哀れな惑星01

終わることのない願い



 広い水族館の中をゆったりとした歩調で歩く。視界を左右に振れば大きな水槽に押し込められた魚たちが彼らなりの規則性をもって泳いでいた。
 悠々と、とは決して言いがたい姿に、僕から魚たちへ向けた一方的なシンパシーは止まない。
 閉塞感を覚えた喉元を解放するべくひとつ咳を払った。音に反応したのだろう。近くを歩いていたカップルがちらりとこちらを振り返る。目を合わせないよう気をつけ、喉元に手を添えて喉の調子が悪いのだと装ってみせれば自然とふたりの視線は離れていった。
 安堵の息を吐き出しながら、今度は水槽でなくひとの様子を窺う。
 ――それにしても、やっぱりこういうとこってカップルばかりだよなぁ。
 手をつないだり、腕を組んだりべたべたとくっついている男女もいれば、接触は無くとも異様なほどに距離感が近い男女もいる。家族連れや女子同士の集団もいるにはいたが、どうしても男女の組み合わせばかりが目に入った。
 ――デート、かぁ。
 首の裏に手をやり、襟足の髪の毛を指同士で挟み込む。ほんのりと唇を尖らせたところで状況が改善するわけではないが、自分が今、ちいさな不満を感じていることは自覚できた。
 今日、この江ノ島水族館に来たのは僕の希望では無く、この春、無事受験に合格したひとつ下の幼馴染みの卒業兼入学を祝うためだった。高校生になるのだから〝江ノ島デート〟というやつがしてみたいと豪語したはずの同行者は、ほんの少し目を離した隙にどこかへと走り去ってしまっていた。
 LINEでどこにいるのと度々尋ねてはいるが、一つ所に留まることを知らない彼女は、「今ここだよ」と送られた写真の元に僕が足を運んだところですでにその行方をくらましていた。
 今もそうだ。カワウソのエリアから移動し相模湾大水槽の写真を送ってきたかと思えばもうすでにそこに彼女の姿は無かった。もっとも、僕自身が、真剣に相手を探さずきちんとエリア内の魚を見てから移動しているのも合流できない遠因なのだろうけれど。
 集団で旋回し続けるマイワシの群れを見上げながらひとつ溜息を吐きこぼす。ポケットからスマホを取り出し、定期連絡を取るべくLINEを開いた。

 〝今度はどこ?〟

 端的な質問を投げかけ、また連絡が来るまでポケットにしまっておこうと手を後ろに回した途端、手のひらの中でスマホが振動する。パッと手を翻し、画面を確認すれば同行者からの現在位置の報告とは思えない文面が目に飛び込んできた。
 
 〝ぷかぷかしてる!〟

 ぷらぷらじゃないんだ、と頭の中でツッコミを入れると同時に写真が送られてくる。通知画面には表示されない情報を確認するべく、指紋認証でロック解除しLINEを開いた。
 ――あぁ、なるほど。
 キメ顔で自撮りを送ってきた彼女の背景に、ぷかぷかしているものの正体を知る。困った幼馴染みのありように眉尻を下げながらも、自由な彼女の荒すぎるヒントに思わず口元がゆるんだ。
 ――そろそろ迎えに行かないとなぁ。
 肩でひとつ息を吐き、新しく送られてきたくらげの写真と館内マップを見比べながら、彼女がいるであろうエリアへと向かうべく階段へと足を向けた。

 * * *

 くらげゾーンに足を踏み入れれば、意外にもそこはひとの姿がなかった。どうして、と館内マップのスケジュールを確認してみればどうやら近くの水槽でもうすぐショーが始まる時間に差し掛かっていることを知る。
 ――あいつもそっちに行ってそうだなあ。
 顎に手を添え、彼女の行方を予測する。目先の面白そうなものにはすぐに飛び込んでいく無鉄砲さを思い返しながら大いにあり得るなと唸り声を上げた。
 ――すぐに迎えに行ってもいいんだけど。
 移動するべきだと頭に浮かびながらも、今の状況をポンと捨てるのが惜しい。ほんの少し迷ったけれど、せっかくこの空間をひとりじめできるなら、とこの場に留まることを選択した。
 ひときわ大きな水槽に歩み寄り、ぼんやりと光る水槽に手を寄せる。ひんやりとした室温よりも更に冷たい感触が手に残った。
 泳いでいるというにはいささか独特な動きを繰り返すくらげをぼうっとした視線で眺めてどのくらい時間が経っただろうか。背後に人の往来を感じた頃合い、ふと、こちらへと走り寄ってくる影を感じ取る。

