進撃006

適性テスト


 朝食のあと、片付けもそこそこに訓練場に集められる。教官が仁王立ちで待つ集合場所には、立体機動装置の実技訓練のための器材が設置されていた。
 訓練兵として、初めての実技。と、言っても今日執り行われるのは基礎中の基礎、姿勢制御がメインの訓練だ。内容はいたって簡単。腰巻にロープを繋ぎ、ぶら下がるだけ。素質の確認として、その場でぶら下がれるか否か、というものだった。ただ、これが出来なければ、即刻、開拓地送りになることを考えれば手を抜くことも、失敗することも許されない。
 私のみならず周囲からも滲み出る緊張感に包まれながら、体に括り付けた装備に指を這わせる。肩や太もも、足の裏に至るまで張り巡らされたベルトは、立体機動装置の一部だった。
――どこか外れているとか故障しているとか無いよね……?
 順番が来るまでの間、おとなしく待機していなければいけないとは理解しつつも、どうしても気になって確認するように引っ張ってしまう。もぞもぞと落ち着きのない様子をみせ始めた私を、近くに立つミーナが見咎めるように顔を顰めた。声には出さず口元だけで「ダメだよ」と注意を受け、他のみんながそうするように腕の後ろで両手を組む。そんな時だった。
「次、!」
「はっ!!」
 教官の呼びかけに拳を左胸に突き刺して応える。ミーナの忠告がなければ、間違いなく怒られていたはずだ。内心でミーナへの感謝の言葉を並び立てる。そのまま前へと進み、器材の前に立った。
 昨日の講義で聞いた手順を思い返しながら、腰のベルトと柱に括られた紐を繋げる。手際に関しても判断材料とされるかもしれないと思うと指先が冷えていくようだった。あらかじめ説明を受けていた通りに繋げ終えたところで、顔を上げる。準備が整うまで待っていたであろう教官が、またひとつ、声を張り上げた。
「ワグナー、上げろ!」
 器材補助の当番のトーマスが、手元のハンドルを回す。2周、3周と回転を重ねることで、程なくしてその力が私の腰元に伸びる紐に伝わった。上に引っ張られる感触は今まで味わったことがなく、言いようのない不安に見舞われる。
 トーマスがハンドルの操作をやめたのが横目に入る。覚束無い足元から、意識して力を抜く。足
が何かに触れることの無い不安は残ったが、思ったよりも安定感があるなと思った。
 若干の揺れはあるが、それでもひっくり返るという程のものではない。浮いてしまえば、なんだこんなものか、という思いさえ出てくる。呆気なく適応できたことで安堵に胸をなでおろした。
 単純に腰のバランスだけでなく、全身の力加減も大事のようだ。気を抜いてしまえば上体が仰け反りそうになることを思えば、上半身にだけは力を入れていたほうがいいだろう。反対に、膝や足首などに変に力を入れないほうがいいみたいだ。
 簡単だ、と気付くと、何かほかに出来ないかと試したくなる。ぶら下がるだけなのが面白くなくて軽く前後に揺らしてみた。問題なく、思った範囲での揺れを感知する。このまま逆さまになった場合、どうしたら起き上がれるのか、というパターンも試してみたいと思ったが起き上がれなかった場合のリスクを考えればそれは今、しない方がいいだろう。もう今の訓練で試せることは他にない。初歩訓練としてはこれで大丈夫だって納得できる。誰に合図するでもなく、ひとつ、うん、と頭を揺らした。
「よし、。合格だ」
 私の行動を黙って見張っていた教官の言葉を皮切りに、トーマスがハンドルの操作を再開する。軽く前後に揺らしながらではあるものの、トーマスがゆっくりと下ろしてくれるのを見守った。ちゃんと地面に足がつく。そのことにほんの少しだけ胸をなでおろし、留めていた金具を外した。装置から離れる前に、チラリとトーマスへと視線を流す。私の成功を褒め称えるかのように力強く頷いたトーマスに、私もまた笑みを返すことで応えた。
 集団に戻ると、周囲がざわついていることに気付く。動向を伺えば、みんなの視線が、ある一角に集中していることがわかった。私が使っていた器材とは反対側の端っこで何かあったようだが、生憎、ほかの人たちに阻まれて確認することが出来ない。
