017

17. しょっぱさは飲み干した


 日も傾いた時間帯、部活帰りの子たちがチラホラと正門を潜り抜けて行く。ソフト部の仲間たちも同じように帰っていくのを見送った後、スライド式の正門の縁に立ち、じっと体育館の方へと目を向けた。
 普段ならそんなことをせずに真っ直ぐに帰るのだけど、今日だけは特別。ニヤつきそうな口元を抑えるために唇に噛み付く。
 今度よろしくと告げた長谷川が続けた言葉は、約束をより明確なものにするためのものだった。
 ――それじゃ金曜日、部活終わった後にでも。
 試験が終わったのが火曜日で、それから3日後というのは絶妙な期間だった。緊張するにも、空想に耽るにも、充分なようまったく足りなかった。だけど長谷川のことをみだりに口にすることで前みたいに変な噂がひとり歩きするのも怖い。
 結果、誰かに相談することも出来ず、無策のままここに立っている。自然と落ちていた肩を意識して持ち上げながらも、足元に視線を落とし、口から小さく溜息を吐き出した。
「聞いたぞ、ーっ」
「わっ」
 唐突に降ってきた声に顔を上げるよりも早く、ガッと肩を組まれる。力強くかつ遠慮のない接触と、耳に馴染んだその声に誰がやってきたのか顔を見なくても分かった。
「痛いって藤真」
 上半身を下げてその腕から逃れ、門の縁から飛び降りながら身体を翻すと、そこには予想通りニヤついた藤真の姿があった。待っていた相手と違ったことに対する微かな落胆と、藤真が来たことでバスケ部が終わったことでもう間もなく長谷川が来るのだという喜びがないまぜになって表情に出る。
「……なにニヤついてんだか。まぁ気持ちはわからねぇでもねぇけどな」
 藤真の言葉に、手のひらで両頬を抑えながら、マッサージするように掻き回す。長谷川が来る前にニヤついた顔を抑える必要があるからこその行動だったが、そんなことで表情が改まることも、跳ね上がった心臓も抑えることも出来る気がしない。
「一志とメシ食いに行くんだって?」
「なんで、それを」
「一志が部活ン時、コソッと言って来たんだよ。今日とメシ食いに行くって」
 藤真の言葉に、思わず目を丸くしてしまう。わざわざ藤真に報告したりするのか。取るに足らないことだから予定を告げただけなのか、それとも――。
「……アイツ結構嬉しそうに見えたぜ」
 もう一つの仮定が頭をチラつくよりも前に告げられた藤真の言葉に一瞬で頬に熱が走った。
 見透かされたような気がして藤真から視線を外す。もしかしたら、ちょっとくらいうれしくて、自慢したいような気になったんじゃないかだなんて、よくも仮定でも頭に浮かべたものだ。
「どうなんだよ」
「な、なにが」
「脈あんじゃねーの?」
「ないよ、そんなもの」
 私と反対に、ニヤついた表情を隠さずに告げた藤真のストレートな言葉を打ち返す。
「だから慢心せず頑張んないとダメなの」
 脈があるとかないだとか。自慢したくなるようなとか、勝手に長谷川の気持ちを決めることは許されない。キッと眉毛を持ち上げて告げると、藤真は面食らったように目を瞬かせ、それから笑った。
 ぼうっとした視線でその笑みを眺めていると、私の視線に気付いた藤真は、その鮮やかとも言える笑みを引っ込め、すぐさま不敵なものへ変化させる
「いいよなぁ、オレも食いに行きてぇよなぁ」
「……藤真は来なくていーよ」
「いや、頼まれたって行かねぇよ。精々お二人様で楽しんでこい」
 お二人様、と強調した藤真の口元が嫌というほどに持ち上がる。見送ってくれることはありがたいけれど、茶化されているのを知って気分がいいものではない。それでもこれから長谷川と一緒に、二人でご飯を食べに行くのだと思い知らされると、簡単に心臓が早くなる。
 照れくささを誤魔化すように、下を向いて後頭部を掻きむしった。
「で、何食いに行くんだよ」
「駅の近くでって考えてるんだけど……ラーメンとかがいいかなぁって」
 ポツリと言葉を零して藤真に向き直ると同時に、更に背後から大きな声が降ってきた。
「今、ラーメンの話が聞こえた!」
 野太いその声に振り返ると、目を輝かせた高野がそこにいた。教室で見た高野のどの顔よりも輝いたその表情に、高野が如何にラーメンが好きかを物語っているようだった。
「したけど……」
「あ、バカ」
 正直に答えると藤真に即座に罵倒される。ムッと口元を引き締めて藤真に視線を転じたが、藤真は私の視線を受け止めること無く、左掌で顔を覆って下を向いていた。
「よっしゃ、も行くか! ラーメン!」
「へ?」
「今から一志と飯食いに行くって話になっててよ」
 長谷川の名前が出たことに首を傾げる。視界が少し変わったことで、高野の後ろから長谷川が駆けてくる姿が目に入った。
「いや……なってない」
 高野の大きな声が聞こえたのか、こちらに辿り着くと同時に長谷川が否定の言葉を吐き捨てた。そんな長谷川の拒絶の言葉を意にも介さない高野は、長谷川の背中を叩きながら「固いこと言うなよ」と笑う。
「だから、高野――」
「オレ、駅前のラーメン屋行ってみたかったんだよー。いいじゃん。一緒に行こうぜ」
「それは、また今度――」
「今なら藤真ももついてくるぞー」
「ハァ?!」
「えぇ!?」
 いつの間にかメンバーに組み込まれていることに藤真も私も驚いて声を上げてしまう。
「いやだ、今日は」
 キッパリとそう告げた長谷川に、高野は目を丸くさせ、長谷川は眉根を寄せて高野を見つめる。不機嫌そうというよりも困惑に近いのかもしれない。
 私との約束があるために、長谷川に高野の誘いを断らせている。長谷川にこんな顔をさせちゃダメだ。無碍に断らせて不和を招く要因にはなりたくない。約束を守るために、長谷川が断ってくれている姿を見れた。それだけで充分だ。
「……いいじゃん、長谷川」
 高野の横を通り過ぎ、長谷川の隣に並ぶ。少し持ち上がっていた眉を下げた長谷川が私を見下ろしてくる。その視線を受け止めながら、手のひらを長谷川の背中に添えた。
「みんなで一緒、行こう」
……」
 私の名前を呼んだ長谷川は、その薄い唇をほんの少しだけ尖らせた。


