行間02

嘘とジャージと保健室#02


 試験が終わる鐘が鳴る。握り締めていたシャーペンを指先から解放し、袖口に視線を落とす。制服とは違う鮮やかなグリーンに、目を細めた。試験中にも、借りたジャージのおかげか肌寒さを感じることは無かった。一番後ろの席の子が答案用紙を回収していくのを眺めながら肩の力を抜く。
 なんとか、無事に試験を終えることが出来た。ただし、内容はともかく、という前提は付くのだが。
 退出した教師の背中を見送り、黒板の上の時計を見やる。帰りのホームルームまであと15分ほど残されている。ジャージを貸してくれた人にお礼を言いに行かなきゃな。幾分か回復したこともあり、回らなかった頭が動くようになった今、ようやくその考えに至った。
 借りてきてくれた張本人の藤真の姿を探したが教室内に見つけることは出来なかった。トイレにでも行っているのだろうか。それともどこか別のクラスに遊びに行っているか。
 待っていて帰ってくる確証があるのならいつまでも待つが、時間いっぱいまで藤真が戻ってこない場合、ホームルームの長引き加減によってはほかのクラスの人に会えなないかもしれない。
 教室内を見渡し、改めて藤真がいないことを確認し、重い腰を上げる。誰か男バスの子はいないかな、と視線を巡らせ、一番最初に目に入った高野のもとに足を運ぶ。
「ねぇ、高野」
「ん、どーした? 
 人好きのする笑みを浮かべた高野は試験が終わったことが嬉しいらしくハイタッチを求めるがごとく両手を掲げた。明日も試験なんだけど分かっているのかいないのか。成績に関して私がとやかく言える立場にはないのだが、こちらが心配になるほどの浮かれっぷりだった。
 ゆるりと、高野の手に自分のそれを重ねると、高野はまたニッと笑った。楽しそうな高野の様子にこっちまで表情が緩んでしまう。
「永野君って何組か知ってる?」
「え、永野? たしか1組じゃなかったかな。どーしたんだよ」
「ん、ちょっとね」
 曖昧に言葉を濁すと、高野の笑みが質の違うものに変化する。
「なんだなんだ。アヤシイなぁ」
「そんなんじゃないってば。ちょっと藤真経由で迷惑かけちゃったから」
「なるほど、藤真かぁ」
 意味深な声音で呟いた高野は口の端をニヒルに歪める。高野は私が藤真に気があると勘違いしている節があるので、恐らくまたそういう類いの考えを脳裏に閃かせているのだろう。何度「違う」と否定しても聞き入れてくれなくて若干諦めにも似た境地に辿り着いている。そういうことを勘違いをしているのが現状、高野だけだから特に問題はないのだけど。
「じゃ、ちょっと1組行ってくるね。教えてくれてありがと」
「おぅ、気ぃつけてなー」
 腕を掲げて大きく手を振る高野に、同じように返しながら教室を出た。いつもよりも緩やかな足取りで1組へと向かう。今から私は永野君にお礼を言いに行くのだ。だから余計なことを考えないように、と、思いながらもどうしても頭にチラついてしまう。
 1組といえば、長谷川のクラスだ。顔を見れたらいいなと思う反面、こんなボロボロな顔を見られたくないと相反する気持ちが胸中で綯い交ぜになる。身内に焦燥を抱えながら歩いていると、あっという間に1組に辿り着いてしまう。
 チラリと教室の中を覗いて見たが生憎、同じ中学から来た子やソフト部の子を見つけられなかった。同じバスケ部というのなら長谷川に助けてもらうのがいいのかもしれない。そんな建前を用意してでないと今の状態で長谷川を呼びつけることは憚られる。
 コホン、とマスクの下でひとつ咳をして、長谷川の姿は、と探しかけたところで背後から人の気配を感じ取った。入口を塞いでは邪魔になってしまう。ドアから身体を離し道を譲りかけたが、ひとつの考えが閃いて、教室に入りかけていた男の人を呼び止める。
「あの、すみません」
「え?」
 随分と背の高い彼に恐る恐るながらも呼びかける。黒縁眼鏡の奥にある瞳が私を捉えた途端、心底驚いたように見開かれる。その視線に怯みながらも、呼び止めた目的を果たすために言葉を繋げた。
「あの、永野、満君っていますか?」
「…………永野?」
 たっぷり五秒、黙り込んだ彼が、やはり意外そうな声音で私の言葉を復唱した。名前を間違えてしまったんだろうか。途端に焦りが生まれ、変な汗が背中にこびりつくように湧き出てくる。
