進撃029

立体機動装置訓練⑤


「ねー。そろそろ教官が集合かけそうだし、移動した方がいいんじゃないのー」
 膝を抱えるようにしゃがんでいたせいか、ブーツの縁が当たるふくらはぎが痛い。そんなことを考えていると、他愛のない会話を断ち切るような言葉が背後からかかる。呼びかけに応じるように首を捻れば、提案者であるは教官のいる方を探るように首を伸ばしていた。
 なにか見えるんだろうか。そう思い、私もまたにならい、その場に立ち上がって教官の姿を探した。だが、数百人を超える訓練生の合間からその姿を見つけることは容易ではない。背の高いになら出来たのかもしれないが、私の身長では無理があったようだ。
 私よりも背の高いユミルがそもそも探す気がない様子なのを横目に、早々に諦めをつけ、上げたばかりの踵を下ろす。
「そうだね。そろそろ準備した方がいいよね。――ダズ、立てる?」
「ああ、大丈夫だ……ぐっ」
 先に立ち上がったクリスタに手を差し伸べられたダズが、彼女の手を取り立ち上がろうと試みる。だが、膝に力を入れた瞬間、ダズは喉の奥から呻き声を上げた。
 自分を支えるように額を手のひらで抑え付けたダズの顔を覗き込めば、立ち上がったことで血の気が引いたのか、蒼白な顔色が目に入る。常日頃からダズの顔色がいいことはほとんどないのだが、今はいつもよりもさらに具合が悪そうに見えた。
「まだ、無理そうだね……召集がかかるギリギリまで座っていなよ」
「――あぁ、そうさせてもらう。……すまん」
 眉根を寄せたクリスタの進言に、ダズはひとつ頷いて従った。背中を木に預けるようにしてずり下がり、座り込んだダズは、またひとつ、おおきく息を吐き出した。
 心配そうな表情を浮かべるクリスタを見つめながら、なにかダズにしてあげられることはないか考える。例えば、タオルを水で濡らしたものを持ってくるとか、出来ないだろうか。そんな考えが頭に浮かんだが、そもそもこの森の中ではそう簡単に水を探すことも、タオルを用意することもできない。
 代案が思い浮かばず唸っていると、一歩引いたところに立っていたユミルが口を開いた。
「……おい、。お前、この後、ダズのこと運んでやれよ」
 胸の前で両腕を組んだユミルが、顎でしゃくるようにして隣に立つに命令する。不意打ちだったのだろう。声をかけられたは、釣り目がちな瞳を丸くしてユミルを見つめた。
「えー。オレの背中は女の子専用なんだけどー」
 心底嫌そうな声を上げたは、眉根を寄せ目を細め、あまつさえベロを出して本当に嫌なのだとユミルに訴えかける。だが、の願いはユミルには通じない。ハ、とひとつ鼻で笑い飛ばしたユミルはますます顎の角度を上げ、を睨みつける。
「お前、女でも運んだことねぇだろ。いっつもそういう場面になるとライナーさんにさせてんじゃねぇか」
「……まぁそうだねー? ライナーの方が力持ちだしー」
 心当たりがあるのだろう。は気まずそうな表情を浮かべ、怯んだ様子をみせた。そんなに圧をかけるべく、更に顔を近づけたユミルは畳み掛けるように言葉を紡いだ。
「なんだ。お前、まさかクリスタやにこいつを運ばせるつもりか?」
「そういうつもりはないけどぉ」
 憮然とした表情で反論するは唇を尖らせ、なんとか逃げ果せないかと抵抗を続けようと試みる。だが、眉を下げてしまったの表情は、自分の抵抗をユミルが聞き入れることもまたないと知っているような表情でもあった。
 分が悪い交渉というよりもすでに脅迫に近いプレッシャーがに与えられている。たしかにユミルの方がよりも背が低いはずなのに、の態度が萎縮してしまっているせいか、ユミルの方がおおきく見えた。
 押せばなんとかなる。そう確信したらしいユミルは、悪い笑顔を浮かべながらへとしなやかな指先を向ける。の顎の下にその指先を添えたユミルは、軽い仕草でそれを押し上げる。首元を晒されたは大きく開いた目をユミルへ差し向ける。
「別にいいんだぜ。たしかに、ダズと私はほとんど体格は変わらない。コイツひとりくらいなら運べるだろう。だがな、。お前、かよわい乙女にそんなことをさせて胸が痛まないのか?」
 チクチクとイヤミを並べ立てるユミルに、次第にの表情が抵抗から諦めへと変遷する。唇を尖らせたは恨みがましい視線を横へ流す。「立って歩くくらい自分でしろよ」と訴えかけるようなの視線を受けたダズは、気まずさにますますその表情を青白くさせたように見えた。
