哀れな惑星06

奈落へ


 昨夜は順平の家から帰ったあとも、なんだかふわふわしっぱなしだった。
 お風呂に入ったり歯を磨いたりしても地に足着かない心地はそのままで、興奮冷めやらぬ気持ちを抱えながら床についた。
 いつもなら数分も経たずに眠りに落ちるのだが、布団の縁を握りしめたところでまったく眠気は訪れない。耳には順平や凪さん、悠仁と交わした会話が蘇るし、目を瞑っても瞼の裏には3人の姿が鮮明に映し出されたことでますます眠れなくなった。
 夢みたいな夜だった。またいつか、あんな風に過ごせたらいいのにと何度も願った。
 ――悠仁がまた、遊びに来てくれたらいいのになぁ。
 そんなことを一晩中考えていた。ようやくウトウト出来たのは明け方だった。体感的には数秒後、スマホから鳴り響く目覚ましの音に叩き起こされた時には頭だけベッドの下に落ちていたので、あまり寝た気がしない。
 昨夜の楽しさとのギャップに顔を顰め、授業を受け終えたあとも、気を抜けばあくびはこぼれ続けている。通常ならばこの後は帰りのLHRを終えれば家に帰れるはずなのだが、今日は運が悪いことに通常授業に加えて全校集会が行われる日だった。
 気乗りしない全校集会へ向かう足取りは重い。作文の表彰だかなんだかが行われるらしいが、そんなもの、校長室とかで個人的に呼び出してやって欲しいものだ。
 不平を口先で転がす私に同調してくれる友人も大勢いた。それでも全校集会をサボるつもりはないらしく、周りに促されるままに諦めて体育館へ向かった。
 道中何度も「行くのやめようかな」と魔が差し続けては重い溜息を吐きこぼす。それどころか「眠いなら保健室で寝るべきだよ」「それよりこのまま帰っちまえよ。誰も咎めやしないさ」と頭の中で天使と悪魔が囁きはじめる始末だ。どちらとも「体育館には行かない」選択を勧めてくるあたり、これが私の隠しもしない本音なんだなと強く実感した。
 ――これが家に帰るためならば、サクサク足も動くんだけどなぁ。
 肩を落とすままに溜息をこぼすつもりだった。だが、口から漏れたのは朝から留まるところを知らないあくびだった。申し訳程度に手のひらで口元を覆い隠したものの、隣を歩いていたクラスメイトの目にとまってしまったらしく、眉尻を下げて苦笑された。

、今日ずっと眠そうだよね」
「今からの集会は大丈夫なの? 校長の話聞きながら立ったまま寝ちゃうんじゃない?」
「その時は支えてー」

 もう限界なんだよと訴えかけ、わざとらしく額に手の甲を当てながら寄りかかってみせるとふたりはケラケラと笑いながら身を捩った。

「無理無理。ウチらか弱いから」
「そーそー。倒れこまれても将棋倒しになるだけだから」
「でもさぁ! こう、ふたりで並んでさぁ!」

 身振り手振りで眠りこける私の支え方講座を開いたところでふたりが翻意してくれるはずもなく「諦め悪いなぁ」と一蹴されるだけだった。

「授業中もウトウトしてたよね。先生、絶対気付いてたよ」
「え、そうなの?」
「頑張って起きようとしてたから何も言われなかったっぽいけど……先生の顔、引きつってたよね」
「うんうん。あんまりグラグラ揺れてるからさ、いつ机から落ちるんだろ? ってこっちまでハラハラしちゃった」

