進撃016

寮へ戻る道①


 エレンの補講の後、当初の予定通り崖を登る訓練が行われた。だが、それは昨日の実技とは比べ物にならないほどに過酷なものとなった。予め上の方に巻いてあるロープを掴んで崖を登るならともかく、自分の手で岩肌を掴んで登るなんて経験がないどころかやろうと考えたことすらない。同じ全身を使う運動ならば、平地を走る方が幾分もマシだ。きっとそのように感じた者は私だけではないだろう。
 ほとんどの人が音をあげる中で、ミカサやアニといった一部の子らは卒なく崖を登りきっていた。ふたりの筋力がすごいという噂を聞いてはいたが、どうやら真実だったようだ。
 ミーナと共に隣を歩くアニを一瞥すると、私の視線に気付いたアニが訝しむようにこちらを見上げる。
「……なに?」
 短い質問に添えられた鋭い視線に怯んでしまう。気圧されて思わず歩みを止めてしまいそうになったが、せっかくアニの方から話しかけてくれたのにそれを無視する、という選択肢を取れるはずがない。
「や、アニがさ。さっき崖の上まで登りきってたから……コツとか鍛え方とかあるなら教えて欲しいなーなんて」
「あ、それ私も知りたい。なにかいい方法ないかな、アニ」
「揃いも揃って……か弱い女の子に、そういうことを聞くもんじゃないよ」
 私とミーナの追求の言葉が気に障ったらしい。アニは顰めた顔をふいっと背けてしまう。後ろ髪を揺らし歩調を早めたアニの反応に、ミーナと視線を合わせる。言葉には出さず口元を引き締めて互いを見つめ合うことで、まずいことをした、という気持ちを共有する。
 アニの場合、下手に宥めることも逆効果になるだろう。簡単に謝罪の言葉を投げかけることもできず、ふたりで口を閉ざしてアニの背中を追いかけた。改めて隣に並び、じっとアニの様子を見つめる。
 小さな体に秘められた力は、どこに隠されているんだろう。アニくらい小柄なら、私でも抱きかかえられそうなのに、筋力は私よりも段違いで上なんだと思うと不思議でならなかった。
「なんだい、? まだ何かある?」
「ううん、何もないよ!」
 思っていることをそのまま伝えるとまたアニを怒らせてしまいそうだ。防衛本能が働き、慌てて否定する。曖昧な笑みを浮かべた私に疑いの眼差しを向けたアニだったが、数秒の視線の交差を残し、また道行く先へと視線を伸ばした。
 誤魔化しがうまくいったと安堵の息を吐く。だが、それも一瞬のもので、私やミーナの前に立ち塞がる課題が頭をチラつけばその息は焦燥の溜息へと遷り変る。アニが教えてくれないとなると、どうにか自分で打開策を考えなければこのままでは及第点がもらえる気がしない。
 決められた時間の中で、私もまた大多数のひとたちと同じく崖を登りきることはできなかった。頂はもとより中腹までも到達できなかったことで、自分がこの訓練兵の中で平均なのだと知るにはそれで十分だった。ハッキリとした悔しさが胸の内にあるわけではないが、もう少し上まで登れたらいいのに、という願望だけが胸に残る。自分の力で登れたら、頂上からの景色もきっと普段以上に綺麗に見えるんだろう。
 直面する問題から逃げるようにのんきなことを考えながら、指先で手のひらに触れると鈍い痛みが走った。顔を顰めて手指を確認すると、指先に細かな擦り傷が刻まれていた。思ったよりも多い傷に、更に表情を歪める。
 親指の腹で他の指の先に触れると、薄く滲んだ血が付着する。ちゃんと鍛えないと、あっという間に指先の皮が破れてしまいそうだ。爪の中に入り込んだ砂を掻き出しながら、気を付けないと、と気を引き締める。
 だが、鍛えるといっても何をすればいいのか。指を鍛えようだなんて考えたこともないから想像がつかない。腕立てとかでいいんだろうか。
