進撃017

寮へ戻る道②


 寮の裏口の近くの水飲み場。そこに辿り着くや否や、ジャンは私の手を振りほどいた。煩わしそうに解放されたばかりの手をブンブンと横に振るうジャンは、すこぶる機嫌の悪い顔をしている。
 ――そんな乱暴に振り払わなくたって、適当な場所についたら解放するつもりだったのに。
 むしゃくしゃしているのだと全面に押し出すジャンの悪態に、こちらの機嫌さえも悪くなるようだった。ジャンの指の跡が残る手のひらを揉みしだきながら、ジャンの横顔を睨む。
 私の手のひらに強い力を掛けたのは情熱のためじゃない。間違いなく八つ当たりだ。
 寮へと戻る道すがら、ユミルやコニーにからかわれた。熱い、だとか修羅場か、だとかまるで私とジャンが恋仲であるかのように囃し立てる波は集団から抜け出す頃には無視できないものになっていた。
 それがジャンの機嫌の悪さに拍車をかけたのだろう。嫌だったならその時点で手を離せばよかったのに、どうしてかジャンは私の手を強く引いて走り去ることを選択した。そんなジャンの歯痒い気持ちが、私の手のひらにくっきりと浮かびあがるほど残っているのだ。
 選んだのはジャンなのに、どうしてこんな風に態度悪くできるんだろう。いつもだれかれ構わず嫌味を言ったり煽ったりするくせに、自分がその立場に貶められると、すぐに反発する。こういうところは本当に子供っぽいんだから。
 小さく溜息を吐きこぼし、周囲を見渡す。今は私とジャン以外、誰もいない。きっとみんな今頃は着替えに勤しんでいるはずだから人が来る可能性は低いだろう。
 人の気配も見えないことに安心し、寮の壁に寄りかかる。ブツブツと不平を口の中で転がしていたジャンが私を振り返る。ほんの少し逡巡するように視線を巡らせた後、こちらへと歩み寄ってきて、私と同じように壁に背中を預けた。左隣に並ぶジャンへと視線を向けると、ジャンもまた私に視線を差し向けた。
「で……なんだよ、……話なら手短に頼むぜ」
 不機嫌な表情を隠しもしないジャンは、偉そうに腕組みをして私を見下ろす。
 ――さて、どういう風に切り出してやろうか。
 ベルトルトに宣言したとおり、私はジャンに説教をしに来たのだ。訓練兵に志願してまだ数日、という段階で、早速私が見ていないところで、エレンに喧嘩をふっかけたとあってはこの先が思いやられる。刺せる釘は早めに刺しておかないと。取り返しのつかないところまで放っておくことができるほど、私の気は長くないのだから。
 逡巡する間も待てないのかジャンが組んだ腕の上で指をトントンと弾き続ける。忙しない動きに、小さく息を吐き出した。私の溜息に対して、いち早く嫌な感情を汲み取ったジャンは、チッと舌を打ち鳴らす。
 だが、空気が尖ったのも一瞬で、何かを閃いたかのように目を開いたジャンが、言いにくそうに言葉を詰まらせながらも口を開いた。
「そ、そういやお前……今日ミカサと一緒にいたよな」
 ほんの少しだけ頬を赤らめたジャンは、ちらりと私へと視線を流す。唇を尖らせ、何らかの感情を誤魔化そうとしているらしいが、それが汲み取れないほど私は鈍くない。
「ミカサと仲良くなったのか」
「まぁね。寮の部屋も一緒だし、仲良くなりたいってのはちゃんと伝えたよ」
 私の言葉に、ジャンの表情が輝いた。色鮮やかに彩られた顔つきは、実に思春期に突入した少年らしいものだった。いつもだったら、そういう話をするのは大好きだ。だけど、今日だけはそんな状況に絆されるわけにはいかなかった。
「やるじゃねぇか、さすがオレの――」
「ジャン」
 いつもよりも声のトーンを落として制する。ほんの少しだけ眉根を寄せてジャンを見上げると、ジャンもまた表情を強ばらせた。
「そういう話じゃない」
 ――わかるでしょ?
