岩泉 一02d

運命の夜を繋げて#04


 しんしんと雪が降る寒空の下、駆け出した。吐いた息が目の前で視覚化し、認識するよりも早く霧散する。もしかしたら横に流れて俺以外のやつらの視界に入っているかもしれない。だけど、そんなものを確認している暇はない。人ごみに紛れてもなお、目を離すことが出来ない背中を追いかけることに専心する。
 ――
 追いかけて、何をするのか。何を、告げるのか。正直、自分の中にそれらの明確な答えは用意されていない。ただ、衝動に促されるままに駆け出しただけだ。
 歩くカップルどもの間を駆け抜けて、先を歩くに向かっていく。程なくして数メートル前方にを捉える。歩くと、駆ける俺と、そのスピードの差は歴然で、みるみるうちにとの距離が縮んでいった。
 ――逃したくない。
 思った時には手が伸びていた。不意に手を掴まれ、驚いたらしいが身を翻す。抵抗のためか振り上がりかけた左手を押さえつけるように力を込める。瞬時に眉根を寄せただったが、俺を目に入れれば、緊張した表情を解いた。
 安堵にまみれたような笑みは、俺が追いかけてきたことに対する喜びも含まれていないだろうか。願望にまみれた考えが脳裏に浮かんだが、抵抗するように口元をきゅっと引き締めた。
「い、岩泉君?」
 微かに上ずった声に、ひとつ頷く。走ったせいか、それ以外が理由なのか。弾む呼吸を抑えるように何度に分けて呼気を吐き出した。
「どうしたの、突然?」
「帰るんだろ? 送ってく」
「及川君とは一緒じゃなくていいの?」
「ガキじゃねぇんだから放っといても問題ねぇべや」
「そっか。じゃあ、お願いしようかな」
 はにかむように笑ったに、心臓が跳ねるのは何度目のことだろう。の笑顔を見るたびに起こる反応だ。いい加減慣れろや、と内心で自分に対して悪態をついたが、多分、また同じような表情を見れば性懲りも無く簡単に翻弄されるのだろう。
 真っ直ぐに俺を見つめて笑うは、俺が一人で照れくさくなったり、ドギマギしたりしていることを当然知らない。余裕の笑みのようにも見えるそれが憎たらしくなって、不意に手が出た。
 の顔に手を伸ばし、その柔らかな頬をつまみ上げる。及川にするような力は加えていなかったが、突然の暴力に、の目が普段以上に丸っこいものへと変遷する。その変化を目の当たりにしたことで、無意識のうちに自分がとった行動を自覚し、俺自身が驚いてしまう。慌てて手を離す。指先にふわりと残った柔らかさに戸惑い、咄嗟に手を背中に隠した。
「あ、悪ぃ」
「え、あ、うん。大丈夫だよ」
 乱暴に扱われることには慣れていないのだろう。何度も目を瞬かせて驚いた様子を見せるに、今一度「すまん」と頭を下げる。頬を抑えて感触を追うようにするは不満であることを隠しもせず、唇を尖らせて目を細めて見上げてくる。
 クラスで見るときは外面がイイと言うと語弊があるが、”ソツのない君”というスタンスを崩すことはなかったように思える。意外とコミカルな表情もするんだな、と新しい発見に口元に笑みが浮かび上がった。
「んじゃ、帰るべ」
「うん。行こう」
 先んじて歩き始めれば、が数歩駆け寄って隣に並ぶ。チラリと横目で彼女の姿を眺めれば、ちょうどもまた俺を見上げたところだったらしく視線がかち合った。なにか反応を取らなければ、と思うよりも早く視線を逸らしてしまう。今更ながらに、を追いかけてまで一緒に帰る選択肢を取った自分が照れくさくて堪らない。取り繕うような言葉も用意できず、口元を引き締めることしかできないでいた。
 ――ぶっきらぼうな態度は女の子に嫌われちゃうよ?
