには悪いが、今回はさんの失敗したという経験となってもらうほかない。オレに出来ることはパーちんがうまくやるよう祈るのみだ。

「で、ちゃんと教えてあげたのかよ? さんになにがマズかったか」
「一応な。バレンタインだからパーちんにチョコ渡すつもりなんだろっつったらのやつスゲェ青ざめてよ。今思い出しても笑えるわ」
「あー……想像つくな」

 さんの慌てた顔を思い返すとき、以前ショッピングモールで鉢合わせしたときの情景が頭に浮かぶ。突然声をかけたオレに対し、さんはこちらを見つめたまま絶望の表情を浮かべたものだ。きっと今回も同じような顔してぺーやんを見上げたんだろう。

「協力して欲しい、なんて初めて言われたんだろうな……」

 ぽつりと言葉をこぼしたぺーやんの声を耳で拾い上げ、思わず視線を差し向ける。振り返ったオレに気付かないぺーやんはじっとさんを見つめているようだった。

のやつ、好きな男がにちょっかいかけてんの見た女子に裏でネチネチ絡まれんの多かったからな。まぁ、もりユミがそんなことするタマじゃねぇのわかってんだろうけど……結局、邪魔はしたくねぇからパーちんに渡すのはナシって考えたみてぇでよ」

 組んだ足の上に片肘をついたぺーやんは頬杖をつきながら反対の手をカップケーキの入った袋へと伸ばした。手にしたそれを膝の上に置いたぺーやんは袋を傾けながら視線を落とす。

「パーちんなんて今年ももらえるつもりだったのにさぁ。にチョコくれっつったら無いとか言われててよ。ありゃ見ててかわいそうだったわ」
「もしかして今朝、廊下で揉めてたのってそれ?」
「そーそー」

 今朝、登校した際、パーちんが珍しくさんに噛みついていたのは知っていた。大声で怒鳴るパーちんに毅然として向き合ったさんに対し「さんもやっぱりヤンキーじゃん……」なんて陰口を叩く男子もいたくらいだ。それなりの騒ぎがあっただろうと推測できた。
 現場はあまり見てないが、実際、パーちんに応戦したのはさんの背中にくっついたぺーやんだけだろう。だが常日頃から一緒にいる3人が揉めたとなれば傍目から見たら1対2の言い合いに見えていたってなんらおかしくはない。
 仲裁に入ろうと足を向けたものの、パーちんらの元へ辿り着く前に他の女子に声をかけられたため事の顛末を知ることは出来なかったが、まさかそんなかわいい理由でパーちんが怒っていたとは。今更知らされた事実に口元は緩む。

「そんなクソみてぇな理由で倍食わされるこっちの身にもなれってんだ。まぁ、毎年のことだからいいけどよ」
「フーン……」

 さりげなく長年もらっているのだと仄めかされるとつい先程緩んだ口元さえも押し返し、鳴りを潜めていたはずの嫉妬がまたしても顔を出す。
 毎年、の言葉の重みに思わず閉口する。昨年もその前も、なんて言われてもオレは小学生のころのさんなんて知らない。出会ってもない過去を羨み、嫉妬するなんて不毛にもほどがある。そんなことはわかっているのに、不満を覚えては下唇が尖るのを止められなかった。
 ――パーちんにあげられなくなった分くらい、ぺーやんでなくオレにくれたらよかったのに。
 羨んだところで手に入らないものが転がり込んでくるわけでもない。そもそも自分から突っ込んで聞いたんだ。いくら納得のいかない話だとしてもこれ以上ぺーやんに当たり散らすのもよくないだろう。
 腹の底に沈む感情を押し出すべく大きく息を吐き出した。そのまま沸き起こる苛立ちのすべてを作品作りに向けるように没頭すると、時間はどんどん流れていき気がつけば予定していた30分はとうに過ぎていた。
 キリのいいところで手を止めて室内を見渡せば、いつの間にか他の部員たちも作業を止めていたらしい。それぞれの作品を見せ合いながら膝を突き合わせて談笑する姿が見て取れた。

「もうそっちも終わった?」
「部長。はい、ちょうどみんな今日予定してた分を作り終えたところです」

 今は何をやってるのかを尋ねると、作業の反省点や明後日の部活でどこまでやるかを話し合っていたらしい。いちいち指示しなくても自主的にいつもやっていることを始められる部員に、手が掛からなくて安心だと誇らしく思う。あとで少し聞きたいことがあるという部員らに、ひとまず片付け始めるよう促しながら席を立てば、痺れを切らしたらしいぺーやんが声を上げた。

