016

16. ジェラシーには嵌らない


 試験の終わりを告げるチャイムの音が鳴り響くと同時に、手にしていたシャーペンを机の上に投げ出した。どこからともなく漏れる溜息は安堵によるものなのか、諦めによるものなのか。
 何はともあれ、高校に入学しての初めての中間試験が終わった。胸につかえていた徒労を吐き出すように息を吐く。後ろから回ってきた解答用紙に、自分のものを重ねて前の人に渡すと、嫌なことを手放した開放感が溢れだすようだった。腕を伸ばしたまま机に突っ伏すと、自然と口元に笑みが浮かび上がる。
 試験が終われば、部活が出来る。試験期間中は放課後にグラウンドへ入ることが一切出来なかった。自主練くらいならしてもいいだろうかと考えたのだが、教師が見張っている状況ではそれもままならない。藤真も部活禁止期間の初日に教師に見つかりお小言を貰ったとぼやいていたのだから、かなり徹底されているのだろう。
 文武両道というのを求められているのだろうけれど、それでストレスが溜まれば効率が悪いだけなのに。
 ふと、廊下に視線を向けると、安堵以外の感情が浮かび上がってきた。ソフトが出来ることは嬉しい。だけどテスト期間が終わると長谷川と一緒に勉強出来なくなっちゃうのか。
 自然と眉根が寄った。単に寂しいというよりも複雑な感情が胸中を占めていく。初日こそ談笑混じりで行っていた二人だけの勉強も、日を重ねるごとに真面目に勉強の話ばかりするようになった。もちろん、それが主たる目的であるのだから勉強の話しかしないというのは当たり前のことだ。
 だけど、その勉強の為に一緒に居られたというチャンスは試験が終われば当然なくなってしまう。このまま試験を終えて、また何事もなかったかのように、他のクラスのちょっと話すだけの相手に戻ってしまうのだろうか。
 ――少しくらい、仲良くなったのだという実績が見えたらいいのに。
 打率や防御率のようにハッキリと数値化出来ればと求めてしまうのはひとえに恋愛に奥手でいた自分では手応えのようなものを感じ取ることが出来ないからだった。
 世の中のお付き合い中のお嬢さん方が、どうやって彼氏彼女という関係に収まっているのかがサッパリ解らない。確証もないものに向かっていける胆力がすごいな、と他人ごとのように考える。
 小さな溜息を漏らし、前傾になっていた姿勢を正す。軽く握って机の上に放っていたままだった手のひらを開き、そこに視線を落とした。
 掴むことなんて出来ない想いでも、自信をもって長谷川と仲良くなったのだと思える要素が、欲しい。それは別にものがほしいだとか行動で示せたらというものではなく、ただ単に私の中に安堵感という形で残したいだけなのだが、それを実感させてくれるものは何もない。
 これからに繋がるものがあれば、そこに縋れるのだろうか。例えば、次の試験前も一緒に勉強できないかといった約束だとか。思いついた途端、キュッと手のひらを握り込める。
 長谷川がもしも、今回の試験勉強で少しでも私との勉強を役に立ったと思ってくれたのならその約束は出来るのではないだろうか。教え方がまずかったというのなら藤真なり高野なりを頼るかもしれないし、もし逆に私が長谷川と勉強をしたことで苦手だった数学が普段以上に解けたことがバレたら藤真が長谷川を独占しかねない。
 どちらに転んだとしても、早いうちに勝負をかけた方がいいのではないだろうか。小さなきっかけだとしても、口実があるのならそこは逃したくない。
 号令の合図もそぞろに、机の上に放ったままだったペンや消しゴムを片付ける。自分の行動を急かしたところで帰りのホームルームが終わらなければどうにもならないのだけど、早く長谷川に会いたいと思うと居ても立っても居られなかった。
 私ってこんなに抜け目ない性格をしてたっけ。知らない自分が出てきたことに苦笑しながらも、片付け続ける手を緩めることはしなかった。