 恐らく授業中の私の真似をしたのだろう。起き上がりこぼしよりも乱れた動きで上体を揺らす友人に「えぇー!」と思わず顔を顰めた。

「起こしてくれたらよかったのに!」
「いや、どんだけ席離れてると思ってんの」

 友人の言葉に教室での座席の並びを頭に思い描く。真ん中あたりに自席を構える私と、教室後方に位置取る友人らの距離は遠く離れている。もしも本当に私が椅子から転げ落ちてしまっても、ふたりの助けが間に合う気はしなかった。
 それよりも斜め後ろかもしくは隣の席の人に助けを求めた方が現実的な気がする。あらかじめ伝えておくべきだなと決意しかけたのも束の間、今日、まさにぐらぐら揺れていた私のせいで私の後ろに座る男子は授業中の板書もままならなかったのではと思い至った。
 迷惑をかけてしまったのかもしれない予感にサッと顔を青くした。そういえばいつもなら「体育館行くぞ」なんて声をかけてくれるのに今日はそれがなかったような、気がする。眠かったからあやふやだけど。
 真面目に授業を受けようとしたであろう男子の心情を思い描くと胃がキリキリと痛むような気がした。後で飴かチョコを渡してごめんねって謝っておこう。
 内心でヒヤヒヤしながらそんなことを考えていると、友人のひとりが「さぁ」と呼びかけてくる。

「まだ夏休みの夜更かし癖が抜けてない感じ?」
「癖ってほどじゃないよ。ただ昨夜は、遅くまで順平ン家で映画観てたからさ」
「出たっ! 順平!」
「ほんっと好きだよね。順平のこと」

 軽い笑いと共にこちらをからかってくるふたりは、どこか機嫌良さそうな顔つきで私を見つめた。私がいつも順平の話をするのもあってか、いつからかふたりは私と同じように「順平」と呼び始めていた。「の幼馴染の順平君」よりも「順平」の方が言いやすいのもあるんだろう。
 会ったこともない「順平」を、今では〝毎度おなじみの〟と言いたげな口調で受け入れてくれるふたりの存在はありがたい。でも今日だけは違うんだ。順平、それに凪さんの話もしたいけど、昨夜はもうひとり最高の友だちがいた。
 悠仁の話がしたい。私にとってのヒーローが現れたんだ。新しく知り合った友人の名前をこれから覚えてもらいたい。そんな気持ちに突き動かされるまま、いまだニヤニヤと笑みを浮かべるふたりに詰め寄った。
 
「順平もいたんだけどね。昨日はさぁ!」
「……順平?」

 あのね、聞いて。ふたりに手を伸ばして話をしたいと訴えかけようとしたところで訝しむような声が近くから聞こえてくる。反射的に声がした方を振り返れば、見知らぬ男子がこちらを怪訝そうな顔で睨んでいた。
 咄嗟に上靴の色を確認すれば、一個上の先輩なんだと窺い知れた。ぱっと見で得た情報を元に記憶を巡らせてみたものの、どこの誰かもわからない。知らない人だと一蹴してもよかったんだけど、離れない視線に身体が硬直してしまう。蛇に睨まれた蛙の心境ってやつだろうか。取りとめもないことを考えたまま固まった私に、その先輩は愛想笑いを浮かべて歩み寄ってきた。

「――ねぇ、君。聞きたいことがあるんだけど」
「え、誰?」
っ! 伊藤先輩っ!」

 中学の時の知り合いでもなければ、高校で新しく知り合った先輩でもない。そんな相手に急に話しかけて来られるとはちっとも予想しておらず、思わず不躾な言葉を零してしまう。
 慌てて耳打ちしてきた友だちに肩を揺すられたが、やはりその名前で思い当たる知り合いはおらずますます「で、誰?」な気持ちが大きくなる。
 だが友人の必死な口ぶりと「伊藤先輩」のキーワードにようやく脳内にある私の知り合い図鑑からひとりの人物像がピックアップされる。それと同時に入学してすぐの頃、伊藤先輩と言う名のかっこいい先輩がいると騒いでいた彼女の姿が脳裏を過った。
 そうか、この人が伊藤先輩なのか。聞かされた当時は名前と顔が一致していなかったが、改めて顔を眺めれば、かっこいいと騒がれるだけの雰囲気はあるような気がした。多分。
 背も高いし、なんだか爽やかだし。下級生の憧れる先輩像がありったけ詰められたような雰囲気に、友人はさっきから「ヤバい、カッコイイ……!」と興奮した面持ちで囁き続けている。
 そんな反応を横目に、ほんの少しだけ唇が尖る。
 一目見て作り物とわかる笑顔の魅力が、私にはイマイチわからなかった。しゃべったことない相手に話しかける上で、先輩は精神的に大人な対応を取ってくれてるんだろうなとは思う。
 ――でも私は悠仁みたいに屈託なく笑うひとの方が好きだなぁ。
 友人へ差し向けていた視線を斜め上に逸らしながらそんなことを考えていると、いつの間にか自分たちの周囲にクラスの女子が集まっていることに気がついた。なんで、と訝しんだのも束の間。友人と同じようにみんなが伊藤先輩へ熱のこもった視線を向けているのを目の当たりにすると、すぐさま理由に察しがつく。
 オーケィ、伊藤先輩目当てね。図らずも熱狂の渦のド真ん中に押し込められた驚きはあるが、人の恋路を邪魔するやつはなんとやら。そっとここから抜け出させてくれさえすれば、何も言うまい。
 私の肩にくっつくようにして伊藤先輩を見上げるクラスメイトに一言断りを入れ、その場から立ち去ろうとした。だが、私が輪から抜け出すよりも先に正面に回り込んできた伊藤先輩がこちらを覗き込むようにして声をかけてくる。

