いつ甘03

03.空おぼれの片想い


 マドレーヌなんて、部活前に食べるもんじゃない。
 口の中がいやにパサパサするし、喉も乾くし、補うために牛乳が飲みたくなる。それに、こんなもの食べてたら、また思い出しちゃうじゃないか。
 ――純粋な好意だよ。
 子供のように顔を緩めて笑ったの顔がチラついて、堪らなくなる。
 今だけじゃない。化学の実験中にだって気もそぞろで教師にお小言を頂いたし、教室に帰っても上の空は続き、何度も、何度ものことが脳裏を掠めた。部室に来てもなお、のことを考えるハメになるなんて予定外もいいとこだ。
 卑怯な女だ。気にしなくていいと僕に言ったくせに、こんなチープなお菓子一つで簡単に僕の心を奪っていく。本当に、ズルい。
 苦虫を噛み潰したような表情を保ったまま、もう一口分、残っていたマドレーヌを口に運ぶ。傍から見たら物凄くマズイものを食べているように見えるかもしれない。
 だけど事実は違う。はプレーンだと言っていたけれど、ほんの少しだけオレンジの風味が混じっているそれは、ただ単に甘いだけではなく、後口に変化があって美味しかった。
 手についた屑を唇の先で舐めとる。微かな甘味が舌先に残り、それがいやに胸を締め付けた。
「あ! ツッキー何食べてるの!?」
「うるさい、山口」
「ゴメン! ツッキー!」
 感傷に浸る暇もなく、早々に着替えを終えた山口がこちらに近寄ってくる。当たり散らすような不平を口にして、胡座をかいたまま背を向けたが、それを気にするでもなく山口は笑いながら僕の正面に陣取った。
「あれ、それ……」
 僕の手の中を覗き込んだ山口は、僕が何を持っているのかを知り、その眉を顰めた。
 背中を冷たいものが走るような心境に陥った。もしかしたら山口はから貰っていないのかもしれない。否、貰ったとしても僕が受け取っていることに傷ついたなんて線もあり得る。
 どうやって言葉を誤魔化していいのか解らなくて、思わず山口から視線を逸らしてしまう。胡座をかいた膝の上に置いたマドレーヌの入った袋を握りしめる。クシャとビニルが重なる音と共に、手のひらにその縁が刺さる。痛いのは手のひらか、それとも心か。
 普段なら、別に山口がどう思ったところで関係ないと突っぱねることが出来る。だけどが関わるとダメだった。簡単に、どうでもいいと流すことが出来なくなる。
 から貰ったとは教えない方がいいかもしれない。僕がそれを告げることで2人の間柄に亀裂が生じ、それに対して僕がどう考えてしまうのか。
 ――きっと、安心する。
 じわりと広がった嫌な感情に蓋をするように眉根を寄せた。こんな面倒なことを考えている自分が煩わしかった。
「……3組が、今日調理実習だったらしくて」
「あぁ、もしかしてっち?」
 恐る恐る告げた僕の口調と反して、山口はあっさりと言ってのける。チラリと視線を山口に戻すと、先程浮かべていたはずの怪訝な表情はきれいに拭い去られ、いつもの間抜けな笑みをその顔に縁取っていた。
 僕が目を瞬かせているのを、言い当てられたことに対する驚きと捉えたのか、山口は益々その笑みを深くさせる。
「よかったー。てっきりツッキーがまた他の女の子にモテちゃったのかとドキドキしちゃったよ」
 のことを告げるか否か悩んでいた僕がバカだったようだ。安心したように笑う山口は、胸に手のひらを押し付けながら長く溜息を吐いた。
「よかったって……なにそれ、僕がどの女子からお菓子もらおうが山口には関係ないデショ」
「いや、それはそうなんだけど」
「それに、これがのだなんて僕一言も言ってないんだけど」
「え、違うの?」
 真っ直ぐに投げかけられた質問に口籠ってしまう。嘘を吐いてもいいのだろうけれど、じゃあ誰に、だなんて続けられても適当に挙げられる名前が思い浮かばない。3組の仲がいい奴なんて以外にいないし、そもそも市販のものならともかく、以外が作った手作りのお菓子なんて、口元に運ぶのすらおぞましい。
 小さく溜息を吐き、自然と肩に入っていた力を抜く。微かな抵抗も、生ぬるいものにしかならないなら、しても意味が無い。
「……違わないよ」
 僕の言葉を聞きつけた山口は、丸くしたままだった目を細める。いやに嬉しそうに笑うのが物凄く癪に障った。
「やっぱりねー。ツッキーがっち以外が作ったもの食べるはずがないと思ったんだ!」
「……っ!!」
 無邪気に告げた山口に、すべてを見抜かれていることを知り、自然と唇が尖った。僕が山口に気を使ったところで初めから意味がなかったのだと思い知らされる、
「で、何もらったの?」