――今夜、就寝時間の前に同室のみんなに相談してみようかな。
 脳裏に浮かび上がった考えに、うん、とひとつ頷いた。考えに行き詰まってしまったとき、相談できる相手が身近にいるのは心強い。もし解決できなかったら、食事の時にでもジャンたちの考えを聞いてみるのもひとつの手だ。解決策なんて微塵も思いついていないのに、にわかに展望が開けたように感じる。
 身内にあった不安が薄れると同時に、ふと別のことが頭の中を占拠する。
――そう言えば、ジャンはどこにいるんだろう。
 思い返すと気になってしまう。キョロキョロと周囲を見渡し始めた私を、一緒に歩いていたミーナとアニが不思議そうに振り返る。
「なにやってんの、
「んー、ジャンどこかなって」
「あぁ。ジャンだったら確かマルコと一緒にいたはず……あ、ホラ、あっち」
 ジャンの位置を知るらしいミーナが後方を振り返る。その視線を追えば簡単にジャンの姿が目に入る。少し離れた位置でマルコと歩くジャンは、リラックスした表情で談笑をしていた。それを目にした途端、ふらりと、足がジャンの方へと向く。
「ちょっと……ジャンと話してくる」
「はーい。先に行ってるね」
 私が突然ジャンのところに行くことに慣れているミーナは、さらりとした態度で、いつものように受け流す。一緒にいたアニはちらりと私の動向探るような表情を見せたが、特に何かを言うことはなかった。
「また後でねっ」
 アニとミーナそれぞれに向かって手を振って、ジャンのいる方向へと駆け出した。結構な大人数を掻き分けていると、人の間からジャンの姿が見え隠れする。機嫌よさそうに笑うジャンは、マルコに対して何らかの熱弁を奮っているようだった。あんな風に、ただ楽しくしゃべっているだけなら、私がジャンの動向を気にかけなくてもいいのにな。
 それだけでは終わらないことがハッキリとわかっているからこそ、釘を刺さなければいけない。昨夜、エレンに対してジャンが失礼な言葉を発したことを知ってしまった以上、黙って見過ごすことは出来なかった。
、どこに行くの?」
 みんなとは違う方向に進み始めた私を咎める声が耳に入った。低く戸惑うような声は聞き覚えがあった。振り返れば予測を立てた通り、困惑したような表情を浮かべたベルトルトと視線がかちあう。
「次は座学の時間だからこっちだよ」
 おいでよ、ということなんだろうか。軽く手を伸ばして私に呼びかけるベルトルトは、私に向けてハッキリとした視線を向ける。その誘いを断ることは少しだけ胸が痛んだが、頭を横に振って自分の意思を伝える。
「うん、ちゃんと行くよー。でもその前にちょっとジャンに説教を」
 遊びに行く、だなんて言う時と同じ雰囲気で告げた物騒な言葉に、ベルトルトは目を丸くして口元を引き締める。その反応に、ベルトルトを怖がらせてしまった可能性が脳裏にチラつく。
 私とジャンにとっては、お互いが相手に対して説教をするということは日常茶飯事だ。だが、ほかの人にとって説教したりされたりということが恒常的に行われるものではないというのも薄々とは感じていた。ミーナやトーマスといった以前からの友人らとの間では、そういったことが一切起きたことがないのが証明だ。
「なに、ジャン今から説教されんのー?」
……笑いごとじゃないだろ」
 ケラケラと笑うをベルトルトが窘める。私が怒っているということに重きを置いたらしいベルトルトは心配そうに眉を下げた。
 別にたいしたことないんだよ。そういう代わりに、口角を上げ肩を竦めてみせると、ほんの少しだけベルトルトは表情を解いた。
「そっか。じゃあまた……講義室で」
「ほどほどにな」
