岩泉 一02a

運命の夜を繋げて#01


 手が、痛い。向かい風の冷たさに首を竦めながら、反射的にポケットに手を突っ込んだ。
 うるさい及川がいない帰り道は、静かで過ごしやすいが、その分体感的なものを普段よりも多く意識してしまう。首に巻いたマフラーを引き上げ少しでも暖かくならないか試したが、防御の薄くなった首元が冷え込むだけだった。
 溜息が自然と出る。眼前に現れた吐いた息の白さに嫌気がさすようだった。
 履き慣れた運動靴の爪先からじわりと冷たさが滲む。ガキの頃から過ごす冬の暴力的な寒さや、足元から冷え込んでいく痛みにも慣れたもんだが、だからと言って緩和されるわけではない。
 何度目かわからない溜息を吐きこぼし、正面に向き直る。大通りが目に入った。その角を曲がれば――。
 不意に、いつぞやの帰り道を思い出してしまう。同時に、意識の底に折り重なった想いが微かに泡立った。
 澱みなく歩いているつもりなのに、若干ぎこちなさを感じたのは俺の思い過ごしではないはずだ。緊張していると言い表すのに限りなく近い戸惑いは、思い描いた相手が大いに関係している。
 ――
 心の中で名前を呼んだ。同時に「やぁ、岩泉君」だなんて、爽やかな声音さえ耳に蘇ってくる。瞬間的に頬に熱を感じたが、外気に晒されたその反応は長続きはしないはずだ。解ってはいたが、誰かに見られたらという焦燥に駆られるまま、手の甲で頬を強く擦る。喉の奥に詰まるような澱みを、大きく息を吐くことで追い出そうとしたが、上手く感情を処理できなかった。
 別に本人が今、この場にいるわけでもないのに。なにやってんだ。
 何度か拳の裏で頬を叩いたが、改善される気がしない。それならばいっそ、思うがままにのことを考えたほうが幾分かマシってもんだ。
 開き直るような気持ちで、自分自身に向き合う。それからいつぞやの帰り道に交わしたとの会話に思いを馳せた。
 大通りの右手側のコンビニのすぐそば、だっけ。ん家は。
 思いつくと同時に、別に用もないのにコンビニに視線を向けてしまう。なんの変哲もないその場所も、が立ち寄るかもしれないと思うだけでただならぬ場所のように思えてくる。待ち伏せだなんて男らしくないことはしないが、鉢合わせたりしないもんかという考えが起きないわけじゃない。
 ――そんなウマイ話がそうそうあるわけねぇだろ。
 胸中で毒付き、溜息を吐く、そのまま視線を道路に戻そうとした矢先だった。ひとりの買い物客がドアの向こうに立ったおぼろげな輪郭が目の端に入る。

