06

何ひとつ忘れないって、誓おうか


 烏野との練習試合。体育館の2階を見渡せば、練習試合にしては結構な人数が見学に来ていることが知れた。中には部活を終わらせてそのまま来たらしい、ジャージ姿の男テニや女バスの連中の姿もあった。
 見渡している中で自然と女バスの部長と視線がかち合った。あまり話したことはないのに爽やかな笑みとともに手を振られてしまう。何も返さないのも変だと思い直し、俺もまたそいつに手を振ることで挨拶を返した。
 さらに視線を伸ばし、ほかに誰か知り合いはいないだろうかと探る。
「あ、ほら。来てるぞ」
 岩泉の声に、視線を移す。烏野側のベンチの上で、手摺を掴んで身を乗り出したは、明らかに「誰か」を探しているように見えた。きょろきょろと視線を彷徨わせたのも束の間で、誰かと視線を交わしたのか、は安心したように表情を綻ばせる。柔らかいその笑みは、相手に対する好意だとか信頼だとか、そういうあたたかなものに塗れていた。
 面白くないな、と自然と唇が尖った。そんな俺の様子を横目で見た岩泉もまた、口元を引き締める。
「あっちゃー。あれは恋する乙女の顔ってやつか? 結構かわいい顔作れるんじゃんね」
 俺の肩を掴んで、視線の先を追ったらしい花巻は、わざとらしく肩の手とは反対の手を目の上にかざしての様子を眺める。
「誰なんだろうなー」
「主将じゃねーの?」
「また適当言って…俺の情報網によるとメガネのクール美人って聞いたけど…いるかぁ?  そういうの」
 誰から聞いたのか、花巻がより具体的な彼氏像を口にした。そう言えば一緒に帰ってた女子と花巻って仲が良かった気がする。あの後、色々事情を聞きに行ったりしたのだろうか。もしかしたら本人に探りを入れたりもした可能性だって捨てきれない。
 考えれば考えるほど自然と胸の内が凝り固まっていくのを感じた。釈然としない面持ちで烏野のメンバーを眺める。
「今日いないんじゃね?」
「いや、さっきめっちゃ笑ってただろ。アレはいるって」
「あ、あの背の高いメガネじゃねぇの? なんか冷めてそうに見えっし」
「えー。美人っていうかまだガキじゃん。っていうか男に美人ってどういうの? 」
「俺が知るかよ」
 いいだけ言って会話を唐突に打ち切った岩泉は、ズンズンとボールを掴んだままアップを始めた集団に紛れた。金田一の肩に力が入っているのを、背中を叩くことで鼓舞する岩泉を尻目に、もう一度へと視線を伸ばす。
 今はもう烏野のベンチには視線をやっておらず、一緒に来た友達らと楽しそうにしゃべっている。こっち見てくんないのかな。数秒だけ、と意識しての様子を見守ったが、彼女が俺の視線に気付くことはなかった。
 肩でひとつ、息を吐き出して今日の対戦相手に視線を戻す。昨年、対戦した時には見なかった顔ぶれが増えていることに気付き、例の及川の後輩とやらはどいつなんだろうかと探る。あのプルプルしているチビはさすがに違うよな。視線をさまよわせる中で、先程岩泉がの彼氏かもしれない、だなんて勝手な検討をつけた眼鏡の男…11番に視線を向ける。あいつが影山なんだろうか。背も高いし妙に生意気そうだ。でも結構賢そうな顔してるからバレー馬鹿って感じではないよな。
 じろじろと観察するかのように視線を11番に差し向けていると、12番のユニを着たやつが歯を食いしばって俺の視線を遮るように立ち塞がった。
 なんだあいつ。
 警戒心の強い猫のような表情に一瞬で興味を削がれてしまう。俺も岩泉らに紛れて練習でも始めますかね。気を取り直して近くに転がってきていたボールを拾い上げる。
「まーぜーてー」
「あ、はいっ」
 近くにいた金田一に呼びかける。律儀に背を伸ばして応えた金田一の肩を軽く叩き、緊張しなさんな、だなんて適当な言葉をかけた。とりあえずはバレーに集中しよう。くだらない事を考えるのはその後だ。