「順平ー。やっと見つけたぁ」

 情けないような、こちらを咎めるような複雑な声音に振り返れば、幼馴染みであるがほんの少し怒ったような表情でこちらに駆け込んできた。
 まるで僕の方が迷子になっていたのだと言わんばかりの口調に釈然としないものを感じたけれど、のこういうところをいちいち咎めたところで治らないことはこの十数年で身に染みて痛感している。

「もー。今までどこいたの?」
「ちゃんとが送ってきたとおりに回ってたよ」
「そうなの?」
「うん」
「そっかぁ。なかなか合流できないもんだねぇ」

 ぐぬぬ、と唸り声をあげたは、機嫌悪そうにしていたかと思えばあっさりと反省するかのような素振りを見せる。そもそも飛び出して行ったのはであって僕が怒られる言われは無いのだけど、怒りを引きずらないというかその時その瞬間で感情の切り替わりの早いに苦笑した。

「どうしたの?」
「ううん。なんでもないよ」

 笑みの名残が浮かぶ口元を手の甲で隠し、軽く頭を横に振ってみせると、は怪訝そうに首を捻った。

「水族館、つまんなかった?」
「そういうわけじゃないよ。あぁ、でもがどんどん先に行っちゃったからなぁ」
「うぅ……」
「せっかくふたりで来たのにさ」
「うっ」

 ひとりでいることは苦にならないけれど、放り出されたことに対し苦言を呈してもバチは当たらないだろう。ぎゅっと眉根を寄せて僕の弁を聞き入れるはまるで梅干しを大量に口にねじ込まれたかのように渋い表情を浮かべている。

「やっぱり……映画の方がよかったかな……そしたらさすがにはぐれない……」

 苦悶の表情で言葉をこぼすは口元をへの字に曲げて半べそをかいている。普段、たいていのことを受け入れて甘やかしてきた僕からの反論はどうやら想像以上に効いたらしい。
 反省はして欲しいけれど、それはあくまでふたりで過ごす際にどこにも行かないで欲しいからであってを凹ませることが目的ではない。

「いいよ。今日はの卒業と入学祝いだからさ。はぐれても探しにいくくらいのことはするよ」

 でも少しはこっちを振り返って欲しいなあ。
 ポンとの頭の上に手のひらを乗せ、そのままつむじの辺りを掻き回すように撫で付けると、はまるで水を被った犬のように頭を振るった。ひと通り撫で付けたあと手を離して見下ろせば、は乱れた髪の毛を直しもせずにほんのりと唇を尖らせる。

「でも、まさかも里桜を受験するとはなぁ」
「この辺でそこそこの高校って言ったら里桜しかないんだもん」
「そっか……そうだね。僕は、もう……あんなところ行かないけど……まぁ、が楽しく過ごせるといいね」
「――うん」

 尖らせていた唇をますます突き出したに、僕が高校でどんな目に遭わされたかは伝えていない。だが、彼女の様子を見るに話してなくとも伝わったものは多分にあるのだろう。
 進級を機に学校に行かないことを決めた僕と入れ替わるように入学することになったに、正直にすべてを話せば敵を討つなんて馬鹿な考えを抱く可能性は高い。
 ――放たれた弓矢のようにまっすぐに、飛んでいったら返ってくることのないの性分が悪い方向に作用しなければいいんだけど。
 高校生になるんだから少しは大人っぽくなるよ、というの弁を信じることしか出来ないけど、の未来が明るいものであるようにと心底願う。

「さて、そろそろ一度出てなにかお昼ご飯食べにいこうか。またあとで再入場できるみたいだし」

 館内マップから得た情報を口にすると、沈んでいた表情を一変させたは目をきらきらと輝かせて僕を振り仰ぐ。

「いいね。せっかくだから橋渡って、たこせんべい食べに行きたいな」
「くらげ見ながらそういうこと言う?」
「くらげとたこは違う生きものだよ?」

 知ってる? とでも言いたげなは得意気な笑みを浮かべていた。生意気な表情が小憎らしい。だけど「食感も違うし知ってるよ」なんて言い返そうものなら、今度こそ「くらげの前でくらげを食べる話をしないでくださーい」などと鬼の首を取ったようにはますます得意になるのだろう。

