進撃005

女子寮


 遠くで、起床を促す鐘が鳴る。音を機に、意識が覚醒へと導かれ、閉じた瞼越しながらも窓から射す光に否が応でも気付かされる。まだどこか意識が眠りに残る中で、薄らと瞼を開けば、知らない天井が目に入った。
 昨日はだれかの家に泊まったんだっけ。だけど、親戚の家に行った覚えもなければ、よく遊びに行ったジャンの家の天井ともまた違う。何より、こんな風に手を伸ばせば届くような位置に天井を見た覚えがない。ならば、ここは一体どこ?
 まだ正常に動かない頭でぼうっと考える。そのまま、右手を天井へと突き出した。近くにあるように感じた天井も、腕を伸ばしただけでは届かないらしい。起きれば届きそう。そう気付きながらも、いまだ眠気の残る体ではそれを行動に移すことは憚られた。
「ん……」
 耳に入った声に、誰かそばに居るのかと頭を動かす。薄く開いた目の隙間から見えたのは、ミーナの横顔だった。あれ、ここってミーナの家だっけ。いまだ回転の鈍い頭で考えていると、昨日の記憶が朧気に蘇ってきた。
――あぁ、訓練兵になったんだった。
 じゃあ、ここはミーナの家じゃなくて、兵舎じゃん。早く起きないと、教官に怒られちゃう。そうはわかっていてもまだ眠たいんだよなぁ。強い眠気に抗いながらも、このままベッドに溺れてしまえばどんなに幸せなんだろう、と楽な方へと流されそうになる。
 眠りと覚醒の狭間で揺らぐ私を尻目に、隣で身じろぎしたミーナが私よりも先に体を起こしてしまう。半目でミーナの動きを追っていると、彼女の視線がこちらへと向いた。
「おはよー、。よく眠れた?」
「ミーナ……おはよぉ……」
「あはは、結構しっかり寝てたみたいね」
 寝ぼけ混じりの声で返すと、ミーナは面白そうに笑った。あくびをひとつはさみ、ベッドの上で伸びをする。ミーナの言うとおり、意外としっかり寝れたようだ。昨晩までは入団前の緊張による疲れが、確かに両肩にのしかかっていたはずなのに、今朝は感じられないのがその証拠だ。
 観念して起き上がると、子どもを褒めるような手つきでミーナの手のひらが頭の上ではねた。甘んじてそれを受け入れ頭を揺らす。掛け布団を畳み、端に置きながら改めて部屋の中を見渡すと、ひと部屋に30人近くが押し込まれていることに気が付く。こんな大人数と同じ部屋で寝るのは初めての経験で、あまり眠れないかと思っていたけれど案外順応できるものだな、と自分のことながら感心した。
 ハシゴから降りる途中で、下のベッドからひょっこりと顔を出す者がいた。見慣れない黒髪の艶やかさが目に入り、一瞬で、目を奪われる。
 ミカサ・アッカーマン。昨夜、同室の子らとの間で交わした自己紹介の中でも多くを語らなかった彼女は、辛うじてシガンシナ区の出身であることだけを明かした。私が床に降り立つのと、彼女が立ち上がるのはほぼ同時のことだった。ミカサは私と視線を合わせるとかすかに目を細める。
「ミカサ、おはよー」
「おはよう。
 挨拶もそこそこに立ち去ろうとしたミカサだったが、私の視線が自分から離れないことを感知し、その場に立ち止まってくれる。じっと見上げていると、ミカサが不思議そうに首を傾けた。
 肩の上でさらりと流れた髪は、昨晩切り揃えたばかりのものだ。誉めそやしたばかりの髪を短くしたミカサを、ジャンが見たらまたショックを受けるんだろうな。起こり得る反応を脳裏に描き出すと、自然と笑ってしまう。突然、笑みを浮かべた私を、ミカサは冷静な瞳で見つめ続ける。
「なに?」
「あ、ううん。髪、短くしても似合うなって」
「……どうも。それより、ぼうっとしていると、朝の点呼に間に合わなくなる。急いだ方がいい」
「ん、分かった」
 忠告を残して先に行ってしまったミカサの背中を眺めていると、ハシゴから降りる途中のミーナに、ポンと肩を一つ叩かれる。
「さ、準備準備。今日は立体機動の初歩訓練だってよ」
「はーい」
 支給品のタオルを片手に、洗面場へと足を運ぶと、既にそこは同じ目的を持つ者でいっぱいになっていた。顔を洗うにも順番待ちだったり、髪をまとめるにも櫛を貸し合ったりと、髪留め一つ付けるのにだって一苦労だ。だけど、どこか安心感があった。誰かと一緒にいる。それだけで、ひどく自分の中で満たされていくものがある。
 歯を磨きながら、周囲を見渡す。同じ年頃の女の子だけの賑やかな朝の風景に、自然と頬は緩んだ。
「……へへ」
「なーに、笑ってんだぁ」
「うわっ」
 突然、背後から肩を組まれ、変な声が出た。口の中に突っ込んでいたままだった歯ブラシを抜き、盛大に咳き込む。半分涙目で顔を上げれば、誰が犯人なのか目に飛び込んでくる。完璧に油断していた私を、悪い顔で笑ったのはユミルだった。
「朝からご機嫌だなぁ、。お前、さては”イイ”夢でも見たんじゃねぇのか?」
「やだ、もう。ユミルってば。へへ、なんでもないよー」
