005

05. グローリィ・カラーズ


「起立、礼、着席」
 授業の終わりを告げるチャイムと重なって、クラス委員の声が教室に響く。教師が立ち去ると同時に広がる喧騒と、思い思いに席を離れるクラスメイトに混じって、私もまた、自らの席を立つ。
 そのまま真っ直ぐに教壇に立ち、首だけを捻って教室内に目を向け、板書している生徒が居ないことを確認する。改めて黒板と向かい合い、ひとつ、溜息を吐いた。
 今日課せられた、日直という使命。きっとコレが、今日一番難易度の高いミッションになるはずだと朝から身構えていたものに直面する。
 2限目の授業は数学で、その担当教師は背が高い。数学教師は、その利点を余すことなく活かすためか、黒板を広々と使う。
 見る分には問題は無いのだが、授業が終わり、黒板を消すことに関しては不満をこぼす者も少なくない。平たく言えば、女子の身長では届かない場所にまで書かれるので、消すのに苦労を要するということだ。
 1限目の英語の授業の後は難なくこなせたが、今回ばかりはそうもいきそうも無い。授業の合間にも、上の方の文字を教師が自ら消してくれればとどれだけ願ったことか。
 恨めしく見上げたところで文字が消えるはずは無い。仕方ないな、と諦めの溜息を吐き、黒板消しを拾い上げる。
 まずは試しに、と一番右上の箇所に手を伸ばしてみたのだが、案の定、私もそこまで背は低い方ではないのだけれど、上手く届かず、中途半端に10センチほどの文字列を残してしまう。
 完璧主義というほどでもないけれど、小さいことで怒られるのは嫌だ。
 誰か背の高い人、手伝ってくれないかな。願いをひとつ胸に抱きながら暇そうな男子がいないか、と視線を巡らせるが、パッと見た限りでは協力してくれそうな人は皆無であった。同じ中学から来た男子もクラスに何人かはいたけれど、残念ながらみんな今は教室から出てしまっているようだ。
 ――というか、今日の日直絶対私だけじゃないよなぁ。
 1限目はなんとかなったからいいけれど、今回は手伝ってもらわないとマズイ。
 ――今日の日直の男子って誰だっけ?
 自分が日直であることしか確認していなかったことを思い出す。黒板の右端に視線を走らせると日直の名前が記載された欄に、と並んで高野、と書いてあるのを確認した。
 ――今日は高野か……高野ってどの人だっけ?
 その名前は聞いたことがあるはずなのだけど、どうもまだ顔と名前が一致しないことの方が多い。言葉をかわしたことのある男子でさえも数日間が開けば失念してしまう。
 高野、高野、と口の中で名前を転がしていると、「高野」と藤真の声が脳裏を過ぎった。同時に、藤真の笑い声が教室に響く。
 その声を探して視線を巡らせると、教室の後ろの方で藤真が数人の男子に囲まれて楽しそうに笑っているのが目に入った。その隣に座る男に目を移し、探していた高野がそこに居たことを知る。
 藤真と一緒になって騒ぐ高野は、自分が日直であることを忘れたかのように振舞っていて、こちらを気にする素振りすら見せない。恐らくフリではなく、本当に忘れているか、日直であることを知らないのだろう。でなければ、1限目の板書を消すのを手伝ってくれるはずだ。
 忘れているのだとしても、自分ひとりで対処できないのなら、高野に手伝ってもらうしかないよなぁ。
 意を決して黒板消しを持つ手に力を込め、高野の名前を呼ぼうと口を開いたが、男子特有の訳の解らないノリで騒いでいる高野を目にすると同時に、声を出さないまま閉口してしまう。仕事をしてもらわないと困るのだけど、あんな風にみんなで楽しそうに話しているのを、わざわざ邪魔するのは忍びない。
 自分でなんとかするしかないと考えを改め、とりあえず届くところから、と黒板を消していった。せめて届くところは丁寧に、だなんて綺麗事を考えるのは、時間稼ぎのようなものだった。
 私が手間取っている間に、高野が気付いてくれればと願ったのだが、現実はそれほど甘くはなく、綺麗に黒板上部10cmほどを残してしまう。消さない訳にはいかないよね、と、今一度黒板消しを高く持ち上げる。
「っしょ」
 軽く背伸びをしてみたものの、黒板消しの先の方が微かに触れただけで、消したかった文字のほとんどが残ってしまう。跳び撥ねれば届くのかもしれないけれど、教壇の上で慌しく振舞うことで教室中に埃が充満するのも芳しくないだろう。
 どうしたものかと逡巡するものの大して良い案は出てこない。
「……はぁ」
 重い溜息を吐き出して、ひとつだけ思いついた「たいしたことない案」を実行する腹を括る。最終手段。こうなったら椅子を持ってきて、それに乗るしかない。目立つ行動は取りたくなかったのだけど、他者の協力を得られないのなら致し方ない。
 黒板消しを置いて、教壇から降りようと身体を反転させる。一段しかない段差を降りようと足を踏み出した瞬間、すぐ傍に人の影が落ちるのが目に入った。
 ――え、なに?