 言葉に出さず、視線だけでそう問いかける。肩に触れたジャンの腕が小さく震えたのを感じ取った。唇をまっすぐに引き締めたジャンは、私と同じような表情を浮かべる。神妙な顔つきは、先程の鮮やかなものとは程遠い。
「昨日、寮でまたエレンに喧嘩売ったって聞いたんだけど」
「……んだよ、それ。誰に聞いたんだよ」
「別に告げ口なんかじゃない。私がジャンが迷惑かけてないか嗅ぎまわったの」
「嗅ぎ回るって……自分で言うなよ」
 呆れたような口調で私を窘めるジャンは、大仰に溜息を吐きこぼした。手のひらで額を覆い頭を横に振ったジャンは、その動作を終えればまた呆れた顔で私を睨みつける。
「ジャンってば、どうしてそんなに他人に対して尖ってんの? 反抗期?」
 兼ねてからの疑問をジャンにぶつけた。怯んだように上体を仰け反らしたジャンだったが、私の言葉を理解した途端、先程よりも前のめりで私に詰め寄った。
「ハァ? んなモンどうだっていいだろ」
「そんな突っ張って悪ぶっても、たいしてかっこよくないから止めた方がいいよ?」
「っるせえな。別に外野にカッコいいだなんて思われたってなんの得もねぇだろ。つーか何の話だよ、これ」
「優しい男の方がモテるよって話でしょ?」
「いつそんな話にすり替わってんだよ」
 目を細めたジャンの両手こちらへと伸びる。顔を包まれたと思った途端、鈍い痛みが両頬に走った。ジャンが掴んだ私の両頬を、遠慮なく引っ張るせいだ。痛みを訴えたところでこの手を放してくれるほどジャンは優しくない。自分の手を添えて剥がそうと躍起になっても、益々頬にかかる力が強くなるだけだった。
「あーもう……お前と喋ってんのホント疲れる」
 ボソリと言葉を漏らしたジャンは、また大きく溜息を吐きこぼす。同時に、頬に触れた力が弱まり、尖った指先がやわらかな手のひらへと変貌する。チラリと上目遣いでジャンを見上げると、言葉の通りに疲れたのだと言いたげな表情が目に飛び込んでくる。
 ジャンが背を屈めているせいか、いつもよりもジャンの顔が近くにある。陽射しを遮るほどの距離に思わず息を詰める。細められた目から鋭い視線が降り注がれた。だが、緩んだ手のひらは柔らかく私の頬を包んだままで、そのギャップに居心地の悪さを感じてしまう。
「……どうしてそんな自分から論点ずらすんだよ」
「ずれてないよ」
「ハァ? ずれてんだろうが。お前、俺にエレンと喧嘩するなって言いに来たんじゃなかったのかよ」
 ジャンの反応を見る限り、要領を得ない話だと咎められていることはわかる。だが、私の言いたかったことを的確にジャンが指摘するあたり、なんの問題も感じられない。
「そうだけどストレートに言ったところでジャンが私の言うこと聞くとは思えないんだもん」
「遠まわしに言ったって聞く気はねーぞ」
 フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いたジャンは、私の頬にあてがっていた手のひらを離し、胸の前で腕を組んだ。壁に背中を預け、私とは反対方向を向いてしまったジャンの顔は全く見えなくなってしまう。日に透けると益々、明るさが強調される髪の色を眺めながら、どうやってジャンを説得すればいいのかを考えた。
 脈がないにしろ、ジャンがミカサのことを気にかけているのであれば〝少しは力になりたい〟という気持ちはある。ミカサはエレンを好きなようだったから、ジャンのことを応援できそうもないけれど、だからといって振られろとも思えなかった。
 少なくとも好きな女の子の好きな男の子に辛辣に当たるだなんてそんな三下まがいのことはして欲しくない。そんなことを続けていたら、これから先、ミカサとまともにしゃべることさえ叶わなくなる恐れがあるからだ。
 ミカサによく思われたいなら優しい男になったほうがいいよってアドバイスは、つまりエレンと喧嘩を辞めることを勧めていることに繋がる。遠回りだが、ジャンにとっても悪くない選択肢だと思っていたのに、あっさり放棄されてしまうとは。
