進撃025

立体機動装置訓練①


 木の上にとどまって、どのくらいの時間が経っただろうか。空を飛ぶ鳥や、浮かぶ雲の形を眺めるのにもだいぶ飽いてきたことを思えば、随分な時間が経ってしまったのではと危惧してしまう。現実は精々、5分程度の時間なのだろうが、久しぶりの感覚に浸るとそれ以上の時間が流れたのではと錯覚する。
 これほどまでにゆったりとした気持ちになったのは、最近ではまったく覚えがない。訓練兵に志願して2ヶ月、少なくともその間では無かったはずだ。記憶をなぞり、そのことに気付くと同時に、久しぶりの緩んだ空気を甘受したいという気持ちがおおきくなる。
 幸運にも天気は良く、気温も寒くもなく暑くもない。高いところにいるおかげで、吹く風の心地よさまで味わえる。あまりの快適さに自然と顔が綻ぶようだ。
――今が、立体機動装置の実地訓練でさえなければ。
 目を細め、ひとつ、溜息を吐きこぼす。自分が今、本当は危機的な状況にあることに目を逸らしたままでいたかった。だが、そうはさせないとばかりに、金属が樹木を穿つ音が響きわたる。遠いその音が、次第に近づいてくるのを感じ取る度に、気持ちが憂鬱へと近づいた。
 手元にある立体機動装置のトリガーに目を向ける。ここには異常はない。だが、たしかに問題はあるのだ。腰につけたガスボンベに手を這わせ、2回、指の甲で軽く叩いてみる。コンコン、とほぼ空洞であることを示す音が虚しく耳に残った。
 今日の訓練は、残り少ないガスを用い、立体起動装置で如何に早くこの森を抜けるか、というものだった。立体起動装置の扱いにも慣れてきたということもあり、いつも以上に良いスタートを切った私は、一番にゴールに着くことができそうだと半ば確信していた。
 あのスピードを維持できていたのなら、今頃、森を抜けきっているはずだった。だが、現実は厳しく、8割程を進んだところで、加速するためのガスが尽きてしまった。かろうじてワイヤーを飛ばす分は残っているようだが、それもいつまでもつのかはわからない。持たされたガスボンベが軽いことには気付いていたのだが、まさかこんなにも早く切れるとは思っていなかった。その見通しの甘さがこの不遇な状況を生んだのだ。
 振り子の要領で太い枝の上へ辿り着けたのは幸運だった。でなければ、今頃、私は宙吊りのまま誰かの助けを待つハメになっていたことだろう。
 幸運とはいえ、状況は芳しくない。ぼうっとするのにも、もう飽きてしまった。このまま現状を維持したところで状況が改善するとは思えない。なんとかガスを使わずにこの森を抜けられないだろうか。その場に立ち上がり、目指すべきゴールがある方角へと目を伸ばす。
 明確な目印は見つけられないが、森の切れ目のような場所は目に入る。あそこまでならば、歩いて向かったとしても抜けられないということはない。
 だが、その選択肢はできればあまり取りたくない。普段以上の疲れが体に残ると、午後の講義に支障が出そうだからだ。講義担当の教官の話はこれからを生き抜く上で必要なものばかりだ。そう理解していても、体力がなければその話さえも満足に聞ける気がしなかった。
――さっきみたいに振り子の要領で飛べないかな。
 偶然、一度できた動きに頼る愚かさと、疲労と引き換えに安全を取るかを測りにかける。やってみなくちゃわからない、と思えば前者の選択肢を取る方へと気持ちが傾いた。
 だがガスが少ない状況でトリガーがきちんと反応するのか。技工学の授業では説明していたのかもしれない。だが、頭で理解するよりもやった方が早いと感じるタイプの私の頭の中には、その回答は残っていなかった。
――待ってても仕方がない。試してみよう。
 逡巡し、実行に移そうと近くの幹へと目掛けて構えたところだった。間近の樹木に、またひとつ楔が打ち込まれた音が耳に飛び込んできた。
……こんなところにいたのか」
「あれ? ライナー? どうしたの?」
 音に振り返れば、背後に一人、飛び降りてきた者の姿が目に入った。額に薄っすらと汗を滲ませたライナーが私の方へと歩み寄るにつれて、腰の装置がカチャカチャと鳴らす音もまた近づいてくる。
 休憩でもするつもりなんだろうか。サボるだなんて意外だ、と目を瞬かせていると、ライナーは顔を顰めて私を見下ろした。
「どうしたの、じゃない。お前を探しに来たんだ」