 かつて、及川に言われた言葉が胸中でリフレインする。ステレオで蘇るその声に抗うように頭を振るとが不思議そうな顔で俺を見上げるのが視界の端に入った。
「どうかした?」
「あんま気にすんな」
 ついでに見ないでくれたら助かる。そんな願望を告げられるはずもなく、手のひらを顔面に押し付けるようにして耐える。指の隙間から再度の顔を盗み見る。素気無い態度をとった俺に呆れたのか、前方を向いて無言で歩くさまが見て取れた。
 降り始めた雪を見上げ、微かに口元を緩めたの顔をまじまじと見つめながら考える。
 の横顔は、綺麗だ。そして凛とした佇まいは有り余るほどの魅力を持っている。
 俺だけがそう思っているのではないようで、歩くの姿を、横目で追いかける連中は多かった。及川と歩くときには気にならない視線も、に注がれているのだと思うとなんだか気に食わないような心境に陥る。
 女子から向けられる視線が多いというのは不幸中の幸いといってもいいのかもしれない。ワックスで流すように整えられた髪型も、優男風というかインテリ系の学生っぽいというか、雰囲気だけで女子にモテそうだと思う。服装だって、コンビニの雑誌コーナーに置いてあるメンズ向けの雑誌の表紙を飾ってそうな格好だ。スラっとして背の高いにはよく似合っていた。多分、俺が着るよりもずっと。
 外見だけ見て、中身がだと意識しなければ、男友達といるような感覚に陥りそうになる。だけど、俺にとってはどうしようもないくらい女の子で、そしてただひとり、傍に居たいだとか触れたいだとか願っている相手だ。
 視線を更に落とし、の手のひらを見つめる。濃紺の手袋に覆われてもなお、スラリとした指先が愛おしい。恋人として歩けたら、この手を掴むことができるんだろうか。ちらついた甘い考えから逃れるように視線を道の端に寄せる。
 大通りに差し掛かったせいか、街路樹にイルミネーションが巻きつけられていて、それらを嬉しそうに眺める男女の組み合わせが多数存在することに気付いてしまう。
 二人で歩いている周囲の男女は、彼氏彼女という間柄にあるんだろうか。それとも俺みたいに相手に対してただひたすらに想いを寄せるだけで、今日という日に一縷の望みをかけてチャンスを伺っているのだろうか。
 ――チャンス、か。
 ひとつ、溜息を吐きこぼす。今日の集まりは、たしかに俺とがクリスマスに同じ場にいたということには違いない。俺の勇気や決意なんて微塵も懸けてなくて、ただ単に成り行きで及川が誘ったに過ぎないということがひたすらに悔しかった。
 一方通行な想いをどうしたいのか。どうなりたいのか。答えは既に、見えていた。
 ――こんなの、俺らしくねーや。
 の動向や視線に簡単に惑わされることも、彼女の気持ちが俺に向かっているのかと気を揉んでいることも、何もかも鬱陶しい。
 情報収集だとテレビやら雑誌やらネットやら使えるものならなんでも使い、部のやつらに聞いたりと、この辺の美味いケーキ屋の情報は掴んでいた。女と一緒に出かけることも、甘いものをわざわざ食いに行くことも経験がない。だけど、誰かと共に過ごすのなら、以外には考えられない。
 もしも、断られるのだとしても、その相手がなら挑むことに後悔はない。
「なぁ、
「うん?」
「来年は、俺が、お前だけを誘ってもいいか」
 呆けたように俺を見上げたは、どう捉えていいのかわからない表情を浮かべていた。目を瞬かせた彼女の反応は鈍い。自然と足が止まった。それは俺だけではなく、にも現れた反応だった。体の真横で拳を握る。手袋に邪魔されていなければ、爪で手のひらを傷つけてしまっていただろうほど強く、握った。
「……別に雰囲気に流されたとかじゃねーぞ。前から言おうと思ってたんだ」
 好きだと気付いた時から、チャンスはずっと探してた。偶然一緒になった帰り道も、雨に閉じ込められた軒下でも。文化祭の準備中や、本番でも。互いにとって高校最後の、試合の後も。二人きりでいれば、いつだってお前への想いが飛び出してきそうだった。
 目が離せなくて、気が付いたら体がを追いかけていた。
 今だって、そうだ。残されたクラスメイトたちが俺の行動に、のことを任せたとクラスの女子が叫んだ。バレてるんだ。多分、及川にも、ほかの男子にも――もしかしたらにもバレているのかもしれない。
 だけど、きちんと言葉にしてないものを、感じ取ってくれというのも気が引ける。何も言わずに、ただ想いを寄せるだけでそばにいて、彼氏ヅラするなんてことはもっと出来ない。
が、好きだ」
 言葉にした途端、ストン、と胸の内にあったものが落ちた。今まで言えなかった歯がゆさなどが剥がれ落ちていく。だが、それ以上に伝えてしまったことに対する羞恥が顔面に集まっていくのを感じ取った。肌寒さなんか忘れて、ただひたすらに頬に熱を集める。
 の言葉を待つ。微かに開いた口元を震わせて俺を見上げるが、目を瞬かせる。緊張のせいか瞬きの音が聞こえてきそうなほど、周囲の音が遮断され、の動向だけに注視してしまっていた。
 口元を引き締めたが、眉根を寄せる。泣きそうなその表情に、断られるのか、と胸が痛んだ。
「――……しい」
「……ん?」
「……嬉しいよ。私も、岩泉君のことが、大好きだから」