 ミカサを理由にしても性格を改めないジャンは、どうしたら変わってくれるんだろうか。
 恋のために自分を変えるつもりはない、というのは聞きようによってはいいことなのかもしれない。だけどジャンの自分の心情を何一つ誤魔化さない性格は、場合によっては他人との軋轢を生みやすくなる。今までは良かったかもしれないけれど、これからはいろんな人と関わるんだから、その性格のままでいてはジャンのことを本当に理解されないままになってしまう。
 じっとジャンの後ろ頭を見つめていた視線が足元に落ちる。同時に、気分が沈んでいくのをひしひしと感じた。
 本当は、優しい子なのに。周りのことをちゃんと見てるのに、ストレートな言葉が相手に反発心を抱かせてしまう。ジャンが悪く言われるところを見たくない、というのは私のわがままなんだろうか。
「おい、
 声をかけられ、顔を上げると、眉根を寄せて私を睨むジャンと視線がかち合う。
「引っ張んなよ」
「え?」
 なんのこと?と、思いつつもジャンの言葉に自分の手元に視線を落とす。そのまま視線を滑らせると、左手がしっかりとジャンの腰巻を掴んでいることに気付いた。無意識のうちにジャンの腰巻を引っ張っていたらしい。手を離せば革で出来たそれにくっきりと私の親指と人差し指の形が刻まれてしまっていた。
 時間が経てば元に戻るんだろうけれど、一度ついたシワはそう簡単には取れないことは明白だ。新品にほど近いそれを傷つけてしまったことに申し訳なさを感じ、眉を下げてジャンの様子を伺う。
 ジャンは相変わらず呆れたような表情を浮かべてはいたが、怒ってはいないようだった。それに安堵し、小さく息を吐いた。
「ごめんね。変な形つけちゃった」
「別に……いいけど」
 つけたばかりのシワを取るため、ジャンの腰巻を指先で解していると、ジャンは組んでいた腕を解き、私の手を払い除けた。乱暴ではないその手の動きに、言葉はなくても許されたことを知る。
 手元に落としていた視線をジャンへと戻すと、口元を引き締めたままのジャンの視線が真っ直ぐに落ちてくる。
「っつーかよ……の方こそなんだよ、あれ」
「あれってなに? 私、ジャンに怒られるようなことした覚えないよ?」
「お前の自己肯定の高さには恐れ入るぜ」
 溜息交じりの声には呆れたという言葉が多分に含まれていた。俯いて横に頭を振るうジャンの横柄な態度に段々腹が立ってくる。
 曖昧な言葉で責められても、思いつかないのだからしょうがないじゃん。頬を膨らませて足元の小石を蹴り出し、不機嫌になったのだと態度で示す。
 ジャンを見上げ、言葉を促す代わりに軽くジャンの肩にもたれかかった。不貞腐れるままに移した行動だったせいか、結構な勢いでぶつけてしまう。ぶつけたこめかみが痛んだが、痛いと騒いでも自業自得だとあしらわれるのは目に見えている。我慢するように唇を強く結んで耐えた。そんな私の行動を見守っていたジャンは、深く息を吐き、目を細めて薄く唇を開いた。
「……ベルトルトとイチャイチャしてやがっただろうが」
 不機嫌な声音で紡がれた言葉に、驚いて目を丸くしてしまう。身に覚えのない勘繰りはこれが初めてのことではない。その類の心配はここに入団する前からもジャンにちょくちょく指摘されていたことだった。
 だが、イチャつくと言われても身に覚えがない。たしかに少しは腕を組んだりしたけれど、それはベルトルトに限った事ではなくジャンにもするし、トーマスやミーナにだって普通にやってきたことだ。
 それに私からくっつかなくたってユミルだって腕どころか肩を組んできたりするし、サシャなんて蒸した芋を持っているだけで押し倒してきた。それらに比べたらただ腕を組むことなんてかわいいもんで、イチャついているだなんて言われる筋合いは微塵もない。
「別にイチャイチャなんてしてないでしょー? 普通だよ、普通」
 あっけらかんと言ってのけた私の言葉が逆鱗に触れたのだろう。ジャンの周囲にあった空気が一瞬で爆発する。
「だから! お前の普通の基準がおかしいんだよ!」