* * *

 練習試合は1-2で俺たち青城側が負けた。例の及川の後輩…9番だった奴とオレンジ頭のチビにしてやられた。尋常ではないほどの運動量を支える正確無比なトスを、本戦で当たる前に知れてよかった。そういう納得の仕方をしなければいけない程度に”強敵”となる予感が残る試合だった。
 コーチによる試合後の総評後、早々に着替え、手でも洗うか、と手洗い場に向かったが、金田一が思いつめた顔をして及川の後輩と喋っているのを目にし、先に表に出とくか、と気を取り直した。
 靴を履き替え、表に出る。ほかの部員が出てくるまで適当に待つとしよう。近くにあった木に寄りかかってぼうっとしていると、体育館から出てきたの姿が目に入った。きょろきょろと視線を巡らせている彼女は、先程まで一緒にいたはずの友人らを探しているのだろうか。見つけたらそっちに行ってしまう。そう思った途端に、声が出ていた。
!」
「松川くんっ! えっと、お、おつかれさまー」
 俺の声にびっくりしたように背中を震わせたはぎこちなく俺を振り返り、硬い表情のままこちらを振り仰いだ。みるみる赤くなるその頬は、いまだ治らない彼女の癖にほかならない。勘違いしないように自分を戒める。
 皇族の挨拶を思い出させるように、胸の前で手のひらだけを揺らしたは、俺の視線から逃れようと顔を背けた。その場を立ち去ろうとする彼女に駆け寄り、その腕を握り締めて引き止める。
 目を丸くして振り返ったに、ごめんな、と小さく謝った。ふるふると頭を横に振るったに苦笑し、胸の内でひとつ、自分自身に声をかけた。

 この恋を終わらせよう。

 次に話しかけるときは、そういう覚悟をちゃんと決めて臨むべきだと自分の中で決意していた。現時点では諦めるという選択肢を取る心構えにはまだ至っていないが、飛び込んでしまえば案外後からその決意は正しかったんだと納得できるはずだ。
 さて、それではミンチになりますか。
 が足を止めたのを目にし、彼女から手を離した。するりと力なく解放された彼女の腕を眺めながら、小さく口元に笑みを浮かべた。
「今日さ、彼氏来てたんだよね?」
「彼氏?」
 目を丸くしたに違和感を覚える。だがそこを追求するよりも早く、は慌てたように言葉を紡いだ。
「あ、そう。そうだよ。来てた。いたよ」
 微かに頬を赤く染めたは、その相手を想っているのだろう。先週くらいまではまだ俺に気があるんじゃないかだなんて勘違いしてしまっていたが、既にの状況が変わったことを知っている今となっては、妙に居心地の悪さを感じるだけだった。
 決まり、かな。これは。
 黙って受け入れなければいけないと理解している。だけど、まだ、抵抗が足りない。足掻ける要素があるのなら、ひとつひとつ、踏み潰して欲しかった。
「…どいつ?」
「え?」
「どいつと付き合ってんの?」
 単なる好奇心や、嫉妬心から見極めたいなどといった感情ではなかった。目で見てないものを信用できないというほどではないが、ちゃんと見てしまえば諦めがつくと思ったのだ 。しつこい男だなんて嫌われた方が手っ取り早いという考えもあった。
「え…っと」
 口ごもり下を向いてしまったの額あたりをじっと見つめる。チラッと助けを乞うかのように差し向けられた視線に笑んで返すことで、この質問を撤回するつもりはないと伝えた。困り果てたように眉を下げたは、今度は周囲に視線を巡らせた。友人らが近くにいないか探したのだろうが、どうやら見つからなかったらしく観念したかのように俺へと向き直った。
「しょ、紹介はさすがにできないかな」
「なんで? いいじゃん。どうせ俺知らない奴だろうし」
「は、恥ずかしいから」
 蚊の鳴くような声で応えたは、言葉のとおり、本当に恥ずかしそうに見えた。1年前にも見たその赤い頬が、俺ではなく彼氏に向けられているのだと思うと歯痒かった。
