三井 寿03:規則正しい生活01

規則正しい生活です#01


 その日は朝から頭が重かった。
 目が覚めた時、頭に鈍い痛みが広がったのは寝不足や寝過ぎから来るものでも、偏頭痛でもない。
 恐らく風邪によるものだ。前日から喉に違和感を感じていたものの、寝たら治るだろうと言う安直的な考えで、薬も飲まずに寝たら、このザマだ。
 ベッドから起き上がるのも億劫で、目覚ましがなった後も布団の中でのろのろとしていたら、母親から起こされる羽目になり、高校生にもなって、とお決まりの文句も言われてしまう。どうやら母親はただ単に寝ぼけているだけだと思ったらしい。
 息子の変調に気付かないのは、恐らくオレが普段からムスッとした顔をしているからで、オレから言えば何かしら対策をしてくれたのだろうけれど、グレていた時期がある手前、体調が悪いのだと訴えることもままならない。弱味を見せるような真似は出来ないだなんて無駄なプライドが邪魔をする
 朝飯に出てきたご飯も無理矢理腹に詰めて、持たされた弁当もきちんと受け取って、普段通りを装った。
 家を出る頃には既に疲れが溜まっていて、これは授業中もたないかもしれない、なんて弱気になる。まぁ、授業中に寝ることもまた普段通りなのだから、あまり変わらないのかもしれないけれど。
 家から学校までの道のりはそこまで長くは無いけれど、今日はしんどくなりそうだ。憂鬱な気持ちを抱くと、自然と溜息が漏れた。重苦しい気持ちと共に息を吐き出すと、眼前に白い空気の塊が視覚化する。
 肌寒いと感じたのはどうやら寒気から来るもののみではないようだ。本格的な冬も近いし、コートでも着てくればよかっただろうか。
 俯き加減で学校への道のりを歩いている途中、何度か引き返して寝ていたいと思いながらも、出席日数があまりにも少ないと大学の推薦が減ってしまうかもしれないという杞憂が頭を過ぎれば、無理矢理にでも学校へ行くしかない。
 赤木も木暮も引退した部活を、同じ3年であるオレだけ残った理由は、もちろんバスケを楽しみたいというのもあったが、大学進学への一縷の望みだというのが大きな理由だった。
 だが、鈍く重く、圧し掛かるような頭痛にはどうも辟易してしまう。オレが通るだけで吼える近所のバカな犬の声すらも聞き流せずに頭に響く。
 何度目か解らない溜息を吐き出すと同時に、背後から軽やかな足音が向かってくるのが耳に入った。
「おはよ、ひーくん」
 明るい挨拶と共に背中を叩かれ、首だけ捻って振り返るとそこには朝っぱらから無邪気に笑うがいた。寒さに鼻の頭を赤くしたは、縦方向のボーダーで赤と黒の2色の配色の湘北カラーマフラーに口元を埋めてもなお、嬉しそうに笑っていることが読み取れる。
 家が近所だから朝の登校時間が被れば、自然とと連れ立って学校に行くことは珍しくない。それこそ均せば、月の半分は一緒に登校している計算になるはずだ。
 それでも、会えば必ず毎回嬉しそうに笑うに、オレもまた自然と笑みが浮かんでしまう。
「なんだ、か」
 朝から憎まれ口にも似た言葉を言ったが、彼女の顔を見て内心で安堵の息を吐いたのもまた事実だった。
 ひとりで歩いていると陰鬱とした気分に陥り、黙って家に引き返しそうになっていた。だが、奈がいれば退屈しのぎにはなるし、オレ自身に気だるい様子を見せたくないと言う気持ちが働いて自然と身が引き締まる思いが沸き起こる。
 いつもと変わらない、なんてことのない朝の挨拶を交わしただけなのに、は笑みを引っ込めて怪訝そうな表情を浮かべる。
「……鼻声」
 ポツリと零された言葉に、軽く唇を引き締めた。たった一言言葉を交わしただけで、オレの体調を暴かれたことに驚いたのだ。
 歩きながらも、普段は丸っこい目を鋭くさせて見上げてくるに、取り繕ったところでバレるだろうなと諦めにも似た感情と共に溜息を吐いた。
