進撃009

夜の散歩


 挨拶もそこそこに、ミカサから逃げ出した私は、彼女たちから離れようとひたむきに走る。走る中でいろんな人たちとすれ違ったが、焦燥があるうちに立ち止まることはできなかった。逃げることばかりが頭の中にあった。
 気付けばかなりの距離を走っていたが、それでもここはまだ、訓練兵団の敷地内だ。どうやら、これから3年間過ごすこの施設は思ったよりも広いらしい。
――もうそろそろ、大丈夫だよね。
 背後を振り返り、ふたりの姿が見えなくなったことを確認し、立ち止まる。普段よりもわずかながら弾んだ呼吸を整えるため、膝に手をついて、深く呼吸を繰り返した。
 こんなちょっとの距離で息が上がっちゃうのなら、やっぱりサシャみたいに何時間も走り続けるのは無理だろうな。瞬発力なら自信はあるが、持久力は人並み程度にしか備わっていない。これからの訓練には、持久力を試されるようなものもおそらく含まれているだろう。そこでふるい落とされないように頑張らないとだな、とひとつ息を吐いた。
 胸に手を当て、いまだに逸る鼓動を確認する。長く息を吐き、逃げ出す直前まで差し向けられていたミカサの視線を思い出す。ただそれだけで、また、心拍数が上がるような心地がした。
 心臓に負担をかけているのは、きっと走ったからだけではない。ミカサへの恐怖心も、理由のひとつだ。誰に差し出す訳でもない言い訳を頭の中に並べ立てる。そのくらい、ミカサのほの暗い視線は、背筋に冷たいものを走らせる迫力があった。
 本来の私の性格ならば、甘酸っぱい要素を見つければ、そのときめきをお裾分けしておくれよ、だなんて言いながら相手を困らせない程度に質問責めを敢行する。だが、恋敵認定されるようなタイミングで冗談めかしてふざけることが出来るほど豪胆ではなかった。
――恋敵、か。
 エレンに興味はあるけど、そういう類のものではないことを自分が一番知っている。エレンへの興味は、あくまで彼の希望が調査兵団であるということが重要なのだ。エレン個人への興味というのなら、私よりもジャンの方が強く抱いていることだろう。もっとも、それはエレンと仲の良さそうなミカサへ横恋慕をしてしまったせいなのだが。
 深く息を吐き、上体を起こす。手櫛で髪を整え、若干ずれてしまったヘアピンを付け直した。右手首を反対の手で掴み、そのまま上へ持ち上げ背筋を伸ばす。頂辺で手を放し、重力に逆らうことなく腕を下ろした。
 体の調子を整えると、ふと、頭の中に映像が閃く。ミカサにみとれたジャン、エレンに執着を見せたミカサ。それぞれ思い出し、小さく口元を緩めた。
――恋は、いつか私もするものなのかな。してみたいな。
 誰が相手であっても、全身で向き合ってみたい。経験がない分、憧れだけはいつも胸の片隅にあった。
 ゆくゆくは結婚して、子どもをもちたいという希望だってある。だが、この世界でその願いが、どれだけ難しいものなのかは理解していた。
 ふと、父さんと母さんのことを思い出した。父さんも母さんも、先の見えない世界だからこそ、若いうちに結婚して、互いに家族になることを選んだ。私も、そんな未来を選びたい。ひとりになった今でも、そう思う。
 もう一度、背中を伸ばして頭を横に振るう。沈みそうになる感情を追い払うために、ひとつ息を吐き出した。
 さて、これからどうしようか。先程、夕食を終えたばかりだし、その後に薪割りの当番などが割り当てられていることを考えれば就寝時間まではまだ時間があるはずだ。
 おとなしくこのまま部屋に戻る気は毛頭ない。今はちょうど一人だし、いい機会だから探索してみようかな。
 閃いた考えを、案外いいかも、と自分で肯定する。明日の夜はサシャと水汲みの当番の予定だし、その後もなんだかんだと予定が入る可能性は高い。今のうちに施設の全容を把握しておくことも悪くないはずだ。
