進撃002

食堂前


 ほとんどが教官が叫ぶだけで終わった入団式。その後は兵服から普通の服に着替えて、兵法講義や技工術などの座学や、兵站訓練や立体機動装置の実技訓練に関する講習が執り行われた。それらすべてを受け終える頃には陽も大分傾いていて、長い時間を机にしがみついていたのだと気付く。
 これでようやく、長い一日が終わる。あとは食堂で夕食を済ませ、就寝時間までにきちんと寮に戻ればいいだけ、という状況になって初めて、今日一日かけて全身に伸し掛っていた緊張から逃れることができた。
 ジャンと連れ立って食堂へと向かいながら、今日の出来事――主に一番強烈だった教官のことを思い出す。通過儀礼とも言うべき教官の恫喝は、とある数人を除いては、律儀にも入隊したすべての訓練兵に施された。よくもあんなにも他人を否定する言葉を思いつくものだと思わず感心してしまうほど苛烈だった。
 頭ごなしに否定されたことに腹を立てる者もいれば、簡単に打ちひしがれて開拓地へ戻ることを望んだ者もいた。あの程度でへこたれるようでは先々の訓練や、その先の実践には到底耐えられない。早い段階で見切りをつけるという意味では正解なのだろう。頭突きをくらったジャンはといえば、喉元すぎればなんとやら、案外ケロッとしている。
 飄々とした風貌で隣を歩くジャンを横目にしながら、教官から自分自身に向けられた言葉を思い返す。
――誰も守れない、か。
 一番、心に突き刺さる言葉を選ばれた。 首の裏に手をやり、襟足に触れる。首にかかる髪を払い、空気を送り込みながら、生まれてくる熱を逃がした。頭に血が上った、というほどではないものの、やはりいい気分ではない。胸の内に詰まるような重い感情は、屈辱によく似ていた。
「あーぁ…」
 声に出し、身内に留まりつつあった暗い感情を吐き出した。後悔した時などに繰り返す仕草は、意外と効果があるものだと経験から知っていた。重い溜息に、隣を歩くジャンは、私に非難するような一瞥を投げかける。
「なんだよ、。辛気臭ぇな」
「別に、大したことじゃないよ」
「ふーん、そうかよ」
 鼻白むさまを隠しもせずに言葉をこぼしたジャンは、フイっと私から顔を背ける。ジャンの肩がわずかながら遠ざかったことで、先程より足早になったのを感じ取り苦笑する。それはジャンが不機嫌になった時に顕れる兆候だった。
 ジャンの耳を見上げながら、懲りずに教官の言葉を考える。私だってちらっと表に出るくらいには不機嫌になっている。それをそのまま教官に向かってぶつけるがごとく、うるせーハゲ、だなんて暴言を見舞うことは現実的ではない。坊主頭のコニーのように頭を持ち上げられるだけでは済まないことは明白だ。
 内にある信念を否定されたことに反発する訳にはいかないのであれば、私に出来ることは教官の言葉をバネに、これからの訓練に精一杯臨むことだけだ。
 ひとつ、溜息を吐いて気持ちを切り替える。一歩分を先行していたジャンの隣に飛び込んだ。機嫌直してよ、だなんて言葉に出さない代わりにジャンの腕に自分のそれをくるりと絡め、軽く縋ってみせる。
「兵法講義、難しそうだなーって思って」
「お前は頭使うより先に手が出るタイプだからな」
「何よぅ。お前ならできるよ、くらい言えないのー?」
「言えるかっ! 実際すぐ手ェ出すだろうがっ!」
 腕を振るうことで私の手を引き剥がしつつ、遠慮なく憎まれ口を叩いたジャンの背中に真っ直ぐに拳を突き刺した。痛そうに顔を顰めたジャンに「そういうとこだよっ」と睨みつけられ、思わず自分の手を覗き込んでしまう。この手が勝手に動くのよ、だなんてしらばっくれるように首を傾げると、握ったままの拳をジャンに強く叩かれた。
 食堂の前に辿り着き、その正面にある広場へと目をやると、夕食の時間に差し掛かってもなお、罰走を続ける少女の姿があった。
 早々に芋女というあだ名を襲名した彼女――サシャは、入隊式の最中にあろうことか蒸した芋を食べだしたのだ。教官の咎めに対しても美味そうだから盗んだと悪びれもせずに答えた彼女は罰として体力が尽きるまで走ることを科せられた。
