進撃024

丘の上


 食堂に入ると、がらんとした空間が目に入った。普段なら、数百を超える人数がひしめき合う場所だ。そのような場所に、誰もいないという現実を目の当たりにすると、こんなに広いんだ、だなんて改めて実感する。
 食事を摂る子はもういないのだろうというのは予想していたが、食器洗いの当番の子たちくらいは残ってると思ったんだけどな。
 先程まで一緒に水汲みをしていたサシャの言葉を思い返す。皿洗いと朝食の下準備とやらはもう終わってしまったのだろうか。元々の当番のユミル、そして彼女らと仲のいいクリスタ。
――3人ともいれば、一緒に行かないかと誘えたのにな。
 手に入らなかった未来を惜しみ、残念そうに唇を尖らせた私を、ライナーは不思議そうな顔で眺める。
「どうしたんだ、。なにかむくれるようなことがあったのか」
「ううん! 特にないんだけどね。ちょっと、誰もいないっていうのが予想外だっただけ」
 顰めっ面を笑みに変え、ライナーを振り仰ぐ。「なにも無いならいいが」と口にしたライナーはその大きな手のひらを私の頭の上に置いた。
「だったら早くジョッキを戻して、出発するぞ」
「はーい」
 緩い返事を返す。いつもだったらここで手刀の一つでも落ちてくるところだが、それがなされない。それどころか、応えるようにライナーの手のひらが頭上で2回跳ね、離れていく。この余裕さがジャンとは違うな、と内心でライナーを誉めそやす。
 隣に立つライナーを横目で見あげると、まっすぐに食堂の洗い場へと視線を向けるライナーの横顔が目に入った。真一文字に結ばれた口元を見つめていると、ひとつの考えが頭の中に浮かびあがってくる。
――そういえば一緒にこっちに来ないで、お互いにそれぞれ用事を済ませた方が効率が良かったんじゃないかな。
 今更ながらに思いついた考えを、ライナーにぶつけようかどうか、ほんの少し考える。
――先に資材倉庫で準備しててよ。私もこれ洗ったらすぐに行くからさ。
 そう伝えれば、ライナーはそれもそうだな、だなんて口にしてさっさと倉庫へ向かってしまうはずだ。効率だけを考えるならば、それが最善だ。あまり遅くなってしまっては、就寝時間に間に合わなくなってしまう可能性を孕んでいる以上、実行に移した方がいい。
 心の中で天秤にかける。ライナーと一緒にジョッキを片付けて一緒に倉庫へ行くか、ここで二手に分かれて少しでも時間を短縮するか。
 悩んだのは、ほんの数秒だった。ライナーがせっかくここまで一緒に来てくれたのに、それを追い払うような真似をするのはよくない。人としてダメだ。提案を投げかけてライナーに判断を仰ぐことも、もしかしたら嫌な気分にさせちゃうかもしれないし、やめておこう。
 そう、自分で勝手に結論づけた。


* * *


 ジョッキを洗い、共に資材倉庫へと足を運んだあとは準備もそこそこに、ライナーとともに山へと足を踏み入れた。
 山に入る、と言っても一晩その中で過ごすわけではない。毛布や水用の革袋といった本格的な準備はしなかった。「外套とランタンだけでいいよね」という私の言葉に、ライナーは、念のため、と靴をブーツへと履き替えるように提案をしてくれた。
 ただそれだけの準備で、昨夜よりも幾分も心強く感じる。もっとも、一番の理由は昨夜はひとりだったが、今日は同行者――ライナーが一緒にいてくれるおかげなんだろう。
「この山も、そのうち訓練で使ったりするのかな」
「幹にある傷が訓練で付いたものなら、そうだろうな」
 手近にある木に手を添え、上の方についた傷を見上げたライナーは観察もそこそこに、足をまた踏み出した。私もまたライナーが見たであろう傷跡を眺める。亀裂の中央に、穿つような跡が残っているのを目にし、立体機動装置の跡だろうかと見当をつける。
。どうした? 疲れたか?」
「ううん、ちょっと気になって見てただけっ」
 心配そうに私を振り返ったライナーの隣に、小走りで駆け寄る。何ともないことを伝えるために、ニッと笑いかけてみせると、ライナーはひとつ頷いてまた歩みを再開させた。
