006

06. 意地悪なボーイ


「よぉ、。お前、ちょっと待ってろ」
 ある日の放課後。部室に着替えに行くのだと意気込んで鞄を肩にかけた瞬間、藤真に呼び止められた。入学して一ヶ月ほど経ったけど、藤真と話すことが珍しいわけではない。
 ただ、放課後になればお互いに部活に勤しむ者同士として、一目散に部室へと向かうのが常で、その道中で話すことはあれど、このようにわざわざ呼び止められることはなかったはずだ。
 珍しいこともあるんだな、と藤真の姿を眺める。既に部活の準備を終えたらしい藤真は、自分の机の上に腰掛けて、下校する他のクラスメイトに手を振っていた。
 用があるのは藤真の癖に、特にこちらへと寄って来る素振りを見せない様子に、小さく溜息を吐く。
 こういう横着なところが藤真にはある。短い付き合いでそう評すのも悪い気はするが、事実、藤真は「早く来いよ」と私を手招くだけで、頑として動かなかった。手に持った鞄を机に降ろし、藤真の席へと足を向ける。
「どうしたの、藤真」
「ちょっとさぁ、気になることがあってよ」
 机に腰掛けたまま私の顔を見上げ、ニヤニヤと笑う藤真は、何かを企んでるとしか思えない。このまま無視して帰ってしまいたいと思うほどに嫌な予感しかしない。
 視線を巡らせて誰かに助けを求めると、ちょうど教室から出て行こうとすると視線がかち合った。一緒に藤真の話を聞いてほしい。そう思い、腕を伸ばしてを呼びつけるように手を振ったが、はいつもと変わらない悪戯な笑みを浮かべて私に手を翳し、そのまま教室から出て行ってしまった。
 どうやらには、私が普通にバイバイと手を振っただけに見えたらしい。ただそれだけなのに、唯一の希望が絶たれたような錯覚に陥る。
「まぁ、他のやつ出て行くまで待ってろって」
「……はぁ」
「あー……まぁ、アレだ。……やっぱ後で言うわ」
「なー、藤真、まだ行かねーの?」
 言い止した藤真の言葉にかぶさるようにして、背後から声がかかる。振り返って見れば、鞄とバッシュを意味も無く頭上に掲げた高野が立っていた。
「おぉ、ちょっとと話してから行くわ。先に行っててくれっ」
 広げた足の間に手を置いた藤真は、机に腰掛けたまま伸びをするようにして高野へと声をかける。
「なんだぁ、告白かぁ?」
「バァカ、んなわけあるか」
 高野の冷やかしの言葉を一笑に付した藤真は、帰れとばかりに高野に手の甲を向けて振るう。まるで犬でも追い払うような手つきだった。藤真の不遜な態度や言い草に対して高野は笑う。怒った様子もひとつ見せない高野は、ニヤついた笑みを浮かべたまま教室を後にする。
 そうこうしているうちに、教室には私と藤真以外、誰もいないという現状が作り上げられてしまう。
 話があると藤真は言った。取るに足らない話ならば、こんな風に放課後に2人きりにならずとも休み時間にでも済ませてしまえばいいだけだ。
 だが、態々このようなシチュエーションを作られると、にわかに身構えてしまう。二人で内緒に話をする、と言っても、藤真が相手では決して甘ったるいものはならない自信がある。
 気がかりなのは空気ではない。時間だ。話が長くなって、部活に遅れてしまうという懸念が、私に危機感を抱かせる。
 出来れば早く部活に行きたいから、明日で済む話ならば明日にして欲しいのだけど、藤真に進言したところで受け入れてくれるとは到底思えない。
 気も漫ろな私とは打って変わって藤真はというと、甲子園のチャンステーマのような音楽を鼻歌で歌いながら、窓の外を眺めていた。
「お前さ、最近よくバスケ部外周走ってんの知ってるよな?」
 窓の外に視線を向けたままの藤真が唐突に口を開く。ともすれば聞き逃してしまいそうなくらいに軽やかに発せられた言葉。そしてその内容に驚いて目を丸くしたまま固まった私を横目で見た藤真は、意地悪く鼻で笑う。
