哀れな惑星05

人生最良の日


 その日の夕食は、今まで生きてきた中で一番楽しい食卓だった。
 大好きな場所で、大好きなひとたちと、美味しいご飯を食べる。当たり前にあるようで得がたい時間は、これ以上無いほどの幸福に満ちていた。

「そんでね!! たかし君が自信満々に「外来種の幼虫だ!!」っつーから拾ってみたら……給食の糸こんにゃくだったんスよ!」
「ぶははははははは!!」
「ぎゃひーーーーー!!」

 夕食の後、まるでホラー話かのように語りはじめた悠仁の物語の結末に私も凪さんも泣き叫ぶように大笑いした。そんな私たちの反応を見た悠仁は満足そうに笑って糸こんにゃくを口の中に放り込む。

「外来種の幼虫の正体が……まさかの糸こんにゃくだって! そんなことある?!」
「痛いよ、……」
 
 引き笑いを続ける私は、隣に座る順平のTシャツに縋り付く。笑いすぎて滲んだ涙を順平のTシャツで拭えば、頭上から「!」と聞こえてきたけどお構い無しだ。喉の奥から競り上がってくる笑いを噛み殺すことも出来ないまま肩を震わせる。
 小さいころってそんな感じだったな。箸が転がっても面白いとはよく言ったもので。今、思い返してみれば些細な出来事もあの頃は大事件のように感じられたものだ。幼い頃の感性の欠片を思い出させてくれたたかし君に感謝しないと。
 だが殊勝な考えが浮かんだところで「たかし君」のフレーズとともに「外来種の幼虫」が頭に浮かぶとまたしても唇から笑いが漏れる。この分だと今後しばらくは糸こんにゃくを見ただけでも笑ってしまいそうだ。

「もー。母さん飲みすぎ」
「いや、だって、糸こん……糸こんだって! 悠仁君おもしろっ!」

 大笑いする私と凪さんを見て若干引いた顔をした順平だったが、悠仁のモノボケには誰よりも早く陥落した。お盆に向かって「ウィルソン!」と呼びかける悠仁を見た途端、飲んでいた麦茶を吹き出した順平は以前一緒に観たような気がする映画のタイトルを叫んで笑い転げている。
 元ネタがわからずポカンとしてる私たちをよそに、ネギを両手に抱えた悠仁はまた何やらモノボケを始めた。またしてもツボに入ったように笑う順平を目の当たりにすると驚きと共に歓喜が胸に湧き上がった。
 こんな風に素直に笑い転げる順平を見るのは久しぶりだ。元々大爆笑するタイプではないのもあるけれど、ここ最近では普通の笑顔すらぎこちない時があったから余計に懐かしく感じてしまう。 
 肩を大きく揺らして笑っている順平を目の前にすると、元ネタのわからないものボケすらも面白いような気がしてきた。凪さんに更なるモノボケ指定をされた悠仁はどうやらまたなにかの映画を引用したらしいが、やはり即座に反応したのは順平だけだった。
 私も凪さんも「わかんないってば」と悠仁に訴えかけたが、疎外感を抱く暇もないほど、この状況をわからないなりにも楽しんでいた。
 ふと、順平から視線を外せば、笑顔の中心にいる悠仁に目が吸い寄せられる。順平に向かって笑いかける悠仁は「この映画も順平なら知ってるかなー」とモノマネをする前から楽しそうに笑っていた。
 久しぶりに順平が笑っている姿が眩しい。これ以上無い幸福を前に、この状況を生み出してくれた悠仁の笑顔がきらきらと光っているようにさえ思えた。
 ――きっと普段のヒーローの姿って、悠仁みたいなんだろうな。
 自然と浮かび上がった考えに口元がほころぶ。周りの人を笑顔にする悠仁を見ていると、そんな風に思えた。

 ***
 
 楽しい夜はきらきらと輝いたまま、時間切れで幕を引いた。
 テーブルに突っ伏したまま眠ってしまった凪さんを起こさないよう気を付けながら、おとなしく3人で映画を観た後、悠仁にかかってきた一本の電話が閉幕の合図となった。どうやらもうそろそろ悠仁の学校の人がお迎えに来るらしく、そのタイミングで私も家に帰されることになったのだ。
 こんなことなら映画を観ていた間もちゃんと楽しんでおけばよかった。いつになっても聞き慣れない英語と灯りを絞って暗くなった室内に陥落した私は、ついさっきまで順平の肩を枕にして眠りこけてしまっていたのだ。
 一度眠ってしまったからこそ目が冴えてしまい、まだまだ遊び足りない気持ちが湧いてくる。玄関まで押し切られてもなおここに残りたい気持ちは弱まることはない。否、むしろギリギリまで追い立てられたからこそ、上がり框に這いつくばってでも𠮷野家に居座るべきだとさえ思えた。