「今、順平って言ってたけど、もしかして吉野のこと?」
「そうです! この子、幼馴染で!」
「昨夜も一緒に過ごしたみたいで!」

 追い打ちで投げかけられた質問に反応するよりも早く友人らが率先して答える。あまりの勢いにびっくりして口をぽかんと開けたまま固まったが、例の伊藤先輩はふたりに一瞥を流すこともなくこちらをじっと見下ろしてくる。

「そう……。オレも吉野とは昨年同じクラスだったからさ。アイツが学校に来なくなったの寂しくて」

 その言葉に、女子たちの歓声があがる。やさしいだとか思いやりがあるだとか。誉めそやす言葉を聞き流しながら、先輩の表情を眺めた。物腰のやわらかい印象を与える言葉遣いや態度なのにどこか信用ならないのは、目が笑ってないからだろうか
 悠仁とは全然違う。本能で感じた苦手意識を飼い慣らせないまま黙っていると、先輩は「それでさ」とまたなにやらこちらに話しかけようとしてくる。
 先輩の言葉が放たれたときこそ会話のチャンスだとでも思ったのだろう。今度はクラスの女子だけでなく他のクラスメイトたちもまたこちらになだれ込んでくる。どうやらこの伊藤先輩とやらはとっても人気があるらしい。
 年上の先輩に対する憧れを目の当たりにするとどこかむず痒さを覚えると同時に息苦しさを感じた。物理的にも心理的にも胸の苦しさを味わいながら、その場から押し出される勢いに身を任せる。正面にいたはずの伊藤先輩は遙か遠くにいて、順平の話を聞くどころではなくなってしまった。
 ――まぁ、順平の話なら本人に直接聞くし、いいか。
 少し前までの私なら、順平がどうして学校に来なくなった問い質していたと思う。だけど、昨夜の記憶が〝そんなことをしなくてもいい〟と教えてくれた。悠仁が見せてくれた答えを頭に思い浮かべるだけで〝眠たい〟に支配されている頭の中がほんのりと色鮮やかなものに変遷する。
 また今日も順平の家に遊びに行こうかな。悠仁もヒマなら来てって誘ってもいいかもしれない。連日だと凪さんが疲れちゃうかもしれないから、夕飯は自分の家で食べてから行こうかな。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、眼前に見慣れない男子――伊藤先輩の顔が割り込んできた。つい先程まで離れていたはずなのに、わざわざこの人波をかき分けてきたんだろうか。驚きのあまり彼が来たであろう道へ視線を向ければ、モーゼの十戒よろしく、先輩が通ってきたであろう場所のみちゃんと道が出来ていた。
 ファンを飼い慣らしてる感と、そこまでして順平の話がしたいらしい執念に思わず尻込みしてしまう。ぎゅっと握った拳を胸の前で構える。図らずも昨日、順平の担任に向けたファイティングポーズと同じような姿勢となった。もっとも、今日は攻撃よりも防御の気持ちが強いのだが。
 警戒心を剥き出しにする私に呆れたのか、それとも困惑したのか。伊藤先輩はまた作り笑いを浮かべた。