 先へ進みながら交わす会話のほとんどは、自然と訓練に関わる内容に塗れていく。
「明日からの訓練もまた崖登りなのかなー」
「だろうな。もしかしたら今日よりも負荷をかけるような課題を設けられるかもしれないな」
「えー……今日のも途中までしかできなかったのに……」
 悲壮な顔をしてライナーを見上げると、「俺に言われてもな」とあしらわれる。ライナーは、今日の訓練をやり遂げることができたのだろうか。ふとした疑問が頭をもたげたが、余裕そうな表情を見れば、尋ねなくとも自ずと答えは出た。
 同じ年頃の男子と比べても随分とガッシリとした体格は伊達ではない、ということなのだろう。うらやましいな、と思うと同時に溜息がひとつ、溢れた。
「頑張んないとだなぁ……」
 溜息混じりでぼやくと、隣を歩くライナーは小さな笑い声を上げた。軽く唇を尖らせてライナーを見上げると、太い笑みを浮かべて私を見返していた。
「その指」
「うん?」
「だいぶ仰々しいが……今日の訓練か?」
 自らの手のひらを翻しながら言ったライナーに、ひとつ頷いて返事とした。あっさりとした返答になのか、それとも10の指すべてに巻かれた包帯の下の傷に思いを巡らせたのか、ライナーは眉根を寄せて非難めいた表情を浮かべる。
「あまり無理はしないほうがいい。背伸びした訓練はいずれ自分の身を滅ぼしかねない」
「はーい」
 お説教めいた言葉を紡ぎ始めたライナーに、顔の横くらいの高さまで両手を挙げ、降伏の意を示す。おどけた様子を見せた私を、ライナーは一切咎めず、小さく口元を引き締めるだけだった。
「まだ痛むか?」
「ううん。本当はもうそんなに痛くないんだ」
 掲げていた手を眼前へと移動させる。指先へと視線を落としたが、意識を向けたところでその痛みが指先に蘇ることはなかった。
 それも当然だ。この仰々しさにはエレンをはじめとして誰もが顔を顰めたが、包帯の下は細かな擦り傷ができているだけなのだ。血が滲むようなことはなく、指先が裂けるようなこともない。ただ、この手指の包帯は、クリスタの優しさがかたちになって現れただけなのだ。クリスタの念のため、の心地よさを反芻すると同時に、ふわりと表情がやわらかくなる。
「訓練の直後は痛かったけど……昔からよく怪我してたせいか治りが早いみたいなんだ」
「そういうものなのか」
「んー。わかんないけどかすり傷程度の痛みには鈍いだけなのかも。だからもう平気だよ」
 不意に笑った私を、ライナーは怪訝そうな顔をして覗き込む。無理をしていないか疑わしいと思っているのだろうか。そういうところも父さんに似ている気がして、ますます笑みが深まるようだった。
「そういうライナーは? 身体大きいし、指先にかかる負担も大きくなりそうだけど」
「俺か? まぁ、さっきも見せたと思うが……」
 休憩も兼ねてか、ライナーが立ち止まる。正面で向かい合い、見易いように差し出された手のひらを一瞥し、視線を転じてライナーを見上げる。生真面目そうな表情には、どこまでの接触を許すかは一切書かれていない。読みにくいな、と思いながらも、せっかくだし、と手のひらを取って検分する。
 指先はやわらかいのに、傷ひとつないのが不思議だった。まだ微かに残る指の付け根の硬さは、薪割りの際についたものだろう。だがそれも時間の経過に伴い、おそらく、本来のやわらかさへと変わりつつある。
 感触と共に伝わる熱は、深い記憶の底にあるものと、やはり似通っていた。だが、似ていたと感じた父の手はどちらかというと硬かったという印象が強く残っている。
 ならばほかの誰かのものと誤認しているのだろうか。私にとって、一番慣れ親しんだ手のひらを思い出す。だが、冷たく骨ばったジャンの手のひらとは、まったく似ていない。長い指をもつベルトルトの手とも、指の節が太いトーマスの手とも、もちろん違った。
 思い返せるだけの手のひらを頭に浮かべたが、ほかの誰かと合致することはなかった。ただそれだけで、ライナーの手のひらの記憶は、誰かのものとすり変わっているのではないのだと確信する。