「泊まっていきたいよぅ」
「ダメだよ。は明日も学校あるんだから。それに泊まるにしても寝る場所がないでしょ」

 嫌だ。帰りたくない。ここにいる。靴を履いたあとも順平のTシャツを両手で掴んで渋る私に対し、順平の答えはいつになくすげないものだった。もし凪さんが起きていたら「いいじゃない。家には連絡してるんだし」とあっさり許してくれるのに。順平はケチだ。

「一緒に寝れば良いじゃんかー」
「いやだよ……。、寝相悪いし」
「断る理由そこなんだ?」

 スニーカーに踵をねじ込んでいた悠仁の問いかけに対し、順平は「いつの間にか入ってくるんだよ……」と苦々しい笑みを返している。
 
「治ってるかも知れないじゃーん」
「……この前、ソファで寝落ちしたときでさえ床に転がってたのに?」
「ウッ」

 痛いところを突かれ、思わず呻き声を上げてしまう。順平のTシャツを掴む手が自然と緩んでしまったのは、あまりにも身に覚えがありすぎる自分の失態が走馬灯のように脳裏を駆け巡ったからだった。
 でも寝相さえどうにかすればいいというのなら、解決の余地はある。つまり直立不動でいればいいだけの話だ。いや、眠ってるんだから直寝不動と言った方が正しいのかな。

「なぁ、
「なに、悠仁。今もうちょっとで順平を説得できそうだから」
「説得って……。まぁいいや。オレも帰るしさ、せっかくだから途中まで見送ってよ。この辺あんまわからんし」

 眉尻を下げて笑った悠仁を見上げ、もう一度順平を振り返る。「行ってきなよ」の一言に、ほんの少しだけ唇を尖らせた。だけど土地勘のない悠仁をこんな夜中にほっぽり出すのはたしかにかわいそうだ。
 
「わかったよー。悠仁のお見送りならしょうがないなー」
「はは、助かる。順平もありがとな」
「ん。じゃあね、順平。また遊ぼ」
「うん。ふたりとも気を付けて。バイバイ」

 手を振って見送る順平を何度も振り返りながら順平の家を出る。大いに名残惜しむ私を見た悠仁は「まるで今生の別れみたいだな」と笑った。
 夏休みが終わったとは言え、まだ秋と呼ぶには早すぎる夜は湿気を多分に含んでいるためちょっと歩いただけでもしっとりと汗ばむようだった。人通りの少ない夜道に、気の早い虫の声がかすかに聞こえてくる。
 そんな夏の終わりを感じさせる空気をめいいっぱい吸い込むと、大きく口を開いて叫んだ。

「あーぁ! 楽しかったぁー!」
、それもう何回言うの」

 顔を顰めた私の魂の絶叫に、悠仁が茶々を入れてくる。このやりとりももう3回目だった。でも本当に楽しかったんだもん。楽しい時間が続けば良かったのに、と嘆く気持ちがチラチラと見え隠れするものの、それでも満ち足りている部分が大いにあって、なんだかフクザツな気持ちだった。

「でもすっげぇ楽しかったもんな。俺も同い年くらいのやつと一緒に遊ぶの久々だったからさ。余計にそう思ったよ」
「そうなの? じゃあ一緒でよかった」

 悠仁を振り仰ぐままニッと笑いかければ、悠仁からも同じような笑顔が返ってくる。その顔を見れば、今の言葉が本心からのものだと無条件で信じられた。
 
「ねぇ、悠仁」
「ん?」
「今日は、その、ありがとね」

 唐突にお礼を告げた私に対し、悠仁は軽く首を傾げた。不思議そうな顔を見上げ、ほんの少し口の端を上げて笑いかける。

「あんな風に笑う順平見たの久しぶりだったから」
「――それ、順平が学校に行ってないことに関係してる?」

 ちょっぴり遠慮した笑い方をしてしまったせいで、悠仁が言葉にしなかった裏を読もうとしてくる。うっすらと眉根を寄せた悠仁に、私もまた眉尻を下げてしまった。
 どう応えたものかと考えた途端、私が言葉を紡ぐよりも先に悠仁が「あっ!」と叫んだ。