「怪しいなァ。おい、なぁ、クリスタもそう思うだろ?」
 私と同様に唐突に声をかけられたクリスタは元々大きな瞳を更に開き、私とユミルとを見比べた。クリスタの戸惑いがやけに大きいことに気付く。
 ぎこちない態度を見せる彼女は、昨晩、人の少ない農村で暮らしていたとかで、同じ年の頃の友達が出来るのは初めてだと言っていた。人慣れしていないのもそのせいだろう。
「違うよー。いい夢なんて見てないよっ。クリスタ、信じてー」
 ストレートに助けを求めると、微かに安堵の色を表情に浮かべたクリスタは、躊躇いながらもユミルに視線を向ける。
「えっと……は違うって言ってるし……違うんじゃないのかな……」
「んだよ、つれねぇな」
 私を解放したユミルは今度はクリスタに絡み始める。その隙に、と口を水ですすぎ、タオルに顔を押し付けた。顔を拭き、ふたりへと視線を戻せば今度はサシャに絡みだしたユミルを止めるクリスタの姿が目に入った。
 ふたりは昨日出会ったばかりだと言っていた。ユミルはともかく、実際、クリスタは遠慮がちな態度でユミルに接している。だが、ユミルが傍若無人に振る舞うのを止めるクリスタという構図があまりにもしっくりくるため、ふたりは前からの友人同士だっけと思い違いをしてしまいそうだ。これから3年一緒にいれば、ふたりはますます、いいコンビになるんじゃないかな。そんな予感がした。
 空いた鏡の前でサイドの髪が邪魔にならないように、とヘアピンで留める。長年着け続けているそれは、よく髪に馴染んだ。いつもと変わらぬ位置にあることを確認し、早々にその場を離れる。長居することを習慣づけてはお互いの為にならない。まだまだ鏡に用がある子は、たくさん控えているのだから。
 今日の予定にはミーナに聞いた通り、立体機動の実技訓練が含まれている。朝食を取った後、すぐに実技に移るのは胃腸に悪いんじゃないのか、だなんて懸念もある。だが、現場に出れば、それが日常になるはずだ。そこも含めての訓練、というやつなんだろう。
 簡単に着替え、その上から兵団支給のジャケットを羽織る。脇腹までしか丈のない珍しい形状のそれは、立体機動装置の邪魔にならないようにデザインされたものらしい。
 服装にどこかおかしいところはないか、他に忘れ物はないか、と自身の周囲を見回す。パッと見てわかる箇所に異変がないことを確認し、そろそろ訓練場に行こうか、と部屋の出入口に足を向けた。
 だが、視界の端に、見過ごせない異変を感じ取り、視線をそちらに向ける。
 入口の一番近く。ベッド下段で、壁に寄り添うように眠っているからこそ誰も気が付かなかったのだろう。一見、掛け布団が丸まっているだけのようにも見えるそれに近付けば、金色の柔らかな髪が布団の隙間から覗いていた。
 そっと肩のあたりだろう場所を揺すれば、布団がめくれ上がり、不機嫌な瞳が私を見返す。視線の強さに怯みながらも、ここで諦めるわけにはいかない、と勇気をふるい声をかけた。
「アニ、もう起きないと点呼に遅れちゃうよ」
「……あぁ、そうだね。わかってる」
 低い声で応えたアニは、腕全体で目元を覆い、差し込む光含めて、私の声や目覚めから逃れようとする。頭では理解しつつも起きられない。その気持ちは痛いほどわかった。私だって起きなくてもいいのなら、気の済むまで寝ていたい。だが、今はもう訓練兵という立場にある。この状況で惰眠を貪るようなことをすれば、サシャと同じく罰走か、もしくはそれ以上の罰を与えられることだろう。
「アーニー。起きてー」
「……うるさいな、わかってるって」
 いつも起こされる側の私が、下手なりに声を掛けてみたが、アニの機嫌を損ねるだけであまりいい成果は得られない。くすぐってみようかな、だなんて、いたずらな考えが沸き起こるが、実行して嫌われちゃったら悲しいなんてもんじゃない、と思いとどまる。
 いまだ体を動かそうとしないアニにじっと視線を向ける。ミカサと同じく、口数の少ないタイプらしいアニは、昨夜の自己紹介の輪に混じっていなかった。むしろ、みんなの自己紹介が終わる頃にのっそりと帰って来たんだっけ。
 昨日の座学の時に偶然、隣に座ったということもあり、仲良くなれたらな、だなんて一方的に感じていたんだけど、私には難しいんだろうか。人でも猫でも構いたがる傾向のある私では、アニにちょっかいをかけすぎてしまうかもしれない。
 小さく息を吐く。声をかけることは諦め、アニのベッドの縁に腰をかけた。眉を顰め、アニの動向を見守っていると、アニもまた、深い息を吐き出した。
「……起きるよ」
「よかった。おはよう、アニ」
 あまり眠れていないのか、疲れた顔をして起き上がったアニに笑いかけたが、アニは同じものを返してはくれず、そっと私から視線を外した。



error: Content is protected !!