 そうと決まれば、と、早速寮に背を向けて歩みを再開させる。周囲に視線を差し向ければ、私以外にも外を歩いている子は少なくない。誘えば乗ってくれそうな子たちも何人かいたが、今日はこのまま見回ってみよう。もし、何か面白いものを見つけたら、ちゃんと覚えておいて別の機会に誘えばいいよね。


* * *


 あれから15分ほど経っただろうか。目に付いた建物や設備は粗方見回ったはずだ。まだ使用したことのない訓練場を覗いたり、いずれ使うであろう倉庫のドアを開けてみたり、思い思いに動き回っているとあっという間に食堂前へと戻ってきてしまう。
 周囲を伺ってみたが、既にミカサとエレンの姿はないようだった。安堵に胸をなでおろし、食堂の周囲を見回す。デッキや壁際など、まだ疎らながらも数名で話し込んでいる集団の和が目に入った。その中にまぜてもらうのもいいかもしれないが、もう少し、どこか探検したいという欲が勝った。
 食堂の裏も覗いてみようかと思い立ち、鼻歌を歌いながら、ぐるりと壁伝いに裏へと回る。灯りが小さく灯る井戸の近くに人影が見え、目を凝らしつつそちらへと近づいた。そこには、疲れた顔をしてしゃがみこんだサシャと、彼女の背を撫で労うクリスタ、そして腰に手を当てて何やらサシャに言葉をかけているユミルの姿があった。
 彼女らの立つそばにはいくつかの桶があり、恐らく今しがた水を汲んだであろうことが推察される。サシャが疲れている、ということは彼女が水を汲んでいた可能性が高い。
 当番表を確認した時は明日の夜だと思っていたが、私の見間違いだったのか。自分の記憶と現状を並べられた今、記憶が間違いないという確信を持つことが出来ない。見間違いや勘違いが多いと、ジャンによく怒られた経験は少なくないからだ。
 フラフラ遊んで、行うべき労働をサシャひとりに任せてしまったことに、サッと顔から血の気が引いていくのがわかった。
「ごめんっ! サシャっ! 私っ、一日、勘違いしてたっ!」
 慌てて駆け寄ってしゃがみ込んだサシャの隣に膝を着く。突然、飛び込んできた私を、3人とも目を丸くして見つめた。いち早く、私の謝罪の意味に気付いたらしいサシャが、目の前で両手をぶんぶんと振ってみせた。
「いえ! 、違いますっ! 私たちの本来の当番は明日であってます!」
「ホントに?! 嘘吐いてない?」
「本当です! 今日はおふたりの当番の日ですので…」
 手のひらをかざし、クリスタとユミルを示したサシャの言葉にふたりは頷く。サシャに押し付けた訳では無いことに、よかった、と、ひとつ息を吐いた。だが、ふたりの当番の日だというのにサシャだけが疲れているという疑問が残る。表情に出ていたのだろう。私の顔を目に入れたサシャは、また慌てたように取り繕った。
「ただ……私はふたりへの恩を返さねばならなくて…」
「恩?」
「はい。実は昨日、走り続けたことで倒れ込んだ私にクリスタ……いえ、神様が水とパンを施してくださいまして」
「神様はやめようよ……」
「そうなの? やっさしーね、クリスタ」
 膝についた砂を払いながら立ち上がり、クリスタの隣に立つ。軽く肘でクリスタの腕をつつくと、恥じ入るような顔でクリスタは両手を胸のあたりに掲げた。
「そんなことないよ! ただ……あんな風にずっと走ってたのに、その上、夕飯まで抜きだなんて明日からますます大変になると思っただけで……」
 昨夜の夕飯では、パンはひとりにひとつしか配られなかった。つまり、クリスタは自分の分をサシャに与えたということにほかならない。先ほどの言葉から察するに、クリスタは恐らく、他意があってサシャに優しくしたわけではないのだろう。掛け値なしでそんなことができるなんて、ジャンとパンを取り合っていた自分が恥ずかしいくらいだ。
