02

積み重なって、息づく、


 3年ともなれば浮き足立つような心地は長くは続かない。始業式から数日もあれば、簡単にクラスの雰囲気にも馴染めた。見知ったやつが多い、というのもその一因だろう。1年や2年の時から同じクラスのやつ、初めて同じクラスになったが部活や廊下で顔を合わせてきたやつ。そして、1年ぶりに同じクラスになった、やつ。
 国語教師の朗々とした声を聞き流しながら黒板に向けていた視線を転じ、チラ、とへと視線を伸ばす。席は少し離れているが、目線を動かすだけで簡単にの横顔が視界に入る。視力が悪くはないことと背が高いことから、必然的に教室の後方に追いやられたのだが、こういう時はラッキーだな、と思わざるを得ない。人間観察も、早弁もやりたい放題だ。
 はというと、当然俺に向けられた視線なんて微塵も感じた様子はない。黒板に書かれた文章をただひたすらにノートへと書き写すさまが、どうしてだか必死になって食べ物を口に運ぶハムスターを思い起こさせた。ちまっとしてるし、一生懸命だからなんだろうか。胸の内を微かに温めながら、一年前のことを思い出す。
 忘れて、と言われて簡単に忘れられるわけがなかった。あの日、好きだ、なんて言葉で打ち込まれた楔は、まるで傷跡が残るかのようにしてうっすらと、だけど確かに胸に刻まれたままだった。
 ただ、気にかけているとは言え、普段の生活の中でに対してなんらかのアクションを取ることは難しかった。同じクラスになったからと言って、おいそれと話しかけにいけないのは、の警戒心が理由だった。普段から男子と仲良くしている風ではなかったが、俺に対しては目に見えて体を縮こませるものだから、今ではの友達からも牽制される状況に陥ってしまっている。
 調子に乗って踏み込むことはできず、他の女子に接する時よりもほんの少しだけ丁寧な態度で話しかけることしか出来なかった。
 ――また、話したいんだけどな。
 のことを知りたいと思うようになったのは、あの一件以来ずっと続いている。どういう人物でどういうことを考えて、どんなときに笑うのか。本人の口から聞きたいと思っていた。だから、今年一年、同じクラスで過ごせるのは幸運だった。目新しい何かを掴めば、また違った印象を彼女に抱けるかもしれない。 の姿を目に入れる度に、期待する自分が居るのを自覚する。もう一度、あの顔を見せてくれないだろうか。真っ赤になって、目元を潤ませた必死な顔を。
 かわいかったんだよな、あの顔。思い出すだけで口元が緩みそうになる。それを誤魔化すために頬杖をつき、ノートでも取るかとシャーペンを手にとった。

* * *

「お、おはよう。松川くん」
「おぅ、おはよ」
 月曜日。週一の部活のオフの日の、普段よりもかなりゆっくりとした登校時間。朝のホームルームもあと数分で始まるだろうタイミングで、自席について筆箱や教科書を机の中に放り込んでいると、不意にから話しかけられた。
 珍しいな。内心で驚きながらも、泳ぎがちなの視線に自分の目線を重ねる。俺に視線を向けたは、肩を小さくさせる。恐縮したように体を縮こませるの遠慮がちな笑みは、見ていて歯痒いような、ちょっと意地悪したくなるような、相反した不思議な心境を沸き起こす。こういう意地悪な考え方が見透かされているんだろうか。の警戒心の理由を探りながら、彼女の言葉を待った。
 じっと目を合わせていると益々口篭るような表情を見せるに、小さく微笑みかける。安心して欲しい一心での動作だったが、には逆効果だったようだ。俺から視線を外したは、普段よりも声を上ずらせながら言葉を並べ立てる。
「今日、あの、私と、松川くんが、その……一緒の日直だからよろしく、お願いします」
「あぁ、そっか……。うん。よろしく」
 黒板の端へ視線を伸ばす。先週末の日直により書き連ねられた名前は俺とのもので間違いなかった。先週の帰りに書き替えられたものを見て、意識した時の心境まで蘇ってくるようだった。改めて言われると、どこか気恥ずかしいものを感じ取ってしまう。緊張しているらしいは両手の指先同士を絡めながら張り付いたような笑みを浮かべていた。
「俺、あんまりマメじゃないから、もし仕事忘れるようなことがあったらちゃんと言ってね」
 多分、忘れないだろうけれどだなんて予感はあったけれど、保険をかける意味でにお願いしておいた。うん、とひとつ頭を揺らしたは会話もそこそこに、ぎこちない笑みだけを置き去りにして俺の席から去っていった。

