15.想いは遠く、届かない
母親からの電話を切った後の会話は、正直、よく覚えていない。盛り上がるわけでもなく、悲観的になるでもなく、淡々と紡ぎ続けたのは他愛もない会話だ。
それは、中学の頃から変わらない、自分たちの周りにあった出来事を主観混じりで語るだけの行為。会話もそこそこに打ち切って店を出る頃には、「結局なんの話だったっけ?」だなんて言ってしまえる程度の、なんてことないことばかりを喋り続けた。
今回の会合が、「の近況を知る」ということを目的としていたのなら、十分満足のいく結果が得られたと言える。だが、今回ばかりはそうじゃない。今日の僕は、に対し自らの想いを告げることを目標としていた。
――出来なかった。
今日、ふたりで「ちゃんと」するはずだった。ひとつの区切りとなるはずだったのに、最後の一歩が、踏み出せなかった。
店先に立つと、数時間前、告白をするのだと意気込んでくぐったことを思い出す。心境の差が歴然としていることを自覚すれば、歯がゆさばかりが重くのし掛かった。学校を出る前、あんなに浮かれていたのに、と自分の愚かさがいやになる。
重い溜息が自然と溢れた。長い息を吐ききってもなお、胸の内に後悔が重しのようにその存在を主張する、
ざらついた心境を追い出すことができないでいる僕とは裏腹に、は「おいしかったー!」と舌を出し、満足そうに笑っている。あるかもしれない未来を、また掴めなかったと嘆いているのは僕だけなのだと知るには、それで十分だった。
「んじゃ、帰ろっか」
「……うん」
いつも通り、当たり前のようにあっさりとした態度で僕を見上げるを見ているといやでも喉の奥が詰まる。チクリと痛む感覚には覚えがあった。いや、もう慣れ親しんでしまったと言っても過言ではない。を前にすると、言葉以上に胸が詰まって仕方がなかった。
店先に立ち、空を見上げた。幸い今日は雨の心配はなさそうだが、うっすらと忍び寄る夜の暗さにひとつ、呼吸を整える。
「家まで送る」と言えば、「ありがとう」とは簡単に受け入れた。僕のことはちっとも受け入れてくれないくせに、と恨み節のようなことを考えてしまう。頼むから振り向いてくれないかと縋り付けば何かかわるのだろうか。
うまくいくビジョンの見えない恋が、これからも続くのだ。辟易とする思いを抱えたまま、家路につく。
ケーキショップにいるときと似たような会話を並べ立てながら歩いていたが、不意に言葉に詰まった途端、がこちらを振り仰ぐ。
「ねぇ、月島」
「ん。なに?」
「前にさ、言ったこと覚えてる?」
「……どの話?」
「――気持ちの整理、ってやつ」
いつになく真剣な声音でつぶやいたの言葉にみじろぎする。薄く唇を尖らせ、横目で僕を見上げたの視線を受けた僕は細く長い息を吐き出し呻くように言葉を紡いだ。
「……覚えてるよ」
言葉と同時にきゅっと唇を結ぶ。横並びで歩いていた身体の正面をこちらに向けたに触発され、思わず足を止めた。まっすぐに僕を見上げる瞳と、視線が交差する。呼吸が詰まるような心地が喉の奥に生まれ、閊えたものを誤魔化すようにごくりとつばを飲み込んだ。
「もう、私の気持ちは固まってる」
肩にかけた鞄の紐を掴み、僕を見上げるの表情に緊張の色が走る。眉根を寄せ、こちらを見上げたは、今、一体何を考えているんだろう。
「あのさ、月島」
困惑か。それとも拒絶か。あっけらかんとしたらしさが微塵もない顔つきに、焦りが生まれた。
悪い方にばかり考えてしまうのは僕の臆病さが由来している。またしても、喉の奥に鈍い痛みを感じた。ヒリつくような緊張感を今度はうまく飲み込めず、焦燥ばかりが胸中で綯い交ぜになる。
――決定打なんていらない。
元々は僕が誘ったことから始まった。だけど、いざ、目の前に現れると途端に逃げ腰になってしまう。
――僕はこのまま、にフラれるんだろうか。
険しいばかりでひとつも甘さのないの表情に、漠然と「フラれるのだ」と悟った。どこか他人事のように考えたのは、あまりにも現実離れしていたからだ。
やっぱり、やめて。言わないで――。
右手を持ち上げ、そんな言葉をにかけようとした瞬間だった。
「?」
不意に、第三者の声がその場に響く。朴訥とした抑揚のない声音には聞き覚えがあった。声のした方を振り返れば、然程、変わらない目線の高さで視線が交わる。
――、。
ランニングの途中なのか、額に汗を流したが僕らの隣で立ち止まる。微かにこちらを見上げたは僕とを交互に見やった後、ほんのりと目を細めた。
目深にかぶったキャップを脱ぎ、首に掛けたタオルで汗を拭う。慣れた手つきで顔全体をタオルに押しつけ、上下に頭を動かし汗を吸わせたは、ふぅ、と息を吐き、タオルを首にかけなおした。
鼻の下を軽くこすったの視線がこちらへと伸びた。ふ、と口元を緩めたの余裕たっぷりの笑顔に言いようのない嫌悪感が胸に広がる。