 逆に言うとあの時間から5時間経過してもなお体力が尽きていないというのだから、そのポテンシャルは相当なものだと思われる。私なら1時間も走ればもう無理だとその場に倒れ伏す自信があった。
「何見てんだ」
「……あの子、ずっと走ってるね」
 私の視線を追うためか、前傾し私の顔の横に自分の頭を近づけたジャンに一瞥を投げかけ、またサシャへと視線を戻す。
「あぁ、アイツか……あんな場で芋なんか食ってるからだろ。頭の悪い女だ。あぁいうやつが真っ先に開拓地に戻らされるんだろうな」
 私の視線をなぞったジャンは、辛辣な言葉を並びたて彼女を否定する。昔は優しい子だったのに、いつからかジャンは他者への攻撃性を露わにするようになった。
 体が大きくなって、泣かされていた近所のガキ大将に勝った頃からその兆候は姿を現した。まぁ、素直だからこそ思ったことをすべて口に出してしまうとも言えるのだが、あまりいい傾向ではないよなぁ。
「もう、またそんなこと言って。ジャンだって妙な事したらすぐに開拓地送りになるんだからね」
「そんなヘマするかっつの。あとな、入団前にも言ったが、ここではあんまり話しかけんなよ。変な勘ぐりもたれたくねぇ」
 ジャンの右手が私の額に伸び、遠ざけるように押し返された。ジャンに言い返そうかと口を開きかけたが、後続がぞろぞろと列をなしてやってきているのが目に入り、不本意ながらも口を噤んだ。
 こっちに近づいたのもベラベラと喋っていたのもジャンの方なのに、周りに他のひとが集まってきた途端に邪険にされる。幼馴染特有の気安さとは裏腹に、年を重ねてきたことで露呈した男女の隔たりがもどかしい。
 これから同じ訓練生として共に3年を過ごすことはもう決まっているというのに、ジャンは無駄な抵抗を試みる気なんだろうか。ひとつの場所にずっといる状況で全てを無視するなんて出来るはずがないんだから、最初から幼馴染みとしてある程度の交流の基礎があることを知られていた方が楽なのに――。
 小さく溜息を吐き出し、ジャンを見上げる。私が困ったように眉を下げていることに気がついたジャンは、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「ま、開拓地なんて俺には関係ないことだし、どうでもいいわ」
 ジャンは自分が脱落するだなんて微塵も考えていない。特権階級である憲兵団を狙うだけの実力はあると自負しているのだ。こんな風に人のこと見下してるのが教官にバレて「性格に難有り」だなんてくだらない理由で上位者に入れなければいいのに。
「おい、
 呪詛に似た言葉を脳内で並べ立てている私に、ジャンが短く呼びかける。いつの間にか扉の前へと進んでいたジャンは、ドアを引きながら私に呼びかける。
「さっさと入ろうぜ。あんな女を見てても別に面白くねぇや」
 離れろと言う割には、その舌の根も乾かぬうちに着いてこいと口にする。昔からそうだ。女とは遊べないだなんて強がるくせに、私がトーマスらと遊んでいると邪魔をしにくるんだ。この矛盾にジャンは気付いているのだろうか。つっついたらもう二度話しかけるなと言われそうだから指摘しないけれど、少しは改善してくれないと振り回されるこっちが迷惑を被るだけだ。
 小さい頃のジャンはちょっとポチャっとしていたし、ガキ大将にからかわれることも多かったから、捻くれてしまったのも致し方ないのだろう。泣きながら着いてくんなよ、だなんて強がってた頃はまだかわいげがあったのに、今となってはその面影を見つけることは難しい。
、ぼーっとすんな」
「ハイハイ」
「ハイは1回だろ」
「ハーイ」
 わざと間延びした声で返事をした。私の態度を見咎めたジャンは、ドアを支えていない方の手をこちらへと伸ばし、指先で私の額を弾いた。



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