ー。今日は部活無いんだよね?」
 試験監督の教師が教室を出て行くと同時に、教室後方に座っていたに声を掛けられる。振り返ってを見ると、その周囲の席に座っていた子たちと楽しそうに話している姿が目に入る。
「うん、無いよ!」
 軽く声を張って応えると、もその子たちも口元を緩めて笑う。
「今さ、みんなでファミレスでテストお疲れ会しないかって話出てるんだよね」
ちゃんも一緒に行こうよ」
 口々に誘いの言葉を告げられたことに驚いた。普段は部活があるため放課後にクラスの子と遊びに行くことはなかなか出来ない。教室内で話す友達としては充分仲よくしていたのだから、誘われたことに不自然さはなかったけれど、先程まで考えていたことを実行するのは難しそうだと思うと焦ったような心境が胸に沸き起こる
 チラリと長谷川の姿が頭を過った。だけどせっかくの好意を無碍にするわけにもいかないか。
「いいね、行く」
 簡潔にそう答えると、たちは嬉しそうに笑った。


* * *


 帰りのホームルームも終わり、と私を含めて4人揃って教室を出た。今から行くファミレスはクラスの子が何人かバイトをしているらしく、結構贔屓にしているのだと教えられる。
 ポテト大盛りにしてもらえるんだよ、と嬉々として話すに、言葉で返すよりも先にお腹がぐうと返事をした。それが面白かったのか、たちが顔を崩して笑う。試験からの解放感もあるのか、自然と話す声が弾んだ。
「試験も終わったし次は体育祭だねー」
「準備とか大変だろうね」
「あ、でもパネル見るの楽しみだなぁ」
 ワイワイと体育祭に向けての話を続けながら廊下を歩いていると、当然階段の側にある長谷川のクラスへと差し掛かる。
 チラリと横目で教室のドアについた窓から教室内を覗いてみたけれど、担任が何かを話しているさまが見えた。まだまだ時間がかかりそうだなと思うと同時に、自然と肩が下がる。長く話ができないのであれば、せめて勉強を教えてくれた感謝の言葉くらい伝えられればよかったのに、とひどく残念に思った。
、アンタさ、リレー以外何出るんだっけ」
「え?」
「体育祭。学年男女混合とスウェーデンとあとなんだっけ」
「あとは女子800と玉入れ出るよ」
ちゃん走ってばっかりだね」
「部活生は自然とそうなっちゃうもんね」
 疲れちゃうねぇ、と同情の言葉が繋がれたが、順番が絡む気苦労を除けば走るのは結構好きだから平気だと答える。玉入れだってボールの質は違えど投げるのは得意だし、勉強に比べたら体育祭の方が幾分も楽しめるというものだ。
 自然と口元に笑みを浮かべていると、から水を得た魚のようだねと言われてその笑みを張り付かせた。
「起立、礼」
 短い号令の声が教室内から聞こえてくる。反射的に足を止め振り返ると、ガタガタと教室内から椅子が床を引っ掻く音が響いた。
「あ、1組も終わったんだ」
「みたいだね。1組の子、誰か誘う?」
「誰か居たかなぁ」
 たちの言葉を聞き流しながら、後方のドアに視線を向ける。鞄の紐を握り込め、長谷川が出てくるのでは、と固唾を呑んで待ってしまう。程なくして教室のドアが前方と後方とそれぞれ開き、そこから生徒たちが出てくる。
 中学の時からの友達やソフト部の子にひらひらと手を翳して応じていると、後方のドアに背の高い男子が出てくるさまが視界の端に入り込んできた。
 瞬時に振り返ってみると、そこには長谷川が立っていて、こちらに気付いた素振りも見せずに階段の方へと身体を向ける。もう少し後方側に立っていれば気付いてくれたかもしれないだとか、声くらい掛けれたのではと仮定の考えが頭を掠める。
「はっ……」
 長谷川、と続けるはずだった声が喉の奥で詰まる。反射的に口を閉ざしたのは、長谷川の後から出てきた女子が長谷川に話しかけているさまが目に入ったからだ。
 声にならない呼びかけも伸ばした手も虚しく宙を泳ぐ。