! 終わったんなら早く帰ろうぜ!」
「良平? いたんだ。声かけてくれたらよかったのに」

 案の定、作業に没頭していたさんはぺーやんの登場に気付いてなかったらしい。こちらを振り返ったさんはぺーやんと視線を合わせると困ったように眉根を寄せた。

「いたわ! っつーかここ入る前にちゃんと声かけただろうが!」
「そうなんだ。じゃあすぐ片付けるからもうちょっと待ってて」
「オゥ、早くしろよ。……ったくよー」

 一通り文句を言ったことで溜飲が下がったのか、ぺーやんは大仰に溜息を吐くと座っていた椅子を元の位置に片付けはじめた。鞄を取る傍らでカップケーキを無造作に紙袋に突っ込んだぺーやんを横目に、自分の周辺を片付け終えたオレはさんの元へと足を伸ばす。

「あ、さん」
「うん?」

 荷物をまとめたあと、すぐにさんはぺーやんと帰ってしまうはずだ。他の部員に質問があるようにさんにも困ったことはなかっただろうか。
 何か聞きたいことがあるなら言ってね。そういつものように声をかけようとした。だが、呼び止めたものの安田さんたちの手元にぺーやんに渡したカップケーキと同じものが置かれているのが目に入ると途端に意識がそちらに傾いてしまう。

「三ツ谷くん?」

 声をかけておきながら黙り込んだオレを不思議そうに見つめるさんに、かけるべき言葉を見失った。だがこれ以上黙ったままではおかしなヤツだと思われてしまう。それだけは避けたい。
 懊悩するままに「なにか言葉を」と探した。だが、頭に浮かぶのはさんのカップケーキに関する話題だけだった。

「……あー。それ、ぺーやんも食ってたんだけど……さんが作ったの?」
「え? ……ああ、うん。友チョコも交換しようってなったから、それで」

 安田さんたちも含めて話を聞けば、昨日クッキーを作った際に自分たちの間でも交換しないかという話になったらしい。女子同士での交換だけならば微笑ましい話だ。特にさんにとって初めての友チョコだと言うんだから喜びはひとしおだろう。
 だけど、そのカップケーキの行き先が女子だけではないのだと十二分に知らしめられていたオレには手放しで喜んであげることが出来なかった。

「――オレは?」
「え?」
「いや、さんにとってオレは友だちじゃないのかなって」

 一緒のクラスで、隣の席で、部活も一緒で。この一年間、自分なりにさんと仲良くしてきたつもりだ。その約一年間の評価が「友だちではない」なんだろうか。
 さんにとって、ぺーやんとパーちんが特別なのはわかりきっている。それでも「その次に仲のいい男子は誰か」と考えた時、オレの名前があがるんじゃないかな、と期待した。
 だが、その思惑もどうやらハズレらしい。もちろんバレンタインにそんなに重きを置くべきではないとわかっているが、目に見える結果にどうしても挫けてしまいそうになる。
 弱音を吐くと同時に自然と落ちていた視線を戻すと、さんと視線が交差した。
 好きな子だから、なんてオレの心情も一役買っているのかもしれない。だが、それを抜きにしてもさんにとってオレがどのレベルの好意の対象なのかまったくわからない。
 キュッと寄せられた眉根だけが、彼女を
困らせたんだと知らしめる唯一の変化だった。

「……ごめん。変な絡み方した。ちゃんとみんなからってクッキーもらったのに」

 気落ちして下がる眉尻を誤魔化すように口元を上げて笑ってみせた。だが、オレを真っ直ぐに見つめるさんの表情は晴れないままだ。
 ――参ったな。本当に困らせるつもりはなかったのに。
 後頭部に手を添えてまたひとつ視線を落とす。もう少しまともに取り繕える言葉はないだろうか。逡巡するままに黙り込んでいるとさんが「あのね」とこぼしたのが耳に入ってくる。「ん?」と顔を上げれば、さんは先程以上に眉間に皺を寄せていた。その表情を目に入れた途端、緊張に喉の奥が詰まるような心地が走る。

