進撃008

夕食後


「あ、なぁ、おい」
 食堂の出口で偶然一緒になったミーナとアニと共に寮へと戻っている道中に、不意に声をかけられた。立ち止まり、振り返ると少し離れたところからエレンがこちらへ駆け寄ってくる様が目に入る。
 ミーナは私と同様に立ち止まる。だが、アニに関しては私らが一方的に話しかけてるだけ、ということもあり、私たちが立ち止まろうがどうしようが、エレンの声など聞こえなかったとばかりに、歩みを緩めることはなく、その場を離れてしまう。
 立ち去るアニに視線を向けながらも、やってくるエレンを無視することもできなくて待ち構える。目の前に辿り着いたエレンは、私たちに声をかけるより先に胸に手をやって息を整える。伏せていた顔を起こしたエレンは、鋭い視線を私に差し向けた。
――なんだなんだ? エレンから文句を言われるようなことをやった覚えはないぞ。
 向けられた視線の強さに負け、思わず一歩分後ずさる。頭の中で申し開きの言葉を並べ立てながら、なにかやらかしていないか記憶を探った。だが、実際にエレンと喋るのはこれが初めてのことで、なんらかの不興を買うことすら出来ないはずだ。
 あ、でも、もしかしたらさっき食堂で話していたことがエレンの耳に入ったのかもしれない。ジャンの暴言を止める立場にいたと自分では思っていたが、エレンからしてみれば輪になって自分の悪口を言っているように聞こえたとしてもおかしくはない。
 それとも昨夜、ジャンとエレンとでひどい喧嘩でもしたとか? そういう苦情なら慣れっこだ。小さい頃に、近所のガキ大将からお前の幼馴染をどうにかしてくれと言われた苦い経験を思い返す。
 怖い顔をしたエレンを見上げながら、どんな言葉が来ても応じるぞ、と、心の中で身構える。口元を真一文字に引き締めたエレンは、厳しい表情を浮かべたまま言葉を紡いだ。
「お前さ、、だったよな。ちょっと話できないか?」
「あ……じゃあ、先行ってるね。
「あ、うん。また後でね、ミーナ」
 エレンが引き止めたのが私だけであることを察したミーナは、先行するアニを追いかけて立ち去ってしまう。出来ればそばにいて欲しかったけれど、それを望むのは酷に違いない。
――こんなに怖い顔したエレンからは、私だって逃げ出したい。
 立ち去るミーナを見送るように、私から視線を外したエレンの表情を盗み見ながら、そんなことを考える。縋るようにお腹あたりの衣服を掴む。出来ればその険しい表情だけでも緩めてくれないかな。そんな叶いそうもない願望を抱えつつ、私はへらりとエレンに笑いかけてみた。
「で、エレン。どうしたの、急に」
 初めてしゃべるよね、だなんて茶々を入れる気は微塵起こらなかった。ミーナへと向けていた視線が戻ってきたあとも、エレンの眼光は突き刺すように鋭いままだったからだ。
「あー……その、なんだ」
「うん……なに?」
 ほんの少しだけ躊躇するように、エレンの視線が揺らいだ。だが、審判を待つ身としては、その躊躇いさえも、暴言の算段をつけているのではと疑ってしまい、気が気ではない。刺すならばいっそひと思いにやってくれ。追い込まれた私は、そんなことまでも考えてしまうほどだった。
「お前、さっきの立体機動の訓練の時かなりうまく姿勢を保ってたよな。なぁ、オレにもそのコツを教えてくれよ」
 揺らいでいたエレンの視線が、私へと戻ってくる。かち合った視線は相変わらず、友人や知人に向けるものと呼ぶには鋭すぎるものだった。だが、紡がれた言葉が耳を通り脳に浸透する頃には、その鋭さがほんの少しだけ緩んだように感じられた。
 無意識のうちに「え」と言葉をこぼす。それに被せるようにエレンは「頼むよ」と続けた。
 縋るような言葉に、胸の内にあった緊張感がほぐれていく。怒られるわけではなかったのかという安堵により、ようやくエレンの状態に目が行くようになった。
 額には複数の傷があり、顔を洗ってもなお残る泥のすり込んだような痕は見ていて痛々しいほどだ。厳しいものと思っていた表情も、眉を顰めているのは変わりなかったが、その眉尻は困り果てたかのように下がりきっている。一度気がつくと不思議なもので、怒ったような表情が泣きそうな表情に見えてきた。