「……わかったよー」
 渋い表情で唇を尖らせたは、最後の抵抗とばかりに顎を引き、ユミルの指先を押し返した。そのままユミルの正面から脇へと移動したは、クリスタとダズの間にしゃがみこむ。ダズの体調を推し量るように表情を観察するは、観念したと思いきや、相変わらずその表情を曇らせたままだった。
「――やっぱやだなー」
「俺もできれば人の手を借りないですませたいんだが……」
 葛藤に塗れた声で呻いたに、ダズも同調する。しょっぱい顔をして溜息を零しあったふたりは、チラリと視線を持ち上げる。ふたりの反応とは真逆に満足げに笑うユミルを目にし、彼らはまたどちらからともなく彼俯きあった。
「まぁ……まだ、すぐに移動ってわけじゃねぇからいいだろ」
 先に抵抗の色を見せたのはダズだった。ダズの言葉ににこやかな表情を浮かべたは、これ幸いとばかりに立ち上がる。
「じゃあ後で移動の時になったらまた来るよー」
 じゃあねー、といつものように間延びした声を残したはひらりと手のひらを翳し、その場から立ち去ろうとする。その浮かれた背中を見ていると、ふと、ひとつの考えが脳裏に閃いた。
「そう言って後から来ないつもりじゃないだろうな」
 冷たい声がその場に響いた。視線を転じると、胸の前で両腕を組んでいたユミルが、その手をほどき、の肩を掴んで引き止めるところだった。背中を震わせたは、先程の浮かべたままの笑顔を表情に貼り付けたままユミルを振り返る。
「……ユミルってばオレのこと疑っちゃうわけー?」
「ったりめぇだろ。お前はそういう顔をしている」
「ホントにぃー?」
 両頬を手のひらで覆うは、わざとおどけたようだった。その態度が癇に障ったのだろう。ユミルはの太腿裏に鋭い蹴りを繰り出した。短く、高い音がその場に響く。にわかに周囲の視線が集まったが、蹴られたのがだと認識すれば、残念そうな表情と共にすぐさま視線が外された。そのくらい、がユミルにふざけた態度を取ることも、調子に乗りすぎて制裁されることも恒常的にあるシーンのひとつだった。
「やだなー。オレちゃんと戻ってくるよー? ねぇ?」
 助けを求めるかのようにが私たちの方へと視線を向ける。だが、この場を立ち去ろうとするの背中を見たとき、実は私もユミルと同じことを考えたのだ。
 立ち回りのうまいは面倒事が我が身に降りかかる直前にその場から退避していることが多い。よく被害に遭っているのはコニーとサシャだ。3人でふざけていたはずなのに、教官に見咎められる頃合に、はいなくなってしまうのだ。まんまと逃げおおせたが、ふたりから「また逃げやがったな!」「このひとでなし!」などと罵られているさまもまた頻繁に見かけるシーンのひとつだった。
 信じられない、という代わりに頭を横に振って見せると、横目に私と同じような反応をとったクリスタの髪が跳ねるさまが目に入った。どうやら、クリスタもまた私と同じ見解らしい。
 ふたり分の反応を目にしたは、味方がいないことにげんなりした表情を浮かべ、大仰に息を吐きだした。俯かせた頭を横に振るい、それでも足りないとばかりに呻くのしょぼくれた肩に、ユミルが腕を回す。
「お前が来ないとクリスタが運ぶって言い出しかねねぇんだよ。いいから来い」
「あいよー……」
 今度こそ観念したらしいは、肩に回されたユミルの腕が離れると同時に、背を丸めその場に足を投げ出すように腰を降ろした。どうやら立ち去って戻ってくることよりもこの場で待機したほうがいいと判断したらしい。背中側に手をつき上体を反らしたはひとつ息を吐いてユミルを見上げる。
「ユミルは本当にオネガイ上手だねー」
 本音なのか嫌味なのか判別のつかない言葉だった。聞くだけならほぼ嫌味確定なのだが、口元をほころばせたを見ていると、どうも悪い意味ではないように思えたのだ。度重なる抵抗をはねつけられ、諦めてしまったからこそ、今のは普段よりもずっと、晴れやかな表情を浮かべている。悟りの境地にたどり着くと、人はこんな風に笑うんだろうか。そんな考えを浮かべてしまうほどの変化だった。
 妙に爽やかに笑うを見下ろしたユミルは、いつもと変わらぬ態度で鼻を鳴らして応じる。