* * *


 機嫌良さそうにラーメン、ラーメンと歌う高野の背中を少し遠巻きにしながらも追いかける。チラリと横目で視線を持ち上げると、口元を引き締めたまま歩く長谷川の姿が目に入った。その様子に話しかけるのを憚られて、私もまた自然と口籠ってしまう。
 確かに長谷川はあまり饒舌に語ることは少ないけれど、こんな風に黙って歩くことはなかった。いつもこちらを気にかけて、優しくしてくれていたのだと気付くと同時にいたたまれない気持ちが生まれてくる。
 長谷川と高野が喧嘩するくらいなら、と約束を譲ったつもりだったけれど、長谷川に確認もせずに高野を優先するように導いたのは失敗だったかもしれない。これでは一方的に約束を打ち破ってしまったのと一緒だ。
 視線と同時に溜息をひとつ吐き落とす。チラリと背後に視線をやると、不機嫌さを隠しもせずに道路にワザと視線を転じたまま歩く藤真の姿が目に入った。
 気まずさを抱えたままラーメン屋に辿り着くと、部活帰りのうちの生徒が店内を占拠していた。盛況な様子と鼻腔をくすぐるいい匂いに、美味しいラーメンが出てきそうだと期待したのも束の間で、当然、人が多いということは4人で座れる確率も低くなる。
 結果、テーブル席が空いていなくてカウンターなら通せると定員さんに言われてそれに従う選択肢を取ったのだが、2-2に別れる必要があった。隣に立った長谷川に視線を転じると、長谷川もまた私にその細い目を向ける。
 ――せめて、一緒に。
 そう口にしようかと思ったが、言葉を告げることに躊躇してしまう。私の戸惑いを目にした長谷川もまた、開きかけた口を閉ざした。
「よーし、一志奥行こうぜ、奥!!」
「え」
 何の嫌がらせなのかわからないけれど、高野が長谷川の返事も待たずに肩を抱いて連れて行ってしまう。チラリと長谷川の視線がこちらへ戻ったが、困ったように目を細めて、それから視線を脇に逸らされる。絡まないその視線に落胆しか残されなかった。
 手前の席に藤真と並んで座って、それぞれラーメンを注文する。運ばれてきたばかりのお冷を遠慮無くゴクリと一息に飲み干した藤真は、中に入れられていた氷をガリガリと噛み砕く。
「ねぇ藤真」
 藤真の手に残っていたコップを取り上げ水を注いだが、それをすぐさま奪い返される。
「なんで怒ってんの」
「怒んだろ、普通」
 背けていた視線を私に向けた藤真は、怒った顔をして私を睨めつけた。綺麗な顔をしているから迫力がないなんてことは微塵もなく、むしろ目鼻立ちがはっきりしているからこそ、怒りが強く映し出されている。凄まれると体に力が入るのか、自然と首を竦めてしまう。
 カウンターの上に置かれた藤真の手が拳を作っているのが目に入る。殴られたりはしないんだろうけれど、そこには如実に藤真の怒りが滲んでいた。
「っていうかオレにはが怒んねぇのが不思議」
「怒るって……」
 曖昧な言葉だったけれど、先程の高野が来てからの一連の流れを言っているのだろうことは解っていた。怒ったらいいと藤真は言っているけれど、私が高野に怒るって何をどうやってどの権利をもったら怒れるというのか。
 私の方が先に約束したんだから、と先約を主張すればよかったのだろうか。だから高野はお呼びじゃない、と伝えて追い払えば、長谷川が笑ったのか。あまりしっくりこない想像に唇を尖らせる。どちらかと言うと高野よりも、勇気のない自分に対しての怒りの方がストンと胸に落ちつくようだった。
 険悪な私達の間を断ち切るようにラーメンが渡される。ひとまず休戦とばかりに、箸を割って、麺を啜った。無言で食べ続けていたのも束の間で、不意に藤真が口を開く。
「お前さぁ、なにチャンス棒に振ってんの」
「別に……たしかに一緒にご飯食べに行く約束はしたけど、そもそも二人だけで行くって約束じゃなかったもん」