 タイミングって本当に大事だよなぁ。誰のせいでもないのに、時間という名の暴虐さを恨んでしまいそうだ。
 首の裏を掻きながら、もう退散したほうがいいよな、だなんて思い直しながらも、どうも立ち去りがたい。どうしたもんか、と逡巡していると、突然、少し離れた場所から声がかかった。

「潔子っ!」
 の名前を呼んで駆け寄ってきたのは、烏野のマネージャーだった。男子ではなかったことに小さく安堵しながら彼女へと視線を向ける。一目散にを目掛けてやってきたのだろう。俺を目に入れた彼女は目を丸くする。
「……すみません。話に割って入ってしまったようで」
「あ、やー……別に大したこと話してたわけじゃないんで。気にしないで」
 手を翳し、なんともないことを証明する。そうですか、だなんて淡々とした様子で流した彼女はへと向き直り、久しぶり、だなんて会話を続行させた。
 女子ふたりの会話に混じるほどの気持ちがなく、途端に手持ち無沙汰になってしまう。やってきたばかりの彼女に視線を向け、せっかくだし、と観察する。
 黒いジャージ姿ながらもスタイルがいいのが見て取れる。綺麗なさらさらの髪が肩の上で風に靡くのを眺めながら、昨日、体育館で交わされた会話を思い出す。たしか矢巾が「烏野のマネージャーがめっちゃ美人なんですよ!」だなんて興奮して捲し立てていたが、きっとこの子のことなんだろう。及川あたりが興味を持っていたがもうすでに声を掛けたりしたのだろうか。まだ掛けれてなくて、この現状を目にされると結構面倒くさいんだけど、などと身勝手にも、今、この場にいない友人が来ないことを祈った。
 女子ふたりの当たり障りのない会話を聞き流しながらぼうっと立ち尽くす。
 普通なら空気を読んで立ち去った方がいいというのは判断できる。だが、先程の会話の答えを得ないまま立ち去ることは難しかった。
 何度も相手に尋ねられるような質問じゃない。この機会を逃したらもう二度とに、彼氏の話を聞ける気がしなかった。
 おかしいな、俺、ちゃんと諦めるって決めたはずなのに。
 狡いかもしれない。だけどまだ、諦められない。俺と目が合うだけで赤くなるの頬を、信じていたかった。
 だけどさっきの様子だと多分、は誤魔化すだけで、本物の彼氏とやらは見せてくれないんだろうな。まぁ確かに紹介されたところで彼氏からすれば「こいつなに?」って感じだろうし、そもそもただのクラスメイトの立場だっていうのにこんな風にしゃしゃり出る理由はないはずだ。俺の存在がらの愛情の不和になりかねない可能性だって十分にある。はっきりいってデメリットだらけだ。もし俺がの立場だったら多分面倒くさいな、と思うに違いない。
 だからと言って、簡単に諦められないから抗ってるんだけどね。やってること全部棚に上げたところで、正当化するつもりはないんだけど、に彼氏ができたというのなら、それを拝みたい。どうせなら最後の砦をほかならぬに、粉々に砕いて欲しかった。
 だが一向に喋ってくれそうにないに困り果て、チラリとやってきたばかりの烏野のマネージャーへと視線を差し向ける。もしかしたら彼女から聞き出した方が手っ取り早いんじゃないだろうか。
 着替えもそこそこに抜け出してきただろう彼女が、との会話を締めにかかっていることに気付く。名案かどうか。考える暇はなさそうだ。
「あの、烏野の……マネージャーさん?」
「はい」
 躊躇いながらも声をかけてみた。短い返事とともに俺を見上げた彼女の視線は怖いほどにまっすぐだった。もしかして青城の女子と同じで俺のことをに集る悪い虫とでも感じているんだろうか。鋭い視線にたじろぎながらも、俺の中で一番、気にしていることをもう一度口にした。
……さんって、烏野の男バレのやつと付き合ってるって聞いたんだけど…相手、誰か知ってる?」
「え、そうなの?! 