「まぁ……なんとなくは」
「やっぱな」
「へ?」
「オレもさ、お前が投げてんのとか走ってんのよく見かけるんだよ」
「……はぁ」
 要領を得ない藤真の話に気のない返事をする。態度の悪さに気が付いたらしい藤真が強くこちらを睨みつけたが、首の裏を掻いて眉を下げる以外の反応を返すことはできなかった。
 視線を外しながら、部活のメニューについて考えを巡らせる。そう言えば外周のランニングコースにバスケ部の使う体育館の前も含まれていたっけ。体育館の中を見ることはさすがにできないが、ボールの音やバッシュの音はよく耳にした記憶がある。
 グラウンドでは掛け声の大きなバスケ部が近くを走れば、姿を見ずとも声の在り処は簡単にわかる。バスケ部が走っているのにこちらが気付くということは、向こうもまたこちらが何をしているのか目にしていてもおかしくはない。グラウンドでは逃げも隠れも出来ないのは、試合に限ったことではないのだから。
「で、だ」
「なに?」
 いつになくもったいぶった話し方をする藤真に飽いて、次第に自分の関心が他所へとずれていく。上の空な状態で視線を反らし、藤真と同じように風がカーテンを靡かせる様を眺めていると、それに目敏く気付いた藤真が視界の端で顔を歪めるのが見えた。
「お前なぁ……こっち向けっつの」
「ちょ……痛いよ」
 私の投げやりな態度に怒った藤真は、左手をこちらへと伸ばし、顎に掌底を押し付けながら両頬を掴む。自然と尖る唇で抗議の声を上げたが、その手が離されることは無かった。相当ぶさいくな顔をしているはずの私を見た藤真は、さも面白そうにせせら笑う。
 自分だって私の方を見ていなかったくせに、なんてイヤな男だ。
 せめてもの抵抗として、歯を食い縛るようにすると、頬の肉が盛り上がる。だが、そのような反応を意に介さない藤真は、さらに強く私の頬を押し潰すだけであった。
「これからお前のためになること言ってやろうかってのに……なんつーやつだよ」
「だって……早く部活行きたいんだもん」
 結果的に変な顔をしてしまったが、別に藤真のことをからかうのが目的ではない。大人しく藤真がこの手を離してくれたら、こんな顔をせずにすんだのだ、と開き直る。
 というか、女の子の顔を潰すような真似をするのは、どうかと思う。確かに藤真の方がきれいな顔をしているけれどさ。
 コンプレックスじみたことを考えながら視線を足元に落とすと、掴まれた顎をそのまま持ち上げられ、強引に上向かされる。抗議の言葉を投げつけようと思ったが、その声は真摯な藤真の目に気圧されて、黙って飲み込むことしか出来なかった。

「な、なに?」
「お前さ、今から5分だけでいいから素直になれ」
「素直って?」
 素直でないと評されたことに納得がいかなくて聞き返すと、藤真は端正な顔を顰めてみせる。
「だからそういう風に聞き返したりせずに、聞けって」
 怒ったような表情の藤真の視線から逃れるように目を反らす。顎を掴まれたままでは顔を満足に動かせないので、視線だけを無理矢理に時計の方へと向ける。
 こうして他愛も無い藤真の話に付き合っているだけで時計の針は容赦なく進んでいく。目を細めて時計を睨んだところでそれが止まるはずも無く、諦めの溜息を吐き出すだけであった。
 藤真に抗ったところで、彼の目的が終わらない限りは部活へ行けないことは明白だ。ならばここはひとつ、大人しく藤真の言葉に従うか。
「ん……まぁ、うん。解った」
 渋々ながらも同意して見せると、そこでようやく藤真は私の顎から手を離した。心なしか満足そうに見えるのはきっと目の錯覚ではないだろう。
 背中に重心を置くように、腰掛けた机に手をついた藤真は私の顔を見て、ニヤリと不適に笑いながら口を開く。
