哀れな惑星02

運命と邂逅



 子供のころ、私はヒーローに憧れていた。
 
 同じ年頃の女の子とおままごとをするよりも、ひとつ年上の順平にくっついて遊ぶ方が好きだった私は、順平の見る特撮ヒーロー番組を見ては胸を高鳴らせたものだ。
 順平は家でテレビ番組を見るだけで満足するタイプだったが、私はそれだけでは物足りないタイプだった。「一生のお願い!」と順平に何度も縋り付いては外に連れ出した。私がヒーロー役をすることもあれば、乗り気ではない順平にヒーロー役を任せて私が怪人役を買って出ることもあった。
 ヒーローごっこに興じるのは保育園を卒園し、小学校に上がっても変わらなかった。
 お祭りで買ってもらったお面をランドセルに詰めて学校に行き、授業が終われば朝のヒーローの決め台詞を口にして滑り台の上から飛び降りた。止める順平を振り切ってジャングルジムのてっぺんから飛び降りて骨折をしたときは母を大いに困らせたものだ。
 思い返せば、我ながら結構おてんばだったと思う。共に育った順平はさぞかし苦労したことだろう。だが順平はきっと〝今となってはいい思い出だ〟と考えているはずだし、もしかしたら成長するにつれ年相応の慎重さを身につけてしまった私を見ては寂しく思っているかもしれない。
 ――こればっかりはしょうがないよねぇ。高校生は大人だもん。
 おろしたての制服を身に纏いながら、うんうん、と頭を揺らす。ブレザーに袖を通し、ボタンを閉めるか閉めないか一瞬だけ考えたが止めない方が楽だと自らに結論づける。
 クローゼット横の姿見の前に立ち、整えたばかりの髪の毛が肩に落ちていないか気を払う。
 ――出来れば一緒に学校に行きたかったなぁ。
 ぽつりと浮かんだ考えに誘われるままに唇が自然と尖った。いつかまた、順平と同じ学校に通う夢は多分もう叶わない。だが、だからと言って諦めるつもりも毛頭ない。いつか順平が学校に行ってもいいかなと思う日が来たとき、私が傍にいなくてどうする。その心構えだけは忘れるわけにはいかない。
 きゅっと唇を結び、鏡に映った私に向かって拳を突きつけた。
 
 心は、今も己の正義と共にある。
 

 * * *
 

 とある夏の帰り道。二学期が始まってもなお暑さの衰えることのない日々に辟易していたころ。夏休みの恋しさを噛みしめながら帰宅する私の目に、ひとつの違和感が飛び込んできた。
 不思議に思いながら前方に目をこらしてみれば、順平の家の前に恰幅のいいおじさんが座り込んでいる姿が見てとれる。違和感の正体に納得しつつも、今度は「なぜこの人がいるんだろう」という疑念が頭をよぎった。
 歩き疲れて休憩しているだけなのだろうか。それとも具合が悪いんだろうか。背を起こしたままハンカチで顔を抑える姿を見る限り、前者の可能性が高いなと思いつつも、どことなく警戒心が胸に残る。
 道の端っこではなくわざわざ門前を選んでいるあたり、どこか信用ならなかった。担任が不審者情報を言ってはいなかったか。記憶を探ろうとしたものの、帰りのホームルームなんてほとんどまともに聞いたことがない私に思い出せるはずがなく、今日の担任のネクタイが変な色だったことしか頭に浮かんでこなかった。
 顔を顰めたまま、残りの帰路を進み続ける。ただの帰り道だったはずなのに、予期せぬ出来事で異質なものへと変容した。薄くまとわりつく緊張と鳴り止まない警鐘。そこに怒涛のように押し寄せる不安が合わさるとあまりの心細さに、肩にかけたスクールバッグの紐に縋り付くように強く握りしめる。
 疑い続けるのも良くないとわかりつつも、警戒心が解けない。もっとわかりやすく倒れるなり助けを求めるなりしてくれたなら、「行き倒れだ!」と救護すべく立ち回ることが出来たのに。
 奥歯を噛み締めたまま歩くうちに、いつの間にか呼吸すらも止めていたことに気がついた。
 固く結んだ唇を薄く開きそっと息を吐く。二度、三度と繰り返し、近付くにつれて胃が重くなるような感覚に耐えた。
 こんなもの、相手の顔が判別出来るようになれば治まると思っていた。だが、実際は真逆だった。
 そこに座る相手が同じ学校の教師だと気付いた途端、腹の内により一層の嫌悪が渦巻いた。
 身体の真横に下げていた手のひらが拳に変わる。ぎゅっと眉根を寄せ睨む私に気付いたのか、その男はこちらを見るなり顔を顰めた。

