03

新しい〝今〟が始まる


 昔からの幼馴染である侑と治。ふたりの参加するバレーの試合をちゃんと見るのは高校に入って初めてだった。2年になって同じクラスになった新しい友人と、体育館の2階から声援を飛ばす。その試合の終盤になって出てきた人は、前から気になっていた人だった。


* * *


、あとちょっとで掃除の時間終わりやで」
 ちゃんの呼びかけに頭を起こし、地面に落としていた視線のまま振り仰ぐ。どうやら思ったよりひどい顔をしていたらしい。ちゃんは私の表情を目にした途端、「うえ」と潰されたカエルのような声を上げた。
「えらい真剣やな。そんなせんでええやろ…」
 今週の頭から、班単位で割り当てられた掃除区域である体育館裏の土足場エリア。そこはバレー部が部活の休憩中によく飛び出す場所でもあった。手を抜いてゴミのひとつでも落ちていようものなら侑らに何を言われるかわからない。そんなシンデレラ根性も相まって、私はちゃんが呆れるほど真剣に掃除をし続けていた。
 だが、今の心境はまた、それとも違ったものが要因だった。辟易としたちゃんの言葉に、私は唇を尖らせた。両手で持っていた竹箒の柄をぎゅっと握り込める。
「うん、でもまだゴミ袋半分しか溜まってないんよ」
「秋になればまた嫌でも増えるやろ」
「んー…そうなんやけど、なんというか達成感が足りんのよねー」
 答えながらも、竹箒でザカザカと周囲の草を掃く。だが、すでに自分たちの担当するエリアの中にあるゴミは集めきってしまっていたらしく、偶然絡まった草が無残にも引きちぎられるだけだった。
 昼休みの前の20分ほどの時間とは言え、毎日続けているからこそ、ゴミは集まらない。月曜日ならともかく、今日はもう水曜日。めぼしいゴミはすでに昨日、一昨日で捨ててしまっていた。
 初夏というにはまだ足りないこの時期は、桜が散ることもなければ落ち葉が落ちることもない。季節柄、そんなにゴミが集まるような時期でもないのだ。ちゃんの言うとおりなんやろな、とは理解しつつもどうにかしてゴミ袋の中を埋めてしまいたいという思いを捨てきれなかった。
 今から草むしりをするにしても時間もないし中途半端になるんよなぁ。
 悶々と考え込む私に対し、竹箒に顎を乗せてこちらを眺めていたちゃんは重苦しい息を吐きだした。
「もうキレイなんやからええやん」
「わかっとるんけどな…。あ、あっちもう一回見てくるわ」
 諦めの悪い私は、ちゃんの「頑張りやー」の言葉を背にして駆け出した。傍らに置いていたゴミ袋を片手に、どこかまだこのゴミ袋を満たすものはないかと視線を巡らせる。だが、20分間の私や同じ班の子の成果か、ゴミらしきものはひとつも見つからない。自分たちに割り当てられた区域を回りきったが、それでも結果は同じだった。
 体育館正面の入口の前に辿りついた私は、膝に手を乗せ、はぁ、とひとつ大きく息を吐いた。これより先は、もうほかのクラスの担当だ。ちゃんの言うとおり、諦めるしかないんだろうな。
 体を起こしながらも、もうひとつだけ溜息を吐きこぼした。がっかりしているのは、達成感が満たされないからというのもあるが、ゴミ袋がもったいないなというのが一番の理由だった。このゴミ袋よりも小さいサイズのものはあっただろうか、と明日からの対策を頭に思い浮かべながら、元来た道を引き返そうと踵を返した。そんな時だった。
「なあ」
 短い呼びかけだった。私にかけられたものなのかも確証のないままに、反射的に振り返る。目に飛び込んできたのは、こざっぱりとした印象の男子だった。
 まっすぐに私を見つめる彼は、竹箒とザルのようなちりとりを持っていた。見たこともない顔であること、また躊躇なく話しかけてきたことから、彼の学年を予想する。3年生だろうか。チラリと名札の色を確認し、自分の憶測が正しかったことを知る。
 一瞬、外した視線を改めて彼へと向ける。まっすぐな彼の視線に、自然と背筋が伸びるような思いがした。
「なぁ、アンタ。ちょっと、こっちのエリアのゴミ余ってしまったんやけど、一緒に捨ててもらえんやろか」
「あ、ハイ、よろこんで!」
 彼の提案は私にとって願ってもないことだった。あまりにドンピシャな申し出に、思わず駅前の居酒屋の呼び込みのような返事をしてしまう。目の前のその人はほんの少しだけ目を丸くし、それから微かに口元を緩めた。
「頼むわ」
 目元までも和らげて私に歩み寄ってくる彼に、ゴミ袋の口を広げて待ち構える。丁寧な手つきでちりとりの中のものをすべてゴミ袋に収めた彼は、そのままゴミ袋の縁に手を添えた。彼の意図が見え、反射的にゴミ袋を私の方へと引き寄せると、驚いたかのような丸い目が私に落ちてくる。
「俺が捨て行くから、ええよ」
「ええですよ! 私、今日はゴミ捨てに行きたい気分なんで」
 謙遜するにしてももっとマシな言葉があっただろうに、思わず口にしたものは、言い訳というにはあまりにも強引すぎるものだった。恥じ入って俯くと、息を吹き出すような音が耳に入った。笑われたのかと、益々頬が熱くなるようだった。
「ほんなら明日は俺が捨てるから、また来てな」
 さらなる提案を差し出されたことに、顔を上げ、彼の様子を伺う。あまり表情は動いていないようだったが、力の抜けたような肩の雰囲気などから空気の柔らかさを感じ取る。はい喜んで、とまたしても口に出しそうになるのをぐっと堪えて、ただ短く「ハイ!」とだけ返した。


* * *


 そんなやりとりがきっかけだった。あの日から、互いの掃除区域の中間地点である体育館の入口前で待ち合わせてまとめて捨てる、というのがなんとなく習慣づいていた。一日の中で、ほんの5分程度、業務的な言葉を掛け合うだけと言ってしまえばそれだけの関係だ。
 余計な言葉を口にしない相手が、「北先輩」であることを知ったのだって、彼のクラスメイトらしき人が「北」と呼びかけていたのをたまたま耳にしただけに過ぎない。
 だけど、真面目そうな風貌や、丁寧な手つき、目が合えば逸らさずに見返される瞳の強さだとか。そういうものが折り重なっていけば、彼への印象もまた同じように好意的に増えていく。
 次第に「えぇな、この人」だなんて思い始めていた。そんな、矢先だった。北先輩が、目の前でコートに立ったのは───。
 バレー部だなんて知らなかったから意外性に驚いた、というのも強いのかもしれない。だけど腕や背中に駆け抜けた衝撃を、ただ飲み込むことさえできそうもない。耳や頬に熱が走る。引き締めた口元は、気を抜けばポカンと開きそうになる。
「背番号1のキャプテンが補欠て」
「なんや怪我でもしとったんやろか」
 周囲のそんな声も耳に入ってくる。だけど喧騒も次第に意識の外へと追い出されていった。感覚のすべてが、北先輩へと集中していく。
 いつも、体育館の入口の前で向き合うあのひとの立ち姿となにひとつ変わらない。北先輩の凛とした背中が、眩しかった。



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