神 宗一郎02a:ハニービー

ハニービー・キラー・スマイル#01


 夏の暑い日差しは、容赦なく室内にも悪影響を及ぼしている。だだっ広い空間の癖して風の通り道となる窓は天井付近と足元くらいにしかないため、換気さえもロクに出来ない体育館内はそれはそれは地獄のようだった。
 茹だるような暑さに辟易し、一つ、溜息を吐くと、自らが吐き出す呼吸さえも気温上昇に一役買ってしまうのではないかと疑うほどの熱を持っていた。思わず息を詰め、額から流れ落ちる汗を首元に巻いたタオルで拭うが、拭う先から噴出してくるのであまり効果は無かった。
 夏休みが始まってすぐに行われる中体連が終わると3年生は引退した。残された1,2年生は来年の中体連に向けてフル回転で発進する。
 もちろん私が所属するバスケ部も例外ではなく、部長を決めたり、新しい練習メニューを考えたりとやることは山積みだった。体育館はバスケ部だけのものではないし、女バスと男バスとの兼ね合いもあるからきちんと話し合わなければいけないし、他校への練習試合の申し込みなどもしなくてはいけない。
 他校への電話対応をする顧問の話では、どうやら今年は向こうからのお誘いが増えたらしい。特に、ひーくんの活躍で神奈川県大会を制した男バスには練習試合を申し込みに来る学校は少なくないそうだ。そのついでに、と女バスの方もおこぼれに預かっているらしい。
 今まで聞いたことの無いような学校が出入りしてくるのはなんだか新鮮で、バスケ部全体が浮き足立っていた。
 新部長は「気を引き締めな!」とは言うものの、チームメイトのの「カッコいい人いたらどうする?」だなんて言葉には、きゃいきゃい言っていたっけ。そういう目新しさに、私は「興味が無い」などと冷めたこと言うつもりは無かったけれど、「ひーくん以上の男の子なんていない」だなんて妙な自信はあった。
 それは物心ついた時から変わらないことだ。

はもっと視野を広げないとダメよ」
 夏練の間、昼休憩はみんなで纏まって空いている教室を借りて食べるのがルールだった。
 今日は運動場に面した技術棟の一階にある技術室で食べているのだが、窓の外で男テニの一年生たちが着替えているのが視界に入ってなんだか居たたまれない。微妙な空気の中、部長のちゃんが不意に言葉を零した。
 斜め向かいに座る彼女の方に視線を向けると、他の子たちもまた私を見て、何やらしきりに頷いていた。
 視界が狭いというのはどういうことだろうか。今日はまだ試合してないから、プレイのことじゃ無さそうだけど。
 口の中に放り込んだプチトマトの酸っぱさに眉根を寄せながら咀嚼し、傍らに置いたペットボトルのお茶と一緒に一息に飲み込む。
「なんで?」
 手の平で口元を隠しながら聞き返すと、ちゃんはほんの少しだけ困った顔をした。
はさ、今日来てる中学の子で誰がカッコいいと思った?」
 ちゃんの左隣に座るが身を乗り出して聞いてくるので、何も持っていない箸に噛み付いて少しだけ逡巡する。
 今日来たのは初めて練習試合を組んだ学校だから、見ない顔だなという感想を持ったのは事実だったが、それで特に目を引いた人はいなかった。彼らが試合してる時は、私も自分の練習に身を入れていたのだから、そんなの見てる場合じゃなかったし。
「誰かカッコいい人いたっけ?」
 正直に答えると、らだけでなく、周囲にいたほとんどの子が盛大な溜息を吐いた。
「ホラ、これだよ」
に聞くのが間違いだって」
「三井先輩至上主義なんだもん」
「つまんない」
 呆れと蔑みが入り混じった視線が四方から投げかけられ、別に怒られているわけでもないというのに思わず椅子を引いて佇まいを直してしまう。
 改めてお弁当箱を手に取り、半分残った玉子焼きを口にしながらご飯を食べると、玉子焼きの甘さと明太子のふりかけのしょっぱい味が混ざって複雑な味が口内に広がる。
「ってか梅沢中のセンターカッコよくなかった?」
「いいよね!私も思った!」
「ねー!」
 いつの間にか、自分たちの好みのタイプに話が発展してしまったらしい。話が反れたことに安堵しながら、口内を湿らす程度にお茶を口に含む。
 みんなの話を聞きながら、彼女たちの言葉に出る人たちのことを思い出す。