「お前、𠮷野の知り合いだな。アイツが今どこにいるかわかるか」

 順平に用があるのだとほのめかした男は見覚えがあった。
 ――だからずっと嫌な感じがしたんだ。
 不審者がいるなんて疑念より嫌いな先生がいる確信に強く反発心が沸き起こる。唇を真一文字に結んだまま睨む私を一瞥した男は大きく溜息を吐きこぼし、勝手にしゃべり始めた。

「呼び鈴を押したんだがどうも親も留守らしい。まったく、不登校児を野放しにするなんて……」

 暗に凪さんさえも非難する口調に一層腹が立つ。安易に人を嫌ってはならないと知りつつも、こうも立て続けに私の好きな人たちを蔑ろにされたり馬鹿にされたりするとさすがに腹に据えかねる。
 仕事に行ってる凪さんの不在は当然だ。順平もこの時間に家にいないということは、多分、映画でも観に行ってるんだろう。それか、レンタルショップか。どちらにせよ家にいないのなら都合がいい。
 ――順平が帰ってくる前に、この男を倒す。

「……いないってわかってるなら帰ったらどうですか」
「話があるから帰ってくるまで待ってるんだ」

 どうせその話だって〝不登校児への気遣いを欠かさない担任〟を演じるための策略だ。校長たちへの見え透いた点数稼ぎに順平を利用されて溜まるか。
 この男に対し、どう対応するべきか。腹ひとつ括りさえすれば迷う余地などなかった。取るべき行動指針が定まると、悪役怪獣に対峙するような気持ちで身構える。
 突然、ファイティングポーズを取った私を目にした先生はギョッと目を見開き、両手のひらを身体の前で広げた。

「おい、なんのつもりだ!」
「なんのって帰ってもらおうと思って」
「だからって殴り掛かるつもりじゃないだろうな ?! 用が終わったら帰るんだから、その物騒なポーズはやめろ!」

 やめろと言われても立ち去るまで引くつもりは無い。半身に構えたまま脇を締め、たじろぐあまり汗を飛ばす先生に、摺り足でにじり寄る。「ヒィッ」と漏らした先生はますます焦ったような声を上げる。

「だからやめろと言っているだろう!」
「あと5秒以内にどっか行かないと通報しまぁす!」
「何を言ってるんだ。俺は𠮷野のクラスの担任だぞ」
「知ってるよ! でも先生、順平のこと助けてくれなかったじゃん!」

 里桜高校に入学し、いの一番に始めたのは犯人探しだった。順平を心身ともに痛めつけ、尊厳を踏み躙った相手は誰なのか。方々駆けずり回っては尋ねてみたものの、学年も違えば知っている先輩すらいない状況での捜査は難航した。
 そもそも順平を知らない人が多く、知っている人に行き当たっても誰もが苦々しい顔で口を閉ざした。「教えて」と縋れば教えてくれる相手――順平の優しさばかりを受け止めてきたからこそ、厳しい現実を目の当たりにすると自然と唇は尖った。
 それでも諦めず聞き込みを続けていた矢先に、この人が二年続けて順平の担任だと知った。やっと巡り会えたと思った。これで順平が心置きなく学校に行けると信じ、疑わなかった。
 だが助けを求めた私の期待は、たった一言で打ち落とされる。
 
「何があったか知らないが、引きこもってるんだろ」

 一蹴だった。この大人には頼れないのだと失望するのなんて、その言葉ひとつで十分だった。
 犯人を見つけられない日々が続いた不満。結果、自分が順平のために何も出来てない現状。そんな状況で鬱屈した感情さえも先生に差し向けるのは八つ当たりでしかない自覚はある。
 それでもこの人が知ろうとしなかった事実は揺らがない。もしかしたら知ってて知らないふりをしているだけかもしれないけれど、それは余計にタチが悪いというものだ。結果、先生が順平に対し一線を引いているのだと気付いた以上、このひとは私にとっては「敵」でしかない。
 ――順平が帰ってくる前に追い払わないと、順平が帰ってきたときにいやな思いをしてしまう。
 自分の好き嫌いを正義感でコーティングするのはよくないことだけど、どうしてもこの人を順平に合わせたくない気持ちが強く出る。眼前に構えた拳をぎゅっと握りしめいつでも飛びかかれる準備を整えた。だがそんな私の心構えとは裏腹にこちらを見上げていた先生は一向に襲いかかってこない私に見切りをつけたのか、大仰に息を吐き出すだけだった。

「もういい。暗くなる前にさっさと帰れ」

 シッシッとあしらうように手の甲で突っぱねた先生の態度にムッと下唇を突き上げる。まるでちいさな子ども扱いだ。18時回ったところでまだまだ夏の夜にはほど遠い。それに順平の家からうちの家はもう目と鼻の先だ。家に帰るなんて訳ないね。
 フン、と鼻を鳴らしていまだこちらを睨めつける先生に一瞥を流す。そっちがそんな態度ならこっちだってやってやる。そんな心境と共にスマホを鞄から取り出した私はとある3桁の数字をタップしてスマホを耳に宛がった。