 目を見開いたまま固まっていると、更にその後ろから眉毛の太めのゴツイ体格の人が出てきてこちらを振り返り、バチリと私を視界に収めた。ゴキュっと変な音が喉から出る。すぐに視線を外せばいいのに、にわかに身体が反応出来ないほどに動揺していた。
 今こちらを向いている男の人は、長谷川の隣の席に座っている人だ。
 ここ数日で何度か顔を合わせてはいたのだが、名前を覚えていなかったことと特に言葉を交わしていなかったため手を振ったり会釈したりという行動を取るべきか否か逡巡する。チラチラと考えている間も、長谷川がクラスの女子の言葉に一言二言と返している様子が目に入っていた。
 頬が熱くなる。泣きそうなのか恥ずかしいのか。様々な感情がない混ぜになって浮かび上がってくるようだった。見ていてはいけない気がするのに、視線を引き剥がすことが出来ずに居ると、彼の肘が長谷川の脇腹辺りを突く。
 その仕草に彼を振り返った長谷川は、その彼に視線を合わせるよりも先にこちらへと視線を伸ばした。長谷川の視線がこちらに向くと同時に、普段ならば目が合っただけで弾む気持ちが、反対にしぼんでいくようだった。
 後ろめたいというか。気まずいというか。ジロジロと見られていたなんて誰にとっても気分がいいものではないはずなのに。
 外しかけた視線も長谷川と目が合った状態で逸らせるはずもなく、曖昧に笑んで会釈するべく頭を下げた。それを機に長谷川から目を離そうとたちに向き直ったところで、から長谷川の友達と同じように私の脇腹をつつかれる。
「ナントカ川、見てるよ」
「う……うん」
 自分の前髪を掴みながら、逸らしたばかりの視線を長谷川に戻す。目が合うと、長谷川は微かに口元を緩めてこちらに手を翳してくれた。気を使われたのだと申し訳ないような気になったが、私もまた髪から手を離して手を振って応えると、長谷川はこちらへとその足を向ける。
 手を振って長谷川を促した男子と、呼び止めた女子に一瞥を投げかけた長谷川は頭を揺らして、そしてまたこちらへと歩み寄ってきた。驚いて一歩後退ると、から腰の辺りを叩かれる。
「駅前のファミレス」
「ん」
「先行ってるから、終わったらおいで」
「……うん、ありがとう」
「連れてきてもいいからね」
「連れっ、出来ないっ!」
 ムキになって否定するのと、たちがこの場から離れるのはほぼ同時だった。長谷川と入れ替わるように逃げ出したがこちらに向けて親指を立てて合図を送ってくる。
 歯を剥き出しにして感情を食いしばっていると、私の正面に辿り着いた長谷川は少しだけ身を屈めてこちらの顔を覗き込んでくる。妙な顔をしているのを見られたくなくて、手のひらを長谷川の顔に向けながらも顔を逸らした。
 深く息を吐いて身内に起こった感情を払拭させ、それから長谷川に向き直る。いつもと変わらない真っ直ぐな視線を受けると、当然のように胸の奥に熱が生まれた。
「テスト、お疲れ」
 長谷川の声が耳に馴染むとそこにもまた熱い血が流れ込んでくるようだった。抑え込んだはずの感情が表に出るのを隠しもせず、私もまた長谷川に応えるように笑う。
「長谷川も、おつかれさま」
 うん、と頭を揺らした長谷川は肩にかけていた鞄を背負い直し、階段の方へと足を向けた。その横に並んで歩くのを躊躇わなくてもいいのだと、一緒に勉強していた間は思っていたのだけど、さっきみたいに女子に話しかけられている長谷川を見るとまた迷いが出てしまう。
?」
 足を止めたままだった私を振り返った長谷川に、頭を振ってなんでもないということを示し、その隣に並んだ。先程まで長谷川と一緒にいた二人の前を通り過ぎる瞬間、身体が竦むような気がしたけれど、その感情を飲み下すように喉を鳴らす。
「古文な」
 長谷川の声が耳に入ってくる。顔を上げて長谷川を見上げると、同じように私に視線を向けていた長谷川は口元を淡く緩めた。その柔らかな笑みに、普段なら舞い上がるほどなのに、今は落ち着かない感情が決して薄れはいないことが手に取るように解った。