 割って入るのも気が引けて、背伸びして様子を伺っていると、群衆の中から伸びた腕にそっと手を引かれる。いったい誰が、と腕の持ち主を確かめると、ミーナがニッコリと笑って私を見つめていた。
「ありがと、ミーナ」
「いいって。それより、ねぇ、見てよ……
「なに? ……あー」
 他の訓練兵の腕や背中に阻まれつつも、目に入ったのは信じられないような光景だった。姿勢を保つことが出来ない者は何人かいた。ただ、出来ないにしても常に体がぐらついてしまうか、もしくは背中側にやたらと傾いてしまってそこから体を起こすことが出来ないという程度だった。――彼以外は。
 手も足も出ないというのはこういうことなのだろう。真っ逆さまで、何もかもが信じられないと言った表情の彼は、頭に血が上っているだろうに蒼白な顔をしていた。
 エレン・イェーガー。昨日の夕飯の時間に、超大型巨人と鎧の巨人を見たのだといい、話題の中心になっていた人物だ。
 強い言葉で巨人を駆逐するのだと宣言していた彼が、まさかその資格さえ持たないとは。たった今、装置を着けた感覚を思い返してみたが、あんなにも簡単に逆さまになるような要素はなかったように思える。前後のバランスにさえ気をつければ意外となんとかなるのに。もしかしてエレンは人並以上に平衡感覚が乏しいのだろうか。
「おい、見たか。。エレンのやつ、アレで巨人を駆逐するらしいぜ」
「もう、余計なこと言わないの」
 いつの間にか隣にやって来たジャンは私の肩に腕を回し、面白おかしく笑い出す。人の失敗を嘲笑うなんて、本当に性格が悪い。ジャンの手の甲を窘めるように叩くと、回した腕に力を込められる。首元が絞まったことに咳をして苦痛を訴えかけてみたが、その力が緩むことはなかった。
「いや、お前だって笑ってんじゃねぇか」
「笑ってはないよ。ちょっと残念だって思っただけだもん」
「エレンに幻滅したってんなら似たようなもんだろ」
 ジャンの指摘通りだ。形は違えどエレンにとっては私が彼に向けた感情は呆れが含まれたもので、それはジャンがエレンに向けた感情と相違ないものだ。自分が簡単に出来たからといって、他人もそうであるべきだなんて考えることは、ただの傲慢にほかならない。
 エレンは昨日、調査兵団を目指すと言っていた。だが、彼がいくら望んだところで、この訓練さえ卒なくこなすことができないのなら希望は叶わず、それどころか訓練兵失格となり開拓地に移される。
 残念だな。同じ目標に進むのなら、仲良く出来たかもしれないのに。
 身勝手な落胆を胸に浮かべる。小さく息を吐き出して、唇を尖らせた。それでも気持ちは晴れなくて、脱力するままにジャンの胸に背中を預ける。
「おい、楽すんな。つーか必要以上に近付いてくんなって昨夜も言ったよな」
「今のはジャンがに絡んだようにしか見えなかったんだけど…」
 寄りかかった途端、突き飛ばされる。前の人とぶつかりかけたが、すんでのところで堪え、振り返ってジャンを睨めつける。私の視線なんてものともしないジャンは、ミーナに窘められようが自分の主張を変えることはなかった。
「俺はいいんだよ。ちゃんと分別があるからな。でもは違うだろ? なんでもかんでも考えなしに突っ込んできやがる」
「まぁ、それは否定できない、かな」
「ちょっと! ミーナってば、どっちの味方なのよぅ」
 私の悲痛な訴えに対し、残念そうなミーナの視線がこちらに向けられる。おそらく彼女の脳裏には兵団に入る前に私がやらかした数々の惨事が目まぐるしく浮かび上がっているのだろう。ミーナの同意に気をよくしたのか、ジャンの表情が格段に明るくなる。
「な? だからお前から俺に接近するのはナシなんだよ」
「……ケチ」
「おい、何か言ったか」
「ちょっと痛いって。ジャン、離してってば!」
 伸ばされてきた手で顎を掴まれ、強制的に上を向かされる。体が持ち上がるというほどではなかったが、頬だけでなく喉が突っ張ると上手く呼吸ができなくて、ジャンの手の甲を叩いて降参だと意を示した。