 大声でがなるジャンの声にびっくりして首を竦めた。反射的に瞑ってしまった目を片方だけ恐る恐る開きながらジャンを見上げる。案の定、声のトーンから想像した通り、憤怒の表情を浮かべたジャンは、握った拳を真横に振るい私の頭上の壁を強く叩いた。
「ああいうのは無駄に誤解されるだけだからやめろっつったよな、オレ」
「べ、別に誤解されたことないし、ベルトルトだって私のこと友達だって思ってくれてるから……大丈夫だもん」
「ハァ?! お前……ほんっと……チッ……こんのクソバカがっ……!」
 怒りのあまり言葉にならないとばかりに絶句したジャンは、手のひらを顔面に押し当てて深く溜息を吐いた。下を向いたジャンは低い声で何事かを呟いている。内容は聞こえてこないが、どうせ私に対する罵詈雑言なんだろうと思うと聞き耳を立てる気も起こらなかった。
 うなだれたジャンのつむじを眺めながら小さく息を吐く。昔から何かとジャンは私がほかの人と仲良くするのを見咎める傾向があった。大方、自分が折り合いの悪い相手と私が平気で喋っているというのが気に入らないのだろう。そんな風に気にするくらいならほかの子とも、もっと仲良くすればいいのに。
 それにお門違いの心配をするジャンは、私のことを心配するより、自分のことを心配したほうがいい。望みのない恋を諦めるつもりがないのなら、私にかまけているよりも真っ直ぐにミカサに向かっていく方がよっぽど有意義なはずだ。
「ねぇ、ミカサだって優しい人の方が好きだと思うよ」
「勝手に話、元に戻してんじゃねぇぞ」
 顔を上げ私をきつく睨みつけたジャンは、額がぶつかる勢いで顔を近づける。眼前で凄まれたところで、相手がジャンだと思えばちっとも怖くない。それをジャンもわかったのだろう。頭をガシガシと掻いたジャンは、上体を起こすとそっぽを向いてチッと舌を打ち鳴らした。
「……おい、
 低い呼びかけと共に、右手が差し出された。そこに、私の右手を重ね、弾く。これでこの喧嘩は打ち止め。そう言わずとも、終わらせるための合図。だが、今のは反射的に差し出された手に応じてしまっただけで、まだ私の心中は燻っている。
「まだ話、終わってないんだけど」
「終わらせろ……それにもう時間もねぇしな」
 始業の鐘はまだなっていない。だが、ジャンの言うとおりここにきて数分は経過している事を思えばそろそろ寮に戻り、着替えを済まさなければ次の座学に間に合わない恐れがある。遠くに視線を伸ばせば、チラホラと訓練所から戻ってくる人の姿も目に入る。おそらく彼らは、今日の訓練で使用した器材の片付けの当番だった人たちだ。本格的に時間が迫っていることに気付くのにはそれで十分だった。
「おい、。早く行くぞ。遅刻して減点くらいたくねぇだろ、お前も」
 いち早くもたれかかっていた壁から背中を起こしたジャンは、私に背を向けて駆け出す仕草を見せた。
「待ってよ、ジャン」
 言葉と同時に、手を伸ばす。ここへ来た時と同様にジャンの手を捕らえた。びっくりしたように目を丸くして振り返ったジャンを、私は真っ直ぐに見つめ返す。
「だからなぁ……」
 呆れたように目を細めたジャンは、この日、何度目かわからない溜息を吐きこぼした。目を細め、チラリと脇へと視線をやったジャンは、観念したように目を伏せ、強い視線で私の瞳を射抜いた。
「あーもう、クソ」
 苛立ち混じりの声で吐き捨てたジャンは、一方的に私がとっただけの手のひらをくるりと翻し、そのまま強く握り返した。
「オラ、早く行くぞ」
 ぐいっと強引に私の手を引いたジャンは、真っ直ぐに寮へと駆け出す。ジャンだけで走る時よりもほんの少しだけ緩められた速度に、私はなんとかついていく。
 こうやってジャンに腕を引かれながら走るのは久しぶりだな。最後に走ったのはいつだったっけ。過去の記憶に思いを馳せながら、走るのに合わせてジャンの短い髪の毛がはねるのを眺めていると、遠くで休憩時間が残りわずかであることを知らせる鐘が鳴るのが聞こえた。





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