のお陰で結構解けた」
「う、うん」
 タンタン、と階段を降りる音が響く。今は二人でいるのだと強調するような音だった。
「私も数学解けたよ。自信はそんなに……無いけれど」
「あれだけ練習問題解いたんだ。なら大丈夫だ」
 欲しい言葉を的確に、端的に告げてくれた長谷川に私は思わず口元を緩めてしまう。だが、それ以上に、笑んでなお、ぐじぐじと煮詰まるような感情が頭を過ぎる。
「どうかしたか?」
「や、なんもないよ」
「そうか」
 心配そうにこちらを向いた長谷川に誤魔化すような言葉しか出せない自分が口惜しい。ガシガシと頭を掻いて気を紛らわそうかとしたけれど、重石のように残った感情はしぶとく身内にくすぶり続けている。
 先程から頭をチラついているのは、多分、自信の無さがもたらしているものだ。
 確証がほしいのは、単に仲が良くなりたいだなんてかわいい感情のみではないのだと今更ながらに気付く。さっきまで長谷川と話していた女子が、通りすがりに私に向けた鋭い視線は、多分、その直前まで私が彼女に向けていたものだ。
 嫉妬するような立場にいないくせに、そういう感情は一人前に湧き起こしているだなんて自分で自分が恥ずかしくなる。一緒に帰っただとか勉強しただとか、付き合ってるのだと噂されたのだとか、ちょっとした表面的なものや事実にそぐわないものでその感情に安心するつもりもあぐらをかくことも出来るはずがない。
「ね、長谷川」
「ん」
「試験勉強の面倒見てくれてありがとう」
「それは、お互い様だろ。こちらこそ、ありがとう」
「うん」
 へへ、と後頭部に手をやって照れ笑いを浮かべる。牽制のような言葉で安心できるのなら、と放ってみたけれど一向に自分自身の気持ちが高揚する気がしなかった。鞄の紐に手をやり、縋るように握りこみ、胸にある一つの決心に、キッと眉を上げた。
「あのさ、長谷川」
「どうした?」
 私の声が震えたのを耳聡く聞きつけた長谷川がこちらを振り返る。心配そうに下げられた眉根に口元を微かに持ち上げて応え、それから真っ直ぐにその目を見つめる。
「私、今後の古典の授業も漢文の授業も前よりもっと集中して聞くし、ノートも綺麗に書くよ」
 長谷川の視線が落ちてくる。その細い双眸を射抜くつもりで見ているというのに、私のほうが絡め取られているように感じてしまう。首の裏に熱い熱が生まれているのを誤魔化すように手のひらで覆い隠した。
「だから、長谷川が嫌じゃなかったら――私と一緒にまた、勉強してほしい」
 試験が終わってすぐに、頭に過ぎった願望を長谷川に投げ掛ける。数学の試験がうまく行ったのは本当のことだった。多分、また長谷川と勉強が出来たら成績が伸びるだろうことも予測が出来た。
 欲しいものは成績の評価点なんかじゃない。勉強を一緒にすることで生まれる長谷川との時間が、交流が、欲しい。だけど、試験勉強をするにあたって、長谷川にとって別に私でなくてもいい理由がある。
 ――藤真だ。
 私よりもはるかに頭がいい藤真を頼った方が、長谷川にとってはメリットは大きい。物臭なところもあるけれど、恐らく自分を頼ってくる相手を無碍にすることを藤真はしない。
 さっきの女子だってそうだ。クラスが一緒で、仲良く話していたようだし、その子と勉強した方が楽しかったり捗ったりするのかもしれない。だけど、それでも、私は長谷川に、選ばれたい。
 自然と眉根が寄った。喉元につかえるような感情を飲み込んで、目を丸くした長谷川の言葉を待つ。
「いつになく、真剣だな」
 ポツリと長谷川が言葉を漏らす。聞きようによっては冷やかすようなものに聞こえたのかもしれない。少しだけ困ったような表情を浮かべた長谷川に、思わず唇に噛み付いて視線を逸らした。