 触れることでなにか思い出せないだろうか。指先から手のひら、そして手首の付け根に至るまで夢中になって触れている間、ライナーはバツが悪そうに視線を外していた。
 私が記憶を探っていることに気づいていたのか、生来の優しさなのか。ライナーは私のされるがままになってくれていた。
「俺は開拓地に居たからな。鍬を持つことも多かった分、耐性がついたんだろう」
 記憶に掠ることがないことを知りながらも、なんとなく手を離せないままでいると、ライナーが不意に言葉を紡いだ。両手でライナーの手を捕まえたまま顔を上げると、困ったような照れたような表情でライナーは私を見下ろしていた。
「もしかして、ライナーとベルトルトが仲がいいのはそこで出会ったから?」
 開拓地、と言われて一番はじめに頭をよぎったのはベルトルトだった。ベルトルトの名前を出すと、ほんの少しだけ驚いたように、ライナーは目を見開く。
「いや、あいつとは故郷が同じなんだが……仲がいいと話に出したのか?」
「ううん。よく一緒にいるところを見かけるなって思って」
「……なるほどな」
 ベルトルトからの発信ではないことを、納得したかのようにライナーは2回頷いた。ライナーの手のひらから力が抜けたことをきっかけに、私もまた彼から手を離す。またひとつ、頭を揺らしたライナーは、黙って歩みを再開させた。
 先導するように前を歩くライナーの背中を、じっと見つめる。私が歩きやすいように、してくれているのだろう。地面を踏みしめ、均すようの歩調に今更ながらに気付く。夜間であるにも関わらず慣れた様子で歩くライナーに、開拓地での苦役が垣間見えた。
「ねぇ、他にはライナーと同郷の子っていないの?」
「え?」
「あ、単純にライナーと仲がいい人が誰なのかなって気になっただけなんだけど」
 こちらを振り返ったライナーが、あまりにも顔を顰めていたので咄嗟に言葉を取り繕ってしまう。焦りの色が顔に出たのが自分でもわかる。私の表情を見つめたライナーは、ますます眉根を寄せて困惑を顕にした。
――しまった。してはいけない質問だったのかもしれない。
 聞きようによっては、巨人の被害者を探るような質問と捉えられても仕方がない。だが、本当にライナーが誰と交友関係があったのか知りたくなっただけなのだ。ライナーと、そしてベルトルトが共に仲良くしている人なら私も友達になれるだろう、という予感が思わず質問となって飛び出した。
 焦った私を見下ろしたライナーは、小さく息を吐く。他意がないということが伝わったらしく、ライナーは険しい表情を緩めた。
「あとは‥…、くらいだな」
「そうなんだ!」
 意外な名前が出てきたことに目を丸くする。ライナーはともかく、とベルトルトがしゃべっている姿が簡単には想像できなかった。私の驚いた声が意外だったのか、ライナーも目を丸くしてこちらを一瞥する。
「喋ったか? アイツとも」
「うん。初日に。ほんのちょっとだけど」
「変なことを言っていなかったか?」
「どうだったかな……初めまして、って挨拶くらいだったかな……」
 初日のとの会話を思い返す。名乗る前に私の名前を呼んだには、ライナーやベルトルト友また違う話しやすさがあった。こちらの疑問にもさっと気付いてくれたあたり、きっと気が回る子なんじゃないかとも思える。だが、今朝のライナーたちへの態度を思うと、仲が深まれば案外誰にでもわかるような嘘を吐かれたりもするのかもしれない。
 そう言えばは独り言で「そんな目で見んな」だなんて言っていたっけ。もしかしたらあの視線の相手はベルトルトだったのかもしれない。あっさりとした会話や飄々とした態度に、ベルトルトを置いてどこか適当な席を見繕って先に座っちゃうの姿が安易に想像がつく。
 だが、思い返せば、握手を交わしたの手のひらはマメに塗れていた。彼もまた、ライナーたちと同じく開拓地での生活を強いられた者だったのだと今更ながらに気付く。
 自然と唇が尖る。幼い3人が、肩を寄せ合い暮らしてきたことを想像すると、胸の内が途端に冷えていくようだった。
「もしアイツが変なことを言うようことがあってもあまり真剣に考えないほうがいい。適当に喋ることが多いやつだから」