 別に興味があって見たわけではないけれど、ある程度上手い人たちの名前やポジションがあげられるから、簡単にその映像は脳裏に描かれる。ただ、プレイスタイルは思い出せるのだけど、どうしても顔がどうだったかまではなかなか思い出せないもので、知らず知らずの内に私の顔には渋面が刻まれていた。
 そもそも、何故視野が狭いなどと言われなければいけないのだろうか。周りの男子がカッコいいのと私がひーくん好きなのになんの因果関係も無いというのに。
 ぶすくれた表情のままペットボトルの先を口に当てていた私に、いつの間にか私の正面に席を移動してきたが口元に右手をやって、左手で手招く仕草を見せる。内緒話なのだろうと見当をつけた私は、ペットボトルの蓋を閉めての口元に耳を欹てた。
さ、三井先輩彼女出来たの知ってる?」
「だれそれつぶす」
 手の中でペットボトルの潰れる音が鳴る。幸い割れたりはしなかったけれど、歪な形をしたそれの中に残る水分を取りたいとは思えなくなるような形状を維持していた。
 その音に振り返った全員に、は先程自らが口にした言葉を丁寧にそのまま復唱すると、室内に黄色い声が上がった。
「あ、それアレでしょ? 男バスの1年のマネージャーでしょ?」
「イヤ、違うって2年のあの派手な子。名前なんだったけなー」
「え、じゃあ、同じクラスの美人の先輩は? 腕組んで歩いてたんじゃないの?」
 好き勝手に女子の名前を挙げているけれど、どれも確証の無い言葉ばかりで噂ばかりが先行しているものであることは解った。
 「冷静に」と自分に言い聞かせながら笑顔でいるように努めていると、黙り込んだ私に気付いたが振り返り、ぎょっと目を丸めて口元を引き攣らせる。
、その顔マジ怖いから」
 口元から力を抜くように、と頬を抓っていると、ちゃんが小さく咳払いをした。
「まぁ、だから、三井先輩の話は置いといて、の話なのよ」
 ちゃんは「置いといて」のところで目の前にある空間を両手で掴み、右へと放り投げる仕草をする。それを更に右へと投げる真似をするの姿を尻目に、ちゃんに「なによぅ」と言葉を投げかけた。
「朝ね、男バスの部長からね、今日の試合トリプルヘッダーで辛いから応援くれって言われたの。だからね、が行けばいいんじゃないかなって」
「ねー、なんでそんなに彼氏に甘くすんの?」
「彼氏が、じゃなくて同じ学校のよしみでしょ」
 男バスの部長、だなんて他人行儀な言い方をしたけれどそれちゃんの彼氏だし、と茶々を入れると、頬を赤く染めて反論される。
「彼氏だって、熱いねぇ」
「他の学校の男子見ちゃダメでしょー」
「とにかく! は今日一日男バスのお手伝い! これは部長命令よ」
 尻馬に乗っかった他の子達の声を一掃するかのように、ちゃんは叫んだ。
「えっ、そんな小さいことに部長命令行使しないでよ」
 私の意見は勿論沈黙によって却下された。

* * *

 小さく欠伸を噛み殺し、目の前で展開される試合内容を眺め、点が入ったら得点板を捲った。見るからに集中力に欠けた私に、コート上から視線を投げかけた男バスの部長は小さく溜息を吐いた。
 ――嫌々やらされてるんだもん。仕方ないじゃない。
 スコアをつける方がまだマシだ。そう思いながら、チラリと男バスのマネージャーに視線を送ると、彼女はベンチに座る控えの子と話すのに夢中のようだった。
 何度目か解らない溜息を吐いて、またぺらりと点数を捲る。全く違うチームになったというのに、経験が自信になったのか、今のところ男バスはほぼ負け無しで来ているらしい。
 自分たちは強いのだという意識があるのだろうけれど、こういうのをプラシーボ効果というのじゃなかったっけ。まぁ、チームにしてはいいことなんだろうけれど、なんだか釈然としない思いは残る。
 同じ学校の人が活躍しているのは喜ばしいことなのだけど、だからと言って自分たちの練習が出来なくなるのは芳しくない。トリプルヘッダーなんて組まれたら、当然女子の方にも支障が出るわけで、今日だって午後の女バスは前半はハーフコート使えていたのだが、後半は外でランニングしなければならなくなってしまった。
 毎日の練習だって、前半は折半、後半はコートの二面とも男子が使うことに辟易するチームメイトは多かった。大体、いくらなんでも三試合組むなんて無謀過ぎる。