「友チョコって女子同士だけじゃないの?」
「え? あぁ……。まぁ一般的には同性同士で送り合うもんだけど……別に異性はダメってわけじゃないと思うよ?」

 厳しいさんの表情に「また傷つくかもしれない」と身構えた。だが、思わぬ方向からの質問に思わず面食らってしまう。
 さんの言う通り、友チョコは主に女子の間で飛び交うものだと認識している。女子から男子相手に渡されるチョコは本命以外、義理チョコに該当するんだろう。そうとわかりつつも、なんとなくその名称を出すのがイヤで正解を口にすることは出来なかった。
 歯切れの悪いオレの返答に、さんは更に眉根を寄せる。

「三ツ谷くんも食べる?」
「……え?」
「もし三ツ谷くんも食べてくれるならウチ来るかなって。まだいくつか残ってるし……どうかな?」

 一瞬、何を言われたかわからなかった。呆けるオレを気にかけたんだろうか。さんは「ちょっと遠いけど」と付け足した。
 ――そういや、代々木方面に住んでるんだっけ。
 以前、話した会話が脳裏をよぎると同時に停滞していた頭が動き出した。耳にした言葉の意味が脳に辿り着くと、じわじわと歓喜が胸に広がり始める。期待以上の言葉に思わず目を瞬かせた。

「――え、いいの?」
「うん。食べてくれるなら嬉しい」

 頭を揺らしたさんを目にすると、沈んだばかりの気持ちがふわふわと浮かび上がっていく。鏡を見なくとも表情に喜色が満ちていくのがわかった。頬に走る熱を隠しもせずに、さんに一歩踏み込む。
 ――せっかくだし行こうかな。じゃあ今日は一緒に帰ろうか。
 そんな言葉を伝えようと唇を開きかけた。だが、その言葉を紡ぐよりも先に背後から声が飛んでくる。

「バッカ。今日オレら集会あっからよ。もうお前と遊ぶヒマなんてねぇよ」 
「あ……そうなんだ」

 荷物をまとめ終えたらしいぺーやんがオレが何かを答える前にさんの申し出をはねのけてしまう。勝手に言うなと憤るよりも先にさんがぺーやんの言葉を受け入れたのを目の当たりにすると、きゅっと唇を結ぶほかなかった。
 ――まさか家に行きたいと食い下がるわけにはいかないよな。
 ここに来たときのしおらしさなんてまったく忘れてしまったらしいぺーやんは肩で風を切るようにこちらへと歩み寄ってくる。「そうだよ、バァカ」とさんに追い打ちをかけるぺーやんを振り返り、そのまま視線を時計へと差し向けた。
 最終下校時刻とまではいかないが、それなりに時間は経っている。残された時間を考慮しても、帰って買い物に行きがてらマナを保育園に迎えに行って、メシの準備して、と考えるとかなり厳しい。
 たしかにぺーやんの言うとおり遊ぶ時間なんて無い。そう納得せざるを得ない状況だ。それでも手に入りかけたチャンスを棒に振るしかない現状に歯痒さは湧き出るし、グラつく天秤を傾ける暇もなく勝手に断られたのは腹が立つ。
 ――せめて次の約束に繋がる言葉くらい差し出せたら良かったのに。
 今となっては取り繕ったところでさんを困惑させるだけだろう。そう思うとおいそれと動くことは出来なかった。
 簡単に飲み下せない感情を抱えたまま襟足を掻き乱していると、片付けを終えたさんの鞄を勝手に手にしたぺーやんが横目に入りますます唇を尖らせる。早く帰りたいがための行動であってもその彼氏然とした行動はオレの苛立ちを増幅させるのに一役買った。嫉妬心を御しきれず、オレの隣を通り過ぎようとしたぺーやんのケツを膝頭で蹴り上げる。突然の衝撃に背筋を伸ばしたぺーやんは憤怒の表情でこちらを振り返った。

「アァ?! ナニすんだよ、テメェ!」
「ッるせぇよ! さんが待ってんだろうが。早く帰れよッ」
「ハア?! 待ってたのはオレの方だっつの! ……クソッ。おい、! 帰んぞ!」
「え、うん。それじゃバイバイ」