 失言だったのか。それとも願い過ぎたのか。出過ぎた発言に、長谷川を困らせたことには変わりない。謝るのも適切ではないような気がして言葉を考えあぐねていると、長谷川が小さく咳払いをする。その声に、ゆっくり振り仰ぐのと、長谷川が言葉を紡ぐのはほぼ同時だった。
「――オレで、いいのか?」
 長谷川のその言葉に、先程の長谷川の言葉がそのまま頭に響く。
 いつになく真剣だ、と長谷川は言った。だからこそ、長谷川もまた同じように応えてくれたのだろう。だが、今の肯定を促すような言葉はどういう意図が含まれているのだろう。もしかして、長谷川もまた確証が欲しいと思ってくれているのだろうか。
 自分に都合のいい考えのあまりの強欲さに口元に揶揄いの笑みが浮かび上がりかけたが、それで長谷川を誤解させる訳にはいかないと自分を叱咤する。背筋を伸ばして長谷川に向き直り、改めて口を開いた。
「長谷川が、いい」
 迷いなく答えると、面食らったように目を瞬かせた長谷川は、それでもゆるりと微笑んだ。選んで欲しいと願ったのは私だったのに、結局、私が長谷川を選びたかっただけなのかもしれない。だけど、それを受け止めてくれた長谷川の優しさが嬉しかった。
 先程まで胸中で渦巻いていた嫌な感情が薄れていくのを感じ取る。安堵の溜息を漏らし、また長谷川に向かって笑いかけると、長谷川が薄く唇を開く。
「よかった。オレもとまた勉強したかったんだ」
 微笑みながら告げた長谷川の言葉に、瞬時に耳に熱が走る。長谷川の優しさに甘えてもぎ取っただけだとも言えるけれど、欲しいと思っていた言葉をそっくりそのまま放たれたことに動揺してしまう。
 単なる社交辞令なのかもしれない。だけどそれでも次に繋がる約束が出来たことには変わりない。
 心を落ち着かせるように鞄の紐を背負い直すように整えていると、1階の下足場まで辿り着いたことを知る。同じクラスの人達や、他の学年の人達もまた各々の靴箱の前に立っているのが目に入り、たちのところに急がないといけないなとぼんやりと考えた。
は帰るのか?」
「ううん、さっきの子たちとご飯食べに行く」
「……そうか」
 逡巡するように目を伏せた長谷川に、去り際のの言葉が脳裏を過ぎった。
 ――連れてきてもいいよ。
 もちろんそれが私をからかうための冗談によるものだとは解っていた。だけど、そういうことを気安く提案できるようになれたらいいのに、と微かに願う。
 苦笑しながらその考えを頭から追い出してやると、少し前を歩いていた長谷川がこちらを振り返る。

「うん」
「今度、オレとも飯食いに行こう」
 唐突なその言葉に、目を丸くしてしまう。どういう提案なのだろうかと頭を動かしてみたものの、一向に答えを導き出すことが出来ない。社交辞令では収まらないその言葉の威力に負けて、肩にかけていた鞄がずり下がった。
 それを慌てて背負い直し、紐を整えながら長谷川を振り仰ぐ。
「わ、私と?」
 吃驚して聞き返すと、長谷川はコクリと頭を縦に揺らした。
と、行きたい」
 長谷川のその言葉に、全身の血液が沸騰したんじゃないかというほどに熱が走った。響く鳴動に手のひらで胸を抑えつけててみたけれど、そこを抑えると今度は耳の後ろが気になり、結果、ワタワタと手のひらを翻して踊るようになってしまう。
 慌てた様子を抑えることも出来ないまま、それでも長谷川に頭を下げる。
「是非、今度、よろしくっ……しゃす!」
 お願いします、と言葉を続けることが出来ないほどに声が掠れた。羞恥に燃える頬を手の甲で擦りながら顔を上げ、長谷川に視線を戻す。慌てふためく私を目に入れてもなお、落ち着き払った長谷川の様子に「敵わないな」と思う。
 だけどそれ以上に、目元を柔和にさせた長谷川の「こちらこそよろしく」というやわらかな言葉に欲しかった安堵感が胸に満ち溢れていくのが嬉しかった。

   



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