「あ、すみません。警察ですか? ちょっと助けて欲しいんですけど、知らない人が玄関にいて帰れないんです」
「ハァ?! 何をやっているんだ、お前は!」

 本当に通報されたと勘違いしたのだろう。素っ頓狂な声を上げた先生は絶望の表情を顔に浮かべてこちらを見上げる。だが、それでも見るからに重そうな身体は簡単には動かないのか、玄関前の階段に腰を下ろしたままだった。
 動かざること山の如し。どこかの武将の戦に対する心構えを頭に思い浮かべながらスマホを耳から離し、画面に表示されているだろう発信先を掲げる。
 今、私が押したのは110番ではなく117番だ。4回の電子音と5秒おきに鳴る時報がかすかに耳に入ってくる。その音は先生の耳にも届いたらしい。焦燥に満ちた表情を唖然呆然としたものへと変遷させるさまが目に入った。

「嘘でーす。でも今すぐ帰んないならこのまま通報しまぁす!」
「こ、この……」

 べるべろばーと舌を突き出して挑発すれば、言葉にならない戸ばかりに先生は呻いた。そろそろ殴られても致し方ないかもしれないが、そうなったら大手を振って通報するだけだ。
 怒りで身体が熱くなったのか、先生は再びハンカチで汗を拭い始めた。じりじりとした心地を抱えたまま対峙していたが、ふと、なにかに気付いたように先生の視線が私から転じる。釣られるように背後を振り返れば、軽く俯いたまま帰路につく順平の姿が見て取れた。
 
「順平!」
「𠮷野ぉ。どこ行ってたんだ? 駄目じゃないか、学校サボって」
「外村……先生……。それに、も」

 先生を目に入れた順平の困惑に塗れた表情と、ジリ、と距離を取る態度に、順平がこの先生を嫌っていたのだと確信を得る。
 ――やっぱり通報しておけばよかった。
 たった今、そのチャンスを逃してしまった悔恨が胸に浮かび上がる。だが自らの失敗を悔やむよりも、今は順平のそばにいるべきだ。そう直感した私は軽く構えていたファイティングポーズを引っ込めるとすぐさま順平に駆け寄った。チラリと流された一瞥を捕まえる間もなく、順平の視線は先生へと戻される。
 ――オーケィ。順平が警戒するのなら私が矢面に立ってあげよう。
 横に並ぶつもりだった足をきゅっと引き留め、順平の前に立ち塞がると改めて拳を掲げようとした。だがきっちり構えるよりも先に、上げかけた腕を取られた私はそのまま順平の背後に回される。

「順平?」
「……いいから」

 ここにいて。微かに聞こえた順平の言葉に唇を真一文字に結ぶ。嫌そうな素振りを見せた順平が先生と話をするのを正直邪魔したい。けれど、順平が前に出ると決めたのなら、私が割って入るのもおかしな話だ。
 口を挟めない歯痒さを我慢する一択な現状にやきもきしてしまう。それでも、せめて「順平の背中には私がついているんだぜ」と知ってもらおうとTシャツの背中部分を集めて掴む。そのまま順平の肩越しに先生を睨んでいると、こっちの警戒心なんてお構いなしに先生はしゃべり始めた。
 知らない三人の名前を挙げた先生は、彼らが亡くなったのだと口にする。そして仲が良かったのだから今からでも彼らのお葬式に行くべきだと説いた。
 友だちがいたのかと安堵しかけた。だが、小刻みに震える順平の様子に只事ではないと察しがつく。
 軽く俯いた順平の表情は背後からはほとんど見えない。それでもその震えは故人を悼むものではなく、怒りや恐怖といった負の感情由来のもののだとしか思えなかった。
 Tシャツを掴む手に思わず力が入る。順平の呪いのような言葉が聞こえていないのか、先生はこちらが不快になるだけのジョークを飛ばすだけだった。
 ――やっぱりコイツ嫌い。
 浮かび上がる嫌悪は、尖った唇に滲み出る。両手で掻き集めたままのTシャツはおそらくしわしわになってしまっていることだろう。

「――、下がって」
「え」

 不意に差し出されたお願いに、先生を睨み付けていた視線を順平へと転じた。垣間見えた暗い表情に思わず唇を引き締める。

「出来れば、目を瞑って、見ないで」
「ん。わかった」

 今から何をするのか好奇心は残るが順平が望むのならそうしよう。いつもなら食い下がってでも何が起こるのか問い詰めるところだけど、切迫した順平の様子に今はそれをしてはならないと感じ取る。
 怖いほどに揺るぎのない順平の目に違和感を覚えながらも、言われるがままきゅっと目を瞑った。程なくして握りしめたTシャツ越しに順平がなにやら身じろぎするのが伝わってくる。だが、順平がさらに動こうとした途端、どこからともなく大声が降りそそいだ。