 まだレギュラー決めてないからって別のコートで二試合同時にやるなんて、顧問も試合内容をすべて見きれないだろうに。
 確かに試合見るのは好きだし、試合運びを勉強するのも大事だ。それに最近膝が痛いからランニングしなくても良いと言うのはありがたいのだけど、私1人ポツンと取り残されてむさ苦しい男バス連中の試合を見るだけだなんて、この仕打ちは酷い。
「ねぇ。君、男バスのマネージャーなの?」
 声を掛けられて振り仰ぐと、先程反対側の得点を捲くっていた子とは違う子が立っていた。あどけない顔をして聞いてくるその人のことを、背が高いくせに可愛い顔をしているんだな、なんてぼんやりと考えた。
「違う、女バス」
 ふるふると首を振って否定すると、その子は何が楽しいのかわからないけれど朗らかに笑った。笑うと益々幼く見え、この人はもしかしたら1年生なのだろうか、と勘繰ってしまう。
「じゃあ、なんで女バスの子が男バスにいんの?」
 あ、でも躊躇なくタメ口で話しかけてくるってことは、もう3年生もいないことだし、同じ歳なのかもしれないな。
 ほんの少し肩から力を抜いて横目で彼の顔を盗み見ると、いつから見ていたのだろうか、彼とすぐに視線がかち合う。
 口の端だけ持ち上げて笑う彼に、私もまた吊られて微笑んだ。
「うちは男バスのおかげで体育館追いやられてますから」
「あぁ」
 表情を崩し、両手を顔の横に持ち上げておどけたように言葉を返すと、彼は何かに納得したように頷き、同情なのだろうか、口元を持ち上げて揶揄っぽく笑う。
「そっちは?」
「オレはちょっと膝が痛くて、今週だけ見学」
「成長痛?」
「そんなとこ」
 試合を眺めながら訥々と話す彼の手が私の方へ伸び、時間のところの布を捲った。どうやら残り時間が5分切ったらしい。
 片手に握ったストップウォッチに視線を延ばし、それが間違いでないことを確認し、小さく溜息を吐き出す。
「自分とこの学校が優勢なのに面白く無さそうな顔をするね」
 コートに視線を向けたまま、彼は話しかけてくる。視線がこちらに向いてないことを確認し、この視野の広さはガードなのだろうかと勝手な見当をつける。
 彼の声は特に大きいものではないのに、ドリブルや床を擦るバッシュの音に紛れても、すんなりと耳に入ってくるのは、恐らく彼の声が耳に心地いいものだからなのだろう。
 低過ぎるわけでも高いわけでもない、丁度良い声に、なんだか耳がこそばゆくなるのを感じる。指先で耳元の髪の毛を掛けながら、頬を掻いたのは照れ隠しにもなら無さそうなものだった。
「これが昨年なら大手を振って喜んだんだろうけど……センパイいないからつまんなくて」
「あぁ、彼氏?」
「ううん、アコガレのセンパイ」
「あぁ、よくある」
 苦笑交じりで応えた彼に視線を転じる。スッキリとした横顔は、下級生にファンがいて追っかけまわされててもおかしくないだろうなと少しだけ思った。
「うちの女バスのヤツらもそんな感じだったし。岡先輩カッコいい、とか」
「やっぱどこもそうなんだね」
「流石に2年にもなればそういう人たちは部活辞めてるけど」
「辞めんのかい」
 思いがけない言葉に、間髪いれずに突っ込んでしまうと、彼は丸っこい目を更に丸くさせて私を振り返る。
 初めて話す人に対して、普段、クラスメイトたちにするような振る舞いをしてしまったことに自分自身も驚き、口元を真一文字に引き締める。そんな戸惑った私の様子が面白かったのか、彼は小さく笑った。
「続けてる?」
「いや、うちも大半辞めてる」
「でしょ?」
 隣で朗らかに笑う彼の言葉や話のテンポが不思議と心地良く、少しずつ親近感が沸いてくる。
 得点係自体あんまりやらないけれど、以前した際には、試合に集中しすぎたのか、「あ、入った」「だね」程度の会話しかした覚えが無い。
 女バスの試合ならなおさらで、試合中はベンチに座って待機しているというのもある。今までは他校の誰かと話す機会なんてほとんど無かったけれど、得点係というのもたまには悪くないな。
「あ、女バス戻ってきたみたいだよ」
「ほんとだ」
「試合も終わるね」
「うん」