「あ? あぁ、夕べから少しな」
 正直に告げると、は軽く眉を下げ困ったような表情を取るものだから、オレは湧き上がる感情を抑えるために、後頭部を掻くしかなかった。
 に心配を掛けるのは不本意ではあったが、体調面を心配されることに対して微かに喜んでしまう。エゴに塗れた感情は、オレの中に固く根付いており、いつもどこかこそばゆいものをもたらした。
「あ、喉飴ならあるよ?」
「あー……じゃあ、くれ」
 の進言に、ポケットに入れたままの手を引き抜いてに差し出すと、は「ちょっと待って」と言ってなにやら慌しくコートのポケットの中に手を入れたり、鞄の中を漁ったりし始める。
 横目で眺めながら見守っていると、ガサゴソと音を立てて鞄の外ポケットから何かを探し当てたの手の平に乗っていたのは、ジュースのオマケで付いてきたストラップを兼ねたおもちゃだった。
「なにこれ、こんなの買ったっけ?」
 いぶかしむような表情で手の中の物を見つめ、首を捻るに思わず苦笑してしまう。それなら夏頃、近所のコンビニに並べられたコーラのペットボトルの前で、何の柄が一番かわいいかとうんうん唸って、結局決められなくて、炭酸飲めもしないのに2つも買ったものじゃないか。
 結局オレが2本とも飲む羽目になったというのに、結局使ってねぇのかよ。
 相変わらず一瞬の執着だけは凄いくせに、飽きっぽいヤツだなと呆れてしまう。また同じところにそれらを仕舞うが、また何ヶ月か経ったら覚えてないなんて言うんだろうなと簡単に想像が付く。
「あ、あった。はい、ひーくん」
 結局、ブレザーのポケットに入れていたらしい。白い包装紙に包まれた10粒入りのスティックパック、そのうち2粒は既にが食べたらしいがその残りをすべて渡される。
「……これ賞味期限大丈夫なのかよ」
 先程のありさまを見て、昨年買ったやつなんじゃなかろうかと言う疑念が頭をもたげ、からかう意味も込めて尋ねると、は唇を尖らせて不満を主張した。
「それは一昨日買ったやつだから大丈夫だよ」
「ふぅん。まぁ、サンキュ」
 流石に食べ物は入れたままにはしないか。眼前にそれを掲げてパッケージの表記を確認すると、見覚えのあるキャラクターの絵が描かれていることに気付き、どうも子供向けの喉飴であるらしいことを知る。
 ……ママの味の喉飴ねぇ。
 チラリと視線を隣を歩くに戻すと、少しだけ不安の残る顔でオレを見上げると視線が重なった。
「大丈夫だって。バスケで鍛えてんだから倒れるほど柔じゃねぇよ」
 不安が消え去るように、との頭に手を乗せて撫で付けてやったが、はその表情に浮かべたものを益々悲壮なものへと変貌させる。
「でもひーくん陵南戦で倒れたよ?」
「っるせぇ! 忘れろ!」
 優しくしていたはずの手は、の言葉に自然と乱暴なものになった。羞恥に耳まで赤く染まり、風邪とはまた違う頭痛が襲い掛かる。
 どうしてコイツはいつまで経っても減らず口をきくのか。
 ぎゃ、と色気の無い悲鳴を上げたから手を離し、貰ったままだった喉飴を一つ、包み紙を剥し口の中に放り込んだ。そのままスティックパックに爪を差し入れて半分に割ると片方はに返し、もう半分は学ランのポケットに仕舞い込む。
 ミルク味の甘ったるさが口内に広がったが、少しだけ喉の痞えが取れるような気がした。

* * *

 授業は滞りなく、ほぼ睡眠で乗り切った。
 部活も集中してやれば、精彩を欠くことは無かったけれど、普段と比べれば汗の量が尋常でないほど多かった。あまりにも汗が吹き出ていて、タオルでは追いつかなくなり、何度かTシャツを取り替えていたのだが、予備に置いていた3着ともすべて使い切ってしまったほどだった。