 八つ当たりにもほどがある行動を咎められはしたものの、想像以上に軽く流されてしまったのにも腹が立つ。こちらに手を振ったさんの腕を掴んで退出するさまを目にすると尚更だった。
 あのふたりの距離の近さに最初こそ戸惑ったもののこの半年で慣れたと思っていたし、それ以上に嫉妬深いつもりもなかった。だがそんな認識は甘かったらしい。この上なく仲のいい様子を目の当たりにすると、羨望の眼差しを差し向けずにはいられなかった。
 不毛だとわかっていてもなお沸き起こる嫉妬に辟易する。そのうえ守るべき部員たちの前で不良然とした態度を見せてしまった失態に悔恨までもが募った。
 大きく息を吸い込み、唇をすぼめて息を吐ききる。それだけで鬱屈した心境を吐き出せるわけではなかったが、しないよりは幾分かマシに思えた。同じ動作を二回繰り返せば、折り重なった不快感もうっすらと引いていく。最後にダメ押しで、と手の甲で反対側の頬をこすりながら表情を取り繕うと、部員たちを振り返った。

「――ごめんな。変なの見せちまって」
「部長……。いえ、なんか、こっちこそすみません。その、配慮が足らず……」
「いや、安田さんたちはまったく悪くないから」

 しょんぼりと落ち込んだ表情が並ぶと罪悪感はさらに増した。苦笑交じりに彼女らに非はないと伝えたものの、みんなの表情も曇ったままだった。
 ――困ったな。本当に安田さんたちのせいじゃないのに。
 かと言って、もちろんさんやぺーやんが悪いわけじゃない。悪いのは嫉妬に狂ったオレだけだ。
 純然たる事実を前にしてもなお、安田さんたちはオレを責める気がないらしい。その同情や優しさがひしひしと伝われば肩身の狭さに拍車をかけた。
 眉尻の下がりきった彼女らの表情を目の当たりにしたまま、頬を指先で引っ掻いた。申し訳なさが前面に押し出されているとは言え、中にはどこかしょっぱい顔をしている子もいた。そんな顔をさせてしまったのはオレの明け透けな態度を目の当たりにしたせいだろう。
 ――そりゃ、何を言ったらいいかわかんないよな。
 前々からさんに対しアピールしていたのはバレバレだったけれど、ここまであからさまな態度を見せたのは初めてだった。あまりにも歯止めの利かない醜態を晒したんだ。「必死すぎてヤバい」くらい思われてても文句は言えないだろう。
 後から考えてみれば、嫉妬したとは言えぺーやんのケツを蹴るのはいくらなんでもやり過ぎた。我ながらガキみたいな真似をしてしまったと後悔は募る。
 あとで集会の時にでも謝んねーとな。そんなことを考えていると、安田さんがおずおずと「あの」と零した。余所にやっていた視線を安田さんへと向ければ、どこか神妙な顔つきでこちらを見上げていた。

「……来年は個別で用意するようにしましょうか?」
「あー……いや、そこまで気を遣わなくていいけど……お願いします」

 申し出を一度断ろうかと思ったものの、考えを巡らせるうちにすぐさま撤回してしまう。来年も同じような場面に遭遇したとき、怒らずに笑って流す自信が無かった。また今日みたいな態度を見せてしまうくらいなら、感謝と共に申し出を受け入れた方がいいだろう。
 だが来年は個別でとなれば、もしかしたらさんからの義理チョコさえももらえないかもしれない。そんな未来を回避するためには今まで以上に仲良くならなければ。
 そんな決心と共に、手のひらで顔を覆ったまま部員らに頭を下げると同情するような空気が漂ったのを感じた。


 ***

 時刻は18時を迎えようとするころ。集会に赴くべくバイクにまたがって武蔵神社を目指していると、あと一本道をまっすぐ進むのみ、という地点でパーちんと合流した。いつもとは違う道からやってきたパーちんに思うところはあった。だが、部活を終えて以来回復しなかった心境では、そこを突くことすらままならなかった。
 辿り着いた神社にはすでにほとんどの兵隊が揃っていた。日が落ちほとんど夜の様相を見せ始めている中、灯りに乏しい神社は厳しい冬の寒さに満ちていた。
 境内前にバイクを止め、寒さに肩を震わせながらパーちんとしゃべりつつ総長の到着を待つ。「もう少しで集合時間だな」なんてパーちんと話していると、また一段と派手な装飾を施したバイクが神社の前に止まった。首に引っかけたヘルメットをシートの中に入れているのはぺーやんだった。身支度もそこそこに終えたらしいぺーやんは、片手に小さな包みをひっさげたままキョロキョロと周囲を探している。