 一緒にいた金髪の男の子にもまた笑い返し、小さく手を振ってその場を立ち去った。踵を返した私を、同期たちは不思議そうな顔をして見送る。ただその視線は、ジャンが近付けば”なるほど”といったしたり顔に変わるのだった。
 人の間をくぐり抜け、ようやくジャンの近くまでたどり着いた。口が動くよりも先に反射的に手が伸びる。気付いたときにはジャンの腰巻を引っ掴んで引き止めていた。
「おい! なにすんだっ! ……って、なんだ、かよ……」
 一度は私を睨みつけたジャンだったが、私の姿を目に入れた途端に、その視線をほんの少しだけ和らげる。それは許しや親愛による変化ではなく、慣れによる諦めや呆れが混じったものだった。
「ジャン、ちょっとこっちきて」
「ハァ? なんでわざわざ」
「いいから。話があるの」
 有無を言わせぬ私の物言いに唇を尖らせたジャンは、隣にいたマルコに一瞥を投げかける。このバカを止めてくれ、とありありと描かれた視線を受け止めたマルコはクスッと小さく笑った。
「行ってきなよ。席なら確保しておくから」
「ありがと、マルコ」
 マルコの申し出に笑んで応えると、ジャンの拳が私の頭上に落ちてきた。威力自体は大したことなかったけれど、殴られたという行為に腹が立たないわけではない。反射的にジャンを睨みつけると、ジャンもまた私に対して咎めるべき点がたくさんあると言った顔で私を睨んでくる。私たちの間で突如生まれた殺伐とした空気に、マルコはびっくりしたのか目を丸くしてしまっていた。
「おい、今のは絶対お前の分じゃねぇぞ」
「はは、大丈夫だよ。の席もちゃんと取っておくよ」
 苦笑いを浮かべながらも、ジャンの肩を軽く叩いて窘めたマルコに改めて笑いかける。
「ほらー。ホントにありがとね、マルコ」
「いいよ。でも講義の前に着替えなきゃいけないことも忘れちゃダメだよ」
「はーい! ホラ、行くよ、ジャン」
 腰巻にやったままだった手をそのまま引くと、手の甲をジャンに叩かれる。引き剥がされるままに手持ち無沙汰になった手を見下ろす。ぶすっと唇を突き出したが、このまま手を引っ込めるのも癪に障る。勢いのままジャンの手を取ってみると、今度は振り払われなかった。
 ジャンの手を握ったまま引き寄せてみると、腑に落ちない表情を浮かべながらもジャンは私の背を追うように歩き始める。
「……ったく。本当にお前は人の都合を考えない女だな」
「ジャンにしかしないから大丈夫だよ!」
「俺が迷惑だって言ってんだよ!」
 意見の食い違いを怒鳴って従わせようとするジャンの言い分を聞き流しながら目的の方向へと歩みを進める。色々な人とすれ違いながら、途中でマルコの方を振り返ると、すんなりとマルコと視線がかち合ったような気がした。試しにジャンと繋いでいない方の手を掲げてマルコへ手を振ってみせると、マルコもまたこちらへと手を振ってくれる。
「おい、余所見すんな」
 マルコへと向けていた意識は、強制的にジャンへと戻される。繋いでいる手を強引に引かれ、思わずたたらを踏んでしまった。転びはしないもののヒヤッとした感覚が胸の内に生まれ、顔が強張る。
「もう! 乱暴にしないでよっ!」
「人聞きの悪いこと言ってんじゃねーよ! だいたいお前はいつも――」
 どうせお決まりのお小言だ。そう思い、再度ジャンから意識を離す。キャンキャンと警戒心の強い犬のように吠えるジャンの声を耳から追い出しながら、もう一度だけ、とマルコを振り返り、今度はジャンにバレないように小さく手を振った。同じように応えてくれたマルコから視線を外す瞬間も、マルコの表情は緩んでいた。



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