* * *

 その日は一日、滞りなく流れた。最後に残された仕事は、日誌を書いて職員室へ提出すること。担任のせめてもの抵抗なのか、授業の途中で書き終えてしまう事を懸念してか、帰りのホームルームの後に渡された日誌を埋めるべく、俺とは放課後に教室に居残っていた。俺ら以外にもまだ数人が教室内に残ってはいたが、それぞれ思い思いに過ごしているため、声が耳に届けど会話が耳に残ることはなかった。程よい距離感で聞こえる会話をBGMに、俺もまたとの会話を楽しんだ。
「ねぇ、松川くん」
「ん、どうした?」
「松川くんって、バレー部だったよね?」
「うん、まぁ一応ね」
「部活遅れちゃうと怒られちゃうんじゃない? 私、何も用事無いから任せてくれてもいいんだよ?」
「あぁ、今日、月曜だから部活ないんだよね。だから気にしなくていいよ」
 週一の定休日というのは俺たちにとっては普通のことだったが、部活に入っていないは知らなかったらしい。そうなんだ、と目を丸くしたは口元を真一文字に引き締めて視線を戸惑わせる。
「あ、でもなるべく早く帰れるようにちゃっちゃと書いちゃうね」
「え、なに。そんなに俺と一緒にいるの苦痛?」
「まさか! あの、そんなんじゃないんだけど、ただ……」
 傷ついたかのような表情を浮かべ袖口で涙を拭う演技を見せると、は慌てたように取り繕おうとする。冗談だよ、と一言告げてあげれば落ち着くんだろうけれど、目を瞬かせながら落ち着かない様子を見せるがおかしくて、助け舟を出し惜しんでしまう。
 笑いだしそうになるのを堪えるために小さく息を吐く。様子を伺うべく俺に視線を向けていたに、ふ、と笑いかけてみた。目を丸くしたは表情の色を変化させるよりも早く俯いて、手にしていたシャーペンを強く握りこんだ。そのまま日誌の上でシャーペンを滑らせ始めたのを確認し、また小さく笑った。
 朝とは反対で、俺がの席に足を運んでいる。彼女の前の席の椅子に跨り、背もたれに両腕組んだ状態で預ける。ひとつの机に向かい合う。50センチにも満たない距離に、目に見えてが動揺していることが感じ取れた。の指先が滑らかな字を連ねていくのをじっと見つめる。やっぱりの書く文字は綺麗だなと感嘆する。本日の日直欄の箇所に書かれた「松川」という字が、普段自分が書くものとはかけ離れているようで、本当に同じ文字なのかと疑ってしまうほどだ。いっそのことお手本の為にも写真でも撮っておいた方がいいんじゃないか。
 思いついた一案をに提案してみようか。ほんの少しだけ考えたが、提案したところで固辞されるであろうことは簡単に想像がついたので実行には移さなかった。
 空想の中で手を振り乱すを思い描きながら彼女の様子を眺める。俺の視線に気付いたのか面を上げたと目が合う。瞬時に頬に熱を走らせる彼女の代わりざまは、信号機を思い出させた。ただ、警告もなしにあんなに一瞬で変化されると、運転手は簡単に事故ってしまうことだろう。
「治したほうがいいよ、それ」
「え? な、なにかな」
「その、すぐ赤くなるとこ」
 自分の頬をトントン、と2回指で指し示す。俺の動きを丸い目で見つめたは、自分の頬に手をやり、その色を更に濃いものへと変貌させた。
「赤いかな」
「うん、かなり。ほかの男が誤解するから治した方がいいよ」
「それは……ないよ」
 軽く俯いたは、自嘲的な笑みを浮かべる。
「私の頬が赤いのなんて、そんな気付かれないと思うし」
 言いながら益々俯いてしまったの頬の色は見えなくなる。だけど少し視線を移せば燃えるように赤く染まる耳が目に止まり、今もなお頬に熱を集めているだろうことは簡単に予測できた。
 見えないほうがいい。だなんてチラリズムにそそられるだなんて言うつもりはないが、見えない分、余計に想像してしまう感は否めない。