「なぁ。ぺーやんのやつ、パーのこと探してんじゃね?」
「お。ホントだな。おーい! ぺーやん、こっちだ!」

 大きく手を振ったパーちんの呼びかけに、ぺーやんがこちらへと首を伸ばす。だがそのぎょろっとした視線がパーちんではなくオレの元で止まったことに思わず目を丸くした。

「あ、いたいた。おい。三ツ谷ァ!」
「ん?」

 ぺーやんの呼びかけに応えるや否や、小さな紙袋がこちらに向かって飛んでくる。ポン、と胸の正面でキャッチした紙袋と近付いてくるぺーやんとを見比べた。

「ん? なんだよ、これ」
「あぁ? それ、が三ツ谷に渡しとけってよ」
「え、さんが?」
「出掛けに渡されたんだよ。いいからもらっとけや」

 こちらを指したぺーやんの指先を視線で追う。胸に押しつけるように抱えたオレンジ色の紙袋は白の水玉があしらわれている。たしかにこれはぺーやんの私物の趣味ではない。だけど、今日安田さんたちがさんからもらっていたカップケーキはビニール袋に入っていたのを思い出すと期待しすぎてはいけないのではと身構えてしまう。
 だが、そう自制したところであまり効果はないと自分が一番知っていた。大きさの割にやけに軽い、でもたしかな質量に抑え込んでもなお期待が募る。
 袋を止めるために貼られたかわいい動物のイラストが描かれたシールを剥がし、袋の中を覗き込む。中に入っていたのは、家庭科室でぺーやんが食べていたカップケーキに違いなかった。数にして3個。さんの家にいくつ残っているのかは知らないけれど、あの口ぶりから大量に残っていたとは考えにくい。そんな状況の中、3個も捻出してくれた心意気にじわじわと喜びが身体中に満ちていく。
 いつまでも見つめていたいほどの心境だったが集会が目前に迫っている以上、そうはいかない。必要以上に表情を緩めないようにきゅっと唇を結びシールを貼り直そうとしたが、袋の縁が何か固いものでひっかかる。何か他に入っているのかと検めれば、名刺サイズのカードが入っていた。
 逸る心境を抑えながらメッセージカードに視線を落とす。そこには「三ツ谷くんへ いつも部活でもクラスでも仲良くしてくれてありがとう 」と書かれていた。それを目にした途端、耳の端がじわりと熱を帯びる。
 ――、って……かわいすぎるだろ。
 こういう手紙って普通、お互いの呼称で書くもんなんじゃないだろうか。その暗黙のルールに則れば「」と書くのが正解のはずだ。だが、さんが授業中に誰かと手紙のやりとりをしているのを見たことがないことに思い至ると、そんな不文律を知らなかったのでは、なんて疑念が浮かび上がってくる。
 もしかしたらこの先、「そういうもんだ」と知ってしまったら二度と「」とは書いてもらえないかもしれない。今だけの勘違いだと思えばそれさえもかわいく見えて仕方がなかった。
 恥も外聞も無くカップケーキを欲しがったのはオレだ。さんはそんなオレのワガママに応えてくれた。それだけでも嬉しかったのに、こんなカードまで添えられてしまうと抑えていた口元がだらしなく緩むのを止められなかった。

「……他になにか言ってた? さん」
「ハァ? 別にちゃんと渡せよって言われたくらいだよ」

 ――絶ッ対ェさんは渡せなんて言葉は使わねぇだろ。
 聞いたこともない口調をほのめかしたぺーやんを内心で咎めたものの、ちっとも反発心は浮かばない。家に帰ってからもオレのことを考えてくれたらしいさんを想像しては胸の内を温める。

「いや……うん。いいや。ありがとな。今度ちゃんとお礼言うワ」
「オゥ。オレも帰ったら言うけどよ。お前からもちゃんと言ってくんねぇとオレがまた食ったみたいに言われっからよ。頼んだぜ」

 頭を揺らしたぺーやんはポケットに手を突っ込むとパーちんの隣に並んだ。いつものポジションに収まったぺーやんを振り仰ぎ、口元が緩むままに言葉を紡ぐ。

「さっきは蹴って悪かったな。オマエやっぱりいいやつだわ」
「ハァ? なんだよ、それ。気持ち悪ィ。っつーか甘いもんで機嫌よくなんのさすがにガキすぎんだろ」
「かもな」

