進撃010

食堂


 訓練兵になって3日目の朝。点呼を終えた私たちは、食堂へとすぐさま移動する。訓練が始まる前に朝食を済まさなければいけないからだ。
 朝食の準備が慌ただしく執り行われる中で、当番ではない私たちもまた、自主的にできることを探して用意を進める。手早く終わらせれば、それぞれが好き勝手に席に着いた。
 アニが座った席の向かいにミーナが腰掛けたのを見計らい、私もまた手にしたパンとスープをアニの隣にそっと置いた。ちらりと冷ややかな瞳がこちらへと流される。その視線を正面から受け止め口元をかすかに緩めたが、それに対しアニが何かの反応を返すことはなかった。
 数秒見つめてみたが、状況が変わるはずもなく、諦めてそのままアニの隣に腰掛けた。椅子を引き、目の前の食卓に向き合う。
 点呼を終えたとは言え、まだ陽が昇って間もない頃合だ。座った途端に身体の緊張が解け、いい具合に眠りに誘われそうになる。いけない、と自分を戒めるように頭を横に振るう。
 眠気の残るままにパンとスープを口に運んでいると、ようやく目が冴えてくるようだった。今日は豆のスープだ。ジャンのお母さんが作るものとはまた味付けが違っていたが、これはこれで美味しいな。個人的にはもう少しとろみがある方が好きなんだけど、だなんて感想を抱く。
 パンをちぎりながら口に運んでいると、ふと、隣に座るアニが身動ぎひとつしていないことに気が付く。今日も元気のない様子のアニは、暗い顔をして視線を宙に泳がせたままだ。朝食には一切手がついていないどころか、テーブルの上に手すら出ていない。昨日の朝も、ひどく寝起きの悪い様子を見せたアニを思い返す。どうやら朝はめっぽう弱いらしい。
「アニ。ちょっとくらい食べないとお昼まで辛いよ」
「そうだよ。せめてスープだけでも。案外、口をつけてみたら食べれちゃうかもよ?」
「あぁ……そうだね」
 覇気のない声で応えたアニは、私とミーナの言葉に同意しながらもそれでもテーブルの上に腕を上げることは無かった。心配だがアニに気持ちがない以上、無理強いするのはよくない。
 斜め向かいに座るミーナへ視線を向けると、ちょうどタイミングよくミーナもこちらへと顔を向けた。お互いにこれ以上の進言はやめよう、と言う代わりに頷きあい、改めて自分らの食事と向き合った。
 他の賑やかなテーブルとは違い、会話を続けることを取りやめにした私たちは、ただ黙々とパンをちぎっては口に運び続けた。
「出来ない奴に合わせていたら、俺らの時間を無駄に消費するだけだ」
「無駄だなんて……基礎は大事だろ? 教官だってそう思うからこそ今日も初歩訓練をするわけで……」
 ちょっとした気まずさを感じながら水分が抜けて固くなったパンを噛み潰していると、背中合わせに座っているジャンの声が耳に飛び込んでくる。挑発するような言葉は、名前を出さなくとも誰を指しているのか明白だった。
 肩ごしに背後を伺うと、意地の悪い横顔が目に入る。ジャンの隣に座るマルコが困ったようにジャンを窘めているが、それを聞き入れるようなジャンではない。
「甘いんだよ、お前も教官も。あんな無様な真似をしたやつの改善が見込めるはずもないだろ。失敗の程度が規格外過ぎて見せしめにもなりゃしねぇ」
「おい。お前、さっきから聞こえてんだよ。言いたいことがあるなら直接言いに来いよ」
 怒りが滲む声を辿ると、ミカサの隣に座ったエレンが鋭い視線をこちらに向けていることに気付く。ジャンのことを睨んでいるのは間違いないのだろうけれど、背後に居る私までも怒りの対象なのではと疑ってしまうほどの眼力だった。
