生駒01:振り回す

081.振り回す



 お母さんから預かった孝二くんの差し入れを抱えて、本部へ向かう。道中、孝二くんに「もうすぐ着くよ」と連絡を入れてみれば「あと10分か15分くらいで着く予定やから隊室で待ってて」と返ってきた。
 隊室の一言に、にわかに心臓が跳ね上がる。私の中では用事がなくとも立ち寄りたい場所ランキングの堂々第一位に輝く生駒隊の隊室。その場所に今から大手を振って立ち寄っていいだなんて、僥倖以外の何物でもなかった。
 走り出した心音を抑えるべく、手のひらを胸に当て、ふーっと長い息を吐く。だが、何度か繰り返したところでまるで効果は無く、暴れ始めた心音はいつまでも胸の内を強く叩き続けた。
 まるで整う気のしない気持ちを抱えたまま、孝二くんが所属する生駒隊のメンバーの顔触れを頭の中に思い浮かべる。
 こっちに向かっている途中の孝二くんがいないのは確定で、マリオちゃんは今週は放課後の掃除当番があるって言ってたし遅くなるはず。
 残るは三人のメンバー。その中のひとりの顔があとのふたりを押しのけるように大きくなると期待にますます胸が高鳴る。
 ――じゃあ、もしかして、イコさんがいるかもしれないのかな。
 その考えが頭を掠めた瞬間「きっといるよ!」と言わんばかりに胸の内がさらに踊り出す。
 イコさんは大学生だから、もっと後に来るかもしれない。けど講義の取り方によっては私たちよりもずっと早く本部に着くこともあると聞いている。
 ソワソワとした感覚に促されるまま、本部に向かう足が自然と駆け足に変わる。
 目的の場所に誰にいて欲しいのか。約束の相手は孝二くんのはずなのに、今、私の胸にあるワクワクの中には、孝二くんの姿は微塵も含まれていなかった。

 心做しか足元が3センチくらい浮いた心地のまま自分のとこほ隊室に立ち寄り、トリオン体の設定をいじってもらうと一目散に生駒隊の隊室へ駆けていく。
 その途中、曲がり角で鉢合わせたウチの隊長たちに「イコさんとこの隊室に行ってきます!」と別れを告げながら、目的地へと急いだ。ほんの少し駆けた先にある生駒隊の隊室の前に辿り着いた私は、駆け込んだ勢いのままドア横にある呼び鈴を押す。
 走ってきたせいで息が弾んでいるのも手伝い、ばくばくと鳴る心音を手のひらで押さえながらドアを見上げる。
 軽く目を見開いたイコさんが「あ、ちゃんやん。どないしたん?」なんて言いながら出てきてくれることを期待した。だけど、いくら待っても、イコさんどころかドアそのものが開かれない。

「アレ、誰もいないのかな?」

 いつもならすぐに誰かしら出てきてくれるはずなのにおかしいな。そんな疑問とともに首を傾げる。試しにもう一度だけ呼び鈴を押してみたがやはり反応はなく、モニターに繋がっているだろうカメラを覗き込んでもうんともすんとも言わないままだった。
 念のためにとドアに耳をくっつけてみたが、誰かの話し声も聞こえず、物音ひとつ耳に入らない。
 どうやら本当に誰もいないらしい。そう気付くと同時に膨らんだ期待が急速に萎んでいく。
 ――いなくても仕方ないか。イコさんも忙しいよね。
 しょんぼりと落ち込むままに肩を落とす。片手に提げた孝二くんへの預かり物を胸に抱えながら壁に寄りかかるとその場にずるずるとしゃがみ込んだ。
 別に約束なんてしていないし、イコさんがいないのは仕方ない。〝もしかしたら会えるかもしれない〟なんて勝手に考えた挙げ句、勝手に落ち込むのなんてあまりにも身勝手だ。
 そう分かってはいても、胸に広がる落胆はなかなか消えてくれなかった。