 軽い笑いと共に応じれば、ぺーやんは「ワケがわかんねぇ」と書かれたような表情を浮かべた。呆れているのだと隠しもしないぺーやんの隣で、パーちんがおもむろに顔を顰めた。

「なぁ、それからのチョコか?」
「え? あぁ。うん、そうだよ」
「今年はカップケーキだったぞ。チョコチップが入ったやつ」

 たった今、繰り広げたばかりの会話を聞いていなかったのだろう。ケータイを片手に握りしめたパーちんはオレとぺーやんの答えに悲しそうに眉尻を下げた。

「マジかよ……。そのカップケーキ、オレめっちゃ好きなのに……」

 残念そうにうなだれたパーちんの哀愁漂う顔を見ていたら独り占めしているのが申し訳ないような心地が湧いてくる。もしこれが他の女子からもらったものなら「一個やるよ」なんて言ってだろう。
 だが、今回ばかりは誰にも渡す気になれないので、パーちんには悪いが諦めてくれというほかない。もしくは欲しいならぺーやんにねだってくれ。

「パーちん元気出せ! もりユミからちゃんともらったんだろ!」
「バッカ! 声デケぇ!!」

 パーちんを力づけるべくぐいっとその肩を抱いたぺーやんはとんでもない発言をぶちかます。目を丸くするオレ以上の反応を見せたパーちんはシーッと口元で指を立てたが後の祭りというヤツだ。他のメンバーの視線が集まる中、パーちんの耳がいつになく赤く燃えていく。だが、その緩みきった口元が例の森田さんと上手くいったという何よりの証拠に見えた。

「あぁ……もう、クッソ……」

 キョトンとした顔をしたぺーやんを振り払ったパーちんはその場にいるのが居たたまれなくなったのか、ずんずんと奥へと足を運んで行く。その背中を見送っていると、入れ替わりにドラケンが近付いてきた。

「おい。ナニ騒いでんだ。そろそろマイキー来るぞー」
「ドラケン……」

 去って行くパーちんを横目で追っていたらしいドラケンの視線がこちらへと差し向けられる。オレの手元に一瞥を落としたドラケンは、イタズラ小僧みたいな笑みを浮かべた。

「お、なんだ三ツ谷。ぺーやんからチョコもらったのか? やるねー」
「違ぇよ。が三ツ谷に渡せって」

 答えのわかりきったからかいを吹っかけてきたドラケンにぺーやんが即座に反発する。

? あぁ、よく名前聞く子か。悪ィ悪ィ」
「そうだっつの。ったくよー。オレが渡すわけネェだろ。っつーかパーちん! 置いてくなよ!」

 あまり反省の色の見られない謝罪を口にしたドラケンをひと睨みしたぺーやんはそのままパーちんの背中を追いかけていく。少し離れたところから「ついてくんな!」という声が上がったが、ぺーやんが戻ってくることはなかった。
 離れた喧噪に一息つくと、ドラケンの視線がこちらへと戻ってくる。

「で? ちゃんって? ぺーのヨ――」
「違ぇよ。ただの幼馴染」

 最後まで言葉を待たずに食い気味に否定すると、ドラケンは目を瞠りこちらを見つめた。数度目を瞬かせたかと思えば、柔和な視線が落ちてくる。

「――なるほどな」

 ひとりごとのようにつぶやいたドラケンはニッと歯を見せて笑った。ただその一言で、オレの心情に察しが付いたと言われるよりも強く伝わってくるものがある。余計なことを言わないドラケンの大人びた対応がいっそ憎らしい。この場で深く追求されることはないと知りつつも、ドラケンから逃げるように目線を外す。
 それでも相手はほかでもないドラケンだ。オレが黙ったところで勝手に正解を導き出しているに違いない。
 ぺーやんやパーちんにはバカだという一点を除いてもさんについて相談できる気がしなかった。だがドラケンにならあわよくば、なんて考えてる自分の強かさが顔を出す。
 意中の相手からチョコをもらったなんて、浮かれてみてもいいんだろうか。
 そんな考えが頭を過ったが、この場で実行するわけにはいかない。オレに今できるのは、緩みそうな口元を引き締めること。それだけだった。
 複雑な表情を浮かべるオレに一瞥を落としたドラケンは、オレの肩を叩いて背後を振り返る。