「えっと、たしか……バスケ部の、えっと藤真の友達? の人なんだけど」
 言葉を取り繕いながら、持ち得るだけの情報を並び立てる。藤真からもっと話を聞いておくべきだった。もしくは高野についてきてもらうとか、やりようは色々あったはずだ。質問しておきながら撤回することはこの人に対しても失礼だと思うとそれもできない。何か、他に情報はなかっただろうか。永野君に繋がる、何か――。
「あぁ、いや、永野ならいるんだけど……まぁ、いいか」
 ひとりで焦っていると、眼鏡の男子は自らの後頭部の髪を撫でつけながら言葉をポツリと零す。
「呼んでくるから、ここで待ってて」
 彼の言葉に何らかの反応を残す前に、その人は教室の中に入っていってしまう。取り残された私は、え、と戸惑いを胸に抱えるほかなかった。目を数度瞬かせて彼の背中を追うかどうか考えたが、「待って」と言われたのを思い出し、扉の横の窓枠に背中を預けてその場に足を縫い留める。気分が落ち着かなくて、手持ち無沙汰を誤魔化すためにジャージの袖口を反対の手でつまむ。横目で数人が教室を出入りしているのを見送りながら待っていると、背が高く随分厳つい男の人が出てきた。その人は、私と目が合うと硬い表情のまま軽く頭を下げた。私もまた彼に会釈を返し、視線を泳がせながらも彼の表情を盗み見る。
 その人は、何度か顔を合わせたことはあったが、まともに喋ったことのない相手だった。突然呼び出してしまったことに気後れしてしまい、自分の左肘を右手で掴んだ。なんて切り出したらいいのか。いつもの藤真の様子からまともな説明を彼にしてくれたという予想がしがたい。ロクな説明もなしにいいから貸せ、だなんて強い口調で脅し取ったさまなら簡単に思いつくのだが。
 言い淀んでる間に、彼もまた戸惑いながらも先に口を開いた。
「あぁ、さん、だっけ」
「え?」
 突然、名前を言い当てられて驚いてしまう。私の反応に、彼――永野君は大きな手のひらを私に向けて曖昧に笑んだ。
「あ、いやいや。えっと……藤真とよく話してる子だよね」
「えっと、まぁ」
「で、今日はどうしてオレ?」
 心底不思議そうな顔をした永野君は、呼び出された理由が本当にわからないのだとほとほと困った様子だった。確かに、今まで名前さえ知らなかった相手だ。多分、永野君だって私のことを藤真の友人として認識はしていたとしても、まさか自分に絡んでくるとは思っていなかったはずだ。突然の訪問の理由はきちんと説明しなければいけない。まごついて躊躇ってしまった言葉を改めて口にする。
「あの、コレ……借りてて」
 両手を肩の位置まで上げて、ジャージの上着を示す。あぁ、とひとつ納得したように頷いた永野君に安心した。どうやら藤真がジャージを毟り取ってきたのは彼からで間違いないらしい。会話の糸口が上手くハマったことに背中を押され、更に言葉を繋げた。
「ジャージ、ありがとうございました」
「あ、いや」
「それで、その明日洗って返したいから、今日持って返ってもいいですか?」
「えっと……」
 歯切れの悪い様子を見せる永野君に、首を傾げてしまう。じっと彼の様子を眺めていると、何かしらの言葉を言いあぐねていることに気付いた。口ごもり、指先で頬を掻いた彼は気まずそうな表情を浮かべる。はぁ、とひとつ、溜息を吐きこぼした永野君は、眉を下げつつもきっぱりとした口調で言葉を紡いだ。
「これ、オレのじゃないよ」
「え?」
「だって、ほら」
 言って、永野君は自分の肩越しに背中を指で指し示す。背中を見ろ、ということなのだろうか。彼のジェスチャーに従い、首を捻ってみたものの、上手く文字を見ることができない。もどかしさに顔を顰めていると、永野君が「袖、抜いたら見れるんじゃね?」と小さく笑いながら教えてくれた。
 彼の指摘に顔を赤くしつつ、袖から腕を抜き、反対の手で引っ張った。
 ――オレがいいって言うまで脱ぐんじゃねーぞ
 藤真が言っていた意味が漸く解った。目に飛び込んできたのはこのジャージの持ち主の名前。たった今、熱くしたはずの頬が、益々熱を帯びる。左肩から右肩にかけてアーチを描くように書かれていたのは、【HASEGAWA】という文字列だった。いくら英語が苦手な私だって、ローマ字くらいは読める。見間違いようも、勘違いしようもない。このジャージは、永野君のものではない。長谷川の、だ。