 視線を転じること無く器の中に目を向けたまま、言葉を返す。言い訳がましいその言葉に、藤真がこちらを向いたような気がしたけれど、メンマに噛み付いてその視線を無視した。
「遠慮してんのかよ」
 私の中にある感情を探るようなその言葉に、藤真には誤魔化しの言葉は効かないのだと思い知らされる。
「遠慮とは……ちょっと、違う」
「じゃあ、何」
「なんだろう。これ」
 器の中にある麺が少なくなっている。スープの中に箸を泳がせ、捕まえた少量の麺を口に運んだ。
「多分、まだそこまでの勇気がなかったんだと思う」
 レンゲでスープを掬って、啜る。そのしょっぱさに、お米を食べたい、だなんて考えて、頭の中にチラついている考えをワザと逸らした。
 長谷川と高野が座る席へと視線を向ける。高野が身振り手振り何事かを喋って、それに長谷川が時折肩を揺らして笑うさまが目に入った。それが少しだけ救われるような気がした。
「長谷川とご飯食べに行くって約束して嬉しかったのは本当なんだ」
 一緒に勉強をしようという一方的な私からの提案で終わらなかった。がいいと言ってくれた。あの時、長谷川が私を選んでくれたような気がしたんだ。
「でも、それで何食べに行くかって考えて……高校生らしくって考えたらさ。ファミレスかハンバーガーかラーメンじゃん」
「お前選択肢狭いな」
 まさかそこに食いつかれるとは思っていなくて、おもわず笑ってしまう。そんな私を藤真は目を細めて見つめた。
「他に何があるのさ」
「オレは寿司が食いたい」
「そう……まぁ、お寿司でもいいや」
 投げやりになったわけじゃなく、何でも良かった。
「なんでもいいんだ。何かものを食べる時に、長谷川が正面だとか横にいることを考えたら、ちょっとどうしていいかわかんなくて」
「何って、食えよ」
「や……食うけどさ」
 苦笑しながら藤真の言葉に答える。藤真の言葉の通りに、食べればいいってことは解ってる。
 だけど夜、眠る前に何度も考えた。
 長谷川と一緒にご飯を食べに行く、だなんてシチュエーションを頭に思い浮かべた時に、横になっていてもなお、足が竦むような心地がした。それは試合の前の武者震いと似ていたけれど、改善策が見つけられない分、余計に質が悪い。
 例えばファミレスでハンバーグを食べるとしてフォークとナイフの使い方が成ってないなと思われたくないだとか、ハンバーガー食べて大口上げた姿を長谷川に晒せないだとか。そもそもそれ以前に、食べ物が喉を通るのかどうかも怪しい。
 考えれば考えるほど、今日という日を楽しみにしながらも、反して、本当に大丈夫なのかと不安が背中にピタリとくっついているようだった。
「だからさ、ちょっと今、安心してる」
 スープの表面に浮いたネギを掬い上げ、口元に運ぶ。こういうみみっちい真似もあまりしない方がいいのかもしれないな、とふと思った。
「長谷川の前で豪快にラーメン啜るとか絶対無理だもん」
 行儀が悪いとは解りつつも、他に気を紛らわせる術が解らなくて、レンゲの先に噛み付いた。ビビって逃げたとも言える行動を口にしたことで、先程よりも気分が上向いた。一度チャンスを奪われたことで、次は必ず成し遂げるのだという気になれた。
 帰り道、絶対に長谷川に「今度は二人で」って言う。もし嫌だって言われたらだなんてもう考えない。弱気になって二回もチャンスを逃すわけにはいかない。
 レンゲと割箸を揃えて器に置き、胸にある決意にキュッと口元を結んだ。
、お前……恋してんだなぁ」
 しみじみとそう呟いた藤真の言葉を受け止めきることが出来なくて、頬に生まれた熱を誤魔化すように、丼ぶりを抱えて、ズズッと少し塩辛いスープを飲み込んだ。



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