「やっぱり言わなくていい! 失言だ!」
「失言?」

 私の反応を目にした悠仁は片手で頭を抱え、反対の手を立ててこちらにNoを突きつける。答えにくい質問を考える間もなく急に翻意されても咄嗟に反応を返せず、悠仁の言葉尻を捕まえることしかできなかった。

「あぁ、順平が話したいってんなら聞くけど、から聞くのはなんか違う気がする」

 ぎゅっと眉根を寄せた悠仁は、彼の言う〝失言〟を後悔しているようだった。悪口や暴言を放ったわけでもないのに、誠実な態度を見せる悠仁にまた違う意味で眉尻が下がる。

「うん。でも聞かれても何も答えられないよ」
「いや、そうだよな。うん。言わないのが正しい」
「っていうか……〝何があったか〟は私もそんなに知らないんだ」
「え、そうなの?」

 正直なところを伝えると悠仁は掲げていた手を下ろし、代わりに驚いたような瞳をこちらに差し向けた。まん丸な目に続きを促されたような気がして、軽く頬を指先で引っかけながら苦笑する。

「順平が、私が心配しそうなこと言うと思う?」
「……あぁ、そういうの、言わなさそうだな」
「でしょ? 大事にされてるから、私」
「それは自慢? それとも照れ隠し?」

 茶化していいのかどうなのか。判断に迷うとでも言いたげな表情を浮かべた悠仁の問いかけに「うーん……」と考え込む。顎の下に手をやって軽く視線を斜め上に差し向けたが、悠仁の言う自慢も照れ隠しもしっくりこない。ならばどんな言葉が似合うのか。考えてもなかなか浮かんでこない言葉の欠片を探し出す。

「……そうだなぁ。虚勢、かなぁ」

 なんとなく、頭に浮かび上がった単語を口にする。うん、これが一番しっくりくる。ひとつ、頭を揺らして見せれば、納得した私とは裏腹に悠仁は困惑したように眉根を寄せた。

「虚勢ってわかんない? 猫とかにするやつじゃないよ?」
「いやいや。さすがにそこでは迷ってないから」

 今度は呆れたような表情を浮かべた悠仁に首を捻ってみせる。眉尻を下げた悠仁は首の裏に手をやって、私から目線を外して言葉を紡ぎ始めた。

からそういう言葉が出るのちょっと意外だったからさ」
「そう?」
「うん。今日話してみた感じ、どっちかって言うと何に対してもポジティブっぽいのかなって印象だったから」

 悠仁の私に対する率直な印象は間違ってない。私自身、何事も楽しく過ごすのをモットーとしている節はあるし、実際、ネガティブな言動はあまり思い浮かばない。もちろん、嫌いな人の前では嫌な顔をすることもあるけれど、多分、そういう顔は今日一緒だった3人に見せることはないだろう。
 特に、順平の前では尚更だ。もちろん、安心してこどもの時と同じような気持ちで振る舞えるというのも大前提だが、順平に心配かけたくないというのが一番の理由だった。
 もう高校生だし、ちょっとは配慮とか遠慮とかそういうのを考える、ようにしている。私なりに。多分。
 今までかけてきたであろう迷惑が脳裏を過るとたったいま抱いたばかりの自信はなくなってきたものの、心構えだけは変わっていない。それでもたまに弱音は漏れる。