 エレンの手の中に握り込められたパンは、無残にもその形を歪なものへと変貌させられている。意地悪を言い続けていたら、ジャンもあんな風になるんじゃないだろうかと、ありえない空想に思わず首を竦めた。
「なんだよ、エレン。別に俺はお前のことを言ってるわけじゃないんだぜ? まぁ、身に覚えがあるのならとっとと開拓地にでも戻って土地を均して俺らに食糧を提供してもらいたいもんだがな」
「……お前の方こそ、巨人から逃げる話ばかりしやがって。尻尾巻いて逃げ延びた先で人参でも食ってろ馬面野郎」
「……ハッ。そうだな、お前は巨人に立ち向かおうとするほどに勇敢だ。そのまま奴らの目の前で逆さまになってみせろよ。きっと見たこともない曲芸に拍手してもらえるぜ」
 数秒の間があった。互いに睨み合った後、ガタ、と椅子が床を擦る音が食堂内に響いた。それは身近であったひとつだけではなく、少し離れたところからも聞こえてきた。スプーンを咥えながらテーブルへと戻していた視線を再度背後に流すと、テーブルの間で互いの襟首を掴みあったジャンとエレンの姿が目に飛び込んできた。
「うるせぇ、このクズ野郎がっ!!」
「ひがんでんじゃねぇぞ、能無し野郎!」
 大声で騒ぎ出した二人を、食堂内の誰もが目を見張って注視する。突然うまれた喧騒に動けないでいる中で、エレンとジャンはとうとう殴り合いを始めてしまった。ボディばかりを攻める派手な喧嘩を始めたふたりには誰も近づけない。固唾を飲んで皆が見守る中で、ただひとり、ミカサだけが立ち上がる。
「エレン、これ以上はいけない」
 静かな声と共にふたりに近付いたミカサは、ジャンの攻撃の合間を縫ってエレンの肩を掴み、自分の方へと引き寄せる。さすがのジャンもミカサの出現には驚いたらしい。振り上げた拳を下ろせないままに固まっている。だが、不意に沸き起こった静寂に、エレンだけは抵抗を続けた。
「うるせぇなっ! いつも止めるなって言ってんだろっ!」
「ッ!! ……おいおいおい。エレンよぉ。お前、いつもミカサに守られてのんか? …あぁ、畜生、クソッタレだなぁ!」
「なんだとこの馬面野郎っ!!」
 一旦は静まりかけたジャンの怒りも、エレンの発言で火がついてしまったようだ。ミカサとの仲を羨んだジャンは、2対1になったことでその怒りを益々顕著にさせた。いや、ジャンの場合はミカサが参戦したことの方が問題か。
 こうなってしまっては、ジャンが自分の意志で喧嘩を辞めることはない。教官が来る前に止めてあげなければ、まとめて説教されてしまうはずだ。もしかしたらこの諍いを誰も止めなかったことに対して、この場にいる者たち全員が連帯責任を強いられてしまう可能性だってある。
 眉を下げて手にしたパンを口の中に放り込む。最後のひとかけらを飲み下し、重い腰をあげた。
「もー、やめなさいよ」
 3人に近寄りながら呆れたように後ろ頭を掻いた。口にしたのはいつもの決まり文句だった。ジャンの喧嘩を仲裁することには慣れている。一度怒ってしまうと引っ込みがつかなくなるのはわかりきっているのに、事あるごとに怒りを露にするジャンは、昔からなんら変わっていないのだ。もっとも、近所のガキ大将なんかは仲裁する私に対して「うるせーブス」だなんて言うもんだから、私の方がヒートアップしてしまうことも少なくなかったのだが。
 チラリと視線を流し、エレンを一瞥する。ミカサに押さえ込まれているエレンは、気心の知れたミカサはともかく、止めに来た人をなじるようなタイプではなさそうに見えた。
「なんだよ、。止めんなよ」
「はいはい。もう充分喧嘩したでしょ。ごめんね? エレン、うちのジャンボが」
 ジャンとエレンとの間に割って入り、ジャンの胸に手のひらを押し付けて引き剥がす。わざと幼いころの呼び名を出すことで、ジャンの怒りの矛先を自分に差し向けるよう誘導した。