「あ、それは今朝も思っちゃったかも」
 私の表情の変化にライナーは何らかの勘違いをしたようだった。まだ直接的に私が、に適当にあしらわれたわけではない。だが、いずれ起こり得る未来に、ライナーがあらかじめ注意を促してくれたことは跳ね除けるべきではないはずだ。その言葉に乗っかってニッと笑いかけるとライナーもまたしたり顔で頷いた。
「あぁ……。ああいうやつだ。悪い奴じゃないんだが、なんでも鵜呑みにするとこっちが痛い目に遭う」
「ふふっ。気をつけるね」
 笑い混じりの声で応えると、ライナーもまた「そうしてくれ」と笑った。
「そういえば、なんだが。の方こそ、ベルトルトと仲よくしているようだが……」
 低い声が耳に入ってきた。前を向いているからこそ声が響かないというのもあるのだろう。少し距離が出来始めたものを埋めるように、ライナーの隣に飛び込んだ。
「そう見える?」
「あぁ」
「えへへ、友達になったんだ」
 短い肯定に、思わず笑ってしまう。首だけでこちらを振り返ったライナーは「そうか」と言い、まっすぐな視線で私を見返した。じっと私を見つめる割に、何も語ることのないライナーに、なぁに、と聞く代わりに首を傾げてみせた。
「……いや、意外だなと思ってな」
「意外? そうなの?」
 ライナーの言葉に思わず目を丸くしてしまう。私とベルトルトが友達だというのが、ベルトルトと親しいライナーから見て、違和感を覚えるものだというのがにわかに信じられなかったからだ。
 控えめな態度を見せるベルトルトは、たしかに落ち着きがなくいつも騒がしい私とは真逆なタイプと言ってもいいだろう。だけど、だからと言ってそんな私を鬱陶しがるようなところは一切見られなかった。
 優しく、聞き上手なベルトルトはすごく話しやすい。一緒にいても安心できるからこそ、私も簡単にベルトルトに踏み込んでいけた。元々、私が「苦手だ」と感じる相手は少ないけれど、それを差し引いてもベルトルトは仲良くしたいと思わせるだけの魅力に溢れている。
 そういうのは同郷だというライナーの方が知っていると思うんだけど。そこまで考えて、はた、と気付く。
――もしかして、私がベルトルトの友達にふさわしくないと思われてる?
 その考えに至った途端、顔から血の引くような思いがした。大人しいベルトルトに集るうるさい女、だと思われたのかもしれない。それならば”意外”と言われるのも納得だ。
 勝手にショックを受けて、面白いくらいに顔を歪めた私の思考を読み取ったらしいライナーは、「違う」と軽く笑った。ライナーの手がこちらに伸び、額をその指の甲で軽く叩かれる。痛みはないが、それだけで塞ぎかけた心がほぐれるようだった。
「ベルトルトは……そうだな……あいつは最近、他人と距離を取る傾向があってな」
「そうなの?」
「あぁ……前はそうでもなかったんだが…」
 言葉を濁すライナーに、きゅっと口元を引き締める。ウォール・マリア南東の山奥の村が出身だとベルトルトは言っていた。それ以上の話を聞くことはできなかったが、何がベルトルトを変えたのか、手に取るようにわかる。
 巨人の襲撃。自らを襲う災厄に、到底、正気ではいられないような目に遭ったはずだ。
 その時から、おそらくベルトルトは他者との距離感を多めにとるようになったんじゃないだろうか。ライナーの言葉の裏側に潜むものに思いを馳せていると自然と眉根が寄るようだった。そんな私の表情を見つめていたライナーは、歩調を緩め隣に並び、労わるように軽く私の背に触れる。
「仲良くしてやってくれ。俺もその方が安心する」
 兄貴分としての言葉に、うん、と頷いてみせると、ライナーは穏やかに笑った。その笑みを見ていると、どうしてだかひどく安心できた。ライナーって頼りになるタイプなんだな、と改めて実感する。
「ライナーとも仲良くなりたいんだけどなぁ……」
 暗くなりそうな空気を一掃するように、甘えた言葉をストレートにぶつけると、ライナーはまたしても渋い表情を浮かべた。
「……お前はジャンに限らず人と距離を縮めすぎるきらいがあるようだな」
「それはよく注意されるー」