 そういう顔をされると弱い。世話焼きというほどじゃないけれど、小さい頃からジャンの面倒を見てきた弊害か、誰かに頼られるとその想いに応えたいと感じるようになっていた。
「いいよー。私で出来る範囲でってなるけど」
「本当か! 助かるっ!」
 真っ直ぐな視線が輝いた。希望が見えたと言いたげなその表情が眩しくて面食らってしまう。エレンってば、怖い顔してるけど意外といい子なんじゃないの。きちんと喋る前に、一方的に怖い子かもしれない、だなんて下した評価を恥じる。照れ隠しにコホン、とひとつ咳払いをして喉を整えた。
「……で、どの辺りが苦手なのかな?」
「全部だ」
 自信満々なエレンの言葉に、私はまたしても面食らって瞬きを繰り返す。
「うん?」
「だから、全部」
「……だよね」
 どうやら聞き間違いではなかったようだ。訓練中のエレンの有様を思い返し、はは、と力なく笑った。だが、あの状態で「姿勢だけは完璧だ」などと妙な自信を抱かれたほうが手に負えない。そういう意味では、エレンは現状を正しく認識できているだけマシと言えるだろう。
 ただ一つ、気になる点があった。私が装置に揺られている間、エレンは逆さまになっていたはずだ。降りてすぐに目の当たりにした人垣を思い返し、その予測は正しいものだと確信している。
――ならばいつ、エレンは私がきちんと装置に適応していたことを知ったのだろうか。
 気になって尋ねてみると、逆さまの状態で自分と同じくらい出来の悪い子がいないか探したのだとエレンは答えた。その状態で問題なくぶら下がっていた私に目をつけたのだと付け加える。
 そういうことか、と妙に納得できた。確かに私がエレンと同じような事態に陥ってしまったら周りを確認するはずだ。
「で、はどうやって上手いこと扱ってたんだ?」
 会話の流れを元に戻すべく、エレンが再び質問を投げかけてくる。さて、どのように説明したものか。初めての実技、という割には呆気なく対応できたことを顧みるに特別なコツが必要だったとは思えない。直感的にどうすればいいのか、わかってしまったのだ。
「言葉にするの難しいなー」
「そこはなんとか頑張ってくれよ」
「頑張るけど……私、考えるよりも先に手が出るタイプなんだよー」
「あぁ。なんかってそんな感じだよな」
 自虐的に言ったとはいえ、あっさりと同意されるとそれはそれで腹が立つ。教えるの止めようかな。ジト目でエレンのことを見つめてみたが、自分が失言したことにさらさら気付いていない様子に毒気を抜かれてしまう。
 エレンはジャンと似て、ある意味で素直な性格をしているようだ。悪人面なところも含めて共通項の多いことに気がつくと、途端に慣れ親しんだ相手かのように錯覚してしまいそうになる。
 小さく溜息を吐き、気を取り直す。実際に自分がぶら下がったときのことを思い返し、体のどの辺りに力を入れていたのかを考え、感覚を言葉にするよう努める。
「私が気をつけたとこくらいしか話せないけど、いい?」
「あぁ、もちろん!」
「まずね、背中をぐっと伸ばして、でも足はぶらーんって抜いて……こう……足を……ぶらって……」
 身振り手振りで、自分が気をつけた点を伝えてみた。だが、私の言葉を聞くにつれ、晴れやかだったエレンの表情が途端に曇り出す。だが、それでも理解しようと努力してくれたのだろう。エレンは私の動作を真似して「こうか?」と尋ねてくる。ただ、漠然とした言葉では、私が思っていることを満足に伝えきれるはずもなく、互いの感覚のズレを埋められないままだった。ここに装置があればまた違うんだろうけど……。小さく溜息を吐き、自分の言語能力の低さを嘆いた。
「うーん……どう言ったらいいのかなぁ……」
 顎に手をやり、思案するポーズを取ってみせる。一言にコツと言っても簡単に出来たことだからこそ、言葉にするのが難しい。
「あ、そうだ。たしか背中の、この辺に力を入れた気がする」