「早く来ないかなあ、イコさん……」

 もはや待ち人を完全に上書きした私は漏れた本音と一緒に溜息を吐きこぼす。抱えた膝に顎を乗せながら、一定のリズムで爪先を揺らした。だが、そんなことをしたところで状況がすぐさま変わるはずもなく、無意識のうちに溜息を重ねるだけだった。
 なんとも言えない心地を抱えたまま立てた膝に頬を乗せ、真っ直ぐに伸びる廊下を見つめる。
 ――孝二くんが来たら驚かせちゃおっかな。
 腹いせにそんなことを考えながら飾ってある観葉植物をぼんやりと眺める。
 あの陰に隠れたらちょうどいいかな。
 次にくるのが孝二くんじゃなくても、誰か来た瞬間にバアッて驚かせちゃってもいいかも。海くんならノってくれそうだし、マリオちゃんなら「そこ、見えてるで」なんて呆れつつも構ってくれそうだ。あー、だったらカメレオンもつけてもらってたらもっと楽しかったかも。
 出来心で思いついたイタズラを頭の中で巡らせていると、ほんの少し気分が上向いてくる。不貞腐れたままなのもよくないよね。嫌な気持ちを追い出すように溜息を吐き出すと、そろそろ立ち上がろうかな、と膝裏に力を込めた。
 その瞬間、不意に頭上から声が落ちてくる。

「――ちゃん?」
「あっ! イコさん! こんにちは!」

 その姿を振り仰いだ瞬間、目の前がきらきらとひかり出したような錯覚を覚える。
 私が眺めていた方とは反対側からやってきたらしいイコさんは、膝に手を置いて私の顔を覗き込んでいた。視線が合うと、目を丸くしたイコさんはひとつだけ瞬きを挟んだ。それでも離れない眼差しに、久しぶりにイコさんに会えたのと、思わぬタイミングで声をかけてもらえた嬉しさに私は勢いよく立ち上がった。
 だが、勢いをつけすぎてしまったせいか、それともイコさんの出現に気が急いたせいか。思わずその場でよろけてしまう。

「お、わっ」

 慌てて支えてくれようとしたのだろう。イコさんが前のめりになりながら、こちらに腕を伸ばしたのが横目に入る。
 イコさんに迷惑をかけるのだけはダメだ。そんな気持ちが働いた私は、倒れ込む前に膝に力を込め、その場に踏みとどまると、背後にある壁に背中をぶつける勢いで寄り掛かる。結果、強かに後頭部をぶつけてしまったが、なんとかイコさんにぶつからずに済んだ。ほっと安堵の息を吐いたのも束の間。事態はそれだけでは終わらなかった。

「――、っと」

 私を支えようとして空振りしたイコさんの手のひらが私の真横を通り過ぎ、寄り掛かったばかりの壁に押しつけられる。

「おぉ、びっくりした」

 体勢を崩したことに対し、驚愕したと口にしながらもけろりとした顔でこちらを見下ろしたイコさんをきゅっと唇を結んだまま見つめる。
 ――こんなことある?!
 突然の大接近に、一気に混乱に陥った私は、あわあわと慌てふためくことしかできないでいた。
 イコさんの手のひらが壁に押し付けられ、私を覆い隠すように伸ばされている。左右どちらに動いても、二本の腕のどちらかにぶつかってしまうだろう。そのうえ、壁に寄り掛かる私の頭のすぐ上にはイコさんの顔があって、普段と変わらないまっすぐな眼差しが私を見下ろしている。
 頭の奥にいるはずの冷静な私さえも「これって壁ドンだよっ!」と大騒ぎしている状態に、「全然冷静じゃないじゃん!」とツッコミをいられれないほど舞い上がってしまった。
 目と鼻の先にあるイコさんの視線が落ちてくるのを自覚するに連れ、心臓がぎゅうっと苦しくなる。早鐘を打った鼓動に促されるように顔が熱くなると同時に頭の中が真っ白になった。
 ホント、なに、もう! 嬉しい! すごい! どうしよう、孝二くん!!
 めちゃくちゃになった頭の中を建てなおそうにもどこから手をつけたらいいかさえもわからない。自分の感情に振り回されるまま、「ヤバーイ!」と叫び出しそうですらあった。
 さすがにいきなり叫んだらイコさんを驚かせちゃう。そう思い至った私は、喉元に留まった奇声を漏らさないようにと手のひらで口元を覆う。だが、それを目にしたイコさんはハッとなにかに気付いたように身を引いた。