「はいはい。わかってるから。食べて戻ってきたら今度はちゃんと一緒に回るからね」
「はぁい」

 肩で息を吐き反論を飲み込んだ僕は、の背中を軽く叩いて先を歩くように促した。鼻歌でも歌いそうなほど機嫌よさそうに笑うの姿を横目に入れながら出口へと足を向ける。

「ところでさっきから気になってたんだけど……どうしてそんなポーズしてるの」

 小一時間ぶりの再会以来、気になっていた点をようやく指摘する。
 話してる最中も、胸の高さまで上げた手のひらをだらりと下向きに下げたままのが不思議でならなかった。そのうち姿勢を正すだろうと思っていたのに、歩き出してもなお同じ姿のままでいることはさすがに無視できない。
 古典的なおばけのポーズを取ったは、手のひらを下げたままブラブラと手首を振ってこちらを見上げた。

「さっきネコザメ触った」
「えぇ……」

 言外にそれ以来手を洗ってないと含ませたに思わずドン引きしてしまう。水槽を際立たせるために絞られた照明をたよりに目を凝らせば、の指先が微かにしずくを纏っているさまが確認できた。

「どうして先に手を洗わなかったの」
「トイレに行こうとしたら順平がいたから」
「じゃあせめて手を拭いなよ。ハンカチ持ってきてたでしょ」
「ハンカチ汚したくないし、そもそも鞄の中に入れてるから濡れた手じゃとれないよぅ……」

 ――どうしてネコザメに触る前に予め取りやすいところに出して置かなかったの。
 今更尋ねたところでどうしようもないことが頭の中を埋め尽くしていく。鈍く痛み始めた頭を抱えながら強く目をつぶり差し迫る衝撃を堪えた。
 確かに季節展示の中にふれあいコーナーがあることは知っていたし、何も考えず「わぁ! ネコザメ! 触る!」とテンションが上がるままに水槽に勢いよく手を突っ込むの姿は簡単に思い描かれる。その場面に直面してなくとも自然に頭に浮かんだ光景に、スっと痛みが引いていく。
 ――あぁ、これは突っ込んだら負けのやつだ。
 諦めの境地に辿りついた途端、全身の力が抜ける。
 そうだ、の対応にいちいち憤ったり反省を促したりしたところで響かないんだった。今のは知っていた知識を再確認させられただけだ。
 脱力するままに息を吐き出し、改めてと向かい合う。

「まぁ、いろいろ理由があるのはわかったから」
「ん」

 僕が折れたことを感知したらしいは唇を尖らせたまま頷いた。不遜な態度だと思う。だけど、素直さの残る顔つきに不快感は生まれない。

「それじゃ、出る前に一度トイレに行っておこう。ハンカチもその時に鞄からとってあげるから」
「はぁい」

 素直な返事を口にしたと共に頭上に掲げられた誘導マークを確認しながら歩みを進める。おとなしく隣を歩いているは相変わらずお化け屋敷の幽霊役のようなポーズを取っていた。

「……」
「……」
「……手、にぎる?」
「いや、遠慮しておくよ」

 無言で左隣を歩いていたの突然の申し出を軽く打ち返せば不満気な声が漏れ出たのが耳に入ってくる。
 こういう場合のは隙を見せた瞬間にサッと僕の手のひらを握ろうとするんだろうな。
 頭に浮かんだ考えと共に身構えた途端、の右手がこちらに伸びてきた。予想通りの行動を起こすに、心構えが出来ていた僕がひょいと腕を上げることで抵抗の意を示すとますます悔しそうな唸り声を上げる。
 ――どうやら緊張感のある道のりになりそうだ。
 早くトイレを見つけてを押し込んでやらないと、そのうち僕の服で手を拭われる恐れがある。背に腹はかえられぬというし、服を汚されるよりも手を押さえておいた方がいいだろうか。
 難解な二択問題の答えを出せないままそろりそろりと差し迫るの手をどうすべきか考えていた。





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