 この照れっぷりが他のやつの前でも出てるなら見せられた相手はコロッと落ちてしまうんじゃないだろうか。
 危険だなぁ。今はまだクラスの中でと仲がいい様子を見せる男子はいないようだけど、これから先もこの状態がキープされるとは思えない。は奥ゆかしいところがあって目立たないけれど、実際クラスの中じゃ可愛い方に分類されるはずだ。スポーツ系タイプより委員長とかやったりする割と地味目な男子にはモテるんじゃないだろうか。
 冷静に考えたつもりだった。だけど自然と唇が尖る。面白くない。そう、俺が感じたのは隠しようがなかった。
「なんで?」
「だって、私、目立つほうじゃないし…男子ともそんなに仲良くないし誤解する人なんていないもん」
「過小評価はよくないべ」
「過小評価だなんて……松川くんは優しいなぁ」
「そういうことじゃなくてさ」
 俺がいい人だから言ってるんじゃない。何度も反論して言いくるめるのはにとっては大きなお世話なのかもしれない。だけど、このままではがもったいないと思った。自分のことを小さく見せるのではなく、自然体でいてほしいと思う。
は素直だし、いいこだし、ちゃんとかわいいじゃん」
 気心の知れた女子の前で笑う、対等な笑みだとか。多分気まずい思いをしているだろうに、懸命に俺の前でも笑おうとする健気さだとか。多分、まだ俺が知らないいい面を、はいっぱい持っているんだろう。それが確信できたのは、1年かけて見続けた成果だった。
「ま、」
「ん?」
「松川くんも、治して欲しいかも……」
「え、なに」
 まったく思い当たるフシがなくて尋ねてしまう。無くて七癖とは言うものの今しがた、身振り手振りも交えずに応じた会話の中で何か失態があったとは思えない。口元を引き締めて照れた顔をしたの言葉を、視線を差し向けることでじっと待つ。
「それ、なんだけど」
「え?」
「……じっと見られると恥ずかしい」
 頬を赤く染め、目をきゅっと瞑ったは消え入りそうな声でつぶやいた。彼女の言葉に、ハッと気付かされる。確かに俺は気になるものがあるとなにか行動を移すよりも前にじっと見つめる傾向があった。観察グセがついているのは、バレーでの習慣が日常に入り込んできたものだ。そのせいで、必要以上にのことを見つめていたのかもしれない。
 背もたれに預けていた体を起こす。体を離すことで物理的に距離が取れ、先程以上に客観視できるようになる。
 今、注目すべき点はのことではないのかもしれない。
 自分の後頭部に手を持って行き、手の腹で撫ぜる。朝方、ワックスで弄った髪は、その動きだけで簡単にうねりをさらなる混沌へと導いていく。髪の状態とは裏腹に、頭の中が妙にクリアになっていく。
 暴けなかったはずの答えが、すんなりと浮かび上がっていた。
 ――悪くねぇな。
 力を入れなければ口元が緩みそうになる。
 告白されていい返事をしなかったのは俺だ。その時点でと俺との未来は試合が始まる前に終了してしまったはずだ。それなのに、今、胸に生じた想いは一体何だというのだろう。
 頬に熱が集まるような高揚。乱れているわけでもないのに通りの悪い呼吸。胸に生じた、柔らかいとは言い難いのに、決して尖ってはない痛み。
 ――あぁ、解った。俺、のこと好きだわ。
 経験がないわけではない。だから解る。1年も前に紡ぎきれなかった糸が絡まっていくような感覚があった。胸の奥にある熱がそれを証明している。
 が、薄く目を開く。黙って俺を見上げた彼女の視線は、動向を見守ったままだった俺の視線と簡単に絡んだ。ただ、それだけでの頬に熱が集まった。
 が、俺の視線に翻弄されているのが手に取るようにわかる。嗜虐心が掻き立てられるだなんて物騒なことをいうつもりははないが、悪くないと感じた。




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