 どっしりとした拳がゆるやかに頭の上に落ちてくる。痛みはないが、その重みは頭だけではなく首から肩にかけても伝わるほどだった。
 大きく息を吐き出したライナーを見上げる。頭の上に乗った太い腕越しに怖い顔が見え隠れする。そこには少なくない怒りが滲んでいるようだった。あまりの迫力に思わず首を竦めてしまう。
「とんでもないスピードで飛び出して行ったのが見えたからな。どこかで往生するんじゃないかと思っていたが……」
 握り拳が手のひらに変わり、そのままぐるぐると首を起点に頭を強制的に動かされる。どうやら首を竦めたことがお気に召さなかったらしい。肩から力を抜くと、その手が離れていくのが証拠だった。
「今日は残り少ないガスでどうやってこの森を抜けるか、という訓練だっただろ。忘れたのか?」
「ううん、ちゃんと聞いてたよ。だからガスが切れる前に森を抜けちゃおって思ったんだよね」
「……、ガスは時間ではなく使用量で減るものだ」
 呆れたように呻いたライナーは、理解し難いと言った顔で私を睨み据えた。ガスの無駄遣いは自殺行為だと教官が熱弁を奮っていたのは記憶の片隅に残っている。それをライナーも知っているのだろう。
――それはわかってるんだけど、それでも試したくなったんだよ。
 そう主張しても良かったんだけど、ライナーのあんまりな表情に続けるべき言葉を飲み込んでしまう。
「怪我はしていないか?」
「うん、それは大丈夫だよ」
 なんともないという代わりに両腕を掲げ、ぷらぷらと振ってみせる。自分の胸の前で両腕を組んだライナーは、深く頷いて硬い表情を解いた。
「ならいいが……お前はいつも何やらかすか心配だよ」
 眉根を寄せながらもほんの少しだけ口元を緩めたライナーを見上げる。ジャンにも似たようなことを言われた経験は、もう思い返すことの出来ないほど膨大な数になっている。いつもならば意に介さないその言葉も、ライナーに言われると、次は心配かけないようにした方がいいかな、なんて、しおらしいことを考えてしまう。
「この前の実技の説明されている時も、妙な顔をするなと教官に怒られていただろう」
「だってアレは!」
「アレは、なんだ?」
 先日の失態を覚えられていたことに、にわかに頬が熱くなる。だが、それには理由があったのだ。近くにいたミーナやアニは同じものを目撃していたからこそ、災難だったねと労ってはくれたが、そのほかの子達には未だに誤解されたままだった。
 その弁明を今、ここですべきかどうか、逡巡する。申し開きをすることで、ライナーの私への誤解は解けるが、新たに彼の中でのとある人物への評価が揺らぐことになるかもしれないと思うとおいそれと言葉にはできなかった。
 だが、一度、出しかけてしまったカードを今更引っ込めることなどできるはずはない。目の前のライナーの厳しい表情が、私を問い詰めると語っていた。そうなると私には、もう、このまま突き進むという選択肢しか残されていない。喉の奥に詰まった感情もすべて、解放してやるとやけくそな気持ちで口を開いた。
「もうこの際だから言っちゃうけど……あの時さ、みんな並んでたじゃない? でさ、ベルトルトのすぐ後ろにサシャがいたんだよね」
「サシャが?」
「うん」
 神妙な顔つきで頷いてみせる。怪訝そうな表情を取ったライナーだったが、私の迫真の表情の裏にあるものに気がついたらしく、ハッと息を呑み、目を見開いた。
「まさか……アイツ、また……」
 言葉を詰まらせるライナーに、私はひとつだけ頷いて、重々しく口を開いた。
「芋食べてた」
 私の言葉に絶句したライナーは、組んでいた腕を解き、一歩、二歩、と後退する。よろめくままに前傾したかと思えば、右手は膝に置き、左手で額を抑え、苦々しい溜息を吐きだしたライナーを見つめ、私は小さく唇を尖らせた。
 私の言葉をまるっとライナーが信じてくれたことは、とても嬉しい。だが、結果としてサシャを貶めることになってしまったことが心に引っかかる。
――後で謝ればいいかな。昼ご飯のパンをつけたら許してくれるかな。
 言葉で誠意を示すより、サシャにとっては食糧が一番の誠意だというのをこの2ヶ月の交流できっちり把握していた。そもそもあんな場面で芋を貪り食うサシャに驚いたのは私だけではなかっただろうし、教官からの叱責は甘んじて受けたのだから許して欲しい。もし泣いて責められるようなことがあれば、ミカサの真似してパンを口の中に突っ込んじゃお。