「あ、すまん。今日、昼にカレー食べたからカレーくさかったかもしれん」
「え?! いえいえ、イコさんから別に悪いにおいなんてしてませんし、そもそもカレーはいいにおいですよ!」
「ほんま? 気ぃつかってない?」
「使ってないですっ!」

 両手のひらで口元を隠したイコさんは「ほんま大丈夫?」と首を傾げてくる。それに二回頷くことで返せば、イコさんもまた納得したとばかりに頭を揺らした。

「あとでもっかい歯ァ磨いとくから許してな」
「そんなお気遣いしなくていいですよぉ。私が今、こうやって手で口元隠したの、イコさんが間近にいる! うれしい! ってなっちゃっただけですから」

 歓喜の声をあげそうになったことは伏せつつも、本音を打ち明ければイコさんは「そうなん?」と真顔で首を傾げた。

「なんや、そんなアイドルにやるような反応されると妙な気持ちになるな」
「あ、イヤでした?」
「イヤではないけどな。なんや、よう落ち着かんわ」

 落ち着かないと口にしたイコさんは、いつものように鷹揚な顔つきのまま両腕を胸の前で組む。一見、何も気にしてないような表情だが、その肩が忙しなく震えているのを目にすると、イコさんの言うとおり少なからず動揺があるのだと窺い知れる。

「まぁ、ちゃんがイヤやなかったんならえぇわ」
「はいっ。イコさんの側にいて、私がイヤな思いすることなんて絶対にないですから、そこは安心してください」

 イコさんへの想いの大前提を口にすれば、一瞬面食らったように口元を引き締めたイコさんは「せやったらえぇけど」と繰り返し、組んでいた腕を解いた。

「それよりさっき、ゴンって音鳴ったけど……。ちゃん、頭、ぶつけたんと違う? 大丈夫? 痛ない?」
「あ、そういえば……。でももうなんか色々あって飛んでっちゃいました」

 ぶつけた箇所を確認しようと片手を上げ、患部に触れる。押すと鈍い痛みが残ったが大騒ぎするほどの痛みではない。大丈夫、と口にする代わりに口角を上げ頭を揺らせば、イコさんは気遣わしげな視線と共に私から一歩距離を取った。

「そぉ? 俺がいきなり声掛けたからびっくりしたんよな。ごめんな」
「イコさんのせいじゃないですよ。私が大袈裟に仰け反っちゃっただけなんで。鍛えます、体幹」
「あとからでも痛むようならそっちの隊長に詫びに行くからちゃんと言ってな」
「ふふ。そういうのは大丈夫ですけど、はい」

 責任感の強いイコさんの言葉に思わず笑みがこぼれる。痛覚設定をオンにしているとは言え、今はトリオン体なんだから問題ないですよ。そう伝えようと口を開きかけた。だが、私が口を挟むよりも先にイコさんが「それで話戻すけどな」と会話を振ってくる。