 軽快なメロディと共に出て来たのは、だった。

 あまりにも自分にとって都合のいい展開に自然と目が丸くなる。
 斜めにかけたエナメルバッグに財布を入れながら歩くの手には、今しがたコンビニで買ったのであろう、ビニル袋がひとつ携えられている。先日、一緒に帰った際に「結構寄っちゃうんだよね」だなんて言っていたけれど、嘘じゃなかったんだなと知った。
 じっと動向を見守っていた俺を振り仰いだと、視線がかち合う。あまりにも見つめすぎた弊害か、目があってもなお視線を外すという選択肢が取れなくて、もはや偶然だという言い訳が通用する気がしない。
 微かに目を丸めただったが、すぐさまいつものように目元を柔らかなものに変える。
「やぁ、岩泉君」
「……お。おう」
 つい今しがた思い起こした通りの声に、思わず笑いそうになった。喉の奥に詰まる声をごまかすように咳払いをする。頭の片隅にはあった人物がいざ登場すると簡単に胸の中心が撥ねるようだった。
 俺の戸惑いを知らないは、教室で見るものと寸分違わぬ笑みを携え俺の正面へと歩みを進めてくる。
「寄り道してんのか」
「まぁ、そんなところ。ちょっとおやつを」
 嬉しそうな顔をして買ったばかりの商品を掲げるの手元に視線をやる。微かに丸みを帯びたビニルの中からは暖かそうな湯気が出ている。パッケージのないその輪郭に、肉まんだかあんまんを買ったのだろうと察しがつく。
「受験勉強ってどうしてこんなにお腹が減るんだろ」
 掌で頬を覆いながら物憂げに目を伏せる。その演技かかった様子に思わず鼻で笑ってしまう。
「んなこといって、部活の時も色々食ってたんじゃねーの?」
「バレたか」
 ぺろっといたずらに舌を出して笑ったは、おどけたような顔をしてもなお、整った表情が崩れることはない。見とれたというほどではないが、口元に自然と笑みが浮かぶことを抑えることができなかった。
「家、近ぇんだろ。もうちっと我慢すればいいのに」
「うん。でもこの看板見ちゃったらさ、足が吸い込まれちゃうんだよね」
 しなやかな指先を頭上へと向ける。それに倣い、俺もまた視線を持ち上げると、入口を跨ぐように掲げられた看板が目に入る。そこには肉まんを半分に割った写真がどデカく掲載されていて、ご丁寧に湯気さえも演出されていた。
 その写真を見るだけで腹の奥から物足りないのだと主張する声が聞こえてくるようだった。
「これは……食いたくなっても仕方ねぇな」
「でしょ?」
「あー……。俺も、まぁ……腹減ったから寄っていくかな」
 偶然鉢合わせたことは確かに喜ばしいことだったが、バツが悪いと感じてしまうのは致し方のないことだ。普段、自分が立ち寄ったりしないコンビニを眺めていたことをどうにかして誤魔化せないかと思っての言葉だった。言い淀んだのはまだと喋っていたかったからだなんて、態度に出てしまう前に退散したほうが賢明だ。
 「じゃあな、」だなんて残してコンビニへと足を向けた。だが俺の動きを制するように、の指先が俺のコートを掴む。ちょん、と軽い抵抗に、簡単に足がその場に縫い止められる。
 俺の戸惑いに気付かない様子のは目を細めてなにやら不敵な笑みを浮かべた。
「じゃあ、共犯になろうよ」
「え?」
 俺の戸惑いを他所に捨て置いたは、手にしていたビニルの中に手を突っ込み、手にしたそれを半分に割ってこちらへと差し出す。
 寒い外気の中、蒸気をふんだんに噴き出す。その中心には看板のものと比べれば多少の見劣りはするが、美味そうな肉まんが握られていた。
「いいのかよ」
「ひとりで食べるには大きいかなって思っていたんだ。岩泉君が食べてくれるなら助かるよ」
「じゃあ、遠慮なく」
 この場から逃げ出すための口実だったが、腹が減っていたのは本当だった。俺よりも先に応えそうな腹の虫を制して受け取ると、肌に触れる熱に手のひらが冷え切っていたことを知る。
 両手を添えて暖を取っていると、どことなくが満足そうな顔をして俺を見上げていることに気付いた。
「今度何か奢るわ」
「期待してる」
 ふふ、と楽しそうに笑うは、頭を揺らして頷き、手にした肉まんに噛み付いた。彼女に倣い、俺もまた肉まんを口にする。喉を通りすぎた熱が、胸の奥にある熱と混じり合う。
 咄嗟の言葉だったが悪くないな、と思う。とろけそうな表情で肉まんを食うを、間近で見る機会なんて滅多なことじゃ持てない。軽い約束でも、その言葉があれば二回目のチャンスを得ることは容易くなるはずだ。
 はなにか好きな食べ物はあるんだろうか。教室で女子が騒いでいたような気がするが、及川の好きな食べ物が牛乳パンだ、だなんてクソみたいな情報しか思い出せない自分の頭が恨めしい。
「なぁ、
 好きな食べ物って、なに。
 そう続けようとした言葉が詰まる。の好みを探るような真似を、正面切って実行に移すことが憚られた。
 こんな風に意識する前ならただのクラスメイトとの会話として流すこともできたのに、好きだと自覚してしまった今では簡単な質問さえも投げかけることに怯んでしまう。情けねぇな。乱雑に後頭部を撫で付けていると、呼びかけられたまま放置されたが不思議そうな顔をして俺を見上げる。