 開き直るようにいたずらの算段をつけていると、ライナーが低い声で呻いた。
「エレンもそうだが……ここには無鉄砲な奴が多い」
 その「無鉄砲」の中に、私も含まれたんだろうなと思うと釈然としない思いがした。
「頭が痛くなる……本当に」
 心底辛そうに顔を歪めたライナーは、上体を起こしながら私を睨みつける。咎めるような視線は真っ直ぐに私に刺さった。だが、厳しい表情をとりながらも、放っておくという選択肢は彼の中には無いらしい。彼の面倒見の良さをお節介だと疎ましく思うより、強く好感を抱く。
 いいな、と思う心境に任せるままに、小さく笑うと、ライナーは怪訝そうに目を細めた。
「どうした?」
「んー。ライナーっていつもいろんな人助けてるんだなって思って」
「そんなに都合の良い人間じゃないぞ、俺は」
 渋面を隠しもせずに溜息を吐いたライナーを見上げ、軽く首を傾げながら視線を合わせる。困ったやつだ、と重々刻まれた顔を見つめても、不思議と腹が立たない。それどころか、自然と笑みが浮かぶようだった。
 今日の訓練は完全に個人単位の評価対象のものだ。同じ班として連帯責任が課せられているというわけじゃない。だから、ライナーが私の面倒を見るメリットは微塵もない。むしろこうやって立ち止まっていることで、到着時間に遅れが生じるデメリットしかないだろう。
 それでも、ライナーは私が何かやらかせば、目の届く範囲で、と言いながらもこうやって探しに来ては助けてくれる。助けてもらう立場の私が、この性格で損することがなければいいんだけど、と不安に思ってしまうほどだった。
 その指摘をしたところで、ライナーの信条を変えることはできない。ならば、水を差さずにその好意を素直に受け入れる方がいいだろう。
「じゃあライナーに助けてもらった私はラッキーだったんだね」
 ニッと笑いかけて見せると、ライナーはちっともからかいを含まない口調で言った。
「出来れば心配しない程度に行動を起こしてくれた方が助かるんだがな」
「反省はするけど善処は……できるかなぁ」
「いや、してくれ。頼むから」
 肩で息を吐いたライナーの腰元でカチャ、と立体機動装置が鳴った。もうこれ以上ここでゆっくりするわけにはいかないと、その音に窘められたように感じる。ふたりで目を合わせ、小さく笑い合った。
「ここで無駄話を続けても仕方が無い。ガスがないんだったな。、その時の対処方法は覚えているか?」
「あんまり…自信ないかなー」
「……その顔にはまったく覚えがないと書いてあるがな」
 泳ぐ瞳を捉えるためか、両頬に手を添えられる。捕まえられた視線は、またしても咎めるような視線とかち合った。だが、睨まれたのも一瞬で、サッと手のひらと視線が同時に外される。バツの悪そうな表情を浮かべたライナーの横顔を見上げていると、口元をキツく結んだライナーが横目でこちらへと視線を流す。
「まぁ、講義の内容では不十分だったからな。……俺が知っている詳細も講義の後にアルミンが教官に質問しているのを傍から聞いていただけなんだが……」
 ガスがなくても動けるかどうか。その対処方法を丁寧に教えてくれるライナーから、表情に現れていた硬さが抜けていった。ライナーの真剣な眼差しを見上げながら、ひとつひとつ頭の中に大切な情報を収めていく。聞いたこともないような話ばかりだったが、理想論と侮る要素はひとつもなかった。
 ライナーが教えてくれるなら、つまらない講義でも、きっと集中して聞くことができるんだろうな。低い声が途切れたと同時に、そんなことを考える。
「説明はこんなもんだ。……わかったか?」
「あとはやってみないとなんとも……」
「それもそうだな。まぁ、俺も補助をするから、一緒に抜けるぞ」
「はーい」
 間延びした返事をした私を一瞥したライナーは、太い笑みを口元に浮かべた。行くぞ、と一言残したライナーの背を追いかける。
 聞いたばかりのことを実践で試すことには、ほんの少しだけ勇気が必要だった。でもライナーがそばにいると思えば、怯える必要は無いとさえ思える。
 時折、振り返りながら進むライナーは、きっと私にまた何かあれば、身を呈してでも助けてくれるつもりなんだろう。迷惑をかけるのは本意ではないんだけど、その心遣いが嬉しかった。



error: Content is protected !!