「だいたいのことはあんまり悪く考えないよ。でも、順平のことは難しいとこなんだよね」

 軽く唇を尖らせて告げれば、悠仁の視線がこちらに戻ってくる。弱音じみた本音が似合わない自覚はあった。それでも、私だっていつでも自信満々なわけじゃない。

「順平ね、最近元気なかったんだ」

 さっきよりも小さな声で紡いだはずなのに、人通りの少ない夜道に私の弱音は思った以上に響いた。悠仁と歩く中で、等間隔に設置された街灯の明かりがちょうどスポットライトのように当たったせいもあるかもしれない。
 白日の下に晒されたような心地が嫌で、街灯がコンクリートの上に作った丸い輪からぴょんと飛び出る。それでも一度ざわついた心境は落ち着きを見せることなく静かに身内に不安を募らせた。
 順平に何が起こったのか。そんなことはちっとも教えてもらってないけど大体のことは想像つく。
 学校なんて狭い場所で、不登校を選ぶ理由なんてそう多くはない。そして、理由もなく凪さんに迷惑をかけるなんて選択を順平が安易に取るはずもないと知っている。
 きっと、どうしても学校から逃げなければいけない事情が順平にはあったのだ。
 成績不振による自信喪失は順平に限ってはありえない。家庭内の不和なんてのももってのほかだ。
 そうなってくると誰かとのトラブルが発端ではないかといやでも想像してしまう。そして、いつからか順平の身体に増えた傷を思えば、その考えが正解なのだと確信するほかなかった。
 教師か、同級生か、先輩か。相手が誰かわからないからこそ入学して聞き回った。それでもその尻尾どころか、〝順平が不登校だ〟というあからさまな事実以外何も掴めていない。

「自分なりにさ〝順平が元気になるように!〟って色々動き回ってみたんだけど、でもダメ。全然うまくいかない」
「――うん」

 順平には見せられない本心でも、今日会ったばかりの悠仁には不思議と打ち明けられた。
 憶測とは言え、ほとんど確信している〝答え〟が私の中にある。だがたとえそれが真実だとしても、順平が誰かに虐げられているのだと口にするのは憚られた。
 肝心なとこは一切口にせず勝手に話を進める私に、悠仁は不満を言うでもなく聞き役に徹してくれた。真摯に受け止めてくれているその表情を見上げると、眉尻を下げながらも口元は緩んだ。
 
「だからね。結局、私は順平のためになんにも出来なかったの」

 順平がまた学校に来れたらいいな。一緒に学校に通えたらいいな。その一心で行動に移したのは本当だ。それでも結果として何も出来てないし、それどころか自分の無力を棚に上げて先生に当たり散らした。客観的に見なくても、かっこ悪いことこの上ない。
 一学期かけて改善しなかったものが、夏休み明けにいきなり解決するなんて都合の良い展開は起こらない――はずだった。
 でも、今日は違った。悠仁と出会った順平は、一変して屈託のない笑顔を見せた。

「でもね! 今日、悠仁と出会った順平はね! 最近の順平とまったく違った! すっごく楽しそうで、生き生きしてた! 悠仁も見たでしょ?!」
「あぁ。見たよ。楽しかったな」
「うん!」

 順平だけじゃなく、凪さんも私も久しぶりに大笑いした。あんなに明るい気持ちで笑ったのはいつぶりだっけ。少なくとも私が高校に入学してからは初めてだ。食卓を囲み、悠仁のモノマネを目にした順平はすっごく楽しそうで、見ているだけでこっちまで嬉しくなった。
 そんな順平の姿を見て、私がやってきたことは間違いだったのだとようやく知ることができた。順平のために出来るのは、犯人捜しなんかじゃない。私はただ、順平と一緒に楽しい話をすればよかったんだ。
 学校や映画の話。ううん、もうこの際なんでもいい。順平が私といたらつい笑っちゃうような話をたくさんする。これからそうやって順平と過ごしていけばいいと、悠仁が教えてくれた。

「だから、悠仁には感謝してる! 悠仁は私のヒーローだよ!」
「んな大袈裟な」

 眉尻を下げて苦笑した悠仁は首の裏を手のひらで隠すように俯いた。手首によって見え隠れする耳がほんのりと赤く染まっているのを目にすると、照れ隠しの表情なのだと気付く。
 ――今日で別れるのが惜しいな。
 もっと一緒にいたい。みんなで美味しいご飯を食べて、一緒に笑い合いたい。悠仁の照れくさそうな横顔を前にすると、不意にそんな気持ちが沸き起こる。

「ねぇ、悠仁ってどの辺りに住んでるの?」
「ん? どこだっけ。なんかすっげー山ん中」
「え、山? 箱根とか?」

 山住まいだと言われてもピンと来なくて、ふと頭に浮かんだ山を口にした。だとしたら結構遠いな。なかなか会えないかもしれない。早合点した私は思わず顔を顰めてしまうが、悠仁は私の言葉にゆるく頭を横に振った。

「うんにゃ、東京」
「へー! 東京!」
「つってもこっちには引っ越して来たばっかでさ。出身は仙台なんだけどね」
「仙台かぁ……伊達政宗くらいしか知らないなぁ」
「興味なかったらそんなもんだよな」