「オラ、テメーら集まれ! そろそろ集会始めっぞ!」
「ウッス!」

 その言葉と共に、兵隊らは神社の参道を中心に整列する。オレもまた拝殿へと向かって足を進めようとしたが、手にさんからもらった袋を握ったままだと気付きその場に立ち止まってしまう。
 マイキーのお出ましとなると今からバイクに戻ってシートにしまい込む時間はない。だが集会の間中、ずっと袋を後ろ手に隠したまま立つのもおかしな話だ。かと言って、どこか近くに放り投げることなんてもっと出来ない。
 数秒逡巡したものの、たいした代替案は浮かび上がらず、苦し紛れに特攻服の前を開けて懐に放り込んだ。そのまま階段へと向かって足を進め、何食わぬ顔で立つパーちんとぺーやんの隣に並ぶ。
 参道に向かって頭を下げれば、目の前をマイキーとドラケンが通り過ぎていく。
 階段に腰掛けたマイキーの正面に整列しなおしながら、そっと腹の付近に手を添える。素肌に触れる紙袋の質感はどこかむず痒い。
 ――とりあえず、あとで時間はたっぷりあるんだ。今はマイキーの言葉に耳を傾けよう。
 もう触らない、という自分への意思表示をすべく後ろ手に手を組んだ。顔を上げれば階段に腰掛けたマイキーが目に入る。きゅっと唇を引き締めて、改めて集会へと意識を集中させた。

 ***

 集会の後、まっすぐ家に帰り、流しに置きっぱなしにしていた茶碗を洗ったりマナやルナを風呂に入れたりしていると、気付けば21時を回っていた。オレにとってはなんともなくともちびっ子ふたりには遅い時間とも言える。まぁ、明日は休みだしちょっとくらいの夜更かしは大目に見てもいいんだが。
 横目でふたりの姿を確認すればまだ眠くないと言わんばかりの態度でぬいぐるみを集めて遊んでいる。明日は公園で八戒と遊ぶから早く寝ると言ってたが、その約束があるせいで興奮して寝付けないと言ったところだろう。
 ――もう少ししたら眠たいってぐずり出すだろうからそれまで放っておくか。
 そう算段を整えると、明日の朝ごはんの準備に取りかかる。研いだ米を炊飯器に入れ、起きる予定の時間に合わせてタイマーをセットする。軽く流しを拭いて、ようやく一段落した心地を抱えて自室へと戻った。
 部屋の隅に置いていた鞄と紙袋を引っ提げ、今日もらったチョコをテーブルの上に並べる。スケッチブックやソーイングセットを横に下ろしてもスペースが足りず、畳の上に直置きするのもいくつか出てしまった。自覚はあったが例年よりもだいぶ量が増えたことに軽く息を吐いた。
 ――こりゃマジでお返しは出来そうにないな。
 軽く眉尻を下げ息を吐き出せば、仕切っているカーテンを開けたふたりがこちらの部屋へなだれ込んできた。テーブルの上に並べたプレゼントの山を目敏く見つめたふたりは一様に目を輝かせてこちらを見上げる。

「これ、バレンタインチョコ?!」
「おぉ、そうだよ」
「やったー!」

 嬉しそうにバンザイして走り回り始めたふたりはバレンタインをお菓子がもらえる日だと勘違いしている節があった。一応、明日は八戒にもチョコをあげる準備はしているがおそらくその場で半分は自分たちで食べてしまうことだろう。

「ねぇ、お兄ちゃん。コレ食べていいの?」
「ん、いーよ。でもなるべく賞味期限が近いのから食べてくれよ」
「はぁい!」

 念のための忠告を口にすれば素直な返事がふたつ重なった。チョコへの関心ももちろんあるが、ラッピングにも興味があるのか包装紙やリボンを引っ張っては「コレも欲しい!」や「これ切って折り紙にする!」などと騒いでいる。それらに「いいよ」とか「ハサミ使うのは明日にしとけ」などと返しながら、それぞれ誰からもらったものか紙に順番に控えていく。
 一応お返しは出来ないかもしれないと伝えてはいたが、直前で用意できる可能性もなくはない。当日、大半にはお返しをして、ひとりだけ渡し漏れがあったなんて状況に陥らないためにも念のためリストを作るのは毎年のことだった。
 ずらりと書き出したリストに目を滑らせる。手芸部のみんなと書いた下にさんの名前を書き添えるとほんのりと胸の内が暖かくなる。
 ――さんにも、もらえたんだよな。
 思い出すと同時に緩みそうになる口元に力を入れ、きゅっと引き締めた。それでも納まらない気持ちに背中を押されると、さんからもらったものが見たくなる。特攻服から着替えた際、ふたりに見つからないようにと引き出しに隠しておいた紙袋を取り出すとテーブルの中心に置いた。