「それで、君に聞きたいことがあるんだけど……吉野、元気にしてる? っつーかアイツちゃんと家にいんの?」
「……別に、変わりないですけど」

 元気があるかどうかはいい。でも家にいるとかいないとか。そんなことを聞いて何になるんだろう。順平がどこにいても元気ならそれでいいはずなのに。
 純粋に心配してくれているだけなら本当に申し訳ないのだけど、なんだかこの人は肌に合わない。態度も笑顔も言葉も違和感だらけだ。必要以上に萎縮してしまう居心地の悪さにきゅっと唇を結ぶと、正面に立つ男の表情の質が変わる。
 柔和な表情はそのままに、薄く開かれた目の奥がぎらりと光る。降り注ぐ視線から感じる言いようのない威圧感に気圧され、ふいっと顔を逸らした。
 だが、そうはさせまいとばかりに左手で顎を掴まれ強制的に上を向かされる。思わず右に首を振って逃れようとしたが、存外強い力で掴まれているようで4本の指先が頬に食い込むだけだった。
 強引に首を伸ばされるような体勢に苦しむ私をよそに、黄色い歓声が周囲に巻き起こる。

「……なぁ。お前、吉野から何か聞いてんの?」
「? 何かって?」

 身に覚えのない質問に顔を顰める。順平から学校の人の話を聞いたことは無い。順平との会話に上るのは私が一方的に話す身の回りの事か順平がオススメだと言う映画の話が多かった。
 もしかしたら伊藤先輩には私の頭の上に浮かぶクエスチョンマークが見えたのかもしれない。私を解放すると同時に、取り繕うように私の肩についてもいないホコリを払うマネをして、やはりまた目を細めて笑った。

「――聞いてないならいいよ」

 じゃあね、と笑ったその人は、私から視線を外したあと、ギャラリーと化していた一年女子たちに手を振ってその場を後にした。一瞬訪れた静寂、そして爆発的に起こる熱狂。渦中にいるはずなのに、そのすべてに置き去りにされた心境のまま、今し方起こった事態を飲み込めずにいた。
 だが、喧噪から逃れたい私の心境とは裏腹に、注目の的であった人物がいなくなれば次の関心は伊藤先輩と会話していた私へと差し向けられる。
 
「ねぇねぇ! アンタ、伊藤先輩とどういう関係?!」
「何の話してたのっ?!」

 憧れの先輩との繋がりがある認定をされたのか、しゃべったこともない女子に取り囲まれる。困惑と焦燥に駆られて周囲を見渡したがぐるりと取り囲まれたままではどこにも逃げられそうになかった。

「いや、今のは幼馴染の話をしてたら絡まれただけだから……」
「そうそう! 、伊藤先輩のこと知らなかったしね?」
「ホントたまたま、たまたまだから!」

 こちらに詰め寄ってくる女子の脅威に晒されたのは私だけではなかったらしい。一緒にいた友人らもこぞって弁明の言葉を紡いでくれたことにほんの少しだけ安堵の息を漏らす。
 まったく知らないひとであると強調した友人らの言葉を受け、その場にいた女子たちの視線が改めてこちらへ突き刺さる。返答次第ではまた容赦なく質面責めに遭うのだろう。身震いするほどの予感に若干戸惑いながらも何も言わずに「ん」と頭を揺らすと、女子一同は途端に私から興味を失ったようだった。
 伊藤先輩のツテにならないのなら意味が無い。そう言わんばかりの態度で私から視線を逸らした彼女たちは去って行ったばかりの伊藤先輩の後を追うように体育館へ小走りで駆けていった。
 いつの間にか息を詰めてしまっていたらしい私たちは、ガランとなった渡り廊下の中央で大きく息を吐き出した。

、大丈夫?」
「ちょっと疲れた……」

 正直に答えると友人が軽く前傾してこちらを覗き込んでくる。力なく胡乱な視線を差し向ければ「うわ」と言葉を零した友人は顔を顰めて見せた。

「顔色悪いよ。保健室行く?」
「んー……。そうしようかな」
「付き添った方がいい?」
「んーん。それより先生に言っておいてくれた方が助かるかな」

 昨夜の寝不足が大前提とは言え、正直もう倒れ込んでしまいたいほどの体力しか残っていない。頭を横に振ってお断りを入れると、友人らふたりは互いに顔を見合わせ、うん、とひとつ頭を揺らした。