 疑問と共に振り仰いだ途端、眼前に更に広がる影よりも、もっと驚くべきものが視界に広がる。先程、傍らに置いたばかりの黒板消しを高く持ち上げ、私が消せなかった部分を丁寧に拭う彼の姿から目を離せなくなる。
 クラスの男子が手伝ってくれたのだと言うのなら、驚かない。普段と変わらない態度で感謝の言葉を述べたり、「お、気が利くじゃん」だなんて軽口を叩いたりだって出来る。
 だけど、それが出来ない。それどころか、一言も発することが出来ないほどに態度を硬直させてしまう。
 ――バスケ部の、藤真の友達の、あの人。
 先日、一度ソフトボールの打席に立ってもらったことがある彼だ。
 確かにあの日、藤真が彼の名前を呼んでいた。だが、特に紹介されたわけではなかったし、また私自身も気持ち的に舞い上がっていたので、確認するのを忘れていた。そのことが酷く悔やまれる。
 名札から確認することは容易い。だが、彼を相手に勝手に盗み見るような真似は心情的に憚られる。ただ呆然と綺麗になっていく黒板を尻目に、彼の横顔を見つめ続けることしか出来なかった。
「……あ、あの」
 掛けるべき言葉が見つからなくて、蚊の鳴くような声が唇から漏れる。その言葉は、教室の喧騒に紛れて、彼の耳には届かなかったようだ。
 右半分を消し終えた彼は、そのまま左側へと移動し、同じように丁寧に消していく。彼の動きに追い縋るようにして、私もまた教壇へと上がり、彼の隣に立ったが、やはりどうしてこのような事態になっているのか、と混乱の余り状況を把握することすら出来なかった。
 違うクラスの人なのに、どうして手伝ってくれるのか、という疑問が頭を過ぎると同時に、唇からは漏らすことの無い思念が脳裏を掠めていく。

 藤真に会いに来たんじゃないの?
 同じバスケ部の高野がやってないから代わりにしてくれるの?
 それとも、ただ単に煮え切らなくなっただけ?