 地理には疎いのだと正直に告白すると、悠仁は襟足を隠していた手のひらを降ろしてこちらを覗き込む。「じゃあ牛タンとかずんだなら興味あるんじゃない?」の言葉には「おとなになったら食べに行く候補に入れておこうかな」と返した。
 だが、そんな未来の旅行に思いを馳せるよりも、今は悠仁の普段の生活圏だ。最初に想定した場所とは真逆の位置にある東京は、正確な場所にもよるが十分ここから遠い。軽い気持ちで来てくれとは言いがたいし、私たちが会いに行くにしても頻繁に通うことは出来ないだろう。

「んー……でも東京かぁ。遠いなぁ……」
「まぁ気軽にホイホイ来れる距離ではないことはたしかだよな。でもどうしたん、急に」
「また順平に会いに来てくれたらいいなって思ったから。そしたら今日みたいに最高な夜を一緒に味わえるのにって」

 悠仁の問いかけに素直に答えた私は自然と溜息を零していた。また今日みたいに過ごせたら順平もきっと楽しいはずなのに。そう思うと残念でならない。もちろんこれからは私が順平たちを楽しませるつもりではいるが、悠仁がいてくれればもっと楽しくなるはずだ。
 残念だと隠しもしない私を見下ろした悠仁は目線を斜め上にやった後、軽く考え込むような声を上げる。何か言いたげな様子に唇を尖らせたまま待っていると、やがて悠仁は二回頭を揺らしながらこちらを振り返った。

「頻繁には無理だけど、もし近くに来ることがあったら会いに来るよ。そしたら一緒に映画観に行こう」
「ほんと?」

 悠仁の提案に、瞬時に胸が躍った。目を輝かせて振り仰いだ私を、悠仁はやわらかな笑顔で受け止めてくれる。

「あぁ。順平とも約束してんだ。オススメの映画あったら連れてってよって」
「そうなの? じゃあ私も行く! 学校サボってでも行く!」

 一度消沈した分、また会えるかもしれない可能性に飛び上がってしがみついた。口約束をこの手に捕まえることが出来ない代わりに、前のめりで悠仁の正面に踏み込む。挙手しながら迫る私から一歩退いた悠仁は、眼前に掲げられた手のひらをいなしながらこちらを見下ろした。

「いや、学校は行きなよ」
「うえっ、順平みたいな正論言うねっ!」
「誰だってそこは突くんじゃない?」

 突然繰り出された正論に顔を顰めた私を見た悠仁は呆れたように笑う。

「えー、ダメかなぁ」
「最終的な判断するのはだけど、まぁ近くに来るとしたらなんかしらの用事あるだろうし、意外との授業が終わるころかもよ?」
「じゃあ早く終わったら教えてね。早退するから」
「諦め悪いなぁ。ま、そうなったらちゃんと連絡するよ」
「ん、約束だよ!」

 苦い笑みを浮かべた悠仁に立てた小指を差し出した。一度面食らったように目を瞬かせた悠仁だったが、私の意図するものに気付いてくれたのか、きゅっと小指を絡めてきた。
 絡み合った小指に視線を落とし、こどものころよく順平と一緒に歌ったゆびきりげんまんの歌を口ずさむ。リズミカルに歌いながら手を縦に振っていると、悠仁も途中から参加してくれた。歌い終わった後、本来なら離すべき指を繋いだまま、手元に落としてた視線を悠仁に差し向ける。

「嘘ついたら針千本飲むんだよ、ちゃんと覚えていてね」
「おう。わかった」
「魚本体でもいいよ」
「えぇ……。それはさすがに苦しそうだからイヤだなあ」

 水族館や図鑑でお目に掛かった魚の姿を想像した私と同じものを頭に思い描いたのだろう。顔を顰めた悠仁に、私はふふっと笑って返す。

「じゃあしらす千匹に負けてあげよう」
「え、ちょっと待って。さっきのハリセンボンも千匹飲ませるつもりだった?」
「それはかわいそうだけど悠仁が出来るなら見てみたい!」

 面白そうだと声高らかに言い放つと悠仁は「容赦ねぇー」と呻き声を上げた。大丈夫だよ、悠仁が約束を破らなければ私もしらす千匹なんて用意しないよ。
 ヒヒ、と笑って悠仁を見上げると、ふと、春先に食べた生しらす丼が頭に浮かんだ。
 そう言えば、入学祝いに順平に連れて行ってもらった江ノ島で食べた生しらす丼には一体何匹のしらすがのっていたんだろう。あんなに小さな魚だもん。軽く1000匹はのっていたかもしれない。
 約束を破ったら生しらす丼が食べられる。そんなお得な話だと悠仁に気付かれたら約束を反故にされる可能性が高い。余計なことは言わないようにと両手で口元を塞いでいると、呆れた顔を引っ込めた悠仁がこちらをまっすぐ見下ろした。