 先程喋っていた時よりもほんの少しだけ声を大きくさせた彼女は、俺からへと瞬時に視線を流した。彼女の視線を受けて、身を固くし、頭を横に振るうの意図が見えない。言葉を発することができないのか、歯を食いしばって、ただひたすらに頬に熱を集めるが、突然降って沸いた恋バナの出現に戸惑っているだけだとは思えなかった。
 友達に内緒にしていたのを暴かれて恥ずかしいというのだろうか。それとも元々はこの子の好きな相手と付き合ってるとか?修羅場に発展させてしまったのか、だなんて勝手に物語を脳内で展開させる。
 チラリとの視線がこちらへと向けられる。困ったような顔で見上げられると、なんとかしてやりたいという気持ちが湧き出てきた。だが、その窮地に立たせたのは間違いなく俺で、残念ながら時間を元に戻す能力なんて持ち合わせてないし、今の発言を打ち消すのに効果のある言葉を選ぶこともまた出来なかった。
「どうして言ってくれなかったの。水臭い」
「えっと、ね。潔子……本当は、その、私、違くて……」
「だってあなた、この前も、ま――」
「わぁっ! それだけは絶対に言っちゃダメっ!」
 慌てたの様子から何かを感じ取ったらしい烏野のマネージャーが俺へと視線を向け、口元を微かに緩めた。突然差し向けられた笑みに無駄にドキッとしてしまった。男子高校生なんてそんなもんだ。許して欲しい。
「破綻するのは目に見えてるんじゃないの」
「き、潔子、あのね……」
「ダメよ。嘘ついちゃ。今夜、ゆっくり話ししましょ。帰ったら電話するわ」
 が縋るように伸ばした手をきゅっと一度握った彼女は、の耳元で何事かを囁く。顔を真っ赤にさせて縮こまるの様子に、なんだかイケナイものを見てるかの様な錯覚に陥り、思わず視線を逸らしてしまう。
「それじゃ、。……がんばって」
 へのねぎらいの言葉と、俺への会釈を残し、彼女は去っていった。体育館の中へと戻った彼女は、部員たちと合流して烏野へと戻るのだろうか。
 その場に残されたは、ちょっとだけ目をにじませて泣きそうなほど顔を赤くしていた。念のため、と周囲に視線を巡らせる。どうやらまだほかの連中は来ていないみたいだ。安堵の溜息を漏らし、へと視線を戻す。耳まで真っ赤に染めて俯いたは、縋るように持ってきたカバンの紐を握り締めていた。指先が白くなっているのは力を込めすぎている証だ。
 何をそんなに、力んでるんだか。微笑ましいな、とつい口元に笑みが浮かんだ。うー、と唸るような声を出し始めたの頬から熱が取れない理由は、と考える。
 俺の勘が外れていれば、勘違い男どころの話じゃないんだろうな。かと言って、ここまできて引き下がるわけには行かないけれど。
 コホンとひとつ、咳払いをして、へと向き直る。音に反応したのか、自分の頬を両手で覆ったがこちらへと視線を流した。
「……突っ込んだ話してもいいか? あー……やっぱ、ダメ。するわ」
 の許可がなくても、この話だけは絶対に確定事項を引っ張り出すまで終わらせることはできなかった。ここで追求できなければ、それこそ”諦めたらそこで試合終了”ってやつだ。踏み込むならばもう、今しかない。
 聞かないまま勝手に諦めて、何事もなかったかのように振舞うことは、もう出来る気がしなかった。
「さっきの子が言ってた、破綻とか嘘ってどういうこと?」
「その、それは……」
 自分のカードは全て伏せているのに、のそれを無理やり暴くような聞き方になってしまった。額に手をやりつつも反対の手を翳し、「待った」を掛ける。はっきりさせたいけれど、責めたいわけじゃない。どちらかというと藁にでも縋るような気持ちだった。今の状態を花巻あたりに見られたら「必死だ」だなんて笑われることだろう。
 ――必死にもなるっつの。
 好きな子に、何度も同じ質問を繰り返すのには勇気が必要だった。それでも、まだ結論を覆せそうな綻びを見つけてしまったのなら、そこを尋ねないわけには行かなかった。
「あのね、俺だってを困らせるつもりはないんだ」
「うん……それは、もちろんわかる、よ」