 色々な言葉が頭を過ぎり、そのどの言葉も喉から出すことが出来なくて、唇を薄く開いたまま固まってしまう。茫然自失とした様子でいる私を、彼は振り返らない。私よりも随分と背の高い彼は、その作業を困難に感じる様子ひとつ見せず、ただ黙々と黒板を吹いていく。
 私は固唾を呑んだまま、彼の手の動き、そしてその横顔を眺めることしか出来ないままでいた。
 息を一つ吸う。肺に酸素が取り込まれただけなのに、やけに胸が痞え、併せて唾を飲み込んでやり過ごそうとしたが、誤魔化しきれないものが生まれた。
 消されていく文字に変わって、胸に広がっていく感情。戸惑いよりも、混乱よりも、そして申し訳なさよりも、おおきく広がった感情は、どうしようもないほど歓喜に占められていた。
 一通り拭き終えた彼は、黒板消しを黒板の隅に置き、そこで漸く、呆然と眺めるままに硬直した私に視線を向けた。
 いつもと変わらず、彼の目は細い。そこから注がれる視線を受けると、にわかには動きがたくなるのもまた同じであった。その視線を厳しいものだと感じたわけではないのに、雰囲気に気圧されてしまう。それでも彼の唇が微かに緩み、笑みの形を作り上げられると、不安にも似た感情は霧散する。
 だが、彼の空気に安堵したのも束の間で、彼の柔らかさに触れることで、彼を見つめ続けた不躾さを恥じ、眉を下げてしまう。私の表情の変化を目の当たりにした彼は目を開き、一度綻ばせてくれた口元を、真一文字に引き締める。
「悪ぃ、でしゃばった」
 心底すまなさそうに言う彼の表情は、声と同じように暗いものに変貌する。手の平に付着した粉を払うために一度手を振るった彼は、教壇を一段降り、私に背を向けた。
 まずい。今の態度は誤解させた。
「あ、違っ……待って!」
 飛び出たのは否定の言葉だけではなかった。立ち去ろうとする彼のブレザーを、思わず掴んでしまう。
 引き止めるような真似をした自分に驚き、すぐさま手を離したが、彼の動きは当然静止する。黙って振り返った彼と視線がかち合う。
「あ、あの」
 必死に追い縋った自分に戸惑い、視線を外すために顔を伏せてしまう。自分の足元に視線を落とすと、自然と上靴の爪先が目に入った。
 私と向かい合わせに立つ彼の上靴は、こちらに向けられたまま動かない。煮え切らない態度を取っていると言うのに、彼はまだ、立ち去らずに黙ったまま待ってくれている。
 嫌じゃなかった。それどころか、嬉しかった。消してくれたことが嬉しかったんじゃない。彼が手伝ってくれたことが、嬉しかったのだ。
 私のために手伝ってくれただなんて、自惚れに塗れた考えしか頭を過ぎらない。だけど、お礼を言わずにはいられなかった。
 ひとつ小さな深呼吸を終え、面を上げると、ずっとこちらを見ていたのであろう彼と視線が重なる。その瞬間、血液が顔に集中していくのを感じた。逃げ出したい衝動に駆られたけれど、お腹周辺の自分の制服を掴むことで辛うじて耐える。
「………ありがと」
 普段友達と話すときとは比べ物にならないほど微かな声になった。消え入りそうな言葉は彼に届いたのだろうか。
 外せない視線を絡め取られたまま、無遠慮に彼の瞳を見つめ続ける。目の前にある彼の頭が微かに揺れ、彼の細い目が益々細められたが、そこには鋭さはなく、柔和な印象を抱かせた。彼が笑ったのだと知ると同時に、頬に熱が走る。
「あぁ、いや。……うん」
 少しだけ、言葉を濁した彼が躊躇いがちに発した声に触発され、私の頬に生まれたばかりの熱は耳にまで行き渡る。何もこんな些細なことに反応しなくてもいいのに、と自分自身を嘲るが、その反応を引っ込めることは出来なかった。
「あ、ごめんっ。急に呼び止めたりして」
 羞恥が身内に広がり、限界を感じた私は、あまりの居た堪れなさにもう逃げることしか頭に無かった。彼の横を擦り抜けて自分の席に戻ろうと、足を一歩踏み出したが、あまりにも慌てふためいてしまったため、教卓に強かに足を打ちつける。
「痛っ」
 痛みに崩れたバランスを保とうとしたが、一歩踏み出した先に、床は無かった。たたらを踏み損ねた足に、背中に冷たい緊張感が走る。
「ひゃっ」