 頬を赤くしてこちらを見上げるクリスタは、筆舌に尽くし難いほどに可憐だ。陽の光の無い夜の中にあって、金の髪が一層輝いて見える。サシャが神様と称したのも頷ける。いや、女の子なんだから女神と言うべきだ。
 クリスタの人を惹きつける魅力に煽られる。抱きしめたい衝動に駆られるままにフラフラとクリスタの肩に腕を回した。
「かわいい……クリスタ……」
「きゃっ! っ!?」
 さらりと頬に触れる柔らかな髪に頭を擦り付けるようにしてクリスタを抱きしめる。驚いたクリスタの声もまた、可憐さに拍車をかける要素だった。だが、クリスタの柔らかさを堪能できたのも束の間で、首裏の衣服を猫のように掴まれて引き剥がされてしまう。
「オイ、いい加減大人しくしとけ。人肌恋しいなら私が抱きしめてやろうか?」
「はぁい……」
 半眼で私を睨むユミルの行動は、小さくなってしまったクリスタを庇うためのものなのだろう。提案通りにユミルに抱きつくのも悪くないのだが、怖い顔をした彼女にそれを臨む勇気はなかった。ユミルの鋭い舌打ちとともに襟首を解放され、息を吐き出す。
「ごめんよ、クリスタぁ」
「ううん、ちょっと驚いちゃったけど……全然嫌じゃなかったよ」
 甘えるような謝罪もクリスタは微笑んで受け止めてくれた。そのいじらしさにまたしても抱きしめたいという想いが溢れてきたが、隣で睨むユミルの迫力に負けて行動に移すことは出来なかった。
 ユミルといい、今日はいろんな女の子に睨まれる日だな。寝起きのアニやさっきのミカサの視線を思い出し、行動を改めた方がいいかもしれないと自身を振り返る。
 私たちの動向を見守っていたサシャは小さく笑って言葉を続けた。
「それでですね。力尽きて寝こけてしまった私を、ユミル……恩人様が担いで寮まで運んでくださったんです」
「……チッ」
 言われてみれば昨夜、気付いたらサシャはベッドの上で眠っていた。自己紹介で盛り上がってる最中のことだったからサラッと流してしまったけれど、ユミルとクリスタが寮に戻ってきた時に気がついたんだっけ、と昨夜の曖昧な記憶を呼び覚ます。
 眠ってしまった人は身体に余計な力が入ってないからこそ起きている時よりずっと重くなると聞いたことがある。ふたりで抱えてきたとはいえ、その労力は相当なものだっただろう。特にクリスタはサシャよりも小柄だからこそ、その負担の殆どがユミルに掛かったはずだ。
「優しいね、ユミル」
「っるせ。生意気言ってると痛い目に合わすぞ」
 ユミルの手のひらがこちらに伸びる。尖る指先が、私の頬を狙っているのだと気付くのにそう時間は必要なかった。抓ろうとする指先を避けていると、クリスタが私の前に立ち、守ろうとその腕を開く。
「オイ、退けよ」
「ユミルがにひどいことしないなら退くよ」
 怖い顔をしたユミルに毅然として言い返したクリスタの芯の強さを垣間見る。背を向けられているため、その表情を見ることはできないが、きっとこの背中のようにまっすぐにユミルを見つめているのだろう。背後にいる私には一瞥もくれないユミルの視線が、それを物語っていた。
 数秒ほど、経っただろうか。不意にクリスタから視線を外したユミルは、下を向き頭を横に振りながら長く息を吐く。
「……チッ。覚えてろよ、
 怖いセリフを吐き捨てたユミルだったが、顔を上げたその表情からは苛立ちがほとんど消え去っていた。
 背後に立ったままクリスタの肩に手を乗せる。クリスタがこちらを振り向けば柔らかな髪が手の甲をやさしくなぞった。
「ありがと、クリスタ」
「ううん。たいしたことはしてないよ」
 耳元で感謝の言葉を囁けば、クリスタはくすぐったそうに身をよじる。肩越しに見えた笑顔はやっぱり可憐だった。
「それより、。こんな時間からどこかに行くの?」
「うん、ちょっと散歩でもしてみようかなって」