 背中の中心よりも少し下で、腰よりも少し上のあたり。思いつくままにエレンの背中へと手を伸ばし、その場所を伝えるために押さえた。背筋を伸ばしたエレンが大きく目を開いて私を振り返る。突然、触れてしまったことで驚かせてしまったのだろうか。慌てて手を離し、突拍子もない行動をやらかしたことに謝罪する。
「ごめんね、急に触っちゃて」
「いや、ただ単にびっくりしただけだ。なんてことねぇよ」
「びっくりさせちゃったのは悪いことだよ。ホントごめんっ」
「謝んなって。べたべた触られんのは気持ちわるいけど、今のは別に嫌じゃなかったから」
 ごくあっさりとした態度で私を許すというエレンに、ホッと胸を撫で下ろす。安心するままに気が抜けたのか、それが表情にも現れてしまう。結果、エレンに意図せず笑いかけたようになった。
 唐突に微笑んだ私に、若干は驚きつつも、悪い気はしなかったらしいエレンもまた、緩やかに口元を曲げた。笑うと途端に幼さを増した表情に、ますます親近感を覚える。エレンに抱いていた恐怖心は、もうどこにも見つけられなかった。
 いい雰囲気なのかもしれない。友達になろうよだなんて態々言わないけれど、これから仲良くしていくことへの展望を開く予感があった。
 緩む頬と同様に、気持ちにも隙が生まれる。ひた隠しにするのだと決意していた調査兵団への入団希望であるということを、エレンになら打ち明けてもいいのかもしれない。昨日のエレンの様子なら、調査兵団に入ることを死に急ぎだと馬鹿にされることも、向いてないからやめろと止められることもないだろう。そんなことを考えた矢先だった。
 今までに感じたことのないような圧迫感を背後から感じ取ったのは――。
「エレン。立体機動の訓練なら私が付き合う」
 冷えた声、というのはこういうものなのだろう。耳に入った途端に、ゾクッと背筋に冷たいものが走った。慌てて背後を振り返ると、そこには暗い表情の中で、瞳にだけ凄まじい力を込めたミカサの姿があった。
「ミ、ミカサ……」
「なんだよ、ミカサ。オレは今、に聞いてんだから邪魔すんなよ」
 ミカサの迫力も、私の怯えも意に介さないエレンは、簡単にミカサを邪険に扱う。エレンから視線を外し、こちらを見つめるミカサの視線が冷たい。私は何もしていないと無実を訴えたかったが、その瞳の前では言葉を発することさえも憚られた。
 思えば昨日、今日と、ミカサはエレンやアルミンと共に行動する姿ばかりを見かけていた。単なる幼馴染だと聞いていたからてっきり私とジャンのような間柄かと思い込んでいたが、どうやらこの執着は私が知ってる仲の良さとはまた別物らしい。
 男女の仲なのかどうかまではわからないが、今の状況を顧みるに、私はミカサにとってエレンについた悪い虫でしかないだろう。
 その気もないのに敵認定されるのは私の本意ではない。了解。身の安全のためにも、必要以上にエレンに接触することはやめよう。言葉には出さないが、心に、そしてミカサにも誓う。手を挙げ、敵意がないことを示した上で、さらにエレンから退いた。
 それだけで私の意図するものに気付いて欲しい。じっと私の動向を見守っているミカサは表情を変えない。やましいことなんて何一つしていないのに、ひどく焦りを感じてしまった。
今の状態でいくら言葉を重ねても信じてもらえそうにない。
 信じてもらえないのなら、もういっそのこと、この場を退散したほうが賢明だろう。ミカサには、時間を置いて釈明する方がいいはずだ。
「あー……。そう言えば私、ミーナと話したいことがあったんだった。そろそろ寮に戻らなくちゃ」
「おい、待てよ。、まだ続き教えてくれよ」
「エレン。それは私が教えるから問題ない」
「また後でね、ミカサ」
 ミカサにだけ挨拶を残し、踵を返す。エレンの縋るような声には、後ろ髪が引かれるような思いがしたが、これ以上の接点を作るのはあまり好ましくないはずだ。
――ごめんね、エレン。
 心の中でひとつ謝罪の言葉を浮かべ、ミカサの追撃を差し向けられる前に、と一目散にその場から退散した。



error: Content is protected !!