「うおっ」
 倒れるのかと思った身体は、空中で留まる。なぜ、と疑問に思うのと同時にみぞおちに圧迫感が生じる。併せて頬に何かがぶつかった。
 何かが、だなんて白々しい。顔を捻って確認するまでもなかった。頬を掠めた荒い生地の感触と、視界に入った濃緑は、紛れもなく男子のブレザーのもので、教壇を踏み外した私のお腹の周囲に、彼の右腕が回されたことに気付くのに時間は掛からなかった。
 転ばないようにと支えてくれただけなのだが、急激な接近に免疫のない私の平常心は無残にも打ち砕かれる。咄嗟に身を引こうとしたが、思ったよりも力強く抱きとめられていたことを知り、ただ息を呑むことしか出来なかった。
 彼が大きく息を吐き出すと、その空気の流れが首筋に触れる。一層の緊張感が身内に生まれるのは必然だった。
「大丈夫か?」
「あっ、うん。ゴメンねっ?!」
 彼の質問に、混乱した状態のまま答えた声が裏返る。反応だけで動揺しているのだと宣言するようなものであった。その様子がおかしかったのか、私の体から手を離した彼は手の甲で口元を抑えて笑う。
 恥ずかしくて視線を反らしてしまったが、「悪ぃ」と彼に肩を叩かれて今一度向き直ることができた。多分、今の私はとてつもなく余裕のない顔をしているのだろう。少しだけからかうような表情を浮かべる彼に、鏡を見なくともそうなのだと察してしまう。
「……二回目だな」
「え?」
「ぶつかったの」
 いぶかしむような私の視線を受けた彼は、柔らかな声でもって応える。心なしか楽しそうに笑う彼の解けた表情に、気恥ずかしさを感じるよりも前に、その笑みに釣られて、私もまた笑ってしまった。
 不思議な人だな。つい先日までは見かけたら逃げ出したくなるくらいの申し訳なさしか感じなかったのに、今はこうして優しい空気を感じ取ってしまうようになるだなんて、信じられない。
 優しくされたから同じように返すというのではなく、気恥ずかしさをなぎ倒し、自然に笑みがこぼれたのは、彼の優しさに触れたからだった。
 笑みを浮かべていた彼が、何かを言い差して、口をつぐむ。彼のその動作に、私は笑みを浮かべたまま軽く首を傾げると、彼はひとつ、息を吸った。
「――、は」
 不意打ちだった。聞き慣れない声の、聞き慣れた名前。というのは、私の苗字で間違いはない。だがそれを彼の前で名乗ったことはなかった。
 きっと、藤真にでも名前を聞いたのだろうけれど、彼が私の名前を呼んだ。ただその程度のことが耳に馴染まず、違和感を生み出した。
「……え?」
は、怪我、してないか?」
「え、あ……うん」
「じゃあ、よし」
 私の返答に、ひとつ、頭を揺らした彼は、そのまま教室の後ろの方へと足を向けた 名残惜しむように自然と追う視線は、彼が藤真たちの元へと辿り着くまで続き、藤真がこちらを振り返ったことで、漸く、無理やりにではあるが引き剥がすことができた。
 彼の声で紡がれたという私の名前がやけに耳に残っていて、意識すればするほど、強く私の中に彼の声が響く。
「あぁ……やばいかも」
 観念するような独り言は、自らの中に留まらず、唇から紡ぎ出される。唇を引き締めて忘れようと頭を切り替えたものの、背けたばかりの視線が彼の背中へ向かった。
 彼は藤真に英語の辞書を借りに来たのだろうか。分厚いそれを受け取り、礼を言うかのごとく頭を揺らした。
 忘れ物とかするんだ、だなんて、まるで彼の生活のひとかけらを発見したかのように考えてしまう。自分にこんなに観察癖があっただなんて、生まれて15年、ちっとも知らなかった。
 それとも、体が動き、目が、耳が探してしまうのは、果たして彼のせいなのだろうか。もどかしいような感情が胸中に渦巻き、それは緩やかに熱に生まれ変わっていく。
 触れた肌が熱いだとか、名前を呼ばれて戸惑っているだとか。その理由に気付かないように、浮かび上がりそうになる答えに抗うかのように、手の甲で頬を拭う。
 生まれたばかりの頬の熱を持て余しながらも、視線の先には彼の姿があった。



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