「え、でも藤真は永野、君のだって」
「アイツそういう小さい嘘吐くの好きだからなぁ」
 肩を揺らして小さく笑った永野君は、上体を捻って教室の中を覗く。彼の視線を追いかけると、先程、声を掛けた背の高い眼鏡の人と話す長谷川の姿が目に入る。
「おい、一志」
 手招いて長谷川を呼びつける永野君に驚き、慌ててドアに身体を隠す。中途半端に片袖だけ脱いでいたジャージから、反対の腕も抜く。その慌てっぷりが面白かったのか、永野君はまたしても笑っていた。勘弁してください、とも言えず、視線を差し向けることで訴えかけたが、永野君が私の視線の意味に気付いてくれるはがない。結果、呼ばれた長谷川が素直に教室の外まで出てくるのを見上げて待ち構えることになってしまった。
 ドアから出てきたばかりの長谷川は、一瞬、永野君に向けた視線をすぐさま私に落とす。
「え、?」
 驚いた様子で目を丸くした長谷川は、眉根を寄せて永野君へ視線を戻した。いたずらっぽい笑みを浮かべた永野君は、長谷川の肩に手を置いて口を開く。
「朝、藤真が取りに来ただろ。あれ、この子に貸したみたいだぞ」
「え?」
 驚きに目を開いた長谷川の視線が、またひとつ私に落ちてくる。私の顔色と、ジャージとを見比べた長谷川は、目を白黒させて混乱した様子を見せる。
「クラスに風邪引いてる奴いるからって言ってたけど」
「……それ、私」
 ジャージを抱えたまま控えめに手を挙げる私を長谷川が見やる。いつも細い目が微かに見開かれているのを目にし、居た堪れなくなって俯いてしまう。
「ホンットにごめんなさい」
「いや、は何も悪くない」
 口にしないまでも、悪いのは藤真だ、と含んだ口調だった。その言葉にほんの少し安心して、チラリと視線を上げて長谷川の様子を探る。口元をおおきく手のひらで覆った長谷川は、横目で永野君に視線を差し向ける。ポンポンと2回、永野君の手のひらが長谷川の肩の上ではねた。溜息を吐いた長谷川は、既にいつもと同じような表情に戻っていた。いつもの細い目が、私へと向けられる。それだけで簡単に胸の奥が反応してしまう。
「それよりまだ少し熱っぽいんじゃないか?」
「わ」
 長谷川の手が額に触れる。その瞬間、暖かいだとか冷たいだとかの温度が一切分からなくなる。思わず目を瞑る。熱があるというか、熱が出ちゃう。そんなことを言えるはずもなく、ただあたふたと口元をわなつかせることしかできなかった。
「顔も、赤いし…まだ本調子じゃないんだろ」
 心底心配したような声音に、益々恐縮してしまう。ただ純粋に、私のことを心配してくれているだけの長谷川に、ときめいてしまうだなんて、やましい気持ちを抱くのはあまりにも不純に思えた。
「保健室、行くか」
「え」
「額冷やして熱上げた方が早く治る」
「でも、もうテスト終わったから、あとは帰るだけだし」
「だめだ。まだ帰りたくない」
 やんわりと断りを入れた。だが、きっぱりと長谷川が否定する。語弊のある言葉に、私だけでなく、永野君もびっくりした様子で長谷川のことを見つめる。私たちふたりの視線を受けた長谷川が、はた、と何かに気づいたように目を丸くし、そのまま目を伏せた。恥じ入る様子で口元を手の甲で隠した長谷川が、取り繕うように言葉を紡ぐ。
「……そんな熱があるってわかってるのに帰したくない。少しでいいから休んでほしい。帰りはオレが送るから」
 ぎゅっと胸の奥を掴まれたような感覚が走った。口数の少ない長谷川の、真摯な言葉に胸を打たれた。心底、心配されているのだとはっきりと伝えらえた。胸がいっぱい過ぎてあふれそうな想いを抱きとめられない代わりに、長谷川のジャージを抱きしめる。
「……行ってやんなよ。藤真か高野にでもちゃんと担任に言うように伝えてくるからさ」
 苦笑した永野君に促され、私は、うん、とひとつ頭を揺らした。
「それじゃ、行くか」
「あ、うん」
 先行する長谷川の背中を追いかけながら、振り返って永野君へ会釈をする。手のひらをひらりと振って応えてくれた永野君は、宣言通り私のクラスへと足を運ぶべく踵を返して歩き始めた。

「ん?」
 永野君の背中を見送る私に、長谷川の言葉が落ちてくる。振り仰ぎ、長谷川の表情を見つめると微かに眉根を寄せた視線とかちあう。