「お兄ちゃん! それなに?!」

 新しい包み紙の登場にいち早く反応したルナが隣に滑り込んでくる。一歩遅れてマナもやって来たことで両サイドをがっちりと押さえられた。ここまで関心を持たれて隠すのも意地悪がすぎるだろう。そう思い、紙袋を開けばふたりともぐいっと身を乗り出して中を覗き込んだ」

「カップケーキだ!」
「手作りなら今日食べた方がいいよね? 食べていい?」
「これはダメなやつ」
「えー! ちゃんと3つあるのに!」

 今にも手を伸ばしそうなふたりから隠すべく袋の上にやんわりと手を翳せばルナが不平を言い放つ。その指摘に思わず目を瞠った。
 たしかにルナの言うとおり、カップケーキは3つ入っている。これはオレひとりで食べるつもりでいたが、さんがどういう意図でこの数にしたかまでは聞いていない。もし本当にルナとマナの分としてあえて3つにしたのならちゃんと分けてあげるべきなんだろう。
 それでも他ならぬ妹たちであっても今回ばかりは簡単には譲れそうもない。せめて一個を半分とか、もしくは一口くらいなら、なんて考えたものの気に入ったものは続けて食べたがるふたりに通用するかどうかは一種の賭けでしかない。
 眉を顰め、内心で唸り声を上げながら苦渋の決断を下す。迷いに迷って出した結論はやはり誰にも譲りがたいというシンプルな独占欲だった。

「悪い。これは兄ちゃんにひとりじめさせてくれ。それよりホラ、こっちも美味そうだぞ」
「わぁ! ルナうさぎがいい!」
「マナにも見せて!」

 オレンジ色の紙袋を抱え込みながら手芸部の子らからもらったクッキーを差し出せば、カップケーキへの執着なんてすっかり忘れたように飛びついた。動物のかたちをした中身を広げはじめたふたりにホッと安堵の息を吐く。

「食べるのはいいけどあとでちゃんと歯磨きするんだぞ」
「うん、わかった!」
「あと兄ちゃんの分も一枚くらいは残しておいてくれよ。今度会ったときに感想も伝えたいからな」
「はーい!」

 素直な返事に口元がほんのりと緩む。クッキーについてはあらかじめ妹たちとも食べてと言われていた。食べた感想もだけど、ふたりがこれだけ喜んだこともちゃんと伝えないとな。
 ビニール袋の上に型別にクッキーを並べはじめたふたりを横目にそっとカップケーキの包みを開く。その中に入っているメッセージカードを眺めては、満たされていく心に目を細めた。

「お兄ちゃん! 牛乳も飲んでいい?」

 書かれた文字を何度も目で追っていると、クッキーを並べ終えたことでどれを食べるかの決心がついたのだろう。ルナが立ち上がりながらこちらに声をかけてくる。もうほとんど台所へ向かおうとしてる様に「ダメだ」と言う気にはなれなかった。

「うん、いいよ。でもお腹壊すといけないからコップ半分ずつな」
「うん! マナ、行こう!」
「うん!」

 パタパタと足音を鳴らして台所へと向かうふたりを眺めていると、楽しそうな様子に口元は綻ぶ。このままだと一緒にクッキーを食うことになりそうだし、カップケーキも食いたいからオレも牛乳でも取りに行こうかな。
 席を離れる前に、と広げた未開封の箱を重ねながら、そっとさんからもらった包みに手を伸ばす。
 ――手芸部の子たちにもだけど、さんにもちゃんとお返しがしたいな。
 一部だけ贔屓するのはよくないとは思いつつも、どうしても想い人だけは特別扱いしてしまう。何がいいかな、何を贈れば喜んでもらえるかな、なんて。一ヶ月間、頭を悩ませることすら楽しみだった。
 紙袋とメッセージカードを重ね、じっと眺める。ただそれだけで、ますます胸の内があたたかくなっていく。台所にそっと視線を伸ばし、ふたりが牛乳に意識を払っているのを確認すると、テーブルに置く前にそっとカードに口づけた。





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