「ジャン、やりすぎ」
 ミーナの静止を求める言葉に、チッと舌を打ち鳴らしたジャンは乱暴に私の顎から手を離した。投げ捨てるような動作に、今度は踏みとどまることができなくて、その場に尻餅をついてしまう。
 ドサっと土を叩く音に、周囲の目がこちらへと向かってくる。その中には昨夜、ジャンに突き飛ばされたところを助けてもらった少年の姿もあった。座り込んだ私の姿を捉えた彼は目を丸くする。私に向けていた視線を横に流し、憮然としたジャンの姿を確認した彼は、やけに強ばった表情を浮かべる。
 ひとつ、溜息を吐いた彼が、こちらへと歩み寄ってきた。体が大きな彼が目の前に立つと、簡単に彼の影で私の体が覆われた。
「なんだ、またお前たちか」
「うん……またです。ごめんね?」
「いや、俺に謝られてもな……立てるか?」
 がっしりとした手が差し出される。尻餅をついただけだから、ひとりでも立ち上がることはできたのだけど、彼の折角の好意を無下にする必要もない。手のひらに刺さった小粒の石を払い落とし、彼の手に掴まった。
 立ち上がろうと膝を曲げた途端、腕に引き上げる力が入る。それと同時に、ふわりと、いとも簡単に立ち上がることができた。同年代の男の子からは感じることのなかった力強さや男らしさが垣間見え、ぐっと喉の奥に息が詰まったような感覚が走る。
 屈めていた背を起こし、ちらりと彼を見上げる。先程と変わらず、特徴的な眉根を寄せた彼の咎めるような表情に息を呑んだ。彼の出現に、私だけでなくジャンやミーナも思わず黙り込んでしまっている。高圧的でもないのに、妙な威圧感が彼にはあった。
「訓練中にふざけるのはあまり感心しない。教官の目に止まる前におとなしくしておくんだな」
 生真面目そうな彼の、実直な言葉に俯いて、体を小さくさせてしまう。目をそらしても、肩で息を吐くような音は耳に入ってきた。
――呆れられちゃったみたい。
 つい昨晩、彼からお小言を頂いたばかりだというのに、昨日の今日でもう彼の忠告を無視するような振る舞いを目の当たりにさせてしまった。申し訳なさと後悔に胸が痛む。ジャンと小競り合うことが習慣づいているとは言え、本当におとなしくしてないと揃って兵士失格の烙印を押されてしまう可能性だってある。それがわかっているからこそ、彼も憎まれ役を買って出てくれたというのに、裏切るような真似をしてしまった。
「まぁ……そんなに落ち込むな。俺は別に叱るような立場にいるわけじゃない。単なるお節介だ」
 しょげた頭に大きな手のひらが乗る。数度、撫ぜられたその手つきは昨夜も感じたものだった。小さな子供を寝かしつけるかのように、柔らかく触れる手のひらに、目を細めた。
 私が上を向いたことで、彼の手が離れていった。「じゃあな」と一言残し、背を向けて、元いた位置に戻っていった彼に、じっと視線を向ける。彼の背を眺めながら手のひらに残る感触を追いかける。大きな手、ということだけで父親のことを思い出す以外で、なんだかひどく懐かしいような気がした。
――私は、この手を握ったことがある……?
 確信のない仮定を頭に思い浮かべ、あまりにも根拠のない記憶の捏造に薄く笑ってしまう。ただ単に逃げているだけなんだ。関係のないところから父のことを思い出そうとする臆病な心がそうさせた。頭を振って、中途半端に上げていた手のひらを体の横に下ろす。
 頭の中から余計な考えを追い出すと、彼の隣にベルトルト、そして噛み殺しきれなかったあくびを隠すように口元を手のひらで覆うがいることに気付いた。
 ぼうっとしている私を、不思議そうな顔をしたベルトルトが頭だけでこちらを振り返って見ていた。視線が合うと、困ったような表情で私とジャンを見比べたベルトルトは、小さく笑い、そのまま装置が置かれてる正面へと向き直ってしまった。



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