 改めてこちらを覗きこんできた山口に、手で隠していたそれを開いて掲げる。「焼き菓子?」と曖昧に聞いてきた山口に「マドレーヌ」と返した。
「マドレーヌかぁ!いいなぁ。牛乳飲みたくなりそう!」
「……山口は貰わなかったの?」
「うん!」
「……こっち、アーモンド味らしいけど、食べる?」
「え、いや。せっかくっちが頑張ったんだから食べてあげてよ」
 葛藤にまみれつつも、一個残ったそれを差し出したが山口は胸の前で両手を振り乱して固辞する。しつこく聞くようなことでもないから、再度押し付けるようなことをせず、またそれを膝の上に置いた。じわりと、胸に広がる緩やかな感覚に、小さく息を吐きだした。
も僕に山口の分を預けるくらいすればよかったのにね。ホント機転が利かないんだから」
「え、いや……まぁ、うん、そうだね」
「どうしたの?」
 急に言葉を濁した山口に疑問を投げかけてみたが、山口は気まずそうに視線を逸らすだけで答えようとしない。軽く首を傾げてみたものの、山口の真意がわかるはずもなく、口元を引き締めるほかなかった。
「ねぇ、山口――」
「おい、月島ァ!」
「お前、違うクラスの女子にお菓子を貰ったらしいじゃねぇか」
 再度尋ねようと山口に声を掛ける。だがそれを阻むように背後から掛けられた声に振り返ると、西谷さんと田中さんが腰に手を当てたり腕組みをしたりとそれぞれ格好は違うものの、威圧感を放ちながら仁王立ちをしていた。
 その悪意のある二人の顔に、げんなりした視線を向ける。
「そうですけど……」
 肯定の言葉を告げると、2人は同様に目を見開き、いつものように奇声を発する。
「かーっ! 甘酸っぱいっ!」
「見せてごらんよ。ホラ、先輩に見せつけてごらんよ」
 頭を抱えて仰け反った西谷さんと、瞳孔を開いた顔を張り付かせ手のひらをこちらに差し出した田中さんに、「はぁ」と気のない返事をする。
 本当にこの人たちは、もう少し自分がどんな風に周りから見られているか気にした方がいいと思う。
「お、それかっ!」
 僕の膝の上にあるそれを目ざとく見つけた西谷さんは、指をビシリと突き刺して示す。
 田中さんが目を光らせ、こちらへ更に歩み寄ってくるのを目の当たりにし、反射的にそれを太ももと畳の隙間に隠した。同時に、山口もまたそちら側に動き、2人から守るように両手の平を広げて田中さんを見上げる。
「あ、あの、これっちがツッキーのために作ったものだから…」
「うるさい、山口」
 そういう余計なことは言わなくていい。だけど一度飛び出した発言を取り戻すことなんて出来るはずもなく、田中さんも西谷さんもニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
ちゃんっていうのか?」
「いいなぁ。おい」
「見せびらかすように食いやがって!」
 口々に羨望の言葉を投げ続ける2人に、本当にもうイヤだ、とマドレーヌを持つ手とは反対の手で顔を覆う。人差し指にかかった眼鏡のブリッジを抑え、その手のひらの下で深く息を吐いた。
「見せびらかしてなんて無いんですけどね。勝手にお二人がひがんでるだけですよねー?」
「ホンットにナマイキなやつだな!」
 厭味ったらしく言うと、西谷さんが過剰に反応し怒りだし、僕の頭を抑えつけ始める。
 少しでも背を低くしたいというところだろうか。そこを指摘してやろうかと思ったが、僕以上に山口が騒いだため口を挟むことが出来なかった。
「月島」
「はい」
 呼びかけられた声に2人を見上げると、いつになく田中さんが真面目な顔をして僕を見下ろしていた。
 それを目にすると同時に、少しだけ背筋が伸びる思いがする。
「それはアレだろ。そのちゃんってのが授業中にも関わらずお前のことだけ考えて、家庭科なんて得意じゃないのにさ、不器用なりに頑張ってこさえて、”これ、月島君に食べて欲しいの……!”だなんてはにかみながら甘い声で言われたんだろ」
「……いえ」
 妙に甲高い裏声を交えながら田中さんは言う。どんな真面目なことを言われるのかと身構えた自分が恥ずかしい。
 それ以上に、勝手な妄想込みでを語られたことに胸が傷んだ。
 が本当にそんなことをしてくれるのならわかりやすくて助かるくらいだ。そんな風に思ってしまう。
「そんな少女漫画みたいに甘酸っぱい事件がホイホイおこってたまるかっ!」
 田中さんの腕を殴る西谷さんは、仄かに頬を赤らめ「チキショー! ときめいちまった!」と叫ぶ。今しがたの田中さんの妄想に、照れた様子を見せるなんて、意外と純情なんだろうか。