「ストォーップ!!」

 びくりとはねた順平の身体と知らない男の子の声に、順平との約束を忘れて反射的に目を開いた。順平の視線を追って空を仰げば空中を跳ぶ男の子と目が合った。ような気がした。だがそれも一瞬のことで、カエルのような跳躍を見せた彼は、着地直前にくるりと一回転したかと思えば地面を滑って体勢を整えるうちに壁にぶつかる。
 慌ただしい様子を見せる彼に、私と順平、おそらく先生も固唾を呑んだまま一連の動きを見守ってしまう。
 呆気にとられた私たちをよそに、文字通り降って湧いた男の子はずいっと順平の前に進み出る。

「なぁ! ちょっと聞きたいことあっからさ。面かして」

 あっけらかんとした口調とは裏腹に有無を言わせぬ態度で詰め寄ってきた男の子に尻込みしたのだろう。順平が軽く身を引くと同時に、ほとんど背中にくっついていた私は順平の襟足に顔をつっこんでしまう。

「痛ァい……」
「あ、ごめん」
「髪の毛目に入ったよぅ……」

 ぼやきまじりで被害を訴え、指の甲で目の周りをこする。その間、順平は「ごめんね」と口にしながらも現れたばかりの男の子に視線を向けたままだった。
 先程先生に向けたものとはまた違った警戒を差し向ける順平を目の当たりにした私は、まだ微かに痛む瞳で何やら先生と口論を始めた男の子を見上げる。学ランとパーカーがくっついた見たことも無い制服を身に纏った男の子は順平に何やら大事な用があるらしい。きつい口調で詰め寄る先生に怯むことなく言い返す様子に、ある種の頼もしさのようなものを感じてしまう。先生に向けていた敵対心や警戒心。そして順平から感じとっていた不安にも似た違和感が薄れていく。にじむ涙のせいか、見上げた世界がうっすらと輝きをまとい始めた。
 だが軽い高揚を覚えたのも一瞬のことだった。口論では埒があかないと踏んだらしい男の子が、突然、先生のズボンを引きずり下ろした。突然の出来事に先生だけでなく私も順平も固まった。そんな私たちを余所に、一度始めたことはやり通すとばかりにその男の子は先生のズボンを脱がしに掛かった。
 黙ってやられるわけにはいかないと先生も抵抗している。だけど男の子の方が何枚も上手だったらしい。太った体躯も革靴さえもものともせずズボンを剥いだ男の子は、ちぎれたベルトとひとまとめにして手にすると、そのまま通りの向こうへと駆け出した。

「持ってかないでー!!」

 悲しみと怒り。そして情けなさをふんだんに混じらせた声が耳に入ると、私のやるべきことが即座に頭を過った。時報を流したままだったスマホをポケットから抜き取ると、即座にカメラアプリを立ち上げる。指でスライドさせ動画モードに変えるとすでに姿が見えなくなった男の子を追いかける先生の動向をカメラに収めた。

「よしっ!」
「よしって……いきなりどうしたの、
「ん、これ」

 なんだか嫌な予感がする。そんな感情をありありと表情に描いた順平に向けてスマホを差し出した。翻したばかりの手のひらに載せたスマホを操作し、撮ったばかりの動画を再生する。流れてきた映像のどぎつさに負けたのか、順平はウッと呻き声を上げた。下半身下着姿の小太りなおじさんの激走シーンは、コメディ映画のワンシーンを思い起こされるほどコミカルだったが、どうやら順平には耐えがたいものだったらしい。

「またあの人が順平ん家に来たときにこれ見せたら追い払えるかなって」
「……怒らせるだけだと思うから消しておきなよ」
「ちぇー」

 お守り代わりに順平に持っててもらおうと思ったけれど、順平が嫌がるのならやめておこう。たしかにこんな映像が順平のスマホに入ってたら嫌だし、万が一凪さんに見られでもしたらふたりの食卓がたいそう気まずいものになってしまうに違いない。
 景観を損ねるなんてかわいいものじゃないしね。残念だけどこれは諦めるほか無いよなぁ。そんな風に残念がる素振りを見せながら、手のひらを翻してスマホを操作する。
 おとなしく言うことを聞いた私を目にした順平は安心したように息を吐いた。そんな姿を目に入れると大変心苦しいが、やっぱり何かあった時のお守りで持っていたい気持ちには抗えず、うっかりクラウドに保存してやった。





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