 唇を尖らせ不貞腐れてみせると、背にあった手のひらが上へと移動し、2回、頭の上で跳ねた。
「俺はお前がそういうやつだとわかったから構わないが、中には誤解してしまうやつもいるかもしれん。こっちも気をつけたほうがいいだろうな」
「はぁい……」
 この日、何度目かのお説教に、益々唇が尖る。犬をあやすかのようにわしゃわしゃと撫で付けられる後頭部の髪が乱れるのは、もちろん、ライナーの手による惨劇だ。
 ライナーも接触が多いよ、と反論することも考えた。だが、この調子でいくと”お前にわからせるためだ”だなんて正論を吐かれる未来が簡単に頭に浮かび上がる。
 自分から接触する分はどうとでもなるから余裕なのだが、接触される側というのはどうにも居心地が悪い。慣れてない男子が相手というのもあるのかもしれないが、妙な感覚が腹の底に生まれて、変な音が喉の奥から響くようだった。
 頬を膨らませ、横目でライナーを睨めつける。私の視線を受けても、余裕の表情を浮かべるライナーが憎らしかった。
「着いたぞ、
 妙な違和感を飲み下せないまま無難な会話を続けているなかで、不意にライナーが会話を断ち切った。その言葉に、ライナーの方へと集中させていた意識を景観へと差し向ける。
「おー……」
 昨日と同じ場所、という約束だった。ライナーが言っていたとおり、眼下には確かに、森が広がっていた。だけど昨日とは状況が異なり、今日は曇り空が広がっている。分厚い雲が空を覆い、月の光さえも遮ってしまっているせいか、湖が見えるというより、森の中央がぽっかりと穴があいているかのように見えた。
 視点を変えればまた違って見えるだろうか。そう思い、背伸びして、さらには首を伸ばしてみるが、状況は変わらない。「落ちないよう、気をつけろ」と、ライナーが私の腕を掴んだのをきっかけに、上げていた踵を下ろした。
「昨日はもっとくっきり見えたんだがな」
「そっかぁ……んー、ちょっと残念だなー」
 ちょっと、じゃない。かなりかも。そんな風に続けると、ライナーは困ったように眉根を寄せた。ライナーに残念だという気持ちをぶつけても、どうしようもないのだ。反省の意を示すために「ごめんね」と小さく呟いた。
 チラリと空へと視線を向ける。雲の流れを読もうと目を凝らしてみたが、明かりのない中ではそれはとても困難だった。また、迫る就寝時間を考えればおいそれと、ちょっと待ってみようよ、だなんて提案を差し出せそうもない。
「今日は運がなかったねー」
「そうだな……まぁ、だが、また来ればいいだろ」
「ほんと? また連れてきてくれる?」
 予想していなかった進言に思わずライナーを振り仰ぐ。いまだ眼下に広がる森に目を向けるライナーの眼差しは、不思議と輝いて見えた。
「あぁ。お前も望むなら、だが――」
「行きたい!」
 ライナーの言葉を遮る勢いで願望を口にした。こちらを振り返り、面食らったかのように目を丸くしたライナーだったが、驚きが過ぎればその目元は簡単に和らいだ。
「そうか。だったら、今度は晴れた日を狙って来てみるか」
 具体的な日時というわけではない。だけど、その不明瞭な言葉でさえも、次に繋がるものだと感じられた。喜びにうなじの毛が逆立つような感覚が走る。
 軽い誘いに、同じく軽くノったつもりだった。見れなくとも、”はい、残念”と諦めることもできたはずだ。だが、ライナーに”もう一度”を提案され、こんなにも胸が躍る。よっぽど楽しみにしていたのだと今にしてわかる思いだった。わくわくとした心境に、笑みがますます深くなる。
「うん! 約束だよ!」
「あぁ、約束だ」
 どっしりとした笑みを携え、うなずいたライナーを見上げる。月も出ていない。ランタンの光で翳したわけでもない。それでも、ライナーの瞳がキラキラと輝いて見えた。
――星の瞬きだ。
 降り注ぐ視線を受けていると、先程、井戸のそばで思ったままのことがまたしても頭をよぎる。拭い去りきれない感覚は、高揚としていつまでも心の内に残った。



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