「わかった。ちゃんと先生には言っておくから。あと保健の先生いたら戻るように伝えるね」
「途中で力尽きそうになったらウチら戻ってくるからLINEしなよ?」
「ン。ありがと」

 軽く頭を揺らして応じ、くるりと踵を返すと保健室へと向かって足を進め始めた。重い足取りで反対方向へと向かう私を見咎める視線がいくつか飛んで来たけど、顔を顰めて歩く私にわざわざ声をかけてくる相手は誰もいなかった。

「キッショ……」

 最後の集団と思しき生徒たちとすれ違い、少し経ってこぼれた本音により一層顔を顰める。言葉と同時に手の甲でぐいっと頬を拭ったが、伊藤先輩とやらに顎を掴まれた感触は消えてくれなかった。
 ひとつ、溜息を零す。想像以上に重いものが出てきたことに軽く眉根を寄せたが、そんなことをしても一向に気は晴れなかった。
 よく知りもしない相手に顔を触られたのが気持ち悪くて仕方がない。まだ手がまとわりついてるのではと思ってしまうほどのおぞましさを抱えたまま心を腐らせていると、不意に声が投げかけられる。



 随分と落ち着いた声音だった。楽しい会話のはじまりなんて微塵も感じさせないほど暗い声。だけどその声の本質を誰よりも知っている私は、落ち込んでいた気持ちを嘘みたいにかなぐり捨てて声のした方へと顔を向ける。

「えっ? 順平?!」

 半ば確信混じりで振り返った私の目には、想像通り順平の姿が映り込んだ。一瞬、昨夜見た鮮やかな順平の笑顔が脳裏に浮かび上がった。だけどその想像は少し離れた位置に立つ順平の暗い表情によってすぐさま掻き消される。

「――どうしたの? 順平。学校、来たの?」

 予想もしていなかった順平の出現に、たった今まで腹の中にあった燻った気持ちはすっかり消え失せる。だが憔悴を押しのけた正体が歓喜では無いことを自分が一番知っていた。
 もし、順平が少しでも元気な顔でここに立っていたなら大手を振って歓迎したことだろう。だけど、今、目の前にいる順平の雰囲気は元気とはほど遠いものだからどうしても困惑してしまう。
 失望や落胆といった言葉が似合う表情は、もう学校に行かないと私に告げたときの順平によく似ていた。〝似ていた〟と称するには、何かしらの違いがあると感じたからだ。だが、どこか変だなと思いつつも順平の表情の奥にある感情の正体を掴めない。そのことがひどく歯痒くて仕方が無かった。

「もしかして昨日の先生に何か言われた? 私、やっつけてこよっか?」

 昨日は悠仁が追い払ってくれたから大丈夫だったけれど、もしかしたら今日またあの人が順平の家に勝手に足を踏み入れたのかもしれない。懲りないのなら成敗すべきだ。そんな正義感を奮い立たせた私は軽く拳を握り、前へ向かって一発、二発と打ち込む真似をしてみせた。
 だが、声をかけてきたのは順平の方なのに、私の言葉に返事をするどころかこちらに視線すら寄越さなかった。
 その視線は、体育館へと向かう渡り廊下に差し向けられている。横顔から滲むただならぬ雰囲気に思わず眉をひそめた私は、順平の視線を取り戻したい一心で二の腕あたりの衣服を掴んだ。

「ねぇ、順平。聞いてるの……?」

 もう一度呼びかけようとしたところで、順平がこちらを振り返る。正面から向き合うと、より一層、順平の様子がおかしいことに気がついた。顔に影が差しているのもあいまって、心の底にうっすらとした居心地の悪さが生まれてくる。
 
「ねぇ、どうしたの?」

 ――怖い顔しないで、教えて。
 そう考えると同時に、自分が今、恐怖を覚えているのだと思い知らされる。ほかならぬ順平を相手に、だ。何てことを考えているのかと戸惑いが身体中に広がっていくのを感じた。
 焦燥に煽られながらも自分自身に問いかける。順平の何が怖かったのか、と。だが問いかけたところで漠然とした感情を暴く事なんてできるはずもなく、ただただ翻弄されるしかなかった。
 ばくばくと心臓の音が耳に直接響いているような錯覚を味わいながら縋るように順平を見上げれば、俯いた順平と間近で視線が交差する。軽く眉根を寄せた順平は相変わらずどこか元気が無くて、その表情を見ているだけで痛いほど胸が締め付けられるようだった。
 不安に駆られるままに順平の服を掴む手に力を込める。振り払うでもなく受け入れるでもなく、ただ私の動作を見つめていた順平はどこか悲しい顔をしたまま口を開いた。