「それ、寒いだろうから着た方がいい」
「あ、うん。そうだね」
 指し示されたジャージに腕を通そうとした。だが長谷川と一緒にいることに動揺してしまっているのか、すんなりと腕が通らず、途中で引っかかってしまう。腕を振ったり小さくジャンプしたりともたつきながらも、なんとかジャージに袖を通すことができた。ほっと一息つくと、長谷川の視線がいまだ私に降り注がれていることに気付く。どうしたの、と言う代わりに軽く首をかしげてみせると、長谷川は躊躇いがちに口を開いた。
「……ジャージ、永野のだから借りたのか?」
「え?」
「……いや、なんでもない」
 ふいっと視線を外してしまった長谷川は、私に背を向けて保健室への道のりを急ぐ。表情が見えないからこそ、先程の言葉だけが私の中で想像力たくましく育っていく。まるで、嫉妬のような言葉だった、だなんて勘違いしてしまう。
 頭を横に振るうことで考えを払い落とす。自分のとって都合のいいことばかり考えていては、判断を見誤ってしまう。特に今は、風邪による熱でいつもより頭が回らないのだから、過度な期待は御法度だ。
 言葉の裏を探ろうとする自分を胸中で叱りつけ、それでも長谷川の言葉をそのまま捨て置けなくて、訥々となりながらも言葉を紡ぐ。
「実を言うと、藤真に借りた時ね、長谷川のかなってちょっと考えた。でも永野君のだって言われて、その」
 残念だった。それ以外の言葉を見つけることが出来なくて口ごもってしまう。熱に浮かされて、秘めた想いを口走るほど大胆にはなれない。
 振り返ったものの、何も言わない長谷川の細い目を見返す。眼差し一つで想いが届けばいいのに、だなんて無茶な考えが頭をよぎった。
「寒かったし……せっかく借りてきてくれたからさ、着さしてもらったの」
「うん」
 頭を揺らして応えた長谷川は、淡々と階段を下りていく。時折、私を振り返るのはおそらく私を気遣ってのものだろう。その言葉の少なさからは考えられないほど滲み出る優しさが、いつもの長谷川らしくてつい笑ってしまう。
「でね。さっき、長谷川のだって知って、知らずに借りちゃってごめんねって思ったんだけど」
 言葉を途切れさせると、前を歩いていた長谷川が階段の途中で立ち止まった。2段下にいる長谷川の頭が、目の前にある。ゆっくりとこちらを振りかえる長谷川と視線を合わせることに、なにひとつ苦労はなかった。
 目が合うと、ぎゅっと喉の奥に力が入る。入学した頃から変わらないその反応は、それでもこの半年ちょっとの間でだいぶ意味が変わったはずだ。
 好きだと思う相手に悪く思われたくないからこそ、言葉選びは慎重にやってきた。距離感を測りながら、長谷川に負担が掛からないような態度を見せてきた。それでも、たまに、その範囲を飛び出したくなる。今が、ちょうどその気持ちが強いタイミングだった。
「でも、ちょっと嬉しかった」
 ほんとのちょっとだけ勇気を出した。それだけで簡単に頬に熱が集まる。耳や首の裏にも、じわじわと広がるそれを、強く目をつぶってやり過ごす。だが、たったそれだけの動作では感情を誤魔化すことはできない。いたたまれなくて、次に目を開いた時には長谷川から視線を外してしまった。
 立ち止まったままの長谷川の横を抜き去り、階段の踊り場まで駆け下りる。私の後を追うように緩やかな足取りで階段を降り始めた長谷川を、ジャージの前の部分を掴むことで感情をやり過ごしながら振り仰ぐ。
「洗って返したいし、着て帰ってもいい?」
 踊り場にたどり着いた長谷川に、もう一度だけ勇気を振り絞る。余計な感情を交えず言ったつもりだったが、心なしか声が震えた気がした。逸る心臓をひた隠しにするように、元より掴んでいたジャージの前の部分をさらにかき集めた。
 抑揚のない長谷川の瞳が、微かに細められる。
「あぁ、もちろん」
 頭を揺らして答えた長谷川の答えはやっぱり短いものだったけれど、目元よりもより顕著に現れた口元のカーブに本心で言っているのだと推し量ることができた。提案を許されたありがたさよりも、長谷川が向けてくれた笑顔が嬉しかった。



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