……お前その呼び方やめろつってんだろ」
「なによ、呼ばれたくなかったらもう少し大人になりなさいよ」
 読み通りエレンから私へと視線を移したジャンに、ニッと笑いかける。私の反応が想定外だったのか、面食らったように目を瞬かせたジャンだったが、バツの悪い表情で私から視線を外した。
 大方、私の目論見通りに動いてしまったことに気付き、馬鹿らしくなったのだろう。落ち着きを取り戻しつつあるジャンの腰に手を回し、いたわるように2回叩いた。うざったそうに手を振り払われたが、その表情から見るに、少しは怒りが弱まっているようだ。このままうまく宥めることができれば、今回の喧嘩は終着に向かうだろう。
「なんだよ、ジャン。お前の方こそに子守されてんじゃねぇかよ」
「なんだと……っ?! てめぇ、もう一回言ってみろっ!」
 エレンの見下すような発言にカッと顔を赤くさせたジャンは、私の腕から離れていってしまう。途端に手持ち無沙汰になった手のひらで、あちゃ、と額を覆った。
 昨日の喧嘩も今日の喧嘩も、いずれもジャンの方からエレンに仕掛けたものだった。だからこそジャンを宥めればどうにかなると思っていたのだが、エレンの方がジャンを挑発するのは想定外だった。意外と血気盛んなタイプだったらしい。読み違えてしまったことに内心で残念がっていると、エレンの襟首を掴んだジャンが私を振り返る。
「おい、っ! お前もエレンとお別れの挨拶をしておいた方がいいぜ? コイツは今日でめでたく開拓地送りになるんだからなァ!」
「そんなの、やってみねぇとわかんねぇだろっ!」
 怒鳴り合いだけでは収まる気のしないふたりの様子に小さく溜息を吐く。またしても取っ組み合いを始めようとするふたりの間に割って入ると、私と同時に動いた影があった。振り返るよりも早く、ミカサの体温を背に感じる。
ー。もう私たち先に行くねー」
 少し離れた場所からミーナの声が届いた。声のした方へ視線を巡らせると、入口近くに立つミーナとアニが揃って呆れたような表情でこちらを見ていた。
「あ、うん。ごめんねー!」
「お前は先にいけよ」
 ふたりに声を掛けるために首を伸ばしていると、ジャンが私の頭を軽く叩く。後頭部を抑えながらわざと目を細めてジャンを睨めつけた。
「ジャンが大人しくなってからね!」
「……エレンも大人しくして」
 どうやら背後でも同じようなやり取りがあったらしい。いがみ合うふたりを抑え、私とミカサは同じようなセリフをそれぞれの相手に突きつけた。
 肩越しにミカサを振り返る。私と同時にミカサもこちらを振り返ったのか、広がった黒髪がふわりと降りていく様を目の当たりにする。至近距離で、濡れたような黒い瞳と視線が重なった。艶のある瞳が、柔和に細められる。ミカサが笑ったのだと感じ取れたのはその動きのみであったが、途端に胸の奥に暖かなものが流れ込んでくる。
 エレンを止めることに対し、手際の良さを感じさせるミカサは、もしかしたらジャンにそうする私と同じように喧嘩するエレンをいつも窘めてきたのかもしれない。想像よりも妄想に近い考えを膨らませ、一方的なシンパシーを胸の内に募らせる。
 いまだにエレンに向けて手を伸ばそうとするジャンの手のひらを捕まえる。指と指の間に自分のものを滑り込ませ、ぎゅっと握りこんだ。
 ふと、背後を確かめると、ミカサも似たような状態でエレンを引き止めていることに気付く。先程の空想を目の当たりにして、なんだか無性におかしくて、つい笑ってしまった。



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