「はっ! さては教官の食料庫に忍び込むつもりですか?!」
 クリスタの質問に答えると、今まで大人しくしていたサシャから、過激な発言が飛び出した。あまりの突拍子もない言葉に、ユミルやクリスタ同様にぎょっと目を丸くしてしまう。
「そんな命知らずなことできないよ!」
「本当ですかっ?! ひとりじめするつもりではないでしょうね?!」
「そんなことしないよ!?」
 物凄い剣幕で捲し立てるサシャの言葉を、私もまた強い言葉で否定する。それでも疑わしげな視線を差し向けるサシャに、私だけでなくクリスタもまた困った表情を浮かべていた。
「食料庫には干肉が置いてあるって噂なんですよね。狙うというのならぜひご一緒したかったのですが……うひひ」
 口に溢れたヨダレを拭うサシャに気を取られた瞬間、ユミルの指先が私の頬を捕まえる。不意の攻撃に反応出来なかった。だが尖る指先とは裏腹に意外とその指は優しくて戸惑ってしまう。
 それでも痛みがまったく無いわけではない。痛いよ、と向けた視線は随分情けないものになっていたことだろう。私の困った顔を目にしたユミルは口角を上げニヤリと笑った。
「サシャ、放っといてやれよ。コイツは今から逢引だ」
「へっ!? そうなんですか! ! お相手は?!」
 意外にも色恋沙汰の話が好きなのか、サシャがつばを飛ばす勢いで迫ってくる。キラキラした瞳で詰め寄ってきたサシャにたじろぎつつも、手をかざすことで待ったをかけた。
「そんなんじゃないよ! もうユミルってば! サシャが信じちゃったじゃない!」
「だってよ、ホラ、お前、いつも一緒にいる馬面のやつとヨロシクやってんだろ?」
 含み笑いを隠しもしないユミルは、私の額を小突いてくる。唐突にジャンとの間柄を恋仲と称されたことに、私は目を白黒させた。
「ジャンのこと? ご期待に添えず悪いんだけど私たちはそういうのじゃないんだよね」
「違うの?」
 目を丸くしたクリスタに問われ、邪推することの無さそうな彼女にまでそんな風に勘違いされていたのかと驚いた。ジャンが私を遠ざけようとした理由も今ならよくわかる。私とジャンとの間で普通にかわされる言葉も交流も、傍目から見れば誤解される要素の孕んだものだったらしい。
 周囲との認識の差を今更ながらに目の当たりにした。だけどジャンへの対応を改めるのも無理があるんだよね、だなんて自分を正当化するようなことしか頭に浮かばない。まぁ、誤解されたらと説明すればいいかと思い直し、ジャンへの態度をどうにかしようという意識を頭の中から追い出した。
「違うよー。ジャンは私の弟みたいなもんだから、今更甘酸っぱい関係にはなれないよ」
「なんだよ。アイツだらしねぇな」
 つまらなさそうに溜息を吐いたユミルは白けた様子で目を細めた。同期の恋愛事情を肴に盛り上がりたい気持ちがあったのだろう。ユミルほど露骨ではないもののクリスタやサシャもその表情に煮えきらないものを浮かべていた。
「まぁ、そういう話あったら逐一教えろよ? からかってやるからさ」
「はいはい。もしイイことあったら全力でのろけちゃうからね! 覚悟しといてよっ」
「ハハッ。期待しといてやるよ」
「その時はお祝いしないとね」
「お祝いの時は美味しいもの食べましょうね! 、武運を祈ります!」
「はーい。それじゃ、私、そろそろ行くねー」
 私の宣言を軽く笑いながら受け止めた3人に別れを告げ、探索を再開させた。


* * *


 訓練場を突っ切って、山の麓へと歩みを進める。星の煌きしかない中で足元が覚束無いながらも少しずつ歩みを進める。まだ先へと続く山道も、中腹へとたどり着くよりも前に有刺鉄線により阻まれた。この先は危険だと塞がれた先の道へと視線を向ける。暗闇の中で判別はできなかったが今登ってきた道よりも幾分か険しそうに見えた。手荷物も明かりもない状態で、有刺鉄線がぐるぐると巻かれた先に、この時間から進む勇気はない。