「今日はどうしたん? こんなとこで。ウチに何か用でもあったん?」
「はい。ちょっと孝二くんにお届け物が」

 母親のお使いだと示すべく預かってきた紙袋を見せると「そうなんや」とイコさんは頭を揺らした。

「せやったらこんなとこで待たんとコッチ入ったらえぇよ」
「え! いいんですか?」
「ええよ。たいしたお構いは出来んけど」
「じゃあ、遠慮なくお邪魔します」

 隊室のロックを解除したイコさんの背中を追いかけて隊室にお邪魔する。足を踏み入れると、自宅とも隊室とも違うその部屋特有のにおいが鼻をかすめた。

「いつ来ても落ち着きますねぇ」
「そう? ならよかったわ」

 整理整頓されているのに、どこか居心地のいい空間に自然と口元がほころぶ。孝二くんも用がなくてもしょっちゅう来るって言ってたのも頷ける。部外者の私でもまた来たいなって思わせる空気がここにあった。と、言っても私の場合は8割くらいイコさんがいるから、という理由に突き動かされるまま遊びに来ているのだが。
 お気に入りの空間とは言え、さすがにいつまでもきょろきょろと見渡すのは気が引ける。そう思い、先に部屋に入ったイコさんの隣に飛び込むと、ちらりとその横顔を見上げた。

「イコさんは、今日なにかご予定あるんです?」
「そうやなぁ……。ひとまず今日はランク戦のおさらいやって、その後は各自で個人戦の練習ってところやなぁ」
「そうなんですね。じゃあ、孝二くん来るまで待たせてもらってもいいですか?」
「そのつもりで入れたんやから、もちろんえぇよ。ゆっくりしてき」
「やった」

 思わず小声で本音を零すと、イコさんの視線がちょこっとだけ落ちてくるが、反応を返すよりも先にそのままそっと離れていった。

「あ、せや。ちゃん、お茶でも飲む? 熱いお茶でよかったら淹れるけど」
「いえいえ。お構いなくっ! 孝二くんが来たらすぐ帰るので!」
「え、そぉ?」

 真顔ながらもどこか残念そうに見えるイコさんの手にはどこから取り出したのか、すでに茶筒が握られていた。振る舞う気満々な様子を目の当たりにすると、遠慮しない方が正解だったと気付く。

「やっぱり、淹れてもらってもいいですか?」
「えぇよ。ちょっとそこに座って待っててな」

 私の言葉に安心したように頭を揺らしたイコさんは、作戦室のソファに座るよう促すと、そのままリビングルームに入っていく。電気ケトルを片手に戻ってきたイコさんはそのまま隊室を出て行った。その背中を見送りながら、一度はソファに腰掛けた。
 だがイコさんが戻ってくるころにはすっかり心変わりしてしまい、再びリビングルームへ入っていったイコさんが通り過ぎていくのを目で追いかけるまま首を伸ばしてドアの奥を振り返る。テレビ横に置かれた棚の近くでお茶の準備をはじめたイコさんの背中を眺めては、うずうずとした心地が湧いてくる。
 せっかく一緒にいるのに離れてるのはもったいないよね。そう思った時には既に足がイコさんの元へと向かっていた。

「お茶淹れるの、近くで見ててもいいですか?」
「わあっ!」

 棚の中にある湯呑みを取るために背中を丸めたイコさんの背後からひょこっと覗き込むと、イコさんは背筋を伸ばしながら声を上げた。

「……びっくりしたー」
「ごめんなさいっ! 急に声掛けちゃって」
「イヤ、えぇよ。俺かてビビりすぎてすまんな」

 胸に手を当てて心音を確かめる仕草を見せたイコさんは、「ごめん」の意か、片手を立て、鼻の前で二、三度手刀を切った。

「それにしてもちゃん。忍び足上手いんやなぁ」

 湯呑みにお湯を注ぎながら感心したように呟いたイコさんに、「スナイパーですから」と胸を張りながら答えると、「ランク戦で当たったときはお手柔らかにな」と返ってくる。丁寧な手つきで急須にお湯を移したイコさんと、ランク戦談義に花を咲かせていると、湯呑みを両手に持ったイコさんが「あっちで飲もか」と作戦室へ顔を向けた。
 一歩先を歩く背中を追いかけ、作戦室へ戻ると、改めてソファに座るよう促される。