「男なんて使ってナンボだろ。クリスタがやつらにオネガイなんてしてみろ。きっと男を見せようとする馬鹿なやつらがわんさか集まってくるぜ」
「だろうねー」
「だからそんなクソみたいな場面を生み出さないためにも素直にお前が働けばいいんだよ」
 ユミルのあんまりな言いように私もクリスタも目を丸くする。ユミルが皮肉めいた言葉やわざとらしい悪態をつくことは珍しいことではない。だが、それはクリスタに群がる男子を一掃するため、あえて嫌な言葉を選んで放たれるものがほとんどだった。
 今回のようにに頼みごとをする中で、ユミルのあんな言い方ではが気を悪くしてもおかしくない。場合によっては「やっぱりやめた」と撤回される可能性だってある。
 ハラハラとした気持ちで、座り込んだを見下ろした。きっと不機嫌な顔をしているのだろう。そんな予想を立て、場合によっては慰めるなり取りなすなりして、決してユミルに悪気がないことを伝える必要があるとまで考えた。
 だが、目に入ったは、予想に反する表情を浮かべていた。まるでいたずらを重ねるこどもに対し、「しょうがないな」と許す母親が向けるような顔つき――目の前の表情は、そんな表現がよく似合うものだった。眉を下げ、目元を和らげたは、どう見ても笑っているようにしか見えない。口元に緩やかなカーブを描いたまま、黙ってユミルを見上げている。
 いつものようにリラックスしたの態度がそう錯覚させるのだろうか。そう思い、数度、目を瞬かせてみたが、初めに受けた印象が崩れることはなかった。
「いやじゃないの?」
「えー? なにがー?」
 思わずかけた言葉に、は普段とちっとも変わらない様子でこちらを振り仰ぐ。私の問い掛けに心当たりがないとばかりに首を傾げたは、ユミルの言葉をまったく意に介さず受け止めたらしい。
 が気にしていないなら、私が何か言うべきではない。なんでもない、という代わりに首を横に振るうと、は「えー、もー。なにー?」だなんて言葉とともに半笑いを浮かべる。だが、それ以上、私が言葉を続ける様子がないことを悟れば、は私から視線を外し、またユミルを見上げた。
「働くのはいいけどさー。なんかないのー? ご褒美とかさー」
 目を細めてお手本のように微笑み、おねだりを始めたはユミルから頭を押さえつけられてもなお、口を噤むことをしない。ユミルをからかうのが楽しいと言わんばかりの態度に、って大物だなと短く息を吐いた。
「もう! やめなよ、ユミル!」
「チッ! やめねぇよ! コイツ、調子に乗り始めやがった!!」
 ユミルの暴挙を止めに入ったクリスタを眺めながら、そっとダズの横にしゃがみこむ。
が運んでくれるなら安心だね」
「――あぁ。そうだな」
「あのね」
「――あぁ?」
「やっぱ、いいや」
「――そうだな。……ほとんど聞こえねぇもんな」
 ダズの言葉に耳を傾けたが、疲労困憊の彼の声はユミルの怒号が主だった喧騒に飲み込まれるばかりだ。早々に会話を諦め、ダズと並んで3人の様子を見つめた。
 ただでは言うことを聞かないとばかりに、は今もユミルに交渉を持ちかけている。それをすべて打ち返すユミルもユミルだが、決して諦めないだ。どのあたりを落としどころにするのかはわからないけれど、教官に見つかる前に解決すればいいな、とのんびりとそんなことを考えた。
「ねー、じゃあさー。次の当番手伝ってくれるとかさー」
「ねぇよ!」
「ユミル!」
 いまだ言い争いを続けるふたりを仲裁するクリスタの声がその場に響く。言い足りなさげなユミルの腕にすがり引き止めるクリスタの健気さに、ダズや私だけでなく地面の上であぐらをかいたまでもが苦笑する。
 嫌そうにしていた割に、引き受けた上で楽しそうに笑うは、なんだかんだで面倒見がいいな、と思う。ライナーと違って率先して手伝うわけでもなく、ベルトルトのように頼まれたら断れないというわけでもない。だが、それでもは多少――いや、可能な限りギリギリのラインまで抗いながらもダズを手助けするという選択をした。
 同郷だという3人は、それぞれ違った意味で親切だな、と、気づくと自然と口元はほころんでいた。



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