「少女漫画なんて読んでるんですか」
 プスッと口に出して笑ってみせると、西谷さんの攻撃対象が僕に移る。
「食っちまうぞ、それ」
「ダメです! 絶対ダメです! ね、ツッキー!!」
「後輩から巻き上げてまで見ず知らずの女子が作ったものが本当に欲しいんですかー?」
 ワザと挑発するような言葉を選んだのは、要らないという言葉を搾取したいがためだった。の作ったものを守りたいがために、反射的に頭が回る自分が、本当に嫌になる。
「ハッ、見損なうなよ」
 鼻で笑った西谷さんは、妙に胸を仰け反らせて僕を見据えた。
「お前が可愛い後輩かどうかはともかく、その女子の真心を他の男が踏みにじったらダメだろ!」
「真心……」
 真っ直ぐな西谷さんの視線と、その言葉に、胸の奥に締め付けるような鈍い痛みが走る。
 ――純粋な好意だよ。
 またしてもの声が脳裏を過ぎる。の言う純粋な好意というのは、恐らく西谷さんんの口にした真心に他ならない。他の男が不可侵を守る代わりに、僕がの真心を受け止めなければいけないのだと、諭されたような気がした。
「で、その子は彼女か?」
「いえ」
「じゃあ、片想いか」
 どちらの、とは言わず、繋げられた西谷さんの言葉に、口籠ってしまう。あっさりと躱せばいいだけなのに、それが出来なかった。
 そうですよ。中学の頃からが僕に一途に片思いしてたんですよ。でも先日友達宣言されちゃいましたけど、アハハ、だなんて言えばいいのか。
 言えるはずがない。そんな簡単にあしらえるような思いならとっくにそうしてる。
「……ただの、中学からの友人です」
「ただのってわけがねぇだろ」
 返す言葉。そのすべてを僕自身が欲しい言葉に変えられていく。
 男らしく、真っ直ぐな西谷さんらしい。西谷さんのような性格でいられたら、きっと楽にの手を握ることが出来たことだろう。羨んだところでどうしようもないのに、微かに胸は傷んだ。
「いや、ただの、友人の一人で、それ以上でも以下でもないです」
「ツッキー……」
 何か言いたそうな素振りを見せた山口だったが、視線を逸らすことでその言葉を受け止めないと意思表示した。片手に握ったままだったマドレーヌを鞄の中にしまい込み、それを持って立ち上がる。
 黙ったままこちらを見つめる3人を置き去りに、棚の前に向かおうとしたが、通りすぎる直前に田中さんの声がかかる。
「おい、月島」
「……なんですか」
「スカすのもいいけどよ。そのちゃんとやらにもそういう態度取ってるのか」
 唇を尖らせて口籠ったことを是と解釈したらしい、田中さんは下を向いて溜息を吐きながら頭を横に振る。呆れたとでも言いたげなその態度に自然と眉根が寄った。
「お前らがどういう関係かまったく知らねぇし知る気もねぇけどよ」
 そう前置きながら顔を上げた田中さんは、先程の妄想を繰り広げた時以上に真剣な顔をしていた為、またもや言葉を返すタイミングを逸してしまう。
「こんな風にいじらしい行動起こされても、ただの友人だなんて抜かして大事にされてること無視してると、手に入るモンも見過ごしちまうぞ」
 まるで僕とのことを見てきたかのような田中さんの言葉に、喉の奥がズシリと痛む。
 成就しないまま僕が放り出したその感情を2年近く飲み込めないまま胸に刺さっていることを知りもしないのに、なぜそんな言葉を掛けられるのか。そんなに簡単に言い当てられるほど、僕の失敗は目に見えているものだというのだろうか。
 この2人がマネージャーにするように、率直に行動すれば手に入るとも思えないのに。
 相手をして欲しいとは願ってくれた。だけどそこにあるものがかつてもしかしたら抱いてくれていた恋愛感情ではなく、友情でしかなかったらと思うと怖くてたまらない。横目に入った山口の困ったような表情が妙に苛立ちを募らせた。八つ当たりにしかならない感情が胸に沸き起こる。
「知らないなら……」
 放っといて下さい、と続けようとした言葉が喉につかえた。それを言ってしまって、田中さんと西谷さんの2人掛かりで諭されてはたまらないというのももちろんあった。だけどそれ以上に、僕でさえ踏み込めていないものに、簡単に触れる2人に言いたいことがあった。
のこと、知らないなら……ちゃんっていうの、やめてもらえません?」
 に向かっていけるわけでもないのに、嫉妬だけは一人前に出来るんだから、本当に、質が悪い。
 今の僕の精一杯の言葉を返すと、田中さんも西谷さんもニッと笑った。  



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