「やけどせんように、気を付けてな」
「ありがとうございます!」

 腰掛けたばかりのところに差し出された湯呑みを両手で包むように受け取る。じんわりと滲む熱と、漂う湯気に紛れて緑茶のいい香りが鼻先をくすぐった。

「いただきまぁす」

 湯のみに口をつけつつも、すぐに飲むと危険だと判断した私はフーッと息を吹きかける。頃合いを見計らい、恐る恐る湯呑みを傾ければ、熱めのお茶が舌先を湿らせた。

「イコさんが淹れてくれたお茶、すごく美味しいですね」
「そう? 普通のお茶やと思うけど」
「いえ、間違いなく美味しいです!」

 緑茶の味わいがわかるわけではないけれど、このお茶は確実に美味しい。自信を持ってそう伝えれば、イコさんは「そう?」と繰り返しながら丸形テーブル近くの椅子に腰掛け、口元で湯呑みを傾けた。

「あ、ほんまや」
「でしょ!」

 私が淹れたわけでもないのに得意げに返すと、イコさんは「せやな」とひとつ頭を揺らした。

「いつもと違う店のやったけど、えぇ塩梅の味やな、これ。じいちゃんにも美味かったって言っとくわ。ちゃんも気に入ってくれたって」
「はい、ぜひぜひ!」

 力強く頷けば、イコさんもまた湯呑みを傾けながら頷いた。熱いお茶を難なく飲み続けるイコさんに、慣れてるんだろうなと推察する。
 ――イコさん、やっぱりかっこいいなぁ。
 湯呑みを傾ける仕草ひとつとっても様になる。大人だなぁ、とイコさんに見惚れながらゆっくりとお茶を飲んでいると、ふとひとつの疑念が頭に降って湧いた。

「そう言えば、イコさんって、ご実家だとちゃんとしたお茶を飲んでそうですね」
「ちゃんとしたって?」
「はい、あの、くるくるって回しながら、飲む、アレです」
「抹茶から点てるやつ?」
「ですです」

 身振り手振りでイメージにあるお茶の動作を示せば、イコさんは正解を導き出した後、かすかに眉根を寄せた。

「ソレ、京都生まれのモンに対する熱い偏見とちゃうか?」
「えー、違いました?」
「――正解は、CMの後で」

 人差し指を立てて立ち上がったイコさんは、決め台詞をひとつ残すと、飲み終えた湯呑みと急須を纏めて丸テーブルの上に置いた。片付ける素振りを見せられると、のんびりしすぎたかもしれないとにわかに焦りが生まれる。だが、慌てたのも束の間。早く飲み干そうと湯呑みを傾けた私に気がついたイコさんは「ゆっくりでえぇよ」とやわらかく目を細める。

「ごめんなさい。ちょっとまだ一気には飲めそうに無くて……」
「えぇよ。ゆっくり味わうのもお茶の楽しみ方のひとつやから」

 優しい言葉にほっこりとした気持ちが生まれる。遠慮無くちょっとずつお茶に口をつけていると、不意にイコさんが「あ、せや」と声をあげる。

「隠岐、どのくらいしたら来るって言ってた?」
「多分、あと5分もしたら」

 そう答えると、イコさんは「あと5分……」と私の言葉を復唱した。私にとってはたったの5分間。それをイコさんは長いと思ったのか、それとも短く感じたのか。
 短いなって残念に思ってくれてたらいいのに、なんて甘い夢を見ながら熱いお茶を啜る。

「ちょっと表、見てくるな」
「はぁい」

 両手で湯呑みを持ったまま、ドアの方へ向かったイコさんの背中を目で追う。ドアを開け、左右に視線を振ったイコさんは、どうやら孝二くんの姿を見つけられなかったようで「あかんわ」と言いながら戻ってきた。