 一度コートに向けた視線を、脇に立てた得点板に戻す。いつのまにかきちんと残り一分のところまで捲られていて、彼がやったんだろうけれど、ちゃんと試合見ているんだなと感心した。
 男バスの試合滅多に見られないんだからもう少し真面目に見ればよかったかな、なんて小さな後悔の念を抱いたけれど、これで最後ってわけじゃないからいいか。
「あ、そうだ」
 急に何かを思いついたのだろうか。彼の突然の言葉を怪訝に思い、チラリと視線を転じて彼の顔を振り仰ぐと、彼はぽかんと口を開けてコートに向けていた目を私の方へと向けてきた。
 目が合うと、一瞬だけ口元に笑みを浮かべるのは彼の癖なのだろうか。だとすれば、彼の学校にいる女子は堪らないだろうな。
「今日、部活終わったらさ。時間ある?」
 唐突な言葉に首を捻り、自分の予定を思い返す。
 夏休みの合同練習試合の日程はまだ始まったばかりで、確かその最終日に女バスのみんなで花火大会をしようという計画はあったけれど、それ以外では特に約束はなかった気がする。
「うん、なんも予定ないね」
 思いつくままに答えると、彼の笑顔は一層深いものになった。目尻が下がり、彼の持つ雰囲気に柔和さが増すと、こちらも自然と笑顔が移ってしまうようだ。
「そっか、じゃあご飯でも食べ行かない?」
「え?」
 微笑んで迎えていたはずの自分の顔が急激に引き攣るのが解った。イヤダとかそういうのではなく、ただ単に吃驚しただけだったのだけれども、初対面の人にこんな言葉をさらりと言われるのは初めてだったので驚きは隠せない。
 そんな私の変化に気付いているはずだろうに、彼は意外と豪胆なのだろうか、言葉を繋げるのを止めなかった。
「これからよく試合組むだろうし、そっちとの親睦会も兼ねてさ」
「男バスとやればよくない?」
「いや、なんとなく、君面白いから。ダメ?」
「……それどういう意味?」
「褒め言葉のつもりだよ?」
 言葉の通りなのだろうか。表情には笑みが携えられていたが、どうも面白いだなんて面と向かって言われたことに疑問を抱かざるを得ない。私が感じた心地よさとは違うものを彼が感じたというのは、主観が違うのだから納得できる。
 だがそれで面白いと称されるほどの行動を自分が取ったのかどうかが甚だ疑問だった。いぶかしむような目で眺めていると、ピーっと甲高い笛の音が鳴り、試合が終了したことを告げる。
「じゃあ、後で正門のとこで待ってるよ」
「え、あ、うん」
 意識が一瞬、コートの方へと向かったので、彼がすぐ隣に来たのには気付けなかった。大きな体を少しだけ曲げて、私の耳元で囁かれた言葉に、思わずイエスと返事してしまう。
 一度了承してしまった言葉を引っ込めることなんて出来ずに、軽く下唇に噛み付いて彼を振り仰ぐと、視線がかち合い、彼は笑みを深くさせる。それは先程のものと同じ笑顔だというのに、少しだけ意地悪そうに見えた。
「あ、そうだ」
 まだ何かあるのだろうか。そう身構えると、彼は口元に手をやって苦笑する。
「オレ、神宗一郎。2年」
 言葉と共に差し出された手は、握手を求めているようだったので、私もまた彼――神君の手に自分の手を重ねた。
 思いのほかひんやりとした手の平は、汗が引いてしまい指先が冷えてしまったのだろうか、それとも普段からそうなのだろうか、どちらにせよ、言葉と同じように私の中にすんなりと馴染んでいった。
、同い年」
……か」
 名前を復唱され、握ったままの手を二回、縦に振られる。親睦の握手というには幾分か幼い行動に見え、口元に笑みがこぼれた。
「うん、また後でね」
 離した手をひらりと振られたので、反射的に手を振り返すと神君は満足そうに笑って自分のチームの輪に戻っていった。
 得点板を眺めると、うちの男バスが勝ったらしい。ほぼ点数意識せずに惰性で捲っていたんだな、と自分自身に呆れさえ沸いてしまう。
 この試合が最終試合だったので後はゴールをしまったり、モップ掛けなどが残っているだけだ。神くんの言う「また後で」はすぐに来てしまう。
 果たして女バスの仲間たちの思惑通りになってしまったことに内心辟易しながら、どうしたもんかと後頭部を掻き、体育館の天井を仰ぎ見た。



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