「あぁ……えっと。しょーもない話なんだけどよ」
「うん、なに?」
 真摯に俺を見上げるから、俺が振った会話ならばなんでも応えるという気概が感じられる。律儀というかクソ真面目というか。普段から女子連中の会話の聞き役に徹する傾向の強いらしい視線だった。
 もつれる頭の中を整理しながら、何か他の会話の取っ掛りになり得るものはないだろうかと視線を軽く周囲に巡らせる。右に視線をやればコンビニの入口に立てられたのぼりが目に入る。クリスマスケーキの予約を促す広告を目にし、そういや、クリスマスも近いんだったな、と思い出す。
は、さ。クリスマスにケーキ食ったりすんのか?」
 俺の言葉に、が普段は涼やかな眼差しを丸くさせる。の過剰すぎる反応に、そんなに驚くような質問だったのだろうかと改めて考える。近付くイベントの行事の世間話を振っただけなのに。
 今一度コンビニののぼりに視線を向け、上から下まで書いてあるものを眺める。
 ケーキは生クリームとチョコの2種類だとか、いちごのトッピングが追加ができるだとか書かれたその中に、今年は誰と食べますか?という煽るような文言が添えられる。ピンクの丸で囲われた文字の中に列挙される例に視線を落とす。
 家族と、友達と、恋人と――!?
 最後のワンフレーズに、胸の奥が焦げ付くように熱くなる。が驚いた理由が、解った。
 今度奢る、クリスマスはケーキ食うか? そんな会話運びを唐突に振られて動揺したのだ。
「あぁ、多分…家で食べるか……部活のみんなと食べに行ったり…するんじゃないかな?」
 の言葉が妙に詰まったのは、俺だけが意識したせいではないのだと知らしめるには充分だった。もまた、普段のはっきりとした態度からは考えられないくらいまごついた仕草を見せる。
 肉まんのせいなのだろうか、鮮やかな赤みを頬に携えたは、真っ直ぐに俺の顔を見ながら言葉を繋げた。
「あ、でも、今年はまだ特に予定は入れてないから」
 の言葉に、ドンと大きく胸の奥が弾ける。
 だから、なんだよ。どういう言葉を掛けろっていうんだよ。
 抵抗するが如く歯を食いしばったが、自分の頭の中に、一緒に食いに行こうという提案の言葉が隙間なく埋め込まれていくようだった。差し向けられた視線を、自分にとって都合のいいものとしか考えられなくなる。
 次奢るっつったけど、コンビニの肉まん半分に対して、クリスマスにケーキを、だなんて提案はあまりにも仰々しい。付き合ってるだとか、長い付き合いのある相手だとかいうならともかく、相手はだ。
 俺が一方的に想いを寄せている間柄で、特別だとも取れる誘いに導くことを簡単に提案したくない。そういうのはきちんと確証に繋がる言葉を伝えてから、約束したい。
「そうか、わかった」
 無理矢理に会話を終わらせ、手にした肉まんに視線を落とす。一口分残っていたそれを口の中に押し込み、咀嚼する。喉の奥が破れるんじゃないかというほど熱かったが、感情を堪える役割は充分担ってくれた。
「美味かった。ご馳走さん」
「ど、どういたしまして」
「お前も食ったか?」
「う、うん」
「ゴミ、捨ててくる」
「うん……ありがと……」
 矢継ぎ早に言葉を繋げた挙句、の言葉を待たずに彼女の手の中から包み紙を取り、から離れた。ズンズンと足を進め、店先に並ぶゴミ箱の中に放り込む。そのままの足取りで彼女の元へ戻ると、は少しだけ眉を下げて俺を見上げた。見慣れない表情に、違和感よりも強く期待が膨らむようだった。
「それじゃ、そろそろ帰るね。岩泉君、また明日」
「お…おう。じゃあな」
 ひらりと手を翳したに合わせて、俺もまた手を上げる。僅か30センチもない距離にあるその手のひらを、じっと見つめ、それからに視線を合わせる。普段通り、軽やかな笑みを浮かべたは、うん、とひとつ頭を揺らし、俺に背を向けて歩き出した。
 の背中を見送っていると、コンビニから離れて数10メートルもしない場所で立ち止まり、俺を振り返った。俺の姿を目に入れたは、今度は大きく手を振って、その家の中に飛び込んでいく。
 本当に近いんだな、だなんて改めて感嘆してしまう。だがその持ち上がりかけた気持ちも、の姿が見えなくなれば簡単に萎んでしまう。
 ――、ちょっと残念そうだった……のか?
 別れ際に見せたの表情を思い返す。いまだに自分にとっていい解釈を撒き散らそうとする頭が恨めしかった。
 気持ちを落ち着けるために、と、静かに、長く息を吐き出す。
 ――らしくねぇ。
 約束に繋がる言葉を言わなかったことに後悔はない。ないはず、なのに、気落ちしている自分がいることは否定しようもなかった。
 ダメだな、俺は。しょーもねぇ。肩で大きく息を落とし、頭を横に振るって雑念を払う。それでも足りない気がして、右手を握り込めて拳を作り、ゴンと自分のこめかみにぶつけた。



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