「アイツ、ちゃんほったらかしてどこほっつき歩いてんねやろな」
「孝二くん、結構顔が広いみたいですし、なんとも……。あ、でもおかげでイコさんがかまってくれてるから、もう少しゆっくり来て欲しいなって思ってますよ」

 そしたらもっとイコさんとふたりきりになれる。そんな好意を明け透けに曝け出してみれば、イコさんは硬直して私を見下ろした。吃驚したような視線が離れない。それに気を良くした私は、ニコーッと笑みを深くさせてイコさんを見上げる。私の会心の笑顔を目の当たりにしたイコさんは、びくりと肩を震わせると、じりじりとこちらから距離を取りながら丸テーブルの上に手のひらを置いた。

「――なんや、部屋暑ない?」
「そうですか? むしろ最近急に寒くなったかなって思ってたんですけど」
「えっ、寒いんやったら暖房入れとこか?」
「えっ、さっきいただいたお茶で身体ぽかぽかなんで大丈夫ですよ!」

 言うやいなや壁に貼られたリモコンの前へ歩き始めたイコさんの背中を追って引き留める。きゅっと服を引っ張れば目を丸くしたイコさんと視線が交差した。
 落ちてくる視線を真摯に受け止めたまま〝暖房は必要ないですよ〟と目で訴えかけてみたが、イコさんは「あぁー……」と頭を抱えてしまう。

「汗まで出てきた気がする……」
「えっ?! 熱が出てきたとかですか? 大丈夫ですか?!」

 外に比べれば隊室内はいくらか暖かいが、汗が出るほどの暑さではない。頭を抱えるほど不調を抱えていたのに長々とお邪魔しちゃったのかと焦る私とは裏腹に、イコさんはまたしても「汗臭くない?」とこちらへの不快感がないかばかりを気にしている。

「そんなの、ホント気にしなくていいですから! それよりも具合、大丈夫なんですか? とりあえず横になります?!」

 隊室にはベイルアウト後に転送されるベッドがある。そこまで連れていこうかとイコさんの手を取った。
 言葉の通り熱がで始めているのかもしれない。イコさんの手は少し触れただけでハッキリとわかるほど熱を持っていた。

「冷やっこ……」

 ぽつりとイコさんの言葉が耳に入る。温度差をイコさんも感じ取ったのだと気付くと同時に名案が頭に閃いた。

「あ、私の手でよければ冷えピタ代わりに使いますか?!」
「?! いや、いやいやいやそれはほんまえぇよ!」

 すかさず手のひらを掲げたが、イコさんは「いや、ほんま大丈夫やから」と身を捩ってしまう。小さなバンザイポーズを取った私から距離を取ったイコさんは手のひらで額を抑えたまま強く目を閉じる。
 くっきりと現れた眉間の皺は、イコさんの苦痛の証だ。そう思うと心配が募ったが、拒絶されてはさすがに近付けない。
 何か助けになることがあれば全部しよう。そんな心構えを持ちつつ、所在なく見守っていると、イコさんは下げた手のひらで顔を覆うと「フーッ」と長い息を吐き出したあと「よしっ」と力強く顔を上げた。

「調子戻ってきたわ。すまん、もう大丈夫やから」
「そうですか? でも無理はしないでくださいね。体調不良ってことなら孝二くんにも言って医務室に――」
「いや! もう全然元気やから! というか、俺そろそろ行くな!」
「え、何か用事があったんですか?」
「いや、特にはないんやけどな。俺は女の子と密室でふたりきりになったらあかん顔やから」

 十分すぎるほど一緒に過ごしてくれたのに、今になって突然NOを突きつけてくるイコさんに驚いてしまう。だが、イコさんにその気が無くとも、私にはイコさんにこの場に残って欲しい事情しかない。具合が悪そうなら尚更だ。