「うん。――嘘っていうのが気になるんだ、どうしても。だからね、 正直なところを教えて欲しい。……今、に本当に、彼氏がいるのかどうかだけでもいいから。教えてくれ」
 烏野のマネージャーが言った「嘘」というのが、もしも「に彼氏ができた」ということを指しているのなら。そんな祈りにも似た仮定を、の言葉で証明して欲しかった。
 彼氏の話が出た時の慌てっぷりが、いまだに熱の残る赤い頬が、が俺を見るときの眼差しが、まだ、彼女の心が俺に向かっているんじゃないかと、どうしても俺に都合のいい解釈しか選ばせてくれない。
 きゅっと口元を引き締めたは、眉根を寄せて俺を見上げる。俺も多分、似たような顔での顔を見ているんだろう。かち合った視線を、引き剥がしたのはの方だった。いつものように俯いて、小さく肩を縮こまらせる。
「ごめんね」
 ポツリとこぼされた謝罪の言葉に、いち早く反応した胸が痛んだ。ぎゅっと掴まれたような感覚を押さえ込むように、まだすべてを聞いたわけじゃない、と考えることで勝手に終わろうとする感情を打ち消した。拳を握り、の言葉をただ、耐えるように待った。
「嘘、つきました…… 彼氏、は、いない、です」
 制服の前の部分を集めるように掴んだは、伏せていた顔を上げた。の言葉に安堵するよりも早く、意識が彼女に釘付けになる。まん丸の目に、薄く涙が浮かび上がっている。熱を持つその眼差しは、きらきらと輝いていた。
 ――あぁ、この目だ。
 一年前、帰りのホームルームを終えたあと。今から少し話せないかと打診された際にも、はこんな目で俺を見ていた。決意と、情熱と、恋慕を思い起こさせる、まっすぐな瞳。
 この目を初めて見た時に、多分、俺はのことを初めて意識したんだ。
「執念深いって呆れられるかもしれないけど、私……本当は、まだ――」
「待った」
 の言葉を遮った。続けられる言葉の察しがついたというのもある。だからこそ、その言葉をまた聞くことはできなかった。
「何度も勇気振り絞ってもらうのは気が引ける」
「あ、あの時は本当にごめんね? や、今も本当に調子に乗りそうだったし…私、どんだけ成長しないんだって、ね?」
 顔を真っ赤にさせて謝り倒し始めたが、俺の言葉を誤解してしまったことを知る。相変わらずだ。判断が早いというか見切りつけるのが早いというか。それもネガティブな方向で勝手に諦めてしまうのだから溜まったもんじゃない。
 一年前とまったく変わらない彼女の様子にクスッと小さく笑ってしまう。
って結構せっかちだよね」
 俺の言葉にショックを受けたのだろう。口も目も大きく開いてコミカルな表情で俺を見上げたは、声も出ないのかパクパクと口元を震わせた。
 意地悪がしたくなるわけじゃないけれど、俺の言葉に一喜一憂するが、愛らしくて仕方なかった。
「せっかち悪くない……」
 絞り出すような声音で紡がれた言葉に、たまらず大声で笑ってしまった。またしてもショックを受けたかのように眉を下げてしまったの頭に手を乗せ、ねぎらうように軽く叩いた。
「悪くなくてもさ、もったいないことしてると思うよ」
「そ、そうかな?」
「そうだって。俺、1年の時もそうだったんだけど……と付き合ってみてもいいかなって思ったから」
「へっ?!」
 クツクツと笑いながら昨年の俺の心境を告白する。心底驚いたらしいの声はとうとう裏返った。
「まぁ、今はもうちょい別の心境だけど」
「それって、どういう……」
 混乱しているのか、目を白黒にさせ俺を見上げるは、それでも空気が違うことにだけは気付いているんだろう。今までにないくらい、顔を赤くさせている。もしかしたら首まで赤いんじゃないかと疑わしいほど、真っ赤になったは、とうとう耐え切れなくなったのか長い溜息を吐き出した。肩で息を吐き、呼吸を整えるは、自分の胸に手を押し当てて目を伏せる。
 ふぅっと、整えたばかりの息を吐き出したは、それでも混乱したようにせわしなく視線を動かした。それを捕まえるべく、耳元に手を触れさせて、無理やり顔を上げさせる。更に慌ただしくなった視線に、思わず笑ってしまう。
