進撃013

訓練場への道③


 腕を振り、駆けていく先に、風に靡く黒髪を見つけた。凛としたその背中は、颯爽と迷いなく歩く姿とあいまって、より一層、彼女の気高さを際立たせる。もしここに、ジャンがいたのなら、きっと二度目の恋に落ちていたことだろう。女の私でも見とれてしまうほど、ミカサの後ろ姿はキレイだった。
 高嶺の花を思わせる姿に、近寄りがたさを感じる。だが、そんな気後れを感じて交流を諦めてしまう方がもったいない。
「ミカサっ!!」
 口元に立てた手のひらを添えて声をかける。呼びかけに反応したミカサは歩きを止め、こちらを振り返った。
 黒目がちの瞳は、こちらに差し向けられたところでなにひとつ変化しない。歓迎されてないことは薄々感じ取ってはいたものの、あえてそこには目をつぶり、ミカサの隣に並ぶ。先程と同じ歩幅で歩き始めたミカサに合わせるように、いつもよりも足を速く動かす。
「追いついちゃったね。エレンは一緒じゃないの?」
「エレンならさっき、ジャンが後ろから来て追い抜いて行って……それに負けじと走って行ってしまった」
「あー……なんか、想像できるかも」
 今朝の喧嘩は、ふたりにとっては中途半端に終えたものだった感は否めない。やりきる前に、私たちが止めてしまったからだ。次なる戦いは、どちらが先に訓練場までたどり着くか勝負、といったところだろうか。無駄にジャンが挑発するさまも、その挑発に簡単に乗ってしまうエレンの様子も、ありありと目に浮かぶようだった。
 ふふっと小さく笑うと、ミカサの視線がこちらへと向けられる。抑揚のない瞳からは私に対する好悪が判別しづらい。だが、だからと言って踏み込まないという選択肢は私にはなかった。「ね、ミカサ」
「なに?」
「えっと……そうだ。昨夜つい逃げちゃったんだけど……ごめんね?」
「なんのこと?」
 会話の取っ掛りに、と昨夜のことを引き合いに出す。だが、唐突に切り出した私の言葉を測りかねたのか、目を瞬かせたミカサは不思議そうに頭を傾けるだけだった。
「その、エレンに触っちゃって?」
「……エレンが拒絶しなかったのなら、が私に謝る必要は無い」
 恐る恐るながらも、直球をひとつ投げ込んでみた。だが、その言葉はミカサによって軽く流されてしまう。取り付く島もない態度に、唇を引き締める。拒絶されているというほどではないのだろうが、歓迎されてもいないことを知るにはそれで十分だった。
 冴えない表情を浮かべつつ内心で、どうしたもんか、と考える。ミカサと仲良くなりたいのに、出鼻をくじかれた感は否めない。
 冴えない表情が自然と浮かぶ。下がりきった眉を見られるのは、よくないことだとは思うものの打ちのめされたような心境はそう簡単には隠せそうになかった。
 唇を右に左にと動かしながら表情を誤魔化していると、不意に、前を真っ直ぐに見つめていたはずのミカサが視線を落とした。足元になにかあったのだろうかと視線を追ったが、取り立てて何かある様子は見られない。そのまま黙って歩き続けるミカサが、俯いたのだと気づくのにはそう時間はかからなかった。
 顔を伏せたミカサの横顔を見やる。艷やかな髪の毛に隠されているせいか、その横顔には陰鬱とした影が色濃く映し出されていた。
 落ち込んでいるんだろうか。ミカサの内心を図るように、じっと視線を差し向ける。見つめれば見つめるほど、歩く度に揺れる細く柔らかそうな黒髪に、触れたいような心境が高まっていく。
――ミカサの心境を探っていたはずなのに、何を考えているんだ私は。
 ふるふると頭を横に振ることで雑念を振り払う。小さく息を吐き、改めてミカサの様子を伺う。昨日の迫力が見る影もない状態の彼女は、今、何に心を痛めているんだろうか。
 落ち込むきっかけとなったのは、おそらくエレンの名前を引き合いに出してからだ。ミカサの言葉を今日中で反芻し、エレンが拒絶しなかったことが問題なんだろうかと見当をつける。
 もしかしたら、私が逃げ出したあとに、エレンからなにか言われてしまったのだろうか。ゆうべのふたりの様子を思い返し、紡がれたであろう会話を想像する。邪魔をするなときっぱりとミカサに言ってのけたエレンが、ミカサに普段どういう態度を取っているのか、を。
 直接ミカサに聞いてしまえば早いというのはわかっている。だが、もしもエレンのことを気にかけているのだと誤解されたら、という懸念がある以上、簡単には聞くことはできなかった。ミカサにとってエレンが特別である、というのは、少ない交流の中でも一目瞭然だったからだ。
 ふたりが幼馴染以上の関係なのかはわからない。だが、私がジャンに対して干渉しすぎた時に、「オレに構うな」と怒られた経験は幾度となくある。その記憶と経験則がもたらした答えは、ミカサはエレンに怒られたのだ、というものだった。
 あのタイミングで逃げ出さない方がミカサのためだったのかもしれない、という考えが今になって沸き起こった。ゆうべは自分が逃げることに必死で思い至らなかったが、気持ちに余裕ができれば、見えてくるものもある。私から立体機動装置についてのコツを聞けなかったことで、エレンがミカサに八つ当たりした可能性も捨てきれない。別れ際のエレンの様子を思い返し、悪い方向へと考えを巡らせる。ミカサの落ち込みようを見れば、あながち外れではないのでは、という懸念が私の頭の中で渦巻いた。