「そんなこと言うなら、私はイコさんとふたりきりになっても大丈夫な顔ですよ」

 ここは孝二くんのいとこという立場を大いに利用しよう。そう思い、孝二くんのいつもの笑顔を思い出しながら目を細めて笑って見せた。
 ものまねに自信は無くとも血が繋がっているのが功を奏したのか、イコさんは「その笑い方、ほんま隠岐にそっくりやな」と感心したように頷いた。

「せやけど、いくら隠岐に似てる言うてもちゃんは女の子やからね」

 あかんあかんと繰り返すイコさんは顔の前に立てた手のひらをしきりに振りながら私から距離を取る。途中、丸テーブルに強かに足をぶつけたイコさんに「大丈夫ですか?!」と近付けば、「えぇてえぇて」とイコさんはしきりに手を振った。

「せや! ちゃんの手ェめっちゃ冷たいし身体冷やすのもよぉないからコレ着ててえぇよ」
「え? えぇ?」

 いつになく落ちつきのない様子のイコさんに戸惑っていると、唐突に隊服のジャケットを脱いだイコさんはこちらに強引に押しつけてくる。
 反射的に受け取ったジャケットを返すことが出来なければ、お礼の言葉を伝える隙も与えてくれないままイコさんは隊室から出ていった。
 呆気にとられた私の耳には、「ほな、また」の言葉しか残らなかった。
 ポツンとひとりで残されると同時に、足がフラフラとソファへ向かう。くるりと身体を反転させ、ストンと腰を下ろしたところで心の立て直しは出来なくて、脱力するまま横になった。
 ――出て行かれちゃった。
 呆然とした心地でその事実を噛みしめる。私と一緒にいたくなくなっちゃったって感じでは無かった。となると、私が入っちゃいけないテリトリーまで踏み込んでしまったのだろうとしか思えない。

「うわぁ……。やっちゃった……」

 イコさんとふたりでいられるのが嬉しすぎてなんだか色々漏れ出てた気がする。失態に頭を抱えながらソファの上で身悶えしていると、するりと手のひらからジャケットが滑り落ちる。

「あ、」

 汚したらいけない。そう思い、ソファに寝転んだまま拾い上げると、イコさんから手渡されたジャケットを両手で握りしめる。まだぬくもりの残るそれを抱きしめ、失意と悔恨に塗れた声を漏らす。
 涙が零れそう。マイナス方面に揺さぶられた感情は、時として私を子ども返りさせる。
 ぎゅっと眉根を寄せたままイコさんのジャケットをお布団と同じように身体にかけるとじっと天井を睨んだ。
 他人の隊室で自分の部屋のように振る舞っている事態に、改めてひとりでいる事実を突きつけられたような気持ちになる。泣かないぞと口元をへの字に曲げているとどこからかドアの開く音がした。
 もしかしたらイコさんが戻ってきてくれたのかも。そう期待して身体を起こしたが、イコさんが出ていったドアは固く閉ざされたままで、期待した姿は目に入らなかった。
 ――隣の部屋の音だったのかな。
 残念な気持ちと共に溜息を吐き、再び仰向けに寝転がる。だが、まばたきをひとつ挟んだ途端、不意に視界に影が差した。

「ちょっとそこのお嬢さーん。ウチの隊長をたぶらかすの止めてくれますぅー?」
「水上先輩……」

 頭上から落ちてきた声を確かめるように、寝転がったまま頭を動かすと、癖毛の中に手を突っ込んだ水上先輩がこちらを呆れた目で見下ろしていた。

「えぇ……、もー。いつからいたんですかー?」
「いたもなにも、おれのが先におったんやて」

 水上先輩の言う通り、この人がやってきたのは隊室の奥からだった。恐らく、水上先輩は私たちが隊室に入ってきたタイミングで一番奥にある部屋に隠れたのだろう。
 そう察すると同時に、最初に呼び鈴を鳴らしたときに誰も出てきてくれなかったことを思い出し、ますます不満は募る。