 こんだけ汗掻いたなら風邪も引き下がってくれたらいいのに、引くことは無いのだから世知辛いものだ。午後は少し調子がよかったからと部活に参加したが、昼飯の時のの忠告を聞いて、今日は早退すればよかったなどと今更後悔したって遅い。
 制服に着替えた後、部室から出て、宮城たちと一緒に正門に向かったが、その足取りは重く、無事に家まで帰りつけるかどうかすらも怪しいものだった。
「三井サン。今日ラーメン食って帰りません?」
 数歩前を歩く宮城が振り返り、それに並んでいた桜木もまた同様にオレを見てバカ面を下げて笑う。腹は減っていたので少し考えたが、ラーメンが食えるような調子ではないことは身体に聞かずとも明白だった。
「あ? 今日はラーメンって気分じゃねぇな」
 宮城の問いかけに曖昧に言葉を濁して答えると、桜木が信じられないという顔をしてオレを見た。普段は率先してオレが誘うことが多いので断られたのが珍しいのだろう。
「なんだよ、ミッチー! 付き合い悪ぃな! さては下痢か?」
「違ぇよ!!」
 桜木の物言いにイラつきを隠せず、風邪を引いているのだと主張してやろうかとも思ったけれど、桜木なんて風邪引いたことが無さそうだから言ったところでどれほどの辛さかなんて想像すら出来ないはずだと勝手に自分の中で完結させた。
「えー、じゃあファミレスとかの方がいいの?」
「じゃなくて、今日は飯食う気分じゃねぇっつーか……」
 オレの歯切れの悪い返事に宮城も桜木も怪訝そうな表情を浮かべる。2人が察しが悪いと言うわけではない。オレが2人に真実を話さないだけだった。
 いっそのことぶっちゃけた方がいいのだろうか。
 溜息を一つ吐いて、立ち止まったままだった2人を抜き去り、視線を正面に転じると、正門にが凭れ掛かっているのが見えた。近づいてくる足音に気付いたのか、は地面に落としていた視線を持ち上げてオレたちに向ける。
 オレたちの姿を目に入れた瞬間、鮮やかに笑ったは、預けていた背中を起こしてこちらへと駆け寄ってくる。それを立ち止まって待っていると、隣に並んだ宮城が肩から力を抜いて一つ息を吐き出した。
「なんだよ、そういうことか」
「ぬ?」
「三井サン、ちゃんと一緒帰るんだってよ」
「あぁ、ラーメンよりもっと大好きなサンと帰るのか」
「ラーメンよりってのヤメロ」
 過剰な反応をすると付け上がるのは重々承知していたので黙って聞いていたけれど、桜木の声のトーンが上がり、口ぶりもまた冷やかしを含んだものに変わったので、調子に乗らないうちに釘を刺す。
 オレを冷やかすような言葉がの耳に入ったら、アイツは桜木の尻馬に乗って「安西先生と比べたら?」なんて聞いてくるに違いない。
「待ち合わせしてんなら言ってくれたらいいのに」
 桜木と比べたら比較的落ち着いた性格の宮城は、向かってくるに手を振りながら口を開く。
「違ぇって、たまたまだろ」
 今日は別にと約束していたわけではなかった。だが、普段は彩子と一緒に帰るがオレを待っていた理由なんて聞かなくても解る。大方、オレの様子がおかしいことに唯一気付いている彼女は、オレの体調を慮ってこうやって待っていてくれたのだろう。
 オレたちの正面に辿り付いたは鮮やかな笑みを一層深くさせてオレを見上げた。
「センパイ、今帰り?」
 は宮城たちの前ではひーくんと呼ばない。オレがバスケ部に復帰してからそうなのだが、いつの間にかそれが暗黙のルールとして定着してしまったらしい。
「あぁ。、一緒帰るか」
 オレの方はいつからかのことをと呼ばなくなっていた。それが嬉しかったのか、は口角を上げて悪戯っ子のように笑う。
 そんなの顔を見て、少し頬が熱くなったように感じたのはきっと風邪のせいではないはずだ。
 オレたちの様子を横目で見ていた宮城は小さな溜息を吐いて、微笑ましそうな表情を浮かべる。しかし、その安らかな顔は一瞬で消え去り、ハッと何かに気付いたかのように目を見開く。