 次に同じようなシチュエーションになった時は、ちゃんとその場で弁明しよう。今度はミカサに信じてもらえるように。もうひとつ、気をつけるべきことがある。ミカサの目の届かない場所で、不用意にエレンに近付かないことだ。気安い態度を取りすぎるのは私の悪い癖だとジャンに怒られたことを、そろそろ経験として活かさなくちゃ。
 うん、と誰に応えるわけでもなく頭をひとつ揺らし、自分自身の心に誓いを立てる。気持ちも新たにミカサへと向き直る。考え込んでいた私を、いつの間にか見守っていたらしいミカサが不思議そうな顔で見つめていた。
 葛藤を見つめられていたのかと思うと、体の奥が周知で熱くなるようだった。だが、あえてそれを無視して改めてミカサに笑いかける。
「ね、ミカサ。ちょっとさ、野暮なことを聞いてもいい?」
「……構わない。けど答えるかどうかはまた別」
「ふふ。ねぇ、ミカサってさ。エレンとはどうなの? 付き合ってるの?」
「エレンは、家族」
 緩む頬を隠しもせずに質問を投げかけた私を一瞥したミカサは、あくまでシラを切るつもりらしい。しれっとした態度を貫くミカサは、私の言葉を切り捨て、ふいっと視線を外す。
 道の脇に視線を投げてしまったミカサの表情は見えなくなってしまった。だが、靡く髪の隙間からわずかに覗く耳元が赤く染まっていることを見逃す私ではない。
 クールに見えるのに、その表情の下に思わぬ熱を見つけてしまい、微笑ましいような気持ちが生まれてくる。付き合ってはないのかもしれない。だけど、好きなんだろうな。ゆうべは疑問に思う程度の仮定が、確信へと遷り変るのを感じながらミカサの横顔を眺める。
「じゃあさ、好きなの?」
「――ッ!!」
 更なる追求の言葉に、ミカサの頬は更に色濃くなった。髪が乱れることも厭わず、勢いよく私を振り返ったミカサは、口元を真っ直ぐに引き締めて強い視線を投げかけてくる。あまり恋バナに縁がなかったのだろう。慣れてないのだとありありと態度に表すミカサは、戸惑うような表情を浮かべている。さっきまでの冷静さを感じさせる表情は、どこかに行ってしまったようだ。いじらしい態度を見せるミカサに、こっちまで照れてしまうようだった。
 ジャンはミカサのことを好きになったみたいだったから、本当なら付き合いの長いジャンを応援するべきなのかもしれない。だが、天秤にかけたのは一瞬で、天秤の対になる受け皿にミカサが飛び込んできた瞬間に、ジャンへの配慮が何処か遠くへ飛んでいってしまう。
「んふふー」
「なにを笑っているの、
「なーんか、ミカサがかわいくって」
「……ますますわからないのだけど」
 嘆かわしいと言いたげな表情で呻いたミカサは、私から視線を外し、首元の赤いマフラーに手を添える。困惑を絵に描いたような表情のミカサは、颯爽と歩くスピードをほんの少しだけ緩めた。それだけで、いつもより駆け足で歩いていた歩幅がぐんと楽になる。
 この歩調の変化が、私の追求に疲れたからでなければいいのにな、と思う。例えば、ほんのちょっとだけ、私に心を開いてくれたからこそ歩み寄ってくれた、とか。そういう優しい理由がいい。
 緩む口元を隠しもせずにミカサに笑いかけると、ミカサは私に一瞥を投げかけ、真一文字に結んだ口元をマフラーの中に隠してしまう。
「ごめんね、ミカサ」
 改めて謝ると、ミカサが目を細めて私を見つめた。
「だから、が謝る必要はない。それとも、あれ以上にやましいことでもしたの?」
「それは無いよー。でもミカサはいやだったんでしょ?」
 半ば確信めいた言葉を投げかけてみせると、ミカサは黙り込んでしまった。じろりと私を睨んだミカサは、反論すべきかどうか悩んでいるように見えた。鋭い視線を、目を瞬かせながらも受け止め続けたが、その視線はやはりミカサの方から外されてしまう。
 沈黙は是、というつもりだろうか。余計なことを言わないと決め込んでしまったらしいミカサが、私にこれ以上何かを教えてくれることはないのだろう。そういうのは追々、仲良くなってからってところかな。
 あまりしつこくしすぎても嫌われてしまうかもしれない。これ以上、エレンについて言及するのは一旦、やめにしなければ。ただひとつ、絶対に伝えなければと思っていたことだけ、差し出しておこう。
「ね、ミカサ」
「……なに?」
「ミカサが不安になるようなことは絶対にしないから安心してね」
 歩みと合わせて揺れる手を取り、そのまま甘えるようにミカサの肩に頭を傾ける。子猫が母猫にそうするように、頭をすり寄せると、ミカサが戸惑うように呻いた。
……」
「なぁに?」
「……少し、暑い」
 苦々しく歪めた表情を隠しもしないミカサは、率直な言葉を私にぶつけてくる。だが手を振り払われることはなく、むしろ軽くではあるが握り返された。
 目を丸くして見上げれば、相変わらず不愉快そうな表情を浮かべているさまが目に入る。怒られているのか許されているのか。非常に判別つけがたいが、拒絶はされていないことだけはわかった。
 そのことに安堵して、ミカサから視線を外し、進路方向に目を向ける。黙ったまま歩いていると、私の指先に応えるように、そっとミカサが自分の指を絡めてきたのを感じた。
 あまりのいじらしさに、キュンときてしまう。衝動のままに抱きつけばきっと振り払われることは必然だ。私に出来ることはただ、耐えること。突き動かされる衝動を抑えつけるために、反対の手を拳に変えて、ミカサにニッと笑いかけた。



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