 噛み締めるように言ったは、笑った。その笑顔に、言葉に、胸の奥に新たな熱が沸き起こってくる。
「ほ、本当か?」
 情けない声が出た。確かめるような言葉に、はっきりと、は頷いた。その動き一つで翻弄されてしまう。舞い上がった感情に促され、縋るように握り締めていた手のひらが違う意味を担う。
「こんなことで嘘なんて吐かないよ。っていうか岩泉君にはバレてると思ってた」
「いや……まったく気付かなかった。マジで、スゲェ緊張したし」
「本当に? 及川君や花巻君らにも気付かれてたのに……黙っててくれたんだなぁ」
「……マジかよ」
 教えろよ、アイツら。いつもの3人の姿を脳裏に描き、内心で悪態をつきつつも、逆に言えば俺がに惚れていることを黙っててくれていたということになるわけだから責められるはずがなかった。
 大きく息を吐く。体の熱を追い出すかのような呼気は、白い塊となって視覚化し、霧散する。不意に沈黙が生まれた。一通り、笑い話を交えて喋ったところで身内にある焦げるような恥ずかしさは収まっていない。いつになく雄弁になったのはひとえに気まずさを払拭させるためのものだったが効果はなかったらしい。もまた突然生まれた沈黙に翻弄されているのか、後ろ頭に手を持っていき髪を梳いたりと落ち着かないような様子を見せた。

「は、はい」
「……はいってなんだよ」
 俺の呼びかけには肩を震わせた。緊張した態度のを見ていると、俺の緊張感が解されるようであった。プッと小さく笑い、息を吐き、改めてに向き直る。
「付き合おう」
 真っ直ぐに目を見て、に告げた。驚いたように目を開いたが、ゆるりと笑う。
「はい」
 はにかんで頷いた彼女の頬に現れた熱の色は、紛れもなく俺が付けたものだ。そう思うと、どこか誇らしい気持ちになる。高揚した気持ちに促され、釣られたかのように表情が緩んでいく。
「なぁ、もう少し、一緒にいてもいいか」
「えっ」
「寒いし、コーヒーでも飲みに行こうぜ」
「ごめん、一緒にいたいのはやまやまなんだけど、今日は本当に帰らないといけないんだ」
「……そうか」
 心底すまなさそうに告げたの言葉に、上がりきったはずのテンションがみるみる下がっていく。は家族との団欒があるからとクラスの和から外れて一人で帰ることを選んだのだ。そんなこと最初から分かりきっていたことなのに失念していた。帰し難いという気持ちが先走り、無理な提案をしてしまった。露骨に残念だと態度に表すのは良くないと表情を引き締める。
「まぁ、しゃーないな。また来年───」
「ねぇ、岩泉君。明日は、どうかな?」
「え?」
「もし予定がないなら一緒にいようよ」
 会えるのは来年になるか、だなんて諦めようとした。だが、俺の肘あたりの衣服を掴んで遮ったの言葉に驚かされる。目を見開いてを見下ろす。衝撃に言葉を告げられないでいると、途端にの眉が下がった。
「……ダメかな?」
「いや、まさか。……嬉しくて呆けた」
 率直に心境を述べるとは安心したように笑った。俺もまた口元を緩めてを見下ろす。
 ――また明日、だなんて気軽に誘えるような間柄になったのか。
 つい先日、クリスマスの予定を聞くだけでどうにもならなかったはずの関係が、変わったんだ。まだ付き合ってるだなんて実感はないけれど、じわじわと喜びが胸に染み出してくるようだった。
「とりあえず今日は送ってくわ」
「うん。ありがとう」
 率先して一歩先を歩く。一緒に並んで歩くことは初めてではない。だけど――。
 決意を固めて、を振り返る。飛び込むように隣に飛び込んできたのまるっこい目が俺を捉えた。
 ポケットに突っ込んでいたままだった手のひらを、に差し出す。カラオケルームへ先導された際、が俺にそうしたように、今度は俺がの手を取って歩きたいと思ったんだ。
「ん」
 キザったらしい格好だ。俺には似合わない。そもそも色恋沙汰なんてもんがガラじゃない。きっと、相手でなければ、こんなことしない
 俺を見上げたが嬉しそうに笑い、迷わず、真っ直ぐに俺の手を取った。それだけで胸の奥に満ち足りた感情が溢れてくる。
「ヤベェ……」
「ん?」
「顔がにやける……」
「私もさっきから緩みっぱなしだよ」
 教室では割と凛々しい表情をしているの表情が、こんなにも綻んでいるのは確かに見たことがない。初めて見たとろけそうな笑顔を、悪くないと思った。
 多分、俺もまた似たような表情を浮かべていることだろう。緩みきった頬を惜しげも無く晒す事が憚られ、繋いでいない方の手で口元を覆う。その下で、大きく息を吸い込めば、胸いっぱいに冷たい空気が充満する。その冷たささえも覚えておきたいと思う。
 初めてできた彼女に舞い上がっていると言ってしまえばそれだけだ。こんな状態を及川あたりに知られたら馬鹿にされるのは解りきっている。
 ――だけど、一生、忘れらんねぇよ。
 描いていた空想を手にした夜を、俺は、大人になっても覚えていたい。こんな風に、と心が繋がった瞬間を大事にしたい。真冬の夜の冷たさも、頬に集まる熱も、すべて細胞に刻まれた。
 きっと、大丈夫だ。冬が来ればきっと何度だって今日の夜のことを思い出す。




error: Content is protected !!