「ってことはアヤちゃん1人じゃん! アヤちゃん!!」
 声を弾ませて彩子の名前を呼んだ宮城は、いそいそと部室の方へと駆けていく。
「あぁっ! 置いてくなよ、リョーちん!」
 鞄を揺らしながら宮城の背を追う桜木に対して、宮城は「ついてくんなっ!」と非情にも叫ぶ。2人の背中に向けて手をヒラヒラと振るの横顔は柔らかな感情を多分に含んでいた。
 オレの視線に気付いたは、相好を崩してオレを振り仰ぐ。
「帰ろ、ひーくん」
 宮城の彩子への執着に溜息を吐いたオレの背中に軽く手をやったは帰路につくよう促す。
「そうだな」
 ポケットに突っ込んだままだった手を抜いての手を取ると、は決って「冷たい」と文句を言った。
「嫌なら離すぞ」
「ダメダメ」
 ここまでがいつもの流れ。飽きもせず毎回同じような会話をするなんて、馬鹿げているとは思いつつも、お互い素直ではないことの証明のようなものなのだから仕方が無い。
「はい、ひーくん」
 正門から出たところで、自分の巻いていたマフラーを外したは、それをオレの方へと差し出す。
 巻けということなのだろう。赤と黒のボーダーのマフラーは確かに男がしていても違和感は無いだろうが、いくら風邪を引いているからと言って流石にから取り上げることなんて出来るはずも無い。
「いらねぇよ」
「いいから、ホラ」
 繋いでいた手を翻して、オレの首元にマフラーを引っ掛けるのされるままになったのは、意地を張ったところで敵わないことなど初めから解っていたからだ。昔からコイツは自分のしたいようにして、オレを振り回す。
 綺麗に巻けたのが嬉しかったのか、「ヨシッ」と一つ漏らしたは、自らが着たコートの一番上までボタンを留める。
「寒いんじゃねーの?」
「じゃあこうしてもいい?」
 ボタンを止め終えた手を握ろうと、オレの手をの方へと差し出すと、は手を握らずにオレの腕に自らの腕を絡み付けてくる。密着するとのくっつく右半身だけやけに熱が篭るような気がした。
 少しでも温かさを逃さないために、肘に力を入れてをオレの身体に引き寄せる。そのまま歩き始めると、普段よりも歩幅が狭いことに気付いたがいぶかしむようにオレを見上げる。
「朝より酷くなってるんじゃない?」
 立ち止まるに合わせてオレも止まると、の手がオレの額に伸びる。触れ易いように、と少しだけ身を屈めてやると、の冷たい指先の感触が額を覆う。その冷たさが心地良いと思ったのは、オレの頭が熱を生んでいるからなのだろう。
「熱出てるし」
 呆れたように言うは、風邪引いたことを心配すると言うよりも、「ほれ見たことか」と言わんばかりで、母親のようだと思った。
「汗かいたらどうにかなるかって思ったんだよ」
「バカね、ひーくん。病気のときは安静第一なんだよ」
「バカって言うな、バカ」
 小競り合いにも似た言葉の応酬を続けるのもしんどくて肩で息を吐くと、は不満そうな表情を抑え、心配そうな表情を浮かべた。
「明日から休みだし家帰って飯食って寝たら治んだろ」
 運良く試験週間入るから部活も休みだし、土日の二日も寝ていればどうにかなるだろ。今日中に病院に行っていればもっとよかったのだろうけれど、今更それを言ったところでどうにもならない。
「え?」
「んだよ」
「ううん……」
 オレの言葉のどこが引っかかったのか解らないが、考え込むような表情を取るに、内心で首を捻ったが特に思い当たる節は無かった。
 もしかしたらテスト期間というのを忘れていたのかもしれない。
 教えてあげるなんてオレっていいヤツだなと少しだけ気分が上向いた。



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