表情が歪んだのが自分でもわかる。こちらへと視線を転じたが、苦虫をかみ潰したような顔をした僕を目に入れたことで、ほんの少しだけ目を丸めた。だが、僕らの間に会話が生まれるようなことがあるはずもなく、そのままは視線を転じた。
その視線はまっすぐにへと向けられる。と視線を合わせたことで、の表情は固さを増した。だが、その頬が、触れなくても熱がわかるほどに赤らんだことに、僕は目を瞠ることしかできなかった。
「デートか?」
「うっ」
「邪魔したか?」
「うるっさい! 馬鹿!」
の遠慮のない手のひらがの胸に叩きつけられる。身を捩りながらも相好を崩したは、の手のひらを掴むことで自分への攻撃を止める。
仲睦まじいというのはこういう姿を言うのかもしれない。知識として身につけていた言葉の意味を目の当たりにした途端、暗澹たる想いが胸の内を支配した。
いーっと歯を剥き出しにして抵抗したは、の背中を押してこの場から一刻も早く立ち去るようにと促す。だが、はわざとこちらに留まろうとしているのだろう。背中を押すの手のひらに体重を乗せて抵抗していた。
じゃれあうふたりを前に、否が応でも疎外感を味わわされる。程なくしてがランニングに戻っても、一度、抱え込んだ虚しさは簡単には拭い去れそうにもなかった。
「あー……もう。ホントごめん、ちょっと今日はダメだわ……」
先程までの緊張感をかなぐり捨てたは、いつもと同じようにケロッとした態度で僕を見上げる。の登場が、の心を解したことは明白だった。
「ごめん、月島。また改めさせて」
顔の前で右手のひらを縦に構え、謝罪の意を示したに、僕は黙ってうなずくことしかできなかった。
――上手くいかない。
間が悪いのは僕のせいなのか。それとも要因はにあるのか。責任転嫁したいわけじゃないけれど、どうしてもうまくいかない原因を模索してしまう。
と鉢合わせる直前、にフラれることを確信した。それを思えば、延命に成功したと言っても差し支えのない状況だが、それでも万が一の望みを捨てられない。
思い返せば、中二の頃からそうだった。あの告白の現場に鉢合わせなければ、折を見て僕からへちゃんと想いを告げられていたかもしれない。
どうやら僕たちはうまくいかない星の下に生まれているらしい、なんて悲観すればいいのだろうか。
本心を聞けなかった僕の臆病さを棚に上げて、を責める資格なんてないのはわかっている。だけど、手の中に掴めるかもしれなかった未来がこぼれ落ちたのを目の当たりにしては、ふざけたことを考えて自身の安寧を図ることしかできなかった。
――きっと、もうの気持ちは僕に向かっていないのだろう。
の顔を見てあんなに顔を赤く染めるが、僕に恋心を向けてくれるだなんて到底思えない。
に好かれたい。そのたったひとつの願いが途方もなく、遠い。
こじれてしまった関係を精算したい。フッたつもりなんてなかったと、あの日、言えていたら何か変わったんだろうか。
クラスメイトの前で恥を掻かせると気付きながら、自分の気持ちを咄嗟に誤魔化したのは、それでもが僕を好きだと言ってくれるなら、その気持ちを信じられると思ったからだ。その独りよがりさが、今の状況を作っている。
「早く帰った方がいいかもね」
「え?」
「雨、振りそうだから」
天を指さしたにならい空を仰げば、いつ雨が降ってもおかしくないほどに、どんよりとした分厚い雲が空を覆い隠していた。つい先程までは、そんな様子はみじんもなかったというのに、と嘆く。溜息を吐きこぼしていると、暗い雨雲を目にしたことで、先日の言葉が脳裏を掠めた。
――次しちゃったら、ダメかもね。
ダメ、というのはどういうことなのか。言葉の通りに受け止めるのなら、「次、キスをしたらもうこの友情は終わりだ」ということになるのだろうか。
あの時、僕はこの恋が叶わないと確信したはずだ。なのに、どうして今日、その先へと進もうとしたのか。
テスト休みの期間でなくとも、きっと今日みたいにケーキでも食べない? と誘えば、は承諾する。無頓着で奔放なところがの付き合いやすさたる所以だ。
これからも友達でいれさえすれば、少なくともとの縁が切れることはない。であれば、これから先、僕に出来るのはただひとつ。が先々、みたいなポッと出の男と付き合い初めても心を落ち着けて、諦めて、やはり叶わなかったのだと受け入れる準備――。
自ら導いた結論は、息苦しさを覚えるほどに僕を痛めつける。それでも、今朝まではあったはずの選択肢を自ら選ぶ勇気を奮い立たせることがどうしてもできない。わざわざ自分から傷つきに行かなくても、いずれ思う存分ミンチにされる。
暗い未来を予見して、勝手に傷ついた気になっている自分が本当にいやになる。それでも、決定打が放たれるまでは、せめて友達の顔をしてそばにいたい。
「走る?」
「雨が降ってからでいいっしょ。でもちょっと早歩きね」
「わかった」
うん、と頭を揺らして応じると、は言葉どおりいつもよりほんの少し歩調を速めて歩き出す。隣を歩くたび、微かにに触れる手のひらを、掴める未来はきっと来ない。