「じゃあ早く出てきてくださいよー。そしたらイコさんも残ってくれたのにー」
「ふたりきりにさせたろと思ったんやて。親切心、親切心」
「ウソばっかりー! どうせめんどくさかったか、イコさんが私と密室でふたりきりにはならないって思っただけでしょ?」
「はっはは」

 笑って誤魔化すつもりなのか、それともはなから誤魔化す気は無いのか。水上先輩は見え透いた愛想笑いを浮かべながらソファの肘掛けに腰掛けた。
 頭のすぐ近くに座られると圧迫感があるな。そう思い、イコさんのジャケットを抱きしめたまま身体を起こせば、水上先輩が上体を捻ってこちらに顔を向けた。

「それよりその制服、ウチのやないやん。ワザワザ換装してまでイコさん騙すなんてヒドい女やな。リアルな分、美人局どころやないやろ。盛りすぎやねん、軽犯罪」

 怒濤の勢いでぶつけられる文句に思わず目を瞑る。止めどなく耳に飛び込んできた言葉を右から左へ聞き流しながら、自らの服装を検める。
 水上先輩の指摘通り、今着ている制服は三門第一ではなく星輪女学院のものだ。ここに来る前に自分のとこの隊室に立ち寄った理由は、トリオン体の設定をかわいい制服に変えてもらうためにあった。
 おめかしとイタズラを兼ね備えた変装。我ながらいい案だと思ったしオペの子にも太鼓判を押されたのも手伝って意気揚々と見せに来た。
 でも別にイコさんは私の制服がいつもと違ったところでツッコミなんていれてくれないし、目新しくてかわいいなんてことも言ってくれなかった。
 空振りに終わったイタズラをからかわれるならともかく、まさか軽犯罪とまで言われるとは。心外にも程がある評価と不発に終わったアピールの虚しさに、ついむくれた顔で水上先輩を見上げてしまう

「そんな悪い話じゃないですって。普通の女の子同士でも制服交換くらいしますよぉ」

 膨れっ面で反論すると、私の態度に触発されたのか、水上先輩もまた眉根を寄せて私を睨みつけた。

「せやったらトリオン体やって言うたれよ。イコさんの上着までせしめて……。ウチの隊長が風邪引いたらどう責任を取るつもりや」
「えっ! そんなの治るまで私が看病するほかないですねぇ」

 むしろ役得じゃん。そんな気持ちと共にニコニコ笑って返事をすると、水上先輩は目を細めて呻いた後、大仰に溜息を吐きこぼした。

「ホンマ厄介すぎるやろ……」
「水上先輩ほどじゃないですよ」

 ピシャリと言い返すと、更に目を細めた水上先輩は「コイツ……」と漏らした。これはまた二言、三言、文句を言われるんだろうな。
 そう察しがついた私は、お小言は聞く気はありませんよのポーズを取るべく、イコさんのジャケットを膝の上に広げる。
 すました顔でジャケットを畳み始めた私の頭に手を伸ばした水上先輩は、軽く力を入れて押してくる。地味な攻撃だが、上半身が傾く程度の力にムッとする。
 剣呑な空気の中、睨むような視線が交差すると、頭の中で戦いのゴングが鳴った。だが、ひとまずソファから退いてもらおうと手を伸ばした瞬間、ドアの開く音が耳に入る。

、お待たせ……って、なんや珍しい組み合わせですねぇ」
「孝二くん! 聞いてよ、水上先輩が意地悪いよ! イコさんに告げ口していいかな?!」
「隠岐! おまえのいとこ、ほんま厄介すぎるからウチの隊室出入り禁止にしてえぇか?」

 お互いを指さしながら入ってきたばかりの孝二くんに互いの非を訴え合う。いきなり浴びせられた苦情に目を白黒させた孝二くんは私たちの視線をそれぞれ受け止めた後、「息ぴったりですねぇ」とへらりと笑った。




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