「……、アイツと仲良いの?」
「アイツって?」

 いつになく暗い声で紡がれる言葉に首を傾げると、順平はかすかに私から視線を逸らしながら言葉を続ける。

「さっき……に話しかけてたでしょ……」
「……あぁ。えっと、伊藤先輩、だっけ?」
「――うん、そう」

 名前を出すと順平は苦々しげに唇を結ぶ。いつになく憎悪を露わにする順平の様子に、伊藤先輩を嫌っているようだと簡単に見当がついた。私自身がいい印象を抱けなかった相手に対し、順平も似たような感情を抱えているのだと知ると、より一層の嫌悪が増した気がした。
 口を薄く開いて「仲良くないよ」と伝えようとした。だけど私が声に出すよりも先に順平の視線が戻ってくる。

「もしかして、入学してから仲良くしてた?」
「え、まさか! 知らない人なのになんかいきなり話しかけてきたんだよ」
「……そう。何か言ってた?」

 順平はさっきの伊藤先輩と同じようなことを言う。そう気付きはしたが伊藤先輩相手に生まれた不快感は微塵も感じなかった。

「たいした話はしてないよ。順平の話をしてたら絡まれたってだけで……。あの人、順平のこと聞き回ってる感じがしてイヤだった」

 正直な感想を伝えると、視界の端で順平がぎゅっと拳を握りしめたのが目に入る。一瞥を手元に落とし、改めて順平を振り仰ぐと拳と同じくらい強く眉根を寄せた順平の顔が目に入った。

はもうアイツとしゃべらなくていいからね」

 落ち着いた声音なのにどこかハッキリと拒絶するような声でそう告げた順平に違和感を覚える。普段なら「アイツ好きじゃない!」と他人を悪く言う私をたしなめるのが順平の役目みたいなところがあるのに一体今日に限ってどうしたっていうんだろう。
 だけど、私の違和感よりも先に順平を安心させなきゃだ。そう思った私はきゅっと唇を結んで順平をまっすぐ見上げた。
 伊藤先輩なんてもとより知らない相手だ。順平が望むならそうしよう。
 うん、と頭を揺らすと、順平はほんの少しだけ安心したように眉尻を下げた。

「それで、は今からどこに行くの?」
「保健室に行こうかなって思ってたんだけど……。あ、病気とか怪我とかじゃなくてね。昨日あんまり寝付けなかったからさ」
「体育館には、行かない?」
「全校集会そんなに好きじゃないもん。でも順平も行くなら行こうかなぁ。今からね、作文の表彰式があるんだって」

 落ち着いた声音で尋ねられると、どこか身が引き締まる思いがした。いつになく多弁になってしまったのもそのせいだ。いつも適当な話しかしない私でさえも、今の順平にはちゃんと説明しなくちゃって気にさせられる。

「そう……それはいいね」
「そう? どうせ校長先生の長話だよ。つまんないよ」

 全校集会の何がいいって言うんだろう。あんなに退屈なものは無いとばかりに不平不満を前面に押し出し、順平の腕を支えに身体を左右に倒す。そんなことより早く帰りたいと全身でアピールしながらも視線は順平から離さなかった。
 順平は普段から溌剌としたタイプでは無い。だけど今日の順平は明らかに違和感に塗れている。理由なんてわからないけれど、ちょっとでも気を抜いたら何もかもがダメになっちゃうような焦燥がまとわりついてきて、気が気じゃなかった。