「好きだっつってんの」
 耳に当てていた手を離し、軽くおでこに張り手を食らわせる。緊張も限界だったのか、突然の衝撃に驚いたらしいは上体を仰け反らせる。
 倒れられたら堪らない。咄嗟に腰に手を回し、抱きとめる。今までにないほどに近付いた距離に、簡単に心臓は跳ねた。顔を上げたと視線がかち合う。さっきからずっと赤かった頬が、更に色づいていくのを目の当たりにし、こちらまでその熱が移ってくるようだった。
 ――あぁ、ヤベ。やっぱりかわいいや。
 胸の奥が掴まれたように息が詰まった。余裕っぽく振舞ったところで、結局俺もただの思春期ってやつだったのだと自覚させられる。気がついた途端に恥ずかしくなってきた。ついさっきへと想いを告げ、返事を聞く前にこんな風に抱き寄せている。状況を受け止めきれないのか慌てふためいた様子で俺を見上げたが、混乱したままに口を開いた。
「それは、その……両想いってこと?」
 躊躇いがちに確認するようなことを聞かれ、一瞬、息が詰まった。降って沸いた照れくささをグッと飲み込み、にやりとに笑いかける。
「そうなんじゃね? が俺のこと好きなら、だけど」
「す、好きですっ! 大好きです!!」
 はっきりと言葉にしたに圧倒されてしまう。大人しい印象が強いがこんなに大きい声を出したところを初めて見た。思わず目を丸くしてしまう。だが、その衝撃も過ぎれば、言葉の内容がじわじわと耳に残り、そして胸の奥に届いた頃には体中に熱が走った。
 恥ずかしがり屋なタイプだろうに、相変わらず好きだって口にすることに対しては躊躇しないんだな。1年前にも感じた豪胆さを前に、なんだか無性に笑いたくなった。あぁ、こういうんだ。俺は、こういう風にと笑い合いたかったんだ。
「ははっ、声でっけぇ」
 慌てたように自分の手のひらで口を塞いだは、また顔を真っ赤に染め上げる。緩む頬を隠しもせずに笑いかけていると、は目にほんの少しだけ力を入れた。泣きそうなのを我慢しているようにも、俺の言い分を責めているようにも見える表情も、たまらなく愛しくて、これからいろんな顔したを見れるのか、だなんてそれもまた楽しみだった。
「まっつーん! 先に出てたんだ! 探したよー!」
 遠くから声がかかる。声のした方を振り向けば、及川や岩泉、花巻が連れ立って体育館の出入り口から歩み寄ってきている様が見て取れた。俺とが一緒にいる場面を目撃した連中は、一様に目を丸くして焦ったような顔をする。
 やっちまった感溢れるその顔は、試験前に勉強は充分出来ているのか、とコーチや監督に咎められた時の表情にそっくりだった。
 まぁ、先日あいつらの目の前でフラレたみたいなもんだったしな。そりゃ驚くか。横目での姿を目に入れる。隣に立ち尽くしていたは、耳は赤いのに顔面だけは青白くさせていて、なんとも不思議な表情をしていた。引きつった表情をほぐすにはどうしたらいいんだろうか。
 このままだと嘘つきました、だなんて謝罪に行きかねない様子のの手をそっと握り締める。
「わ、松川、くん」
「いいから。……ちゃんと紹介させて」
 ね、と柔らかく、諭すように告げ、及川らに向き直る。そのまま繋いだ手を、奴らに見せつけるように高く掲げた。意味がわからないと顔を顰めた岩泉の背中を、いち早く察したらしい花巻が鋭く叩いた。及川に至っては、俺らの方に震えた指先を向けている。ニッと笑いかけながら、自分の耳が熱くなっていくのを感じた。
「ええーっ?!」
 叫んだ3人がこちらへと駆け寄ってくる。勢いに負けそうになったのか、が逃げ出そうと踵を返したが、繋いだ手を強く握ることでその動きを抑える。
 俺を見上げたは戸惑いながらも、俺が笑っているのを見て、その表情を緩めた。目を潤ませて、風に靡く髪を耳にかけるその仕草が、春の景色に溶け込んでひどく綺麗に見えた。
 四月ももう中頃だ。とっくに始まっていたはずの春が、今、俺の目の前でスタートしたのを感じた。



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