行間02

嘘とジャージと保健室#01


 その日は朝から熱っぽく、ブレザーの下にセーターを着込んでもなお肌寒さを感じるほどだった。鼻炎がちな鼻が詰まっているのは慣れているけれど、関節がやけに痛むことや声が妙に掠れることを考えれば、恐らく風邪の症状が出始めてきているのだろう。
 学校を休めるものなら休みたかったのだけど、あいにく今日から期末テスト期間に入るため、それすらままならない。ただ逆に言えば3つのテストさえ乗り切れれば、テスト中は部活も禁止されているし、そのまま家に帰れるのだからある意味不幸中の幸いというやつなのかもしれない。
 くしゃみをして目元が潤む度に、手の甲でぐいっと擦る。瞼が腫れぼったくなった気がするけれど、視界が妨げられるのが嫌で、つい何度もやってしまう。
 つけたマスクの下で小さく溜息を吐き、自分の机の上に腕を投げ出し、顔を伏せる。ひんやりとした感覚が心地よくて薄く目を閉じた。
 普段、朝練に来る時間と同じ時間に家を出たのは、少しでも自主練をしようかと思っての事だったが、体調があまり芳しくないような気がして、おとなしくそれを取りやめた。諦めて足を引きずりながら教室に来てみたものの、誰もまだ来ていない教室で、しんとする中にあっても勉強する気にはなれなくて、とりあえず、と出した教科書の背表紙をじっと見つめるだけの時間を過ごしていた。
 今日のテストは暗記系の科目ばっかりだがちゃんと思い出せるんだろうか。案じてみたものの、そもそも普段からきちんと記憶していないものを絞り出すことは出来るはずがない。
 ――長谷川と一緒に勉強した数学だけはきちんと解けたらいいのに。
 明日の2つ目の試験に思いを馳せていると、額だけではなく頬に熱が生まれてくるように感じた。この熱は、体調不良によるものではない。半ば確信めいた考えは、私だけが答えを知るものだった。
「うっわ」
 短い非難の声と共にガタリ、と後方から音が鳴る。多分、今の音は机か何かにぶつかった音だろうと予測を付ける。まだ7時半を少し回った位の時間のはずだ。登校時間まではまだまだ余裕が有るはずなのにもう誰か来たのだろうか。
 朦朧とする意識の中で、先程の声の主が誰なのか考える。男子だったな、と曖昧に思い浮かべた。
「おい、生きてるか? 
 不審がるような声にあわせて、無遠慮な手が頬に触れる。視線だけを軽く上に向けると、眉根を寄せて引き攣った顔をした藤真がそこにいた。私と視線を合わせた藤真は、先程と寸分違わぬ調子で「うっわ」と呻く。
「ブッサイクだなぁ、
「ひどい……」
 元気ならばもう少し反論の言葉を投げかけたのだろうが、熱にやられているせいかどうにも頭が回らない。言葉をしゃべることさえも億劫で、あまり言葉を知らない子供のような語彙力しか披露できなかった。
「風邪引いたのかよ」
「たぶん」
「熱は……あんまりなさそうだけど」
 隣の席に腰掛けた藤真の左手が私の、右手は藤真自身の額に伸びる。お母さんが子供にするような仕草に、少しだけ目を細める。今、登校して来たばかりらしい藤真の冷えた手のひらは想像していたよりも心地よかった。頭の痛みがかすかに取れた錯覚に後押しされ、のろりとした動作で体を起こす。筋肉痛とは少し違う痛みが背中を駆け巡り、思わず顔を顰めてしまう。
 私から手を離した藤真は、その手を自らの顎の下に持って行き考え込むような表情を浮かべた。なにか答えた方がいいのだろうか。だが、大丈夫だと虚勢を張る元気もない現状で、感じるままに寒いだとかだるいだとか言うことも憚られる。具合の悪さを主張する気にもなれず、スン、と鼻を鳴らす。チラリとこちらを一瞥した藤真に、緩く瞬きをすることで応えた。
「もう来てっかな……ちょっと待ってろ」
 視線を持ち上げ、黒板の上に飾られた時計に目をやった藤真は、ポン、とひとつ私の頭を叩いて教室から出て行ってしまう。藤真の背中を見送り、ずるりと机に伏せる。冬の寒さによって、いい塩梅に冷やされている机が心地いい。自分の体温が移り温くなったら、頭を引きずり次の場所へ移動させる。それを何度か繰り返しているうちに、軽快な足音と共に藤真が戻ってきた。
、これ着ろ」
 差し出されたのは鮮やかな緑色のジャージだった。ウインドブレーカーと似たそれは、学外へ試合に向かうバスケ部員がよく着ているものだった。
「え、これ藤真の?」
「いや、借りてきてやったから」
「……誰から……って、もしかして」
 長谷川のジャージだったりするのだろうか。チラついた考えに、またしても風邪によるものとは別の熱が生まれる。ニッと藤真が笑った。その力強い笑みは、私の頭の中の考えを見抜いた上で浮かべられたもののように感じた。
「永野のだ」
 笑みと同様にやけにはっきりとした声で藤真が一人の名前を告げる。長谷川の名前にかすりもしなかった名称に、にわかに反応を取ることができなかった。
「……誰」
「誰って。永野満」
「や、わかんないって」
「同じバスケ部のやつだよ」
 あっけらかんと言ってのけた藤真に、なけなしの力が肩から抜け落ちる。伏せているというのに更に体が机に沈み込むようだった。肩で息を吐き出し、半目で藤真を見上げる。勝ち誇ったような表情が、今はやけに憎たらしかった。
「同じって……知らない人の借りれないよ」
「あぁ、もう強情なヤツだな。いーだろ風邪引いてんだろお前。オレの善意を無下にするんじゃねーよ」
 いくら善意とは言っても、藤真が人から毟り取ってきたものをホイホイ受け取ることはできない。困惑に眉根を寄せていると痺れを切らしたのか、端正な顔を歪めた藤真に乱雑にジャージを投げつけられる。ファスナーの部分が頬に当たり鈍く痛む。頬を軽く撫で付け痛みを誤魔化しながら、机の端に引っかかったジャージを拾い上げた。
「……どうせなら藤真の貸してよ」
「やだよ。なんでオレのジャージにお前の風邪菌染みこませなきゃなんねーんだよ」
「ひどい」
「いいからこれ一日着てろよ」
 フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた藤真からは、これ以上私からの言葉を聞くつもりはないと態度に滲ませていた。言い諭して聞く藤真ではない。こちらが折れるしか道はないのだ。
 手にしたジャージと藤真とを見比べ、ひとつ、大きく溜息を吐いた。観念してジャージに袖を通すと藤真は満足そうに笑った。
「あ、そーだ。っ」
「う」
「オレがいいって言うまで脱ぐんじゃねーぞ」
「どーして」
「どーしても、だ」
 言い切った藤真は笑う。何かを企んでいるとしか思えない表情だったが、抗う気力は既になく、黙って頷くことしか出来なかった。




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