「だからな、部活の話だよ」
「うん」
「お前がさ、バスケ部のやつ見てるの。オレ気付いてんだよ」
「いや、見てない」
 つい先程、素直に従うのだと決めたはずなのに、あまりにも斜め上を行くような藤真の言葉に、反射的に否定してしまう。
「だから素直になれっつってんだろ」
 語気を荒げた藤真の言葉と共に飛んできたのは、でこピンに寄る鈍い痛みだった。額を抑えて藤真を軽く睨みつけた。だが、まるで「言うことを聞かないお前が悪い」とでも思っているかのような藤真の表情に、反論の言葉は飲み込まれる。
「嘘吐いてないよ」
「……ホンットにかわいくねぇ女だなぁ」
 呆れたのか溜息をひとつ吐き捨てた藤真は、私から視線を外し廊下側へと視線を向けた。釣られて意識をそちらへと向けると、教師と思しき声が遮断されながらも耳に入る。まだ帰りのホームルームが終わっていないクラスがあるのか、と思わず目を丸くしてしまう。
っ」
 また気が散漫していた私を叱り付ける藤真の手がこちらへと伸びる。慣れた手つきで私の頭を上から押さえつける藤真には、きっと手のかかる弟妹がいるのだろうと勝手に想像する。
「でもお前バスケ部走ってんの見たことあるんだろ?」
「あ、それは、まぁ」
「で、結構頻繁に走ってるのも知ってる。ちなみにいつぐらいに走るか知ってるか?」
「……うちが守備練してる時か、休憩してる時」
「ホラ、見てんじゃん」
「見てるっていうか」
――掛け声上げてたら耳に届くし、グラウンドのすぐ側を走るんだから目に入るよ。
 反論の言葉を投げかけるのを、辛うじて飲み込む。また素直でないと貶されるのがイヤだったし、それ以上に攻撃されたら堪らない。
 たかがでこピンとはいえ、男子の力で手加減したところで、女子にとっては想像以上に痛むのだから。それに、今のような誘導尋問にも似た質問を投げられたからには警戒しなくてはいけないはずだ。
 藤真はきっと言葉尻を捕らえて人をやり込めるのが得意な性質なのだろう。言葉を重ねる毎に、笑みが深くなっているのがその証拠だ。
「当ててやるよ、お前の見てるやつ」
 別に付き合いが長いわけではない。藤真とは入学して高々一、二ヶ月くらいのクラスメイトというものだ。それでも、動物的な直感なのか、はたまた本質を晒す藤真の素直さゆえか、これから紡がれるだろう言葉がこの日一番応え辛いものになるという予感が胸の内に広がった。
 今の会話の流れもそうだが、藤真の言葉はちっとも明確なものでないくせに、こちらを不安の渦に突き落とす妙な力があった。
 曖昧に誤魔化したところで、きっと藤真は見抜くのだろう。それを見逃してくれるほど、藤真は優しくないはずだ。言葉尻を捕まえて、理論的にねじ伏せられる可能性が高いことに気付き、自然と緊張に背筋が伸びる。
「……ふ、藤真?」
 まごついた私の言葉を遮るように、藤真は笑う。
 藤真の顔はきれいだ。目鼻立ちはくっきりしているのに、決して外国人みたいに濃すぎるということは無い。女の子みたいに肌は透き通るようだし、あどけなさの残る短い前髪も、わざと隙を残しているみたいで愛らしい。
 その顔から生み出される自信に満ち溢れた笑顔は、女の子を魅了してやまないことも納得できる。
 だが、その鮮やかな笑みでさえも悪魔のように恐ろしく見えるのは、上がりすぎた口角のせいだろう。何を企んでいるのかと警戒し、一歩退くと、背後に控えていた机にお尻をぶつける。その音が弾みになったのか、藤真の明朗な声が教室に響いた。
「一志だろ」
 断定的な藤真の言葉に、私は目を丸くすることしか出来なかった。




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