「ここまで、かな」
 振り返れば意外と遠くまで登ってきていたことに気づく。寮や食堂の灯りが遠くに見えた。暗い場所から明るい場所を見る。ただそれだけで心もとないような感情が胸に去来した。鈍く胸の奥が痛むままに、眉を顰める。
 感情に蓋をするように大きく深呼吸を繰り返し、夜の空気を肺に満たす。まだ冷ややかさの残る空気は昼間よりも澄んでいるように感じられた。
 月は明るく闇夜を照らし、その分、影をさらに色濃いものへと変貌させる。耳をそばだてたところで人の気配はなく、虫の声しか聞こえない。世界にひとりしかいないみたいだ。肌寒さも相まって、先程見ないふりしたばかりの寂寥が不意に湧き上がるようだった。
 空を見上げていると、ポカンと自然と口が開いていた。山の中にいるため、周囲に灯りが存在しない。それだけで星の煌めきを強く印象付けた。
 空にある星はいつか見た空と同じだ。だが、かつて隣にいてくれた人たちはもうそばにはいない。
 郷愁に目元に涙が浮かびあがりそうになる。涙が溢れる前に手の甲で目元を擦る。人間、ひとりになると弱い。やっぱり誰かと一緒に来ればよかったとわずかながらも後悔する。
 じっと星空を眺める。どのくらいの時間、そうしていただろう。10分程度なのかもしれないが、1時間近く立ち尽くしていたようにも感じる。風に流された厚い雲が月を覆ったのをきっかけに、詰めていた息を深く吐き出した。
「戻らなきゃ……」
 消灯時刻まではまだ時間は残っているはずだが、あまり遅くなると要らぬ心配や誤解を生み出しかねない。両手で自分の頬を抑え、浮かび上がる感情を閉じ込める。
「……よしっ」
 景気づけに、ひとつ、頬を張った。痛みに触発され零れ落ちそうだった涙が引っ込む。口元を真っ直ぐに引き締めて踵を返し、来た道を辿った。
 足早に寮へと戻る道中で、外套を纏い歩く5人の姿を見つけた。遠目では訓練兵か教官かの見分けが付かなくて、すれ違わないように森の中に身を潜め、彼らの動向を伺う。
 距離が詰まると、その集団が私と同じ訓練兵であることに気付き、思わず安堵の息を吐き出した。
 その中にはつい先程まで喋っていたエレンの姿もあった。だが、そこにミカサの姿はなく、男子だけで出歩いていることを知る。私と同じく探索をしているのだろうか。だが、5人とも一様に険しい顔をしており只事ではない雰囲気を醸し出している。
 先頭を歩いているのはベルトルトのようだ。ランタンを片手に、山道へと入っていく彼からもまた、昨日一昨日と感じたはずの和やかな雰囲気は感じられない。なにかあったのかな。例えば、誰か山の中で迷子になったとか。
 無遠慮な視線を彼らへと向ける。真剣な表情で、時折、会話を交わす彼らの声は届かない。緊張感を纏い、山を登る彼らを見ているだけでこっちまで胸騒ぎがするようだった。
 だが、ひとり、様子が違う者があった。最後尾を歩くだけは目元をこすったり大きなあくびをしたりと、随分と眠たそうな様子を見せる。どうやらの場合は、寄せた眉根も、きつく釣り上げた目元も、歩いたまま眠らないようにと気を張っているだけのようだった。
 引き続き視線を伸ばし、動向を探ろうとしていると、私の視線に気付いたのか、その中の一人と視線がかち合う。名前はまだ知らない。けれど何度か手に触れた、あの人だ。
 周囲を警戒するような視線が、私と視線がかち合った途端、かすかに緩んだ。自らの唇の前でそっと人差し指を立てる。黙っていてくれ、ということなんだろう。うん、とひとつ頭を揺らすと、意図が伝わったのか、その男は白い歯を見せて笑った。



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