「ねぇ。全校集会、順平も行くの? 行かないなら一緒に遊ぶ?」

 なんとかして順平と一緒にいないと。その一心で今の順平が乗り気になりそうもない誘いをかけた。
 元気の無い様子の順平は、もしかしたら久しぶりに学校に来て緊張しているのかもしれない。だったら人の大勢いる体育館なんかより、誰もいない昼間の学校内を練り歩く方が気が楽なんじゃないかと思えた。
 私も一学期のうちに色んな場所を探検して回ったけれど、まだまだ入り込めていない場所もある。何より順平と一緒に校内を歩けるのは格別に楽しいはずだと思えた。
 ――そうだ。昨夜、悠仁が見せてくれたじゃん。順平とは楽しいことをたくさんしようって、決めたじゃん!
 昨日のキラキラした夜を思い出した途端、今の順平にはそぐわないと思っていた探索への印象がガラリと変わる。我ながらいい提案だったのではと目を輝かせて順平を見上げた。
 きっと順平も笑ってくれるはず。そう期待した私の思惑は、順平が力なく首を横に振ったことで残念ながら外れてしまったことを知る。
 期待が空振りに終わった途端、 またしても気持ちが落ち込んでいく。

「そっかぁ……」

 落胆すると自然と頭が下がる。順平の顔を見上げていた視線を胸元まで落とせば、ふと、順平の着ている服が凪さんのジャケットであると気がついた。順平の様子を窺うことに必死だったせいか目に入っていなかったらしい。
 そう言えば、悠仁も黒い服を着てたっけ。おそらくあれは制服だったんだろうけど、少しだけ季節外れの服を着ていたのが不思議でよく印象に残っていた。パーカーがくっついてるデザインも独特だったし、あれはどこの高校の制服なんだろう。
 落ち込んだ気持ちを紛らわせるようにとりとめのないことを考えていると落とした視線の先で、順平がこちらへ一歩踏み込んできたのが目に入った。思わず顔をあげれば私を見下ろした順平の手のひらがこちらに伸びてくる。
 そのまま左頬に触れた手のひらはびっくりするほど冷たくて、思わず身を引きそうになった。すんでのところで堪えされるがままになっていると、親指の腹で目尻のあたりをなぞられ、反射的に片目を瞑る。
 小さいころ、高いところから落ちて泣きじゃくる私を慰める順平の指先だ。ふと頭をよぎった懐かしい記憶に胸をあたためるよりも先に、ますます疑念が沸き起こる。
 今、私は泣いちゃいないしケガもしていない。 順平の行動とその理由が思いつかなくて、頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされた。だが、どうして、と尋ねるよりも前に順平の手が離れていくと途端に何も言えなくなる。

「順、ぺー……?」

 結局、体育館には行くのか行かないのか。訪ねようとした矢先に唐突な眠気が襲いかかってきた。まさか順平と話しているときに眠くなるとは思ってなくて、かすかに混乱しかけたがそれも睡魔に襲われれば簡単に霧散する。
 ――いやだ、眠りたくないのに。
 我が身を叱咤したところで効果は無く、前のめりに倒れるまま順平の胸にもたれかかった。
 ――行かないで。
 なぜ、そう思ったのか。自分自身の感情に思い当たる節がない。それでも湧き上がった感情に身体が先に反応する。だらしなく下がった腕を無理矢理持ち上げ、ジャケットの裾を握りしめて順平に縋り付く。

……」

 いつになく低い声だった。歓迎されてない。そう気付きつつも絶対に離したくはなくて、力が入らないなりにぎゅっと指先に力を込めた。
 希薄な呼吸の音が、そっと頭上から落ちてくる。

「体育館には絶対に行かないでね」
「……ぅ、して?」

 どうして、と尋ねる声が上手く紡げない。眠りとの狭間で戸惑っているうちに、いつもなら振り払われる腕が静かに背中に回された。
 ――順平。
 音にならない声で順平の名前を呼んだ。聞こえてなんかいないはずなのに、順平が応えてくれたかのようなタイミングで私を強く抱き締める。
 それと同時に、不意に磯の香りがした、気がした。
 ――こんな時に、どうして。
 入学前に順平と一緒に江ノ島に行った記憶がかすかに脳裏を掠めるたが、意識の覚醒には何の役にも立たなかった。抗いようのない眠気に逆らいきれず重い瞼を落とす。
 膝から力が抜けきる感覚は、まるで崖から落ちるような感覚だ。経験もないのにそんなことを思いながら意識を手放した。






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