「じゃあ約束だから、連絡先交換しとこ」
「ん、そうだね。あ、順平とはちゃんとした?」
「あー……。そういやあの時、順平の母ちゃん来たからうやむやになってたかも。あとで教えといてよ」
「おっけ」
 
 そうと決まれば善は急げだ。街灯の下に悠仁を誘導し、お互い向かい合うとそれぞれスマホを取り出しす。「友だち追加ってどうやるんだっけ……」と唸る悠仁に「振ったらいいよ」と伝えると、悠仁はにわかには信じがたいと言いたげな表情を浮かべた。

「設定でいけるんだっけ?」
「えぇっと……今、どこ開いてる?」

 あぁでもないこうでもないと画面を指で叩く悠仁の横に回り込み、私のスマホ画面と見比べながら操作する。何度か手間取ってしまったが、ようやく友だち追加の項目が現れた。

「じゃあ、行くよ。……せーの」

 悠仁の掛け声と共にお互いスマホを振る。悠仁のスマホ画面に私のアイコンが表示され、つつがなく友だち追加が完了したのを確認しするとどちらともなく安堵の息を吐いた。

「悠仁ってこういう字なんだ」
「ん、そう」
「なんか頭良さそう」
「どういう理屈?」

 よくわかんねぇなと言いたげな表情を浮かべた悠仁もまた、私の登録内容を確認しているようだった。画面をスライドさせて一通り眺めたらしい悠仁は、ふとなにかに気付いたように首を捻った。

「そういやって苗字なに?」
「ん? だよ」

 。15年生きてきてずっとこの名前だ。どうだとばかりに胸を反らしてみせると、悠仁は人差し指と親指をくっつけて丸を作った。
 
ね。オッケー。じゃあそっちで呼ぶわ」
「なんで? でいいよ?」
「いや、女子のことそんなに名前で呼ばんし」
「思春期だから?」
「そうだけど、改めて言われるとなんかハズいね」

 軽く顔を顰めた悠仁は順平のことは名前で呼んでいたはずだ。その距離感で別に構わないのにと首を捻ったが、私が反論するよりも先に悠仁がさらに言葉を重ねる。

「よし、じゃあ連絡先も交換できたし。ボチボチ俺も待ち合わせ場所まで行こうかな」

 ひょいっと一歩踏み出した悠仁は、意図して私の隣から飛び出したように見えた。街灯の下に留まる私と外に出た悠仁。灯りの当たり方のせいか悠仁の表情はほとんど見えなくなる。
 
「そっちまで送んなくて大丈夫? 道、わかる?」
「それ送ってもらってもまた送んのに戻ってこないとだしいーよ」
 
 早速の呼びにほんのりと唇の先が尖る。でも悠仁が決めたのならそれに抗うのもおかしな話だ。残念ではあるけれど、悠仁がそういうスタンスなら仕方ない。
 気を取り直した私は「わかった」と頭を揺らし、悠仁の待ち合わせ場所へ続く道を指で示した。

「こっち、まっすぐ歩いて行ったらさっきの河原のとこに出るよ」
「ん、サンキュな。は? 帰り道大丈夫そ?」
「私ン家、順平ン家の斜め前だから戻るだけだよ」

 来た道を戻るべく身体を軽く反転させると悠仁は「えぇ……」と困ったように呻いた。

「なんでこっちまで歩いてきちゃったの?」
「だって悠仁のお見送りじゃん?」

 軽く首を傾げてみれば、顔を顰めた悠仁は再び「えぇ……」と呆れたように呻いた。そもそも順平の家を出る前に「見送りしてくれよ」って言ったのは悠仁なのに、変なの。
 釈然としない心地で悠仁を見上げたものの、やはりその表情はほとんど見えなかった。
 
「じゃあ、帰るね。またね、悠仁。遊びくるとき教えてね」
「オゥ。またな。順平にもよろしく言っといて!」

 ひとつ頭を揺らした悠仁はおおきく手を振りながら大通りに向かって走っていく。その背中を見つめているとどうしようもなく寂しい気持ちが沸き起こったが、悠仁